第16話 正しい判断ほど、重い
朝の執務室は、いつもより空気が硬かった。
机の上には、王都から届いた返書と、辺境伯領の作業報告が並んでいる。
どれも整っている。文字も数字も、綺麗に揃っている。
――それなのに、胸の奥がざわついていた。
「……うまく、いきすぎている」
私は独り言のように呟き、報告書の余白に指を滑らせた。
触れてもいないのに、そこに歪みがある気がする。
ここ数週間、辺境は目に見えて良くなっている。
不正は抑えられ、水路は安定し、物流も回り始めた。
王都からも、助言に対する反応が返ってきた。
――順調。成功。改善。
それらの言葉は、甘い。
甘いからこそ、怖い。
「調子が悪いか?」
扉の向こうから声がして、私は顔を上げた。
アルトが入ってくる。いつもの外套、いつもの落ち着いた目。
「いえ……体調ではなく」
私は報告書を指で叩いた。
「計画です。少し、気になることが」
アルトは椅子に腰を下ろし、私の示した資料に視線を落とす。
その横顔を見て、私は自分が今、どれほど“頼られている”のかを再認識する。
私はもう、客ではない。
役割を持つ一員だ。
そして今や、王都の歪みさえ遠隔で整える存在になってしまった。
――整えられる。
整えられるうちに、整えなければならない。
そんな義務感が、知らぬ間に背にのしかかっていた。
「この通達経路の改修案」
私は、一枚の図を差し出す。
「王都の官僚組織に合わせて、段階的に権限を分散させる設計です。理論上は、停滞が減ります」
「理論上、か」
「はい。問題は……」
私は唇を噛み、正直に言った。
「実行する人が、“慣れていない”ことです」
アルトの眉がわずかに動く。
「慣れていない?」
「王都は、判断を上に集めることで秩序を保ってきました。急に分散させれば――」
私は、言葉を続けた。
「現場が“判断を恐れる”可能性があります」
責任を負う経験がない。
判断が誤りだった時、責められる文化だけが先にある。
だから、人は動かない。
「……机上の改革が、現場を止める」
アルトが低く言った。
「はい」
その瞬間、喉が少し渇いた。
これまで私は、歪みを見つけて整えてきた。
だが、王都の仕組みは規模が違う。
一つの判断が、何万人もの生活に影響する。
正しいと信じた判断が、
別の場所では“害”になる可能性がある。
私は、初めてはっきりと怖くなった。
「……私は、間違えたくありません」
声が、僅かに震えた。
アルトは、すぐには答えなかった。
ただ、私を見る。
「間違えない方法がある」
やがて、静かに言った。
「一度で変えようとしないことだ」
私は瞬きをした。
「仕組みは、人が動かしている。なら、人が変わる速度に合わせる」
アルトは淡々と続ける。
「君は正しい。だが、正しさだけでは人は動かない」
胸の奥に、熱が灯る。
それは安心ではなく、恥に近いものだった。
――私は、また“正しさ”に頼っていたのか。
「……どうすれば」
「試験領域を作る」
アルトは即座に答えた。
「王都全域ではなく、区画を絞る。成功例を作ってから広げる」
私は、息を吐いた。
それなら、壊れても被害は限定できる。
改善の証拠も残る。
「……ありがとうございます」
呟くと、アルトは「礼はいらない」と言うように首を振った。
「怖いなら、怖いと言え」
それは命令ではなく、許可だった。
「一人で背負う必要はない。君の判断は、君だけのものじゃない」
その言葉に、胸の奥がじんとした。
私は、助けられる立場になることに慣れていない。
王都では、助けを求めれば弱さだと見做された。
けれど、ここでは違う。
支え合うことが、前提になっている。
「……私は、ずっと」
言葉が、勝手に溢れた。
「“失敗したら終わり”だと思っていました」
婚約破棄された夜の感覚が、蘇る。
一度の判断で、居場所ごと失う恐怖。
アルトは、何も言わずに聞いていた。
その沈黙が、優しかった。
「終わらない」
やがて、短く言う。
「君が、ここで終わらせない限り」
私は、視線を落とした。
目の奥が熱くなる。
泣きそうなのに、涙は出ない。
代わりに、胸の奥が静かにほどけていく。
「……試験領域、どこがいいでしょう」
私は話題を戻し、報告書の地図を引き寄せた。
アルトは当然のように指を添える。
「物流区画の西。ここは支所の人間が比較的動ける」
「なら、ここで“判断権限の分散”を先に導入して――」
二人の指が地図の上で重なる。
それだけのことが、少しだけくすぐったい。
私は気づく。
恋ではない。
けれど、私はこの人の隣で、弱さを出せている。
それは、王都ではあり得なかったことだ。
「よし」
アルトが言う。
「計画を修正しよう。君の正しさを、生きる形にする」
私は、深く頷いた。
正しい判断ほど、重い。
だからこそ、一人では抱えない。
私は今、ようやくそれを学び始めていた。
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