第2話 失われた名と、静かな朝
翌朝、屋敷は驚くほど静かだった。
窓から差し込む光はいつもと変わらないのに、空気だけが違う。
まるで、私という存在がすでにこの家から抜け落ちてしまったかのように。
「……おはようございます」
廊下ですれ違った使用人に声をかけると、一瞬だけ視線が泳ぎ、すぐに深く頭を下げられた。
そこにあったのは、親しみではなく――距離。
それで、理解してしまう。
昨夜の出来事は、もう屋敷中に知れ渡っているのだ。
朝食の席に、父はいなかった。
母も、妹も。
用意されていたのは、私一人分だけの簡素な食事。
侍女が、淡々と告げる。
「旦那様は、後ほど執務室でお話があるそうです」
その声には、余計な感情が一切なかった。
責めるでも、慰めるでもない。ただの事務的な伝達。
食事を終え、執務室の扉を叩く。
中から返ってきた父の声は、いつもより低かった。
「入れ」
部屋に入ると、父は書類から目を離さずに言った。
「……婚約は、正式に解消された。王宮からも通知が来ている」
「はい」
それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
「お前を責めるつもりはない」
そう前置きしながら、父は続ける。
「だが、この家にとって、殿下との婚約は大きな後ろ盾だった。それを失った以上、立場は変わる」
淡々とした言葉。
理屈としては、正しいのだろう。
「お前は――しばらく、王都を離れろ」
予想していた言葉だったはずなのに、胸の奥がきしんだ。
「表向きは静養だ。だが実際は、社交界から距離を置くためだ」
つまり、追放。
丁寧な言葉で包まれた、それ。
「行き先は、母方の縁がある辺境領だ。王都とは、価値観も違う場所だろう」
父はようやく私を見た。
その目に、わずかな迷いが浮かぶ。
「……そこで、どう生きるかは、お前次第だ」
それは、突き放す言葉であると同時に、最後に与えられた自由でもあった。
「承知しました」
私は頭を下げた。
涙は、やはり出なかった。
部屋を出ると、足が自然と自室へ向かっていた。
この部屋も、もう長くは使えない。
ドレスや本を、必要最低限だけ鞄に詰める。
鏡に映る自分は、驚くほど落ち着いた顔をしていた。
「……婚約者のいない私は、誰なんだろう」
ぽつりと零れた言葉は、答えを持たないまま消える。
出発は、その日の午後だった。
見送りは、なかった。
馬車が動き出す。
王都の街並みが、ゆっくりと後ろへ流れていく。
ここでは私は、
「元・婚約者」
「価値を失った令嬢」
としてしか、見られない。
――ならば。
私は、膝の上で手を握りしめた。
「名前も、立場も、ここに置いていこう」
辺境で、私は「誰か」にならなくていい。
ただ、生き直せばいい。
馬車は、王都の門をくぐり抜ける。
その瞬間、胸を締めつけていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。
まだ何も始まっていない。
けれど、確かに終わったものがある。
そして――
この旅の先で、私はきっと知ることになる。
評価されなかった力の意味を。
選ばれなかった人生の、別の価値を。
それを知るために、私は今、王都を離れる。
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