表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インスタント・セックス・ブルースから、僕らのエチュードへ  作者: 舞夢宜人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/2

後編:身体から始まった恋は、本物になりますか?

あらすじ

卒業への焦りから、幼馴染のハルと衝動的に身体の関係を持ってしまったナツ。それは愛ではなく、虚しいだけの過ちだった。一度は離れた二人が、すれ違いや葛藤を乗り越え、身体から始まった関係が本当の愛へと変わるまでを描く。不器用な二人が奏でる、恋と人生の練習曲エチュード


登場人物紹介

相沢 夏輝ナツ: 内向的で思慮深い主人公。陽菜に振り回されつつも、彼女を守ろうとする。

篠宮 陽菜ハル: ボーイッシュで行動的なヒロイン。夏輝を失う不安から、衝動的な行動に出る。


### 第十七話:二度目の告白


 大学二年の冬。東京の街は、クリスマスという名の魔法にかけられ、まるで宝石箱をひっくり返したかのように、華やかなイルミネーションの光で満ち溢れていた。しかし、僕の心は、その浮かれた喧騒とは裏腹に、一つの重大な決断を前にして、静かに、そして激しく燃え上がっていた。陽菜と「友達」という名の、あまりにも安全で、そしてもどかしい関係を続けて、もう一年以上が経とうとしていた。


 その日、僕は映画研究サークルの忘年会に参加していた。場所は、大学近くの、少しだけお洒落なダイニングバー。僕は、幽霊部員同然だったが、健太に無理やり誘われ、断りきれずに顔を出したのだ。騒がしい音楽と、同級生たちの楽しげな笑い声。その全てが、僕の心の静寂とは、全く別の世界のもののように感じられた。


 しばらくして、僕は、サークルの先輩である沢田里美さんに、店の外へと呼び出された。夜の冷たい空気が、火照った頬に心地よい。里美先輩は、僕がこのサークルで唯一、心を開いて話せる相手だった。彼女の知的で、落ち着いた静けさは、いつも僕の心を安らがせてくれる。


「相沢君、今、時間大丈夫?」


「はい、大丈夫です」


 里美先輩は、白い息を吐きながら、熱いココアの入った紙コップを両手で包み込んでいる。そして、僕の目を、真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと、しかし、決意のこもった声で、話し始めた。


「私、あなたのことが、好きよ」


 その言葉は、優しく、誠実で、何の歪みもない、最も健全な「愛の告白」だった。彼女のような素敵な人と付き合えば、僕の人生は、きっと平穏で、満たされた「普通」の道を進むのだろう。健太も、きっとそれを望んでいる。僕自身も、そうあるべきだと、頭の片隅では理解していた。


 しかし、僕の脳裏に浮かんだのは、里美先輩のその優しい微笑みではなかった。それは、深夜、電話口で、僕のどうしようもない挫折と屈辱を、一切否定せずに、ただ黙って聞き続けてくれた、陽菜のハスキーな声だった。僕の企画を、サークルの誰もが嘲笑した時、彼女だけが、「ナツの考えは、ちゃんと人に響く力がある」と、僕の魂の根源的な部分を、力強く肯定してくれたのだ。


 僕が本当に求めているのは、「労力のいらない平穏な優しさ」などではない。互いの人生の全てを巻き込み、時には激しく衝突し、それでも尚、互いを深く理解し、支え合う、熱狂的なパートナーシップなのだ。僕の人生には、篠宮陽菜という、嵐のような存在が、不可欠なのだ。


 僕は、里美先輩に対し、深く、深く頭を下げ、自分の正直な気持ちを告げた。


「沢田先輩……ありがとうございます。すごく、嬉しいです。でも、俺には、ずっと、好きな人がいるんです」


 僕の言葉を聞いた里美先輩は、一瞬だけ、澄んだ水面に波紋が広がるような、微かな悲しみをその瞳に宿らせたが、すぐに、いつもの穏やかな微笑みに戻った。


「そう……。なんとなく、わかっていたわ。相沢君の心は、いつも、どこか遠い場所にいる、たった一人の誰かを探しているようだったもの」


 そして、彼女は、僕の心の核心を、正確に突き刺す言葉を続けた。


「その人、相沢君にとって、最高の理解者、なんでしょうね」


 先輩のその言葉が、僕の最後の躊躇いを、完全に打ち砕いた。そうだ。陽菜は、僕の最高の理解者だ。恋人でも、セフレでも、友達でもない。僕の人生の、唯一無二のパートナーなのだ。


 その夜、僕は、里美先輩に心からの謝罪と感謝を伝え、サークルの忘年会を後にした。そのままアパートに戻る気には、どうしてもなれなかった。僕の足は、まるで何かに引き寄せられるように、気づけば、東京駅行きの、深夜バス乗り場へと向かっていた。


 もう、これ以上、待つことはできない。


 僕は、「お前の人生に責任を持てる男になる」という未来の約束だけでなく、「今、この瞬間の愛」を、彼女に、言葉で、伝えたい。僕は、彼女の身体ではなく、彼女の魂の、本当の恋人になりたい。


 バスに乗り込む直前、僕は母の美奈子に、短い電話をかけた。こんな時間に、という戸惑いと、息子の異変を察した母の心配が、受話器の向こうから伝わってくる。


「ナツ?どうしたの、こんな時間に。何かあったの?」


「母さん……俺、今から、ハルのところに、行ってくる」


 僕のその一言で、母は全てを察してくれたようだった。母は、僕たちの高校時代の歪な関係を、きっと、ずっと前から気づいていたのだろう。


「……ハルちゃんと、何かあったのね。そう……行きなさい。自分の気持ちに、正直になりなさい」


 母の優しく、そして力強い声が、僕の背中を、強く押してくれた。


 早朝。まだ夜の蒼さが残る、冷たい空気の地元に、バスは到着した。僕は、始発の電車を待つこともせず、陽菜の家へと、ひたすら走った。物置の屋根から窓へ侵入した、あの高校時代の過ちとは違う。僕は、正面の玄関から、堂々と、彼女を迎えに来たのだ。


 チャイムを鳴らすと、しばらくして、寝ぼけ眼の陽菜が、ドアを開けた。そこに僕が立っているのを見て、彼女は、驚きと戸惑いで、言葉を失った。


「ナツ……?どうして、東京にいるはずじゃ……」


 僕は、彼女のそのハスキーな声を聞いただけで、この長い旅が、決して間違いではなかったことを、確信した。


 僕たちは、近くの、朝日が昇り始めた公園へと向かった。まだ誰もいない、静かな公園。僕たちは、一つのベンチに、少しだけ距離を置いて座った。僕は、彼女の身体に触れることなく、ただ、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。そして、僕の人生のすべてを懸けた、二度目にして、本当の告白を、静かに、しかし、力強く口にした。


「友達じゃ、嫌だ。俺は、篠宮陽菜の、恋人になりたい」


 その言葉は、高校時代、焦燥感から逃れるために吐いた、「セックスしようぜ」という、あまりにも無責任な言葉とは、全く違う。それは、彼女の強さも、弱さも、過去の過ちの全てを受け入れ、共に未来を歩んでいくという、僕の覚悟の表明だった。


 陽菜の大きな瞳から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。それは、高校の卒業式で流した、後悔や絶望の涙ではない。長すぎた遠回りと、愛の試練を乗り越えたことへの、深い安堵と、純粋な喜びの涙だった。


「ずるいよ、ナツ……。……ほんと、ずるい」


 彼女はそう呟きながら、僕の胸に、力いっぱい飛び込んできた。僕は、彼女の強さと、そして微かな身体の柔らかさを、その全てを、全身で受け止めた。


 そして、彼女は、僕の耳元で、かすれて、しかし、この世で最も温かい声で、囁いた。


「……オレも、ナツの恋人になりたい」


 昇り始めた朝日が、僕たち二人を、黄金色の光で優しく包み込んでいた。僕たちの「エチュード」は、依存からの脱却という最も重要な課題を乗り越え、真のパートナーシップという、愛の第二楽章へと、今、突入したのだ。


---


### 第十八話:恋人たちのエチュード


 二度目の告白から数週間が経過し、僕たちの間には、遠距離恋愛という名の、甘く切ない試練が始まっていた。東京と、僕たちが生まれ育った地元。物理的な距離は依然として数百キロも隔たっている。しかし、僕たちの関係は、もはや高校時代の焦燥と依存に満ちたものではなかった。互いの人間性への深い尊敬と、揺るぎない愛情という、最も強固な土台の上に、僕たちの新しい物語は築かれようとしていた。


 週末になると、僕たちは必ず、スマートフォンの画面越しに互いの顔を求めた。健太に遠慮しながら、アパートの自室にこもり、パソコンの小さなカメラに向かって話す。画面の向こう側で、陽菜は「ナツ、ちゃんと飯食ってんのか」と、少しだけ母親のような口調で僕の生活を心配した。僕もまた、「お前こそ、資格の勉強ばっかで、夜更かししすぎだろ」と、彼女の身体を気遣う。身体の繋がりがないからこそ、僕たちは、言葉の限りを尽くして互いの内面を、その日常の些細な出来事を、深く、深く理解しようと努めた。その時間は、もどかしくもあったが、同時に、僕たちの絆を、一日一日と、着実に強くしていった。


 友人たちの反応は、様々だった。陽菜から僕たちの馴れ初め(というには、あまりにも歪だが)の全てを聞いた美緒は、「もう、それって、マジで運命じゃん!ドラマみたい!」と、自分のことのように興奮し、涙を流して喜んでくれたらしい。一方、僕の隣で全てを見てきた健太は、厳しい表情を崩さなかった。


「ナツ。今度こそ、絶対に、ハルを泣かせるなよ。次はないと思え」


 彼のその言葉は、僕にとって、何よりも重い誓いとなった。


 そして、告白から一ヶ月が経った、ある金曜日の夜。僕は、東京駅の夜行バス乗り場で、彼女の到着を待っていた。遠距離恋愛が始まって初めての、週末のデート。陽菜が、僕に会うためだけに、この東京へやってくる。その事実だけで、僕の心臓は、期待と幸福感で、張り裂けそうだった。


 やがて、滑り込んできたバスから、見慣れたショートカットの影が降り立つ。僕の姿を見つけた陽菜は、大きな瞳を潤ませ、人目をはばかることもなく、僕の胸に、力いっぱい飛び込んできた。


「ナツ……っ!会いたかった!」


 彼女のハスキーな声が、僕の耳元で震える。その体温と、懐かしい柑橘系のシャンプーの匂いに包まれ、僕は、「この人のために、僕はもっと強くならなければならない」という、新しい責任の重みを、全身で感じていた。


 その夜、僕たちは、健太が友人の家に泊まりに行ってくれたアパートの一室で、二人きりになった。コンビニで買ってきた、ささやかな夕食。テレビの音だけが、部屋の静寂を埋めている。しかし、その沈黙は、高校時代に感じたような、息苦しいものではなかった。それは、言葉などなくても、互いの存在だけで満たされる、温かい静寂だった。


 シャワーを浴びて僕が部屋に戻ると、陽菜は、僕のベッドの上で、少し緊張した面持ちで座っていた。僕たちの視線が、静かに絡み合う。そこには、高校時代のような、未来への焦燥感も、拭いきれない罪悪感も、一切存在しない。あるのは、互いへの深い愛情と、絶対的な信頼の念だけだった。


 僕は、陽菜の隣に座り、彼女のショートカットの髪に、そっと指を絡めた。


「ハル……」


「ナツ……」


 もう、言葉は必要なかった。僕たちの視線だけで、互いが何を求めているのかを、痛いほど理解できた。


 僕たちは、ゆっくりと、そして、確かめるように、互いの唇を重ねた。それは、高校時代のような、焦燥に駆られた、貪るようなキスではない。この一年間の、長すぎた空白を埋めるような、感謝と、優しさに満ち溢れた、愛の確認だった。唇が触れ合うたびに、安堵と、純粋な幸福感が、僕たちの間に、静かに、そして深く広がっていく。


 僕は、彼女のTシャツの裾に手をかけ、ゆっくりと、その柔らかい布地を脱がせた。僕の指先が初めて触れた、恋人としての彼女の肌は、冷たさなど微塵もない、優しい温もりを放っていた。僕は、彼女のスポーツで鍛えられた、引き締まった腹部のラインから、その上にある、女性らしい柔らかな胸の膨らみへと、まるで聖なるものに触れるかのように、時間をかけて愛撫を続けた。陽菜は、小さな喘ぎ声を漏らし、背中を微かに反らせる。彼女の身体は、衝動ではなく、僕からの愛を、心から受け入れている。


 陽菜は、自分の指先で、僕の胸板を、ゆっくりと撫でた。その指の動き一つ一つが、僕への絶対的な信頼と、「好きだ」という、言葉にならない愛のメッセージだった。


 前戯は、驚くほど長く、そして穏やかだった。それは、互いの身体の全てを、再確認し、再発見するための、神聖な儀式のようだった。僕の熱を帯びた男性の中心は、彼女の愛情に応えるように、強く、硬くなっていく。陽菜は、それを恐れることなく、慈しむように、その熱を、両手で優しく包み込んだ。


 そして、その時が来た。僕の熱を帯びた先端は、陽菜の温かく、そして柔らかく濡れた、女性器の入り口に、ゆっくりと、愛情を込めて迎え入れられた。


「ん、……あ、ナツ……っ」


 陽菜が、僕の名前を呼んだ。その声は、純粋な快感と、深い安堵感が混じり合った、心地よい響きを伴っていた。彼女の女性器の内部は、僕の中心を、優しく、そして、その強さのすべてで包み込むような、官能的な粘膜の感触で迎えてくれた。高校時代に感じた、拒絶するような痛みや抵抗は、もうどこにもない。そこにあるのは、「この人の愛を、その全てを、受け入れたい」という、献身的な受容の熱だけだった。


 僕たちは、高校時代のような激しい、自分勝手なリズムでは動かなかった。ゆっくりと、互いの存在と、愛情を確かめ合うように、行為を続けた。僕は、陽菜の瞳を、ずっと見つめていた。僕の愛の全てを、彼女に伝えるために。陽菜もまた、僕の表情を見つめ返し、僕への絶対的な信頼を、その潤んだ瞳で、僕に伝えてくれた。僕たちのセックスは、「言葉だけでは伝えきれない愛」を、互いの身体を通じて分かち合う、最も親密で、最も純粋なコミュニケーションとなっていた。


 身体が繋がっているにもかかわらず、僕たちの視線は、一度たりとも離れることはなかった。僕の愛が、彼女の身体に、熱として、そして、電気的な快感として伝わっていく。陽菜の腰の動きは、僕の動きに合わせ、次第に、自発的な、愛を求める美しいリズムへと変わっていった。


 やがて、僕の身体の奥底から、愛と幸福に満たされた、強い熱が、マグマのように湧き上がってきた。僕は、陽菜の身体の最も奥へと、僕の愛と、そして未来への責任の全てを、解放した。陽菜は、強い満足感と、幸福感から、僕の首に強く腕を巻き付けた。彼女の女性器の内部が、僕の中心を、最後の一滴まで絞り出すように、強烈な快感の波となって、締め付けてきた。


 行為が終わった後も、僕たちはすぐに身体を離さなかった。僕は、陽菜の額に滲んだ汗を優しく拭い、その唇に、何度も、何度もキスをした。


「……ナツ、幸せだ」


 陽菜は、そう囁くと、僕の胸に、安心しきったように顔を埋めた。彼女の身体の柔らかさと、温かい体温が、僕の心の奥底にあった、最後の孤独さえも、完全に消し去っていく。


 この夜のセックスは、僕たちにとって、愛の最終確認であり、過去の過ちの全てを、完全に清算するための、聖なる儀式となった。僕たちの「恋人としてのエチュード」は、愛と尊敬によって、初めて美しいハーモニーを奏でたのだ。僕たちの愛は、インスタントな欲望から、継続的な責任を伴う、本物の愛へと、完全に昇華したのだった。


---


### 第十九話:それぞれの成長


 僕たちの遠距離恋愛が始まって、季節は二度目の春を迎えていた。東京と地元。その物理的な距離は、僕たちの関係性を変質させるための、重要な触媒として機能していた。高校時代のような、息苦しいほどの焦燥感や、互いの心を探り合うような依存心は、もうどこにもない。僕たちは、互いを高め合う、対等なパートナーとしての関係を、ゆっくりと、しかし着実に築き始めていたのだ。


 僕は、陽菜との未来を、漠然とした夢ではなく、具体的な目標として捉えるようになっていた。「彼女の隣に立てる立派な男になる」という、あの日交わした誓い。そして、「愛に責任を持つ」という、僕自身が課した物語のテーマ。それらは、僕の行動原理を、根底から変革させた。


 東京の大学で、僕は映画研究サークルにはほとんど顔を出さなくなった。代わりに、文学部で最も厳しいことで知られる、近代文学のゼミを選択した。担当教授は、学生の甘えを一切許さない、厳格な人物で、毎週課されるレポートの量は、他のゼミの比ではなかった。だが、僕は、陽菜との貴重なテレビ電話の時間を削ってまで、その膨大な課題に、必死で食らいついていた。僕が求めていたのは、もはや感傷的な自己満足ではない。社会に出て、一人の人間として通用する、確固たる知識と、論理的な思考力だった。それは、将来、陽菜と、いつか生まれるかもしれない僕たちの家族を、経済的な不安から守るための、知性という名の武器を手に入れるための、僕自身の戦いだった。


 深夜、大学の図書館の閉館時間ぎりぎりまで残り、僕は疲れ切った頭で、陽菜に電話をかけた。


「ごめん、ハル。今日も、遅くなった」


 電話の向こうで、陽菜は、以前のように嫉妬や不安をぶつけることは、決してなかった。


「ふうん。ナツらしいな。でも、あんま無理して、身体は壊すなよ。オレは、ナツが頑張ってるって思うだけで、オレも頑張れるから」


 彼女のその言葉は、僕の全ての努力を、無条件に受け入れ、肯定してくれる、温かい光だった。その光があるからこそ、僕は、この孤独な戦いを、続けることができたのだ。


 一方、地元に残った陽菜もまた、僕との約束を、彼女自身の人生の目標として、猛烈な努力を重ねていた。そして、その努力は、一つの大きな形で、結実した。彼女は、親友の絵里香に触発されて挑戦していた、栄養士の資格試験に、見事一発で合格したのだ。


 その合格を僕に伝えるために電話をかけてきた時の、彼女の声は、僕が今まで聞いた中で、最も興奮と、誇らしい達成感に満ちていた。


「ナツ!オレ、やったぞ!合格した!絵里香には、『あんたにしては、よく頑張ったんじゃない』って、上から目線で言われたけどさ。でも、ナツには、オレがどれだけ頑張ったか、ちゃんと認めてほしいんだ!」


 僕は、受話器の向こうで、心の底から、陽菜の成功を喜んだ。彼女の努力は、僕の目には、僕の隣に立つための、彼女自身の誇りそのものとして、眩しく映っていた。


「もちろんだよ、ハル。すごいじゃないか。お前は、本当に、強い女になったな」


 僕がそう言うと、陽菜は、まるで高校生の頃のように、嬉しそうに、そして少し照れたように、はにかんだ。


 互いの頑張りを報告し合い、そして、心から称え合う。この健全で、ポジティブな循環が、僕たちの愛を、何よりも揺るぎないものにしていた。


 ある週末、僕は大学の友人である藤井蓮と、久しぶりに、新宿の騒がしい居酒屋で飲んでいた。蓮は、相変わらず飄々とした、明るい調子だったが、よく見ると、その目には、以前のような自信に満ちた輝きはなく、どこか疲れたような色が滲んでいた。話を聞くと、本気で好きになった彼女に、こっぴどく振られたばかりなのだという。


「はは、ナツ、笑えよ。俺の、『恋愛は楽しんだもん勝ち』っていう、人生のモットーがさ、完全に打ち砕かれたわ」


 蓮は、自嘲気味に笑いながら、ビールを喉に流し込んだ。


「俺さ、彼女に言われたんだよ。『お前は、全然、私のことなんて、見てくれてない』ってな。結局、俺は、自分の遊びに彼女を付き合わせるだけで、彼女の内面とか、悩みとか、何も見てやれてなかったんだ」


 蓮のその正直な告白に、僕は、高校時代の自分の姿を、鮮明に重ねていた。僕もまた、陽菜の心の叫びを無視し、自分の欲望と、臆病さに彼女を付き合わせることで、彼女の心を、深く、深く傷つけていたのだ。


「ナツ。お前、ハルのこと、本気なんだな」


 蓮は、僕の真剣な表情を見て、ぽつりと、そう言った。


「ああ、本気だよ。俺の人生の、全部だ」


 僕の迷いのない言葉に、蓮は、少し驚いたような顔をした。そして、心から感心したように、僕の肩を叩いた。


「そうか……。お前、本当に変わったな。あんなに、面倒くさそうで、重たいだけの関係から、よく、ここまで来たもんだよ」


 蓮のその言葉は、僕たちの歩んできた、長く、そして不器用な道のりを、何よりも温かく、肯定してくれているようだった。


 陽菜もまた、その頃、親友の佐伯絵里香に、僕との関係を報告していた。


「絵里香。ナツさ、最近、すごく勉強頑張っててさ。オレも、負けられないなって、本気で思うんだ」


 絵里香は、陽菜の言葉を、いつものように冷静に聞いた後、珍しく、褒めるような言葉を口にした。


「あんた、いい顔するようになったじゃない、ハル。前は、いつもナツ君に依存して、彼の顔色ばっかり伺ってた。でも、今は、自分の力で掴んだ未来のために、自分の足で、ちゃんと立ってる。……彼と、一度離れたのは、あんたたちにとって、正解だったみたいね」


 絵里香のその言葉は、僕たちの別れが、「二人の自立」という、最も重要な成果を生んだことを、客観的に、そして的確に評価してくれていた。


 僕も、陽菜も、互いへの愛を、成長のための、最も強力なモチベーションに変えていた。それぞれの場所で、それぞれの戦場で、自らの人生を、必死で切り開いていたのだ。僕たちの愛は、もはや依存ではない。それは、互いの魂を共鳴させ、高め合う、美しい協奏曲となっていた。僕たちのエチュードは、個人としての成長という、最も重要な主題を、見事に、そして力強く、奏で始めていた。


---


### 第二十話:初めての帰省


 大学二年の夏休み。僕たちは、遠距離恋愛が始まって以来、最も大きな、そして最も緊張を伴う節目を迎えようとしていた。恋人として、互いの実家を訪れること。それは、僕たちの愛が、個人的な感情の領域を超え、「家族」という社会的な共同体に受け入れられるかどうかの、初めての、そして避けられない試練だった。


 夏休みに入り、陽菜が先に夜行バスで地元へ帰省していた。僕は、東京での数日間の用事を済ませ、まるで凱旋将軍のような、しかしその実、断頭台へ向かう罪人のような、相反する気持ちを抱えながら、新幹線で地元へと戻った。駅の改札口で待っていた陽菜は、資格取得の自信からか、以前よりもずっと表情が明るく、充実したオーラを放っていた。その眩しさが、僕の不安を少しだけ和らげてくれた。


 最初の試練の場は、僕の家、相沢家だった。夕食の時間が近づく頃、僕たちは、手土産の洋菓子を手に、僕の実家の玄関をくぐった。


「おかえり、ナツ。……そして、ハルちゃん、よく来てくれたわね」


 出迎えてくれた母、美奈子は、陽菜の顔を見るなり、目元を潤ませた。彼女は、僕たちの高校時代の、あの歪で痛々しい関係も、その後の心の距離も、きっと全てを見透かしていたのだろう。母は、陽菜の手を優しく、しかし力強く握りしめた。


「ハルちゃん、よかったわ。本当に。あのね、ナツは昔から、どうしようもないくらい不器用で、ハルちゃんにだけは、いつも甘えてばかりだったから。でも、この一年で、ずいぶん、しっかりした、いい顔になったわ。あなたのおかげね」


 母の言葉には、僕たちの過去を一切咎めることなく、今の僕たちの成長を、心から喜んでくれている、温かい受容の響きがあった。陽菜は、母のその温かい言葉に、こらえきれずに涙を浮かべた。


「お母さん……ありがとうございます。これからは、私が、ナツを支えます」


 陽菜が、僕の母に対し、まるで「妻」としての覚悟を告げるかのような、強い言葉を口にした。その言葉を聞いて、僕の心は、家族という、何物にも代えがたい、温かい安心感に、深く、深く包まれた。食卓では、父の誠一が、いつものように冷静な表情で僕たちの報告を聞いていたが、僕が陽菜の皿におかずを取り分けてやるのを見て、満足そうに、静かに頷いた。その無言の承認が、僕には何よりも嬉しかった。


 しかし、二つ目の試練、篠宮家は、全く空気が違っていた。


 翌日、僕は、「恋人」として、初めて篠宮家の玄関を、正面から潜った。陽菜の隣家であり、小学生の頃から、物置の屋根を伝って、窓から出入りしていた、僕の第二の故郷とも言える家だ。だが、今は、数百キロという物理的な距離と、「愛する娘を託すに値するか」という、父親からの厳しい試練という、二重の境界線が、僕の前に立ちはだかっていた。


 リビングに通されると、そこには、陽菜の父、武史が、ソファに深く腰掛け、腕を組んで座っていた。彼は、長距離トラックの運転手で、若い頃に鍛えたであろう、武骨で、分厚い体躯を持っている。静かに座っているだけで、部屋の空気を支配するような、圧倒的な威圧感を放っていた。僕の父とは全く違う、厳格で、古風な、家長の空気が、部屋全体を満たしていた。


 母の恵子さんが、看護師らしい冷静で、しかし優しい手つきで、僕にお茶を淹れてくれた。


「わざわざ、遠いところをありがとう、夏輝君。ハルが、あなたのことを、いつも、本当に楽しそうに話していたわ」


 その言葉に、武史は、僕から一度も目を離さなかった。その鋭い視線は、まるでレントゲン写真のように、僕の魂の奥底までをも探ろうとしているかのようだ。


 そして、単刀直入に、武史は口を開いた。その声は、エンジンの唸りのように、低く、そして重かった。


「相沢君。うちの娘は、お前と別れてから、随分としっかりした。お前のおかげなのか、それとも、お前がいなかったからなのかは知らんが、自分の夢も見つけ、資格も取った」


 僕たちの過去の失敗を、彼は全て知っている。武史の言葉は、僕の不甲斐ない過去を、鋭利な刃物のように、突きつけてきた。


「だがな、娘は娘だ。中途半端な気持ちで、うちの娘に近づくな」


 武史は、湯呑みをテーブルに、ドン、と置いた。その重低音の響きが、僕の鼓膜を、そして心臓を震わせた。


「お前に、愛と責任が、本当にわかっているのか。お前たちの愛は、身体から始まった、インスタントなものだったと聞いている。そんな、脆いものが、この先、何十年も続くとでも、本気で思っているのか」


 僕の心臓が、激しく高鳴る。彼の言葉は、僕の心の奥底にあった、最大の恐れを、正確に、そして容赦なく具現化していた。僕は、武史の威圧的な視線から逃げ出すことなく、真正面からそれを受け止めようとした。


 僕が、震える唇で、言葉を絞り出そうとした、まさにその時だった。


 陽菜が、武史と僕の間に、割って入るように、すっくと立ち上がった。彼女の、スポーツで鍛えられた引き締まった背中は、僕を庇うように、父親である武史に、真っ直ぐに相対している。


「お父さん、もう、やめて」


 陽菜の声は、微かに震えていたが、その決意の強さは、武史の圧倒的な威圧感を、打ち消すほどに、力強かった。


「ナツの過去の不甲斐なさは、オレの不甲斐なさでもある。オレが、ナツに依存して、追い詰めたんだ。でも、この一年間の遠距離で、オレは、はっきりとわかったんだ。ナツが、オレのことを、本当に、心の底から大切に思ってくれていることを。ナツの愛は、インスタントなんかじゃない。身体で始まったからこそ、オレたちは、言葉の対話の大切さを学んで、本当の責任を、知ることができたんだ」


 そして、彼女は、僕の手を、強く、強く握りしめた。


「オレは、この人を選んだの。もう、昔の、お父さんやお母さんに依存していた、ただの子供じゃない。だから、オレの選んだ人を、信じてほしい」


 陽菜は、僕のために、父親という、彼女にとって、人生で最も大きな壁に、真正面から立ち向かったのだ。


 武史は、娘の、その自立した、力強い決意の言葉に、一瞬、目を見開いた。その武骨な顔に、怒りではない、戸惑いと、娘の成長に対する、わずかな安堵の色が浮かぶ。


 僕は、陽菜の小さな背中に、そっと手を添えた。陽菜の温かい体温が、僕の手に伝わってくる。僕は、武史の目を見つめ、父親になる覚悟を、心の中で、改めて固めた。


 この人を、僕は、命を懸けて、絶対に守る。


 僕たちは、武史からの無言の承認を、その場の張り詰めた空気の中に、確かに感じ取った。そして、篠宮家を後にした。僕たちの愛は、家族という共同体へ、その重く、そして確かな第一歩を、踏み出したのだ。僕たちのエチュードは、個人から、社会的な責任を伴う、愛の第三楽章へと、静かに、しかし、力強く、その歩みを進め始めたのだった。


---


### 第二十一話:未来への滑走路


 僕も陽菜も、大学三年になった。季節は春。キャンパスの桜は、僕たちの未来を祝福するかのように、しかし、その短い命を惜しむかのように、はかなく風に舞っていた。僕たちの愛は、もはや感傷的な思い出や、甘い言葉だけで成り立つものではなくなっていた。それは、就職活動という、あまりにも現実的で、そして厳しい試練を前にして、その真価を問われようとしていた。


「恋人」としての絆を強固にした僕たちは、「いつかまた会えたら」という、高校時代の曖昧な未来を、もう許容することはできなかった。僕たちは、「必ず、同じ場所で、共に生きる」という、具体的で、揺るぎない目標を、二人だけの憲法のように、胸に刻んでいた。それは、愛を情熱だけで終わらせず、継続させるための、経済的、そして地理的な覚悟を意味していた。


 僕、相沢夏輝は、東京での就職を目指し、本格的な活動を開始した。黒いリクルートスーツに身を包み、満員電車に揺られて、巨大なビルが林立する都心へと向かう日々。合同説明会の会場は、同じような黒いスーツを着た、無数の学生たちの熱気と不安で、むせ返るようだった。誰もが、自分の未来をその手に掴むために、必死だった。僕が文学部で学んだ知識や、健太との共同生活で培った論理的な思考力は、僕が思っていた以上に、グループディスカッションや面接の場で、武器となった。しかし、僕の心を突き動かしていたのは、そんな表面的な評価ではない。「ハルと、そして、いつか生まれるかもしれない僕たちの子供の人生を、経済的な不安から完全に解放する」。その一心だけが、僕をこの過酷な戦場で奮い立たせる、唯一無二のエンジンだった。就職活動は、僕にとって、愛に責任を持つという誓いを、現実の給与明細という数字として証明するための、最初の、そして最大の戦場だったのだ。


 その日の夜、陽菜とテレビ電話を繋ぐと、僕は、面接で感じた、都会の巨大なエネルギーと、そこで生き抜くことの厳しさを、正直に彼女に話した。画面の向こうで、陽菜は、心配そうな顔で、僕の言葉に耳を傾けている。


「ハル。東京って街は、本当に厳しい。誰も俺たちのことなんか知らないし、興味もないんだ。家柄でも、過去の実績でもない。今、この瞬間の実力だけが、全ての世界だ」


 僕のその弱音に近い言葉に、しかし、陽菜は、高校時代のように「そんなに辛いなら、地元に帰ってきてよ」というような、依存的な言葉を返すことは、決してなかった。


「だろうな。ナツが、そんな厳しい場所で、たった一人で戦ってるんだ。オレも、そこに追いつかなきゃ、隣には立てない」


 陽菜は、既に地元での大学生活に慣れ、栄養士という、確固たる武器も手にしていた。地元に残れば、安定した職はいくらでもある。しかし、彼女は、僕との未来のために、その安楽な道を、自らの意思で、そして僕のために、否定しようとしていた。


「オレ、東京で就職する。ナツと、同じ場所で、同じ景色を見て、一緒に生活がしたいんだ」


 その言葉は、僕にとって、何よりも力強い激励だった。陽菜は、僕に依存して東京に来るのではない。「僕の隣に、対等なパートナーとして立つ」という、彼女自身の誇りのために、最も困難で、そして最も輝かしい道を選んだのだ。


 その決意を固めた陽菜はすぐに、親友である佐伯絵里香に、その胸の内を打ち明けた。絵里香は、電話口で、呆れたように、しかし、どこか嬉しそうに、長いため息をついたという。


「ハル、あんた、本気で言ってるの?あんたが東京でやっていけるの?地元で就職すれば、安定した仕事なんて、いくらでもあるじゃない。東京の求人倍率が、こっちとは段違いだってこと、ちゃんと分かってる?」


 絵里香の冷静な指摘は、東京という現実の厳しさを、容赦なく陽菜に突きつける。


「わかってる。でもな、絵里香。オレ、ただナツと離れたくないとか、そういう甘い理由だけで、決めたんじゃないんだ」


 陽菜は、力強く言い返した。その声には、もう、かつてのような迷いはなかった。


「オレは、ナツが卒業式の日に、『俺の隣に立てる女になってみせろ』って言った、あの言葉の意味が、やっと、本当にわかったんだ。ナツが、東京っていう、とんでもない場所で、毎日、必死で成長していくのに、オレだけが、こののんびりした田舎で停滞したくない。ナツを、心の底から支えられるだけの、自分自身の力が、どうしても欲しいんだよ」


 陽菜の瞳には、「恋愛」という感情を超えた、一人の人間としての、自己実現への、燃えるような渇望が宿っていた。


 絵里香は、そんな陽菜の決意を悟ると、もうそれ以上、止めることはしなかった。


「わかったわよ。あんたがそこまで言うなら、止めても無駄ね。栄養士の資格を最大限に活かせる、東京の優良企業の求人情報を、今すぐリストにして送ってあげる。でも、覚悟しなさいよ。家賃と物価は、地元の倍以上だと思いなさい。愛は情熱だけじゃ、絶対に持続しないわ。経済的な覚悟を、二人でしっかり持ちなさい」


 絵里香のその言葉は、僕たちの愛が、これから直面するであろう、「生活のリアリティ」という、次なる試練を、的確に予言していた。


 僕と陽菜は、「就職」という、愛の試練に向けて、それぞれの場所で、全力で未来への滑走路を走り始めた。僕のゼミでの、深夜にまで及ぶプレゼンテーション資料の作成。陽菜の、東京の企業へ送る、何度も、何度も書き直されたエントリーシート。僕たちは、スマートフォンの画面越しに、互いの「未来への滑走路」を、共に設計し、そして、互いの輝かしい離陸を、心から信じ、応援し合っていた。


 僕たちの愛は、刹那的な衝動から、具体的で、困難な目標へと、その姿を完全に変貌させた。この就職活動こそが、僕たちの「愛のフーガ」の、最も重要で、そして最も力強い、「責任」という名の、第一主題となるのだ。


---


### 第二十二話:同棲という名の誓い


 大学三年生の秋は、僕の人生の中で、最も長く、そして最も過酷な季節として記憶されている。僕が志望する出版社からの内定を勝ち取るために、僕は東京のアパートに籠もり、昼夜の区別なく、分厚い専門書と、パソコンのモニターに映し出される無数の文字とにらみ合いを続けていた。部屋には、飲み干されたコーヒーの空き缶が転がり、食べかけのコンビニ弁当が、僕の疲弊しきった精神を象徴するように、机の隅に追いやられている。眠りは浅く、夢の中でも、僕は面接官からの鋭い質問に答えられず、冷や汗をかいて目を覚ますのだった。


 一方、陽菜は、地元の大学に通いながらも、僕との未来のために、東京の企業への就職活動を、孤独に、そして懸命に進めていた。慣れないオンラインでの面接、膨大な量のエントリーシート。彼女が、僕と同じ戦場で戦ってくれているという事実だけが、この先の見えない暗闇の中で、僕の心を支える唯一の光だった。


 そんなある日の夜、僕が健太の部屋で、最終面接のための企業分析に没頭していると、アパートの古いドアが、控えめにノックされた。健太はまだ帰宅していないはずだ。いぶかしみながらドアを開けると、そこに立っていたのは、夜行バスで、何の連絡もなしに駆けつけたらしい、陽菜だった。


「よお、ナツ。ちょっと、応援に来てやった」


 彼女は、いつものボーイッシュなTシャツにジーンズ姿だったが、その手には、栄養ドリンクがぎっしり詰まったビニール袋と、手作りのサンドイッチが、大切そうに握られていた。その瞳には、長旅の疲れと、僕への深い心配の色が浮かんでいる。


「ハル……どうして、急に」


「どうして、じゃねえよ。お前、目の下に、ひでえクマできてるぞ。ちゃんと飯、食ってんのか」


 陽菜は、僕の返事を待つこともなく、まるで自分の家のように部屋に上がり込むと、僕の部屋の惨状を隅々までチェックし始めた。散らかった本や資料を慣れた手つきで片付け、空っぽの冷蔵庫の中身を確認し、そして、僕が手つかずでいたサンドイッチを、僕の手に無理やり押し付けた。


「ほら、食え。オレの特製、疲労回復ビタミンサンドだ。未来のカリスマ編集者のナツに、未来の敏腕栄養士のオレからの、特別差し入れってことで」


 僕は、そのサンドイッチを、無言で一口齧った。少しだけいびつな形をした卵焼き。シャキシャキとしたレタスの食感。その温かくて、優しい、そして陽菜の不器用な愛情が詰まった味が、僕の疲弊しきった身体と、ささくれ立った心に、ゆっくりと染み渡っていく。僕は、彼女の身体の温もりではなく、その献身的な優しさに、心の底から救われたような気がした。


 その日から、陽菜は、僕が内定を勝ち取るまでの間、僕のアパートに泊まり込み、僕を献身的にサポートしてくれた。彼女は、まるで僕の秘書であり、専属の栄養士のようだった。毎朝、僕が起きる前に、バランスの取れた朝食を作り、面接に着ていくシャツには、丁寧にアイロンをかけてくれた。夜は、僕の面接の練習相手になってくれた。


「ナツ、面接官が、『愛は情熱だけでは持続しないと思いますが、あなたはどう考えますか』って聞いたら、お前、なんて答える?」


「……『経済的な基盤を築くという責任と、互いの人間的成長に対する、揺るぎない尊敬こそが、愛を継続させる力です』と、答える」


 彼女との対話と、的確なシミュレーションが、僕の自信を、確固たるものにしてくれた。


 そして、運命の一週間後。僕は、第一志望であった出版社から、内定の電話を受け取ることができた。受話器を置いた瞬間、僕の全身から、力が抜けていく。長かった戦いが、終わったのだ。


 その夜、健太が買ってきてくれたビールで、三人でささやかな祝杯を挙げた後、アパートには、僕と陽菜だけが残された。陽菜は、僕の胸に顔を埋め、感極まった様子で、何度も、「よかった」と繰り返した。


「ナツ……よかった。本当によかった……っ」


 彼女の涙は、僕の喜びを、何倍にも、何十倍にも膨らませてくれた。彼女の献身的なサポートがなければ、僕は、この内定を、決して勝ち取ることはできなかっただろう。


 その時、僕の心の中で、一つの、決定的な感情が芽生えた。この人と、「一時的」な恋人としてではなく、「永遠」のパートナーとして、これからの人生を、共に歩んでいきたい。


 僕は、陽菜のショートカットの頭部を優しく撫でながら、言葉を慎重に選び、切り出した。


「ハル。……俺と、一緒に住まないか」


 陽菜は、驚いたように、僕の顔を見上げた。その潤んだ瞳に、期待と、そして、微かな不安の色が混ざる。


「……同棲、か?」


「ああ。俺は、春から東京で働く。お前も、東京で仕事を探すんだろ。地元の大学を卒業したら、この狭いアパートを出て、二人で、新しい部屋を借りよう」


 僕のその提案は、「恋人」という曖昧な関係から、「家族」という、責任を伴う共同体への、最も具体的で、そして最も大きな、第一歩だった。


 陽菜は、少しの間、沈黙した。そして、涙を拭い、僕の人生で見た、どの笑顔よりも美しい、決意に満ちた笑顔を、僕に向けた。


「……わかった。オレも、ナツの隣で、毎日、生活したい」


 僕たちの決意は固かったが、現実の壁は、すぐに僕たちの前に立ちはだかった。同棲の報告のために、僕たちは、それぞれの親に、電話をしなければならない。特に、陽菜の父、武史さんの反応が、僕には気がかりだった。


 陽菜が、母親である恵子さんに電話をした時、恵子さんは、看護師らしい冷静なトーンで、しかし、その奥に深い愛情を滲ませながら、僕たちに、現実的なアドバイスを送ってくれた。


「同棲ね。ハルが、ナツ君を支える覚悟があるというのなら、お母さんは反対しないわ。でも、ナツ君、あの子をよろしくね。それから、二人とも、よく聞きなさい。家賃、生活費、将来のための貯蓄。愛は情熱だけじゃ、絶対に持続しないわよ。経済的な責任から、決して目を背けないこと。そして、ハル、家事の分担は、どんなに愛し合っていても、必ず喧嘩の原因になる。だから、最初に、二人で、しっかりとルールを決めなさい」


 恵子さんの言葉は、僕たちの甘い決意に、「生活のリアリティ」という、現実の重さを、優しく、しかし、的確に教えてくれた。僕たちは、恵子さんのアドバイスを真剣に受け止め、その夜、初めての「家族会議」を開いた。家賃の折半、家事の分担、そして、将来の貯蓄計画。それは、愛の言葉よりも、ずっと重く、そして真剣な、未来への誓いだった。僕たちのエチュードは、今、「愛の責任」という、最も困難な主題に、真正面から、取り組もうとしていた。


---


### 第二十三話:生活のリアリティ


 大学を卒業し、僕たちが東京の西荻窪にある、日当たりだけが取り柄の小さなアパートで同棲を始めてから、季節は二つ巡っていた。僕は第一志望だった出版社で、陽菜は都内の中規模病院の栄養管理室で、それぞれ社会人一年目の、嵐のような日々を送っていた。僕たちの愛は、週末の逢瀬を待ち焦がれた甘い「情熱」から、家賃や光熱費の支払いに追われる、泥臭い「生活」へと、その姿を容赦なく変貌させていた。


 高校時代、僕たちは未来への焦燥と不安を埋めるために、セックスという刹那的な行為に逃げ込んだ。だが、今は、その代わりを、「生活の義務」という、より現実的で、終わりのない重荷が担っていた。


 夜九時。僕は、雑誌の校了作業で疲れ切った身体を引きずり、ようやくアパートのドアを開けた。部屋には、昨日の夕食で使った食器が、シンクに無造作に山積みになっている。そして、取り込んだはずの洗濯物が、乾いたままの形で、ソファの上にだらしなく放置されていた。陽菜も、病院での慣れない仕事と、複雑な人間関係で、僕と同じように疲弊しているのだ。それは、頭では理解している。


「ただいま」


 声をかけると、奥の寝室から、疲労の色を隠せない陽菜が、顔を出した。そのショートカットの髪は、いつものように快活に跳ねてはおらず、僕の知る、太陽のようなハルの面影は、その時だけは完全に消え失せていた。


「おかえり、ナツ。ごめん、今日、急患が入って、帰りが遅くなって。全然、片付けられなかった」


「……わかってるよ」


 僕は、そう言いながら、喉まで出かかった深いため息を、必死で抑え込んだ。僕だって、疲れている。学生時代、健太と二人で暮らしていた時のような、自分だけの静かで、自由な時間が、今の僕の人生には、もう存在しないのだ。


 その日の夜、僕たちは、初めての、そして、最も現実的な喧嘩をした。原因は、些細な、しかし、僕たちの生活の根幹を揺るがす、金銭感覚の違いだった。


「なんで、今月も、こんなに食費がかかってるんだよ。恵子さんが言ってたろ、将来のために、貯蓄は大事だって」


 僕は、生活費の管理を担当している陽菜がつけている、几帳面な家計簿を、まるで証拠品のように彼女の前に突きつけた。そのページには、僕が仕事帰りにコンビニで買った、少し割高な弁当や惣菜のレシートが、何枚も貼り付けられている。


「仕方ねえだろ!ナツが、仕事で疲れたからって、コンビニで高い惣菜ばっか買ってくるからだろ!オレは、栄養士の知識で、ちゃんと安くて、栄養バランスの良い食材を買って、自炊しようとしてるのに、ナツが全然協力しねえじゃんか!」


 陽菜の声は、蓄積した疲労と、僕に自分の努力を理解してもらえないことへの怒りで、荒れていた。僕たちの喧嘩は、もはや「愛してる、愛してない」という、甘い感情論ではない。「誰が、いつ、何を、どれだけ、どうするのか」という、現実的な管理と、労働の分担についての、泥臭い対立だった。


 数日後、僕は、藤井蓮と久しぶりに、新宿の騒がしい居酒屋で飲んでいた。蓮は、相変わらず、自由奔放な独身生活を謳歌している。


「おいおい、ナツ。なんだよ、その顔。まるで、十年連れ添った夫婦の、倦怠期のオヤジみてえじゃねえか」


 蓮の軽薄な笑い声が、僕の心の重荷を、一層際立たせた。


 僕は、ビールを勢いよく飲み干すと、陽菜への不満を、堰を切ったように蓮にぶつけた。


「蓮……同棲なんて、ただ窮屈なだけだ。洗濯物一つ、皿洗い一つで、いちいち喧嘩になる。お互いに仕事で疲れてるのは分かる。でも、なんで、あいつは俺にばかり、家事の責任を押し付けてくるんだ」


 蓮は、僕の愚痴を黙って聞いていたが、やがて、いつものように、現実的な、しかし、的を射た言葉を口にした。


「そりゃ、お前が、ハルを東京に連れてきたからだろ。あいつは、お前と一緒に暮らすために、地元も、安定した未来も、全部捨てて、こっちに来たんだ。その覚悟の重さを、お前は、ちゃんと分かってんのかよ」


 蓮の言葉は、僕の甘えと、身勝手さを、正確に突きつけていた。僕は、陽菜の隣に立てる男になると誓い、「責任」を受け入れたはずだ。しかし、その「責任」が、こんなにも泥臭く、そして、自分自身の自由を、少しずつ犠牲にしていくものだとは、想像していなかったのだ。


「……俺は、何を間違えたんだろうな」


 僕は、蓮の前で、弱音を吐くしかなかった。


 その頃、陽菜もまた、地元にいる親友の木下美緒に、国際電話をかけていた。美緒は、大学卒業後、アパレルのバイヤーになるという夢を叶えるため、パリに留学していたのだ。


「美緒……っ、もう、無理かもしれない。オレ、ナツのために、東京に来て、必死で仕事も、家事も、頑張ってるつもりなのに。あいつ、全然、感謝してくれないんだよ!」


 陽菜が本当に求めているのは、「愛してる」という、甘い言葉ではない。「お前が、俺たちの生活のために頑張っていることを、俺は知っている」という、人生のパートナーとしての、揺るぎない承認だった。しかし、僕の疲労と、心の余裕のなさが、その一言を、彼女にかけることを許さなかった。


 僕たちの愛は、情熱の試練を乗り越えた後、今度は、生活のリアリティという、より高く、そして、より強固な壁に、真正面からぶつかっていた。僕たちは、恋人であることと、共に生活するパートナーであることは、全く違うのだという、現実の厳しさを、痛いほど、痛感し始めていた。僕たちの「愛のフーガ」は、今、出口の見えない、不協和音を奏で始めていた。


---


### 第二十四話:パートナーシップの構築


 蓮に弱音を吐き、自分の未熟さを晒したあの夜から、数日が過ぎた。僕の心には、蓮に指摘された「覚悟の重さ」という言葉が、まるで棘のように深く突き刺さったままだった。僕は、陽菜との愛を「情熱だけではない、責任を伴う本物だ」と、自分自身で定義したはずだった。それなのに、その責任が、自分の自由や、心の平穏を少しでも脅かすものだと知るや否や、いとも簡単に逃げ道を探そうとしていたのだ。


 その夜、僕は終電ぎりぎりの電車に揺られ、アパートへと帰宅した。ドアを開ける前から、嫌な予感がしていた。いつもなら、この時間には、換気扇の回る音や、テレビの微かな音が漏れ聞こえてくるはずなのに、今日は、まるで墓地のような、完全な静寂が、ドアの向こう側から漂ってきていた。


「ただいま」


 僕は、掠れた声で、そう呟いた。しかし、返事はない。リビングに入ると、シンクには、朝僕が使ったままのコーヒーカップと、陽菜が食べたであろうシリアルの皿が、無造作に放置されている。ソファの上には、乾いた洗濯物が、まるで小さな山のように、手つかずのまま置かれていた。そして、陽菜がいつも食事をするテーブルの上には、コンビニのビニール袋に入ったままの、冷え切った夕食が、孤独に佇んでいた。陽菜の姿は、部屋のどこにもない。


 僕の全身から、血の気が引いていくのが分かった。その時、ポケットの中で、携帯が短く震えた。健太からのメッセージだった。『ハルなら、うちにいる。頭を冷やして、ちゃんと迎えに来い』。


 僕は、その場に、ただ立ち尽くした。陽菜のいない、静かすぎる部屋。その絶対的な静寂の中で、僕は、初めて、僕たちの生活の全てが、陽菜という存在の、献身的な努力によって、かろうじて彩られていたことを、痛感した。彼女の疲れた顔も、僕に向けられる不満の混じった声も、その全てが、「僕の隣にいる」という、かけがえのない事実の一部だったのだ。


 僕にとって、シンクの食器や、ソファの洗濯物は、「片付けるべき邪魔な義務」でしかなかった。しかし、陽菜にとっては、それは、「僕との共同生活を、愛する人との未来を、維持するための、彼女自身の尊い労働」だったのだ。


 僕は、ため息をやめ、静かに、リクルートスーツの袖を捲った。そして、シンクの食器を、一つ一つ、丁寧に洗い始めた。


 健太のアパートのドアを開けると、健太は、僕に何も言わず、ただ、顎で、奥の部屋を示した。陽菜は、健太の部屋のソファで、身体を丸めるようにして眠っていた。その顔には、安堵と、そして、深い疲労の色が、くっきりと刻まれている。


 僕は、陽菜の隣に、そっと座り、彼女が、自然に目を覚ますのを、ただ静かに待った。


 やがて、陽菜が、微かに身じろぎをし、ゆっくりと目を開けた。僕の顔を見ると、その瞳に、一瞬、警戒と、そして諦めの色が浮かんだ。


「……ナツ。迎えに、来たのか」


「ああ。帰ろう、ハル。俺たちの家に」


 僕は、言葉で、僕の全てを、彼女に伝えようと決めた。もう二度と、この手で、彼女を傷つけないと、心に誓って。


「ハル。本当に、ごめん。俺は、お前の頑張りを、全然、見ていなかった」


 僕は、彼女の前で、深く、深く頭を下げた。


「お前は、俺と同じだけの、社会的な責任を負いながら、慣れない東京での生活と、俺との生活を維持するための、膨大な家事を、たった一人で、背負い込もうとしていた。俺は、自分の心の余裕のなさばかりを気にして、お前のその尊い労力を、まるで当たり前のものだと、見過ごしていたんだ」


 僕が言い終わるのを待って、陽菜は、静かに、しかし、力強いハスキーな声で、僕に言った。


「ナツ……オレは、皿洗いを、ただやってほしいんじゃない。オレが、自分の人生の全てを懸けて、東京に出てきた、その選択を、ナツが、重荷だと感じていないか、それが、ずっと不安だったんだ」


 彼女は、僕の隣に立つために、故郷を、友人を、そして安定した未来を、捨てて、この街に来てくれた。その覚悟の重さを、僕が「家事の分担」という、あまりにも些細な天秤にかけることで、否定してしまっていると、彼女は感じていたのだ。


「オレは、ナツに、『ありがとう』って、言ってほしかったんだ。『お前が、ここにいてくれるおかげで、俺たちは、ちゃんと生活できている』って。恋人としてじゃなく、人生のパートナーとして、オレの存在を、承認してほしかったんだよ」


 陽菜のその言葉が、僕の心の、最も核心にある弱さを、容赦なく突いた。僕は、身体の繋がりを排除した後、「対話」の重要性を学んだはずだった。しかし、「生活」という、より現実的な戦場の中で、「感謝」という、愛を継続させるための、最も重要な言語を、僕は、完全に失っていたのだ。


 僕は、彼女の小さな手を、両手で、包み込むように握った。


「ごめん、ハル。本当に、ごめん。もう一度、俺と、対話させてくれないか。俺たちは、家事や金銭の分担を、愛の義務としてではなく、互いの人生を、より豊かにするための、チームとしての役割分担として、もう一度、再定義する必要がある」


 僕たちは、健太のアパートで、夜が明けるまで、話し合った。そして、初めての、「家族会議」を開いた。僕の得意な、金銭の管理と、論理的な問題解決。陽菜の得意な、栄養の管理と、日々の献立の作成。そして、最も不公平になりがちな、掃除や洗濯といった家事は、「誰がやるか」ではなく、「互いの残業時間や、体調に応じて、その都度、柔軟に調整する」という、新しいルールを決めた。そして、「一日の終わりに、五分だけでもいい。必ず、互いのその日の頑張りを、具体的な言葉で承認し合う」という、僕たちの愛の、最も重要な習慣を、付け加えた。


 僕たちの愛は、インスタントな情熱から、泥臭い生活という、最も現実的な試練を、今、乗り越えようとしている。この夜、僕たちは、愛を継続させるための、最も強固な「パートナーシップ」という名のシステムを、二人で、初めて構築したのだ。僕たちのエチュードは、「責任の衝突」を乗り越え、「共存のハーモニー」という、愛の第四楽章へと、静かに、しかし、確固たる覚悟を持って、その一歩を、踏み出したのだった。


---


### 第二十五話:二本の線が示す未来


 社会人一年目の秋が、深まっていた。僕たちの共同生活は、「生活のリアリティ」という名の、最初の大きな壁を乗り越え、ようやく穏やかで、予測可能なリズムを刻み始めていた。僕の出版社での仕事も、陽菜の病院での栄養管理の仕事も、その忙しさは変わらない。しかし、毎朝交わす「いってきます」の軽いキスと、一日の終わりに互いの健闘を称え合う「家族会議」と名付けた対話の習慣が、僕たちの愛を、揺るぎないものにしていた。


 あの時、健太のアパートで交わした「愛の責任」の再定義以来、僕たちのセックスは、義務感からも、焦燥感からも、完全に解放されていた。それは、生活の中に潤いをもたらすものであり、言葉だけでは伝えきれない、深い愛情の確認作業だった。互いの身体が、互いの献身と愛情を受け止め、絶対的な信頼という名の、穏やかな快感を分かち合う。僕たちの愛は、インスタントな欲望から、継続と責任を伴う、本物の結実を迎えつつあるのだと、僕は信じていた。


 そんな平穏な日々の中に、微かな、しかし無視できない異変が訪れたのは、十一月に入り、街路樹の葉が、冷たいアスファルトの上に絨毯を作り始めた、肌寒い夜のことだった。


 その日、陽菜は、珍しく残業もなく、定時でアパートに帰宅していた。僕が、山積みになった雑誌の校正刷りを脇に押しやり、「ただいま」と声をかけると、キッチンで夕食の準備をしていた陽菜が、ゆっくりと振り返った。


「おかえり、ナツ」


 彼女のハスキーな声には、いつもとは違う、微かな湿気が混じっていた。その顔色も、どこか優れないように見える。


「どうした?調子でも悪いのか」


「ん、ちょっと、胃の調子が悪くて。なんか、最近ずっと、食欲がないんだよな」


 僕は、陽菜のショートカットの髪に、そっと触れた。その肌は、いつもより少しだけ、熱を帯びているようだった。


「大丈夫か?プロの栄養士が、体調崩してどうするんだよ」


 僕が冗談めかして言うと、陽菜は、力なく笑ってみせた。しかし、その大きな瞳には、何かを隠しているような、僕の知らない不安の色が、深く、深く宿っていた。


 数日後。その漠然とした不安は、決定的な、そして、あまりにも重い現実となって、僕たちを襲った。


 休日の朝。僕は、淹れたてのコーヒーを片手に、読みかけだった小説の世界に没頭していた。陽菜は、朝からずっと、洗面所にこもっている。やがて、洗面所のドアが、ゆっくりと開き、陽菜が、青白い顔で、震えながらリビングに戻ってきた。彼女の右手には、小さなプラスチックの棒が、まるで凶器のように、固く、固く握りしめられていた。


 その棒の、小さな窓に表示された、二本の、あまりにも鮮やかな、赤い線。


 陽菜の、妊娠。


 僕たちの愛が、僕たちの知らないところで、予期せぬ形で、具体的な「命」となって、この小さな部屋に、その存在を突きつけた瞬間だった。


 アパートの小さな部屋に、時間が止まったかのような、重苦しい沈黙が落ちる。僕たちの心臓の音だけが、警告音のように、僕たちの鼓膜を、激しく叩いた。


 僕の脳裏に、まず最初に浮かんだのは、歓喜や、感動といった、綺麗な感情ではなかった。それは、「経済的な不安」と、「親になることへの、圧倒的な恐怖」だった。


「なんで……っ、なんで、なんだよ!?」


 僕の口から出たのは、祝福の言葉ではなく、戸惑いと、このどうしようもない現実から逃げ出したいという、弱い男の、身勝手な叫びだった。僕たちは、避妊を、徹底していたはずだ。「愛に責任を持つ」と誓い、ようやく生活を軌道に乗せ始めたばかりの僕たちにとって、この「予期せぬ命」は、あまりにも重すぎる、現実の重荷だった。


 僕は、高校時代の、あの忌まわしいトラウマに、再び襲われた。いざという時、何もできない、無力な自分。今の僕の、雀の涙ほどの給料で、この子と、そして陽菜を、本当に守り、幸せにすることができるのか。その保証は、この世界の、どこにもないのだ。


「ナツ、……っ」


 僕のその醜い動揺を見て、陽菜もまた、その場に崩れ落ち、声を上げて、激しく泣き始めた。彼女の涙は、喜びではない。それは、混乱と、恐怖の涙だった。僕たちが、二人で築き上げようとしていた、「愛の責任」を果たすための、ささやかな未来設計図。それを、この小さな命が、待ってはくれなかったのだ。


 しかし、泣きじゃくる陽菜の身体に、やがて、微かな、しかし、確実な変化が訪れた。彼女は、震える手で、自分のお腹に、そっと触れた。そして、僕の顔を、真っ直ぐに見つめた。


「ナツ……っ、この子を、オレが、守らなきゃ」


 その瞬間、彼女のボーイッシュな顔に、僕が今まで一度も見たことのない、「母」としての、強靭な決意の光が宿った。彼女は、依存的な少女から、守るべき命を得たことで、絶対的な庇護者へと、本能的に覚醒したのだ。


 僕たちは、震える手で、それぞれの親友に、電話をかけた。


 僕からの報告を聞いた健太は、一瞬の沈黙の後、「そっか。……まあ、色々大変だろうけど、お前なら、大丈夫だ」と、僕を力強く励ましてくれた。彼の、何の根拠もない、しかし、絶対的な信頼に満ちた言葉が、僕の凍りついた心を、少しだけ、和らげてくれた。


 一方、陽菜が電話をかけた、佐伯絵里香の反応は、冷徹な現実そのものだった。


「は?妊娠?あんた、ふざけないでよ、ハル。せっかく東京に出てきて、仕事も、キャリアも、これからだって時に、何考えてるのよ」


 絵里香の言葉は、祝福ではない。それは、厳しい叱咤激励だった。


「産むなら、今後のキャリアプランを、今すぐ、立てなさい。産休と育休の制度は?病院には、もう相談したの?愛は情熱じゃないって、あんたが、一番よく分かってるでしょ。命に責任を持つっていうのは、経済的な計画と、自分のキャリアを、両立させることよ!」


 絵里香の現実的な怒りが、僕たちを、甘い感傷から、容赦なく引き戻した。


 僕たちの愛は、「命の誕生」という、この世で最も尊く、そして、最も重い試練に、今、直面していた。僕たちは、インスタントな欲望から始まった、この不器用な関係の、最終的な結実を前にして、夫婦として、そして親として、人生最大の覚悟を、決めなければならない時を迎えたのだった。二本の線が示す未来は、まだ、あまりにも不確かで、そして、途方もなく重かった。


---


### 第二十六話:父親になる覚悟


 陽菜の妊娠が発覚して以来、僕たちのアパートの空気は、歓喜と、それを遥かに上回る重圧に満ちていた。窓から差し込む朝日は、以前と何も変わらないはずなのに、その光は、僕たちの不確かな未来を照らし出す、あまりにも残酷なスポットライトのように感じられた。陽菜は、つわりの症状に苦しみ、日ごとにか細くなっていくようだった。昨日まで好んで食べていたものが、次の日には匂いを嗅いだだけで顔をしかめる。そして、情緒も不安定になり、些細なことで涙を流したり、かと思えば、急に黙り込んだりした。


 僕は、そんな彼女の姿を、ただ無力に見守ることしかできなかった。彼女の背中をさすり、大丈夫だと声をかける。しかし、その言葉が、何の慰めにもなっていないことを、僕自身が一番よく分かっていた。彼女は、僕の知らない、孤独な戦場で、たった一人で戦っているのだ。僕が帰宅すると、陽菜はソファで身体を丸め、毛布にくるまっていた。


「ナツ……っ、ごめん。今日の夕飯、作れなかった。……オレ、このまま、ダメな母親になるんじゃないかな」


 彼女のハスキーな声は、弱々しく震え、自信を失っていた。僕たちは、「愛の責任」を負うと誓い合ったはずだった。しかし、その責任の重さが、今、陽菜の精神を、内側から蝕んでいる。


 僕の心にもまた、高校時代の、あの忌まわしいトラウマが、まるで亡霊のように、再び顔を覗かせていた。小学生の頃、高い木から落ちて骨折した陽菜を前に、何もできず、ただ泣くことしかできなかった、あの日の無力な自分。妊娠は、僕に、「経済的な安定」という現実的な課題だけでなく、「精神的な絶対的な支柱」としての役割を、容赦なく要求していた。今の僕に、その資格があるのだろうか。


 僕は、陽菜の隣に座り、彼女の震える背中を、優しく、何度も撫でた。


「ハル。お前は、ダメな母親なんかには、絶対にならない。俺と、この子にとって、世界で一番、最高のお母さんになるよ。……だって、この子を守りたいって、本能でそう思える時点で、俺なんかよりも、ずっと、ずっと立派だから」


 僕のその言葉は、彼女を必死で励ますと同時に、僕自身への、必死な、そして悲痛な鼓舞でもあった。


 しかし、僕の心の中の恐怖は、夜ごと、雪のように降り積もっていく。僕は、父親になることの「本当の意味」を、まだ、何一つ理解できていなかったのだ。このままでは、陽菜を支えるどころか、共に倒れてしまう。僕は、僕の人生において、最も重要な岐路に立たされた時、常に冷静で、厳格な指針を与えてくれた、たった一人の人物に、助けを求めることを決意した。僕の父、誠一に、相談しなければならない。


 週末、僕は陽菜に、「少しだけ、頭を整理してくる」と告げ、一人、故郷へ向かう新幹線に飛び乗った。


 実家のリビング。父は、僕の突然の帰省にも驚くことなく、僕が全てを打ち明けるのを、ただ静かに、黙って聞いていた。部屋の空気は、僕が切り出した話の重さで、張り詰めている。


「……妊娠か。少し、早かったな」


 父は、僕の目を見つめ、厳しい、しかし、どこか懐かしむような声で言った。


「ナツ。お前は、高校時代から、ハルちゃんに依存していた。彼女の要求にただ流され、一人の男として、本当の意味での責任から、ずっと逃げていた。卒業式の日に、一度、別れを選んだのは、お前の人生で、唯一の、そして、最も正しい決断だったと、私は思っている」


 父の言葉は、僕の過去の過ちを、一切の美化も、同情もなく、容赦なく突きつけた。


「だが、今回は違う。お前が、自分で選んだ道だ。妊娠は、二人で望んだ形ではなかったのかもしれない。しかし、それは、紛れもなく、お前たちの愛の結果だ。……今、お前が感じているのは、恐怖、だけだろう」


「はい……。俺は、この子を、そして陽菜を、本当に守り抜くことができるのか、自信が、ありません」


 僕のその弱音に、父は、静かに、しかし、力強く答えた。


「父親になる、というのはな、ナツ、自信を持つことではない。覚悟を、持つことだ」


 父は、僕の空になった湯呑みに、熱い茶を注ぎながら、続けた。


「お前が今すべきことは、『自分の給料で、この先やっていけるのか』という、そろばんを弾くような計算ではない。『お前の人生の全てを懸けて、その二人を、命懸けで守り通せるのか』という、お前の魂への、問いかけだ。自信など、後からついてくる。いや、一生、つかないのかもしれない。だがな、覚悟だけは、今、この瞬間に、決めなければならない。お前が選んだ道だろう。ならば、責任を持って、二人を支えなさい」


 父の言葉を聞き終えた瞬間、僕の胸の中に、氷のように固まっていた恐怖の塊が、熱い、熱い覚悟の炎へと、変わっていくのが分かった。僕の肩に、「夫」そして「父」としての、ずっしりと重い責任が、のしかかる。だが、不思議と、その重さは、僕を押し潰すのではなく、僕という人間を、一人の男として、この大地に、力強く立たせる、礎となる力に感じられた。


 僕は、東京に戻ると、ソファで眠ってしまっていた陽菜の傍らに、静かに寄り添った。彼女のお腹に、僕は、そっと手を当てた。まだ、微かな膨らみしかない、その場所。しかし、そこには、僕たちの未来の全てが、詰まっている。


 僕は、陽菜のショートカットの頭部に、優しくキスをし、僕の人生の全てを懸けた、決意の言葉を、彼女の耳元で、囁いた。


「ハル。俺が、ハルと、この子の人生を、絶対に、守るから」


 それは、高校時代に、曖昧な言葉でごまかし続けた、愛の責任を、僕の人生の全てを懸けて果たすという、夫であり、そして父となる僕の、最終的な、そして、揺るぎない覚悟だった。僕たちの愛のフーガは、今、「責任」という名の主題を、力強い和音で、高らかに奏で始めたのだ。


---


### 第二十七話:篠宮家の壁


 陽菜の妊娠が発覚し、僕が「父親になる覚悟」を固めた週末。僕たちは、人生で最も重い報告をするため、朝一番の新幹線に飛び乗り、見慣れたはずの故郷の駅へと降り立った。最終関門であり、僕たちの愛が本物であるかを試す、最大の壁。それは、陽菜の父、武史さんだ。彼は、僕たちの過去の過ちを全て知り、僕という存在に対して、最も厳しい視線を向けてきた人物だった。新幹線の車中、僕たちはほとんど言葉を交わさなかった。ただ、固く、固く手を握り合う。その手のひらに伝わる、互いの冷たい汗と微かな震えだけが、これから始まるであろう嵐の激しさを、僕たちの胸に雄弁に物語っていた。


 篠宮家のリビング。いつものように、武骨な体躯の武史さんが、ソファの定位置に深く腰掛け、腕を組んで僕たちを待っていた。母の恵子さんは、その横で、看護師らしい冷静な、しかし、全てを見透かすような眼差しを、僕たちに静かに向けている。部屋の空気は、夏に訪れた時とは比較にならないほど張り詰めていた。それは、まるで嵐の前の、息苦しいほどの静寂だった。


 陽菜は、僕の震える手を、力強く握りしめ返してきた。彼女のその体温が、「二人で乗り越えるんだ」という、無言の決意を僕に伝えてくる。


 僕たちは、互いに視線を交わし、覚悟を決めると、同時に深く、深く頭を下げた。


「お父さん、お母さん。……今日は、大事なご報告があって、参りました」


 陽菜が、震えながらも、しかし凛とした声で、最初に切り出した。僕は、その隣で、彼女の言葉を継いだ。


「陽菜さんのお腹に、新しい命が宿っています。……そして、俺たちは、結婚させてください」


 沈黙が、一拍。それは、永遠にも感じられるほど、長く、そして重い沈黙だった。


 母の恵子さんは、驚きはしたが、すぐに感情を押し殺し、現実的な問いを投げかけてきた。


「……何か月なの」


「まだ、初期です。病院で、確認してもらいました」


 陽菜が答えると、恵子さんは、不安そうに自分のお腹に手を当てる陽菜の姿に、そっと視線を落とし、そして、何かを堪えるように、唇を固く結んだ。


 武史さんの反応は、僕の拙い想像を、遥かに超える、激しいものだった。


「ふざけるなッ!」


 轟音のような怒声と共に、武史さんは、勢いよくソファから立ち上がった。彼の大きく、鍛え上げられた身体が、僕たちの小さな身体に、圧倒的な威圧感を放つ。


「貴様は、まだ学生気分も抜けきらない、社会人一年目の小僧だぞ!愛がなんだ、責任がなんだと、この間、偉そうな口を叩いていたが、結局これか!」


 武史さんは、僕の胸ぐらを、力任せに掴んだ。僕の身体が、その抗いようのない強烈な力で、いとも簡単に引きずり上げられる。床から、足が離れた。


「娘のキャリアを潰し、生まれてくる孫の人生を、お前のその不安定な経済基盤で、本当に背負えると言うのか!」


 彼の言葉は、僕の心の奥底にあった、最大の恐怖を、容赦なく抉り出した。


「お前たちが、身体から入った、あのインスタントな関係の尻拭いを、『結婚』という、都合のいい名前でごまかそうとしているだけではないのか!」


 次の瞬間、武史さんの怒りの鉄拳が、僕の左頬を、容赦なく殴りつけた。僕は、抵抗しなかった。口の中に、鉄の味が広がる。身体の痛みよりも、僕の心を支配していたのは、不思議なほどの静けさだった。これは、僕が受けなければならない、当然の罰だ。そして、僕が父親になるための、最初の試練なのだ。


 僕は、殴られ、床に崩れ落ちながらも、必死で体勢を立て直し、その場で正座をすると、深く、深く、頭を下げ続けた。


「申し訳、ありません!全て、俺の、責任です!経済的な基盤も、まだ、不安定です。ですが、俺は、この命を懸けて、陽菜と、この子の人生を、絶対に、守ります!」


 僕の悲鳴のような誓いを聞いても、武史さんの怒りは、全く収まらなかった。彼は、僕の肩を掴み、力任せに揺さぶった。


「口先だけの誓いなど、聞きたくもない!お前に、父親になることの重みが、分かってたまるか!」


 武史さんの拳が、何度も、何度も、僕の身体に叩きつけられる。僕は、ただ、歯を食いしばり、その衝撃に耐え続けた。ここで僕が倒れるわけにはいかない。僕が、彼女と、生まれてくる子供を守るのだ。この痛みは、その覚悟の証なのだ。


「お父さん!やめて!」


 陽菜の悲鳴のような声が、部屋に響き渡る。彼女は、僕の上に覆いかぶさるようにして、武史さんの拳の前に、その小さな身体で立ちはだかろうとする。しかし、恵子さんが、その娘の身体を、背後から、強く、強く抱きしめて、止めていた。


「行っちゃだめ、ハル!これは、あの子が、男として、父親として、越えなければならない、壁なのよ!」


 恵子さんのその言葉は、冷静でありながら、僕という人間を、試しているかのようだった。


 僕は、殴られ続けながらも、決して顔を上げなかった。ただ、ひたすらに、頭を床に擦り付け、謝罪の言葉を、何度も、何度も、繰り返した。陽菜の嗚咽が、僕の背中に、突き刺さる。すまない、ハル。すまない。心の中で、僕は、何度も、彼女に謝罪した。僕の不甲斐なさが、お前を、そして、お前の大切な家族を、こんなにも傷つけている。


 僕の意識が、遠のきかけた、その時だった。武史さんの、荒い息遣いが、僕のすぐ頭上で、聞こえた。彼の拳が、止まっている。僕は、ゆっくりと、顔を上げた。そこには、鬼のような形相で、しかし、その瞳の奥に、深い、深い悲しみを湛えた、一人の父親の姿が、あった。僕たちの、最も高く、そして、最も超えがたい壁が、そこに、静かに、そびえ立っていた。


---


### 第二十八話:家族になるということ


 僕の頬を殴りつけた武史さんの拳は、ゴツゴツとしていて、まるで長年使い込まれた鉄のハンマーのようだった。鈍い衝撃が頭蓋骨の奥深くまで響き渡り、僕は抵抗する間もなく、リビングの冷たいフローリングの床に崩れ落ちた。口の中に、じわりと鉄の味が広がる。だが、身体を貫く鋭い痛みよりも、僕の心を支配していたのは、不思議なほどの静けさだった。これは、僕が受けなければならない、当然の罰だ。そして、僕が陽菜の夫となり、生まれてくる子の父親となるための、最初の、そして最も重要な通過儀礼なのだと、そう直感していた。


「お父さん!やめて!」


 陽菜の悲鳴のような声が、部屋の張り詰めた空気を切り裂いた。彼女は、床に這いつくばる僕の上に覆いかぶさるようにして、再び振り上げられた武史さんの拳の前に、その小さな身体で立ちはだかった。その背中は、恐怖と、父親への抑えきれない怒りで小刻みに震えている。しかし、僕を見下ろすその瞳は、もはや涙に濡れてはおらず、僕という存在を、そして自分自身が下した決断を、何があっても守り抜くという、母性にも似た、燃えるような決意の光を宿していた。


「もう、やめてよ!ナツを殴らないで!」


「どけ、ハル!こいつは、お前の人生を、めちゃくちゃにしたんだぞ!」


 武史さんの怒声が、再び部屋中に轟く。しかし、陽菜は、一歩も引かなかった。


「めちゃくちゃになんてなってない!ナツのせいだけじゃない、オレのせいでもあるんだ!オレが、ナツに依存して、勝手に追い詰められて、追い詰めたから!でも、この二年半で、オレたちはちゃんと変わったんだ!お父さんが知ってる、あの頃の、無責任なナツじゃないんだよ!」


 陽菜は、涙を流しながら、必死で訴えかける。その言葉一つ一つが、僕たちが二人で歩んできた、長く、そしてどこまでも不器用だった道のりの、何よりの証明だった。


「オレは、この人を選んだの。このお腹の中にいる子の父親は、ナツしかいないんだ。もう、昔の、お父さんやお母さんに守られていただけの、ただの子供じゃない。だから、お願い。オレの選んだ人を、信じて」


 そして、彼女は、床に膝をついたままの僕の手を、強く、強く握りしめた。その温かさが、僕に、再び立ち上がるための、最後の勇気を与えてくれた。僕が、ゆっくりと、しかし、確かな足取りで立ち上がると、陽菜は、僕の前に立ち、父親である武史さんを、真っ直ぐに見据えた。


「お父さん、この人を信じて」


 その、涙に濡れた、しかし、どこまでも真摯な娘の瞳を見て、武史さんの振り上げた拳が、空中で、ぴたりと止まった。その武骨な顔に、純粋な怒りではない、深い動揺と、混乱、そして、僕には到底計り知ることのできない、父親としての、どうしようもないほどの愛情と悲しみが、複雑に絡み合って浮かび上がる。彼は、自分の知らない間に、ただ守るべき存在だったはずの娘が、一人の男を命懸けで守ろうとする「女」へと、そして、新しい命をその身に宿す「母」へと、成長してしまっていたという、抗いようのない事実に、ようやく直面させられたのだ。


 その時まで、静かに二人を見守っていた恵子さんが、荒れ狂う夫の隣に、そっと寄り添うように、静かな、しかし、凛とした声をかけた。


「あなたも、昔は、そうだったじゃない」


 その一言が、武史さんの心の、最後の砦を、静かに、しかし、確実に崩した。彼の脳裏に、一体どんな過去の光景が蘇ったのだろうか。若き日の、無鉄砲で、ただ情熱だけを武器に、彼女の父親に頭を下げた、自分自身の姿だったのかもしれない。


 武史さんは、深く、そして長い息を吐いた。その息は、彼の燃え盛る怒りと、そして、父親としての最後の意地が、ゆっくりと溶けていく音のようだった。天に振り上げていた拳が、力なく、だらりと下ろされていく。


 彼は、泣きじゃくる娘の顔と、口の端から血を流しながらも、決して目を逸らさずに彼を見つめ返す僕の顔を、交互に、何度も、何度も見比べた。そして、全てを諦めたように、重々しく、ソファに、どさりと腰を下ろした。


「……娘を、泣かせたら、殺す」


 それは、決して祝福の言葉ではない。しかし、僕たちの結婚を認めるという、彼なりの、最大限の、そして、最も心のこもった、不器用な承認の言葉だった。その言葉の奥底には、「お前が、俺の代わりに、この娘の人生の全てを、背負うんだぞ」という、父親から男への、魂の継承にも似た、重い響きがあった。


 その言葉を聞いた瞬間、陽菜の膝から、力が抜けた。張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたのだ。その場に崩れ落ちるように、再び泣き出した彼女の小さな身体を、僕は、今度こそ、力強く支えた。陽菜は、僕の胸に顔を埋め、まるで子供のように、声を上げて泣いた。それは、安堵と、喜びと、そして、父親の不器用で、どこまでも深い愛情を、ようやく理解したことによる、温かい涙だった。


 恵子さんが、僕たちに近づき、陽菜の背中を、優しく撫でた。


「ハル、よかったわね。……夏輝君、本当にごめんなさいね、うちの人が。この人も、あなたの本当の覚悟を、試していたんだと思うわ」


 僕は、恵子さんの言葉に、深く頭を下げた。そして、武史さんの方へ向き直る。彼は、窓の外の、茜色に染まり始めた夕暮れの空を、気まずそうに、ただ黙って見つめていた。その広い背中は、僕が今まで見た中で、最も大きく、そして、少しだけ、寂しそうに見えた。


 僕は、彼に向かって、もう一度、深く、深く、頭を下げた。それは、ただの感謝ではない。彼の愛する娘を、そして、その血を分けた孫の人生を、僕のこれからの人生の全てを懸けて、幸せにするという、僕の、揺るぎない誓いの証だった。


 僕たちの愛は、今、二つの家族を巻き込み、一つの、新しい「家族」になるという、最も尊く、そして、最も重い扉を、開いたのだ。僕たちのフーガは、これから、多くの声部を巻き込みながら、より複雑で、そして、より豊かな和音を、奏でていくのだろう。この日、僕たちは、本当の意味で、家族になった。


---


### 第二十九話:小さな結婚式


 陽菜の妊娠が安定期に入り、僕たちの人生は、新しい章の始まりを告げる、慌ただしくも幸福な日々の中にあった。武史さんの、あの不器用な承認を得た僕たちは、まず、法的な手続きを済ませるために、都内の区役所へと向かった。ごくありふれた、事務的な空間。番号札を手に、プラスチックの椅子に座って順番を待つ僕たちの姿は、他の手続きに訪れた人々と、何ら変わりはなかった。しかし、僕の心臓は、これまでの人生で経験したことのないほど、大きく、そして重い音を立てていた。


 やがて僕たちの番号が呼ばれ、カウンターへと向かう。証人として署名してくれた、健太と絵里香の名前が記された婚姻届。その一枚の紙が、僕たちの、衝動と過ちから始まった歪な関係を、「家族」という、社会的に最も重い責任を伴う共同体へと、変えようとしていた。職員が、慣れた手つきで書類を確認し、判を押す。その乾いた音と共に、僕と陽菜は、「相沢夫妻」となった。陽菜は、僕の腕を掴み、無言で、しかし力強く微笑んだ。その笑顔には、妻としての誇りと、新しい命への、揺るぎない希望が満ち溢れていた。


 そして、結婚式当日。僕たちは、盛大な披露宴を望まなかった。僕たちの愛は、虚飾に満ちたものではなく、泥臭い生活と、幾度もの困難な決断の上に、ようやく築き上げられたものだ。だから、僕たちは、両家の親族と、僕たちの不器用な「エチュード」を、最初から最後まで、見守り続けてくれた、最も大切な友人たちだけを招いた、小さな結婚式を挙げることにした。


 場所は、東京のアパートから少し離れた、閑静な住宅街に佇む、小さなチャペル。その庭には、今にも春の訪れを告げる蕾が膨らみそうな、白いバラの木が、静かに植えられていた。


 その日、僕は、レンタルした、まだ身体に馴染まないタキシードに身を包み、チャペルの控え室で、健太と蓮と、他愛のない話をしていた。


「しかし、まさか、お前が、俺たちの中で一番最初に結婚するとはな。しかも、こんなに早く、親父になるとは」


 蓮は、心から感心したように、そう言った。彼の表情には、高校時代のような、僕をからかう軽薄な冷笑はなく、尊敬の念が、確かに宿っている。


「しかも、相手は、あのハルだもんな。正直、俺たち、あの頃のお前たちの、あの歪んだ関係を知ってるからさ。この結末は、奇跡だと思ってるよ、マジで」


 健太は、いつもの誠実な瞳で、僕の目を、まっすぐに見つめた。


「ナツ。お前は、愛を、情熱じゃなくて、責任と、誠実さに変えた。だから、今、ここに立ってるんだ。ハルを、そして、生まれてくる子供を、一生、お前の人生を懸けて、幸せにしろよ」


 二人の心からの祝福が、僕の胸の奥底に、まだ微かに残っていた、最後の不安の全てを、温かく洗い流してくれた。


 やがて、結婚式が始まる。僕は、牧師の前で、緊張と、そして、込み上げてくる喜びに満ちた面持ちで、その瞬間を待っていた。


 チャペルの重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。パイプオルガンの、荘厳で、しかし、どこまでも優しい音色に合わせて、陽菜が、父の武史さんにエスコートされ、ゆっくりと、バージンロードを、こちらへ向かって歩いてくる。


 陽菜は、純白のウェディングドレスに、その身を包んでいた。そのシンプルなデザインのドレスは、彼女の、少しだけ膨らみ始めたお腹の曲線を、隠すことはできない。しかし、その母としての、ふっくらとした柔らかな曲線が、かえって彼女の美しさと、生命力そのものを、神々しいほどに際立たせていた。


 いつもは少年のように無造作なショートカットの髪には、小さな白い花の髪飾りが、可憐に揺れている。その顔には、いつも通りの、少し照れくさそうな、しかし、力強い笑顔が浮かんでいた。だが、その大きな瞳の奥には、深い安堵と、僕への、揺るぎない愛が、満ち溢れていた。


 僕は、思わず、涙ぐんだ。高校時代、美緒に勧められて、僕のために勇気を出して履いてくれた、あのスカート姿を、「らしくない」という、あまりにも残酷な一言で、否定してしまった、あの日の愚かな自分の姿を、鮮明に思い出したからだ。


 だが、今の彼女のウェディングドレス姿は、誰かに強いられたものではない。僕と、そして、僕たちの間に生まれてくる、新しい命のために、彼女自身が、誇りを持って選んだ、「妻」として、そして「母」としての、聖なる戦闘服だった。


 武史さんは、僕の前に来ると、無言で、しかし、その大きな手で、力強く、僕の肩を叩いた。そして、陽菜の手を、僕の手に、そっと渡してくれた。その手のひらには、「娘を、頼む」という、一人の父親の、重い、重い信頼が、確かに込められていた。


 誓いの言葉。


「汝、相沢夏輝。汝は、ここにいる篠宮陽菜を妻とし、健やかなる時も、病める時も、富める時も、貧しき時も、これを愛し、敬い、慈しむことを、生涯、誓いますか?」


「……誓います」


 僕の声は、過去の過ちの全てを清算し、未来の全ての責任を受け入れる、揺るぎない覚悟の響きを持っていた。


 指輪の交換。陽菜の、少しだけ節くれだった、しかし、僕が世界で一番愛するその左手の薬指に、僕の愛の誓いの証である、小さな銀色の輪が、静かに光った。


 そして、誓いのキス。僕たちは、溢れ出す歓喜と、これから本当の意味で「家族」になることへの、深い信頼を込めて、優しく、そして、長く唇を重ねた。それは、高校時代、焦燥から逃れるために、僕の部屋で交わした、あの最初の衝動的なキスとは、全く違う。僕たちの魂が、初めて、本当の意味で、一つになった瞬間だった。


 式後のささやかな食事会。両家の親族が見守る中、僕たちの友人たちが、次々と、祝福のスピーチを送ってくれた。


 蓮は、「ナツ、お前は、本当に、俺とは真逆の、一番めんどくさい愛の形を選んだよな。だが、お前のその不器用な愛が、本物だったことは、俺が、この場で保証してやる」と、いつもの軽薄さの中に、深い友情を込めて、僕たちを祝福してくれた。


 絵里香は、「ハル、あんたが、誰にも依存せず、自分の力で、今日のこの日を迎えたことを、親友として、心から誇りに思うわ。でも、忘れないで。あんたの戦いは、まだ始まったばかりよ。キャリアを諦めないという、あんた自身の覚悟を、絶対に見失わないで」と、未来への、厳しくも温かい指針をくれた。


 そして、美緒は、「もう、無理……。運命の幼馴染愛が、こんな、こんな形で……っ!これ、本当に、オレが描きたかった、最高の、最高の最終回じゃん……!」と、感極まって、スピーチの途中から、泣き崩れてしまった。


 僕たちの愛は、インスタントな欲望から始まり、多くの過ちと、すれ違いを経て、今、家族と、かけがえのない友人たちの、温かい祝福の和音に、確かに包まれていた。僕たちの「愛のフーガ」は、人生の、次なる楽章へと、静かに、しかし、力強く、その歩みを、進め始めたのだった。


---


### 第三十話:陣痛と、夫の覚悟


 予定日を二週間後に控えた、冬の深夜二時。東京の小さなアパートの寝室は、加湿器のかすかな運転音と、僕たちの穏やかな寝息だけに包まれていた。僕は、その日も出版社の仕事で帰りが遅く、疲労困憊の身体をようやくベッドに滑り込ませたところだった。隣で眠る陽菜の、少しだけ膨らんだお腹にそっと手を当てる。規則正しい寝息に合わせて上下するその温もりが、僕のささくれた心を、優しく癒してくれた。この穏やかな日常こそ、僕が命を懸けて守ると誓った、宝物そのものだった。


 その、あまりにも静かな均衡が、予期せぬ音によって破られたのは、その直後のことだった。


 パシャ、という、微かでありながら、決して聞き間違えることのない、生々しい水音。僕は、その音で、眠りの浅い淵から、一気に現実へと引き戻された。隣を見ると、陽菜が、驚きと、強い痛みに顔を歪ませて、シーツが濡れていく一点を、呆然と見つめている。彼女のショートカットの髪は、じっとりとした脂汗で、額に張り付いていた。


「ナツ……っ、なんか、出た……」


 破水。その二文字が、僕の脳天を、巨大なハンマーで殴りつけたかのような衝撃を与えた。頭の中が、真っ白になる。どうすればいい。何から、手をつければいいんだ。高校時代、陽菜が木から落ちて骨折した日の、あの何もできなかった自分の無力感が、まるで悪夢のように、鮮明に蘇ってきた。手足が震え、呼吸が浅くなる。


「ナツ、パニックになるな。落ち着け!」


 その時、僕の耳を打ったのは、陣痛の激しい波に苦しみながらも、僕を叱咤する、陽菜の力強い声だった。彼女は、痛みで顔を歪めながらも、その瞳には、これから始まる戦いに臨む、兵士のような、強い光を宿していた。


「母さんに、電話して!それから、タクシー呼んで!入院の荷物は、玄関に置いてあるだろ!早くしろ、ナツ!」


 僕は、陽菜の、その「母」としての本能的な強さに、背中を突き飛ばされるようにして、動き出した。僕の情けない混乱とは裏腹に、陽菜の冷静さと、的確な行動力が、この極限状態を、切り開いていく。震える指で、僕はまず、陽菜の母、恵子さんに電話をかけた。夜中であるにもかかわらず、数回のコールの後、冷静な声が受話器の向こうから聞こえてくる。状況を伝えると、恵子さんは、「わかったわ、すぐに病院へ向かいます。あなたも、落ち着いて、ハルのそばにいてあげて」とだけ言って、電話を切った。その落ち着き払った声が、僕のパニックを、少しだけ鎮めてくれた。


 数分後、アパートの前に到着したタクシーに、陽菜の身体を支えながら、なんとか乗り込む。車内に乗り込んだ途端、激しく襲い来る陣痛の波が、陽菜の身体の全てを、容赦なく打ち砕いていた。


「っ、ぅうう……!ナツ!手を……っ!手を、握っててくれ……!」


 陽菜は、僕の右手を、力任せに、まるで骨が軋むほどの、信じられないほどの強さで握りしめた。彼女の掌から伝わる熱と、僕の肌に深く食い込む爪の痛みだけが、僕に「自分が今、この場で、夫として存在している」という事実を、かろうじて教えてくれた。僕は、彼女の身体を襲うその痛みを、代わりに負うことができないという、圧倒的な無力感に、再び苛まれる。できることは、ただ、彼女の手を握り返し、「大丈夫だ、俺がいる」と、意味のない言葉を、繰り返すことだけだった。


 病院に到着し、陽菜が分娩室へと慌ただしく運ばれていった後、僕は、ただ一人の夫として、分娩室の前の、冷たく、そして長い廊下のベンチに、力なく座り込んだ。


 夜明け前。連絡を受けて駆けつけた、僕の両親と、陽菜の両親が、次々と待合室に到着した。父の武史さんは、僕の隣に、どかりと腰を下ろした。僕たちは、何も言葉を交わさなかったが、その沈黙は、もはや敵意によるものではない。それは、これから父親となる男と、娘を嫁に出した父親との間にだけ流れる、無言の信頼と、共感の沈黙だった。


 分娩室の厚い扉の奥から、陽菜の、獣の叫びにも似た、苦悶の声が、何度も、何度も、漏れ聞こえてくる。その声が聞こえるたびに、僕の心臓は、まるで直接掴まれているかのように、痛んだ。僕は、父、誠一の、あの言葉を、心の中で、何度も反芻した。「父親になる、というのは、自信を持つことではない。ナツ、覚悟を持つことだ」。


 覚悟とは、何だ。それは、ただ、この場から逃げ出さずに、彼女の痛みを、そして、これから始まる、新しい人生の全ての責任を、共に背負うことではないのか。僕たちの愛は、インスタントな欲望から始まった。だからこそ、僕は、この命の誕生という、最も神聖で、最も過酷な瞬間に、夫として、父親として、立ち会わなければならないのだ。


 長い、長い、途方もなく長い時間が過ぎた。時計の針は、もう、朝の七時を指している。窓の外は、すっかり明るくなっていた。待合室の空気は、疲労と、極度の緊張感で、淀んでいる。


 分娩室の中から聞こえてくる、陽菜の叫び声が、途切れがちになってきた。僕は、自分が、父親になることの、本当の意味を、その時、ようやく噛み締めていた。それは、経済的な安定や、社会的な地位などではない。ただ、愛する人を、そして、その人が命を懸けて産もうとしている、新しい命を、自分自身の人生の全てを懸けて、守り抜くという、絶対的な、そして、揺るぎない、決意そのものなのだ。


 僕は、もう、高校時代の、あの無力な少年ではない。僕は、相沢夏輝。陽菜の夫であり、そして、これから生まれてくる、この子の、父親なのだ。


---


### 第三十一話:一番最初のフーガ


 分娩室の厚く、重い扉の向こう側から聞こえてくる、陽菜の苦悶の叫びが、僕の鼓膜を叩き、そして心臓を直接抉った。僕は、病院の、消毒液の匂いが微かに染み付いた、冷たく、そしてどこまでも長い廊下のベンチに座り込んだまま、ただ、自分自身のどうしようもない無力さを噛み締めていた。僕の父、誠一。そして、陽菜の父、武史さん。二人の父親が、まるで僕の左右を固めるかのように、黙って座っている。僕の母、美奈子と、陽菜の母、恵子さんは、分娩室のすぐ近くで、落ち着かない様子で立ち尽くし、祈るように手を組んでいた。誰も、言葉を発しない。この無機質な空間を支配しているのは、時折響く陽菜の悲鳴と、僕たちの、祈るような、息苦しい沈黙だけだった。


 時間が、まるで溶けた鉛のように、ゆっくりと、そして重く流れていく。壁にかけられた時計の針は、もう、朝の七時を指そうとしていた。窓の外は、すっかり白んでおり、眠らない街、東京の空が、夜の闇の名残である灰色と、新しい一日の始まりを告げる薄いオレンジ色が混じり合った、複雑な色合いを見せている。僕たちの不確かな、しかし、希望に満ちた未来を、暗示するかのように。


 僕は、父、誠一が僕に教えてくれた、「覚悟」という言葉を、心の中で、何度も、何度も反芻していた。覚悟とは、一体何だ。それは、ただ、この場から逃げ出さずに、彼女の想像を絶する痛みを、そして、これから始まる、新しい人生の全ての責任を、共に背負うことではないのか。僕たちの愛は、インスタントな欲望から始まった。だからこそ、僕は、この命の誕生という、最も神聖で、最も過酷な瞬間に、夫として、父親として、何があっても、立ち会わなければならないのだ。陽菜は今、たった一人で、命を懸けて戦っている。僕にできることは、祈ることと、そして、何があっても彼女と、生まれてくる子供を守り抜くと、この場で誓い続けることだけだった。


 僕は、もう、高校時代の、あの無力な少年ではない。僕は、相沢夏輝。陽菜の、夫であり、そして、これから生まれてくる、この子の、父親なのだ。


 その時だった。それまで、不規則な間隔で、波のように寄せては返していた陽菜の叫び声が、一瞬、完全に止まった。沈黙。その沈黙は、世界の全てが、その心臓の鼓動を停止させてしまったかのような、重く、そして、恐ろしいほどの静寂だった。僕の心臓が、大きく、一度だけ、嫌な音を立てて跳ね上がる。まさか。そんなはずはない。


 次の瞬間、その死のような静寂は、力強く、澄み渡り、そして、この世の全ての希望を凝縮したかのような、新しい命の産声によって、劇的に破られた。


 オギャア、オギャア、オギャア!


 その産声は、僕たちの、歪で、不器用で、そして、過ちに満ちた愛の歴史の全てを、完全に無効化し、僕たちの未来を、絶対的な肯定の光で満たした。それは、僕たちが二人で奏で始めた、新しい人生のフーガの、一番最初の、力強い主題だった。その音色は、僕たちの過去の罪を洗い流し、未来への祝福を告げる、天使のファンファーレのようだった。


 やがて、分娩室の扉が、ゆっくりと開き、疲労困憊の陽菜が、ストレッチャーに乗せられて、僕たちの前に運ばれてきた。彼女の腕の中には、小さな、しかし、確かな重みを持った、白いおくるみに包まれた、僕たちの子供が、安らかな寝息を立てて抱かれている。


 陽菜は、長い戦いを終え、力尽きた顔をしていた。そのショートカットの髪は、汗で濡れそぼり、頬は蒼白だった。しかし、その瞳には、僕が今まで見たこともないような、深く、そして、穏やかな光が宿っていた。彼女は、僕の顔を見ると、最高の幸福に満ちた、聖母のような笑顔を、僕に向けた。


「ナツ……っ、お父さんになったね」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の瞳から、堰を切ったように、熱い涙が、止めどなく溢れ出した。それは、安堵であり、感謝であり、そして、自分が、この命を懸けて守るべき、かけがえのない家族を手に入れたという、絶対的な幸福の涙だった。


 僕は、陽菜の傍らに膝をつき、彼女の汗ばんだ手を、固く握りしめた。そして、初めて見る、僕の子供の顔を、食い入るように見つめた。まだ、目も開いていない、赤い、しわくちゃの顔。小さな、小さな手。しかし、その小さな、小さな寝顔の中に、僕は、僕自身の面影と、そして、僕が世界で一番愛する、陽菜の面影を、確かに見て取った。


「ハル、ありがとう。本当に、ありがとう。……怖かっただろ。痛かっただろ。俺、何もできなくて、本当に、ごめん」


 僕が、途切れ途切れにそう言うと、陽菜は、ゆっくりと首を横に振った。


「ううん。ナツが、外で待っててくれてるって思ったら、頑張れた。……ねえ、ナツ。オレ、やっと、わかった気がするんだ。オレが、本当に欲しかったものが、何だったのか」


 彼女は、腕の中の我が子に、慈愛に満ちた視線を落としながら、続けた。


「オレは、セックスで、ナツを縛り付けようとしてた。離れ離れになるのが怖くて、身体だけでも繋がっていたかった。でも、違ったんだな。オレが本当に欲しかったのは、こういう、未来だったんだ」


 陽菜は、僕の手に、自分の手を重ねた。


「この子が、笑ったり、泣いたり、初めて『パパ』って呼んだりするのを、ナツの隣で、一緒に見たい。運動会で、不器用なナツが、一生懸命ビデオを撮ってる姿を、笑いながら、見たい。この子の成長を、一日一日、ナツと一緒に、この目で見届けていきたい。それが、オレが、本当に欲しかった、未来なんだよ」


 彼女の言葉は、僕たちの愛が、過去の過ちを乗り越え、確かな未来へと繋がったことを、何よりも強く示していた。


「ああ、そうだな。一緒に、見ていこう。喧嘩もするだろうし、金で悩む日も来るかもしれない。でも、絶対に、三人で、乗り越えていこう」


 僕たちは、生まれたばかりの我が子を挟んで、固く、固く、誓い合った。


 僕たちの愛のフーガは、衝動的な欲望という、不協和音のプレリュードから始まった。しかし、多くの過ちと、すれ違いを経て、今、「命の誕生」という、最も深く、最も温かい、究極の和音を、奏でたのだ。この産声こそが、僕たちの新しい物語の始まりを告げる、一番最初の、そして、最も美しい、フーガだった。


---


### 第三十二話:僕らのエチュードは、まだ始まったばかり


 あれから、数年の月日が流れた。


 東京郊外にある、日当たりだけが取り柄の、しかし僕たち家族にとっては城である小さなアパートの一室。休日の昼下がり、窓から差し込む柔らかな光は、リビングルームの床を、暖かく、そして穏やかに照らしている。空気中を漂う金色の埃の粒が、スローモーションの映画のように、きらきらと舞っている。そこには、かつて僕たちの心を支配していた、夏の湿気のような重苦しい焦燥も、出口の見えない深い不安も、どこにもない。あるのは、清潔なシーツと、陽だまりの匂い、そして、遠くから聞こえてくる電車の走行音だけがアクセントとなる、穏やかな午後の静けさだけだった。


 僕は、その床に広げた古い写真集のページをめくりながら、その隣で、すうすうと小さな寝息を立てている、僕たちの長男、冬馬とうまを見つめていた。「フユ」という愛称の彼は、厳しい冬を乗り越え、新しい春を迎えた僕たちの元へ、まるで贈り物のようにやって来てくれた、最初の子供だ。その名前には、僕たちが二人で耐え抜いた、あの孤独で冷たい季節を忘れないように、そして、それを乗り越えた証として、そんな僕たちの切実な想いが込められていた。冬馬は、その短く切りそろえた髪も、快活そうな寝顔も、陽菜によく似ている。そして、その冬馬の小さな手に、自分の指を固く握らせたまま、その隣で静かに眠っているのが、長女の秋菜あきなだ。「アキ」という愛称の彼女は、僕たちの愛が実りの秋を迎えた頃に生まれてきてくれた。兄とは対照的に、僕に似て物静かな性質を持っており、そのアーモンド形の瞳は、僕のそれとそっくりだった。小さな兄妹が、互いの存在を確かめ合うように寄り添って眠るその姿は、僕にとって、何物にも代えがたい、平和の象徴だった。


 僕は、父親として、この二つの新しい命の重みと、そのかけがえのない愛おしさを、日々、噛みしめている。出版社での仕事は、社会人としても中堅に差し掛かり、任される責任も増え、相変わらず忙しい。しかし、どんなに疲れて、心がささくれ立って帰宅しても、この温かい日常が、僕を待っている。それが、僕の愛と責任の、揺るぎない源泉だった。


 静かな部屋の奥、キッチンから、野菜をリズミカルに刻む、小気味よい音が響いてくる。妻となった、陽菜だ。彼女は、産休と育休を経て、一度は退職も考えたが、僕の強い後押しと、親友である絵里香の現実的なサポートもあり、今は、週に三日だけ、病院の栄養管理室で、専門職としてのキャリアを続けている。母として、妻として、そして一人のプロフェッショナルとして、彼女は、僕との約束通り、必死で、そして、僕の目には誰よりも輝いて見えるほど、その人生を両立させていた。その姿は、僕に、「対等なパートナー」としての、深い尊敬の念を、抱かせ続けてくれる。


 陽菜は、キッチンに背を向けたまま、僕に声をかけた。その声は、相変わらず少しハスキーで、少し乱暴な、あの頃と何も変わらない響きを持っている。しかし、そのトーンには、僕たちの生活を、そしてこの家族を、心の底から慈しむような、深い愛情と、温かい安堵が満ちていた。


「おい、ナツ。ぼーっとしてないで、早くフユとアキのおもちゃ、片付けろよ」


「わかってるよ。あと五分だけ、この寝顔、見ていたいんだ」


 僕がそう返事をすると、陽菜は、フライパンをコンロに置く、カチャリという音を立ててから、力強く、そして、楽しそうな声で、僕の名前を呼んだ。


「おーい、ナツーっ!ご飯できたぞー!」


 その声は、かつて、未来への不安と焦燥の中で、僕を身体だけの繋がりへと誘った、あの衝動的な声とは、全く違う。それは、愛と、責任と、そして、共に築き上げてきた、確かな日常に裏打ちされた、この家族の営みの中心となる、確固たる呼び声だった。


 陽菜は、エプロンで手を拭きながら、リビングへやってきた。彼女は、床に寝転がっている息子と娘を、愛おしそうに見下ろすと、僕の隣に、こつんと頭をぶつけるようにして、座った。


「今日は、ナツが好きな、豚の生姜焼き定食だぞ。オレの特製、隠し味入りだ」


「ありがとう、ハル。いつも、本当にありがとう」


 僕は、その感謝の言葉を、以前のように、義務としてではなく、心からの、揺るぎない承認として、彼女に伝えた。僕たちの間には、もう、言葉にならない不安や、互いの心を探り合うような、あの息苦しい沈黙は、存在しない。


 陽菜は、僕の顔を、じっと見上げると、悪戯っぽい、少女のような笑顔を浮かべた。


「早くしないと、蓮と健太、もうすぐ来ちゃうよ。あいつら、絶対、いい酒と、美味いツマミ持ってくるんだから、その前に、腹を満たしとけ」


 藤井蓮と、坂本健太。僕たちの衝動を肯定し、そして、僕の良心を突き刺した、過去の共犯者と、理想主義者。彼らは、今、僕たちの家族の日常を、まるで自分のことのように、共に祝福してくれる、かけがえのない親友となっていた。


 僕は、陽菜の肩を、そっと抱き寄せた。窓から差し込む西日が、彼女のショートカットの髪を、黄金色に染めている。僕たちの愛は、「インスタント・セックス・ブルース」という、痛ましく、そして、どこまでも切ない、不協和音のプレリュードから始まった。しかし、それは今、家族と、かけがえのない友人に囲まれた、温かい日常という、愛おしい練習曲エチュードとなった。そして、このエチュードは、決して、完結することはない。


 愛は、情熱ではない。それは、継続にあるのだ。


 僕たちの愛の練習曲エチュードは、責任という名の、美しい和音を奏でながら、これからも、永遠に、続いていく。


---


### エピローグ:欲しかった永遠


 穏やかな休日の午後。東京郊外にある、日当たりだけが取り柄の、しかし私たち家族にとっては城である小さなアパートのリビングは、まるで時が止まったかのような、温かい静寂に包まれていた。窓から差し込む柔らかな光が、使い込まれて少しだけ傷のついたフローリングの床に、金色の四角形を描いている。空気中を漂う陽だまりの匂いと、ベランダで乾く洗濯物の、清潔な石鹸の香りが、混じり合っていた。


 私は、相沢陽菜は、その陽だまりの中に、静かに座っていた。私の目の前では、二つの小さな命が、安らかな寝息を立てている。兄である冬馬、愛称フユは、その快活そうな寝顔も、少し癖のある髪も、私によく似ていた。その小さな手に、自分の指を固く握らせたまま、隣で静かに眠っているのが、妹の秋菜、アキだ。兄とは対照的に、物静かで、思慮深い瞳を持つこの子は、夫である夏輝にそっくりだった。互いの存在を確かめ合うように、寄り添って眠る二人の姿は、私にとって、何物にも代えがたい、平和そのものの光景だった。


 この、あまりにも穏やかで、満ち足りた時間。私は、この光景を、心のフィルムに焼き付けるように、じっと見つめていた。そして、ふと、胸の奥に、夏の熱気のような、懐かしく、そして、少しだけ痛みを伴う焦燥感が、不意に蘇ってきた。


 高校三年生の、あの夏。卒業という名の、抗いようのない「終わり」を前にして、私は、ただ、怯えていた。ナツが、私の知らない世界へ行ってしまうこと。この、当たり前の日常が、永遠に失われてしまうこと。その恐怖に突き動かされて、私は、あまりにも短絡的で、幼稚な行動に走った。「セックスしようぜ」。あの言葉は、今思えば、愛の告白などではなかった。それは、離れ離れになる未来への、私の、必死の、そして、あまりにも愚かな抵抗の叫びだったのだ。


 私は、セックスをすれば、ナツを繋ぎ止められると信じていた。身体に、誰にも消せない、特別な印を刻みつければ、彼は、私の元から、どこへも行かないと。しかし、初めて肌を重ねたあの日の夜、私たちが手に入れたのは、期待していた一体感などではなく、埋めようのない、深い、深い孤独感だけだった。行為を重ねるたびに、心は離れていく。ラブホテルという非日常に逃げ込んでも、慣れないスカートを履いて「女の子」を演じても、虚しさは、ただ、募るばかりだった。


 私が本当に欲しかったものは、何だったのだろう。


 お昼寝している我が子たちの、その小さな寝顔を見つめながら、私は、ようやく、その答えに辿り着いたような気がした。


 私が、あの時、本当に欲しかったのは、刹那的な快感や、恋人という名の「形」ではなかった。私が、心の底から求めていたのは、この、今、目の前にある、温かい未来そのものだったのだ。この子たちが、笑ったり、泣いたり、初めて「ママ」と呼んでくれる、その瞬間を、ナツの隣で、一緒に分かち合いたい。運動会で、不器用なナツが、一生懸命ビデオカメラを回している姿を、少し離れた場所から、笑いながら、見守っていたい。この子たちの成長を、一日、一日、ナツと一緒に、この目で見届けていきたい。


 あの頃の私には、そんな未来を、具体的に想像する力も、それを信じる心の強さもなかった。だから、セックスという、最も原始的で、最も安易な手段で、不確かな未来への不安を、無理やり、掻き消そうとしていたのだ。


 その時、静かに、リビングのドアが開いた。夫の夏輝だった。彼は、私の思考を邪魔しないように、そっと、足音を忍ばせて、私の隣に座った。その手には、二つのマグカップが握られていた。湯気の立つ、温かいミルクティー。その甘い香りが、私の鼻腔を、優しくくすぐった。


「どうした、ハル。フユとアキの寝顔、そんなに面白いか?」


 ナツは、悪戯っぽく笑いながら、私にマグカップを手渡した。その温かさが、私の指先から、心へと、ゆっくりと伝わっていく。


「……うん。見てると、思い出すんだ。オレたちが、どれだけ、馬鹿だったかなって」


 私のその言葉に、ナツは、全てを理解したように、静かに頷いた。


「ああ。俺も、馬鹿だったよ。お前の気持ちから、ずっと逃げて、自分の弱さを、理屈でごまかしてばかりいた」


 彼は、私の肩を、そっと抱き寄せた。そして、眠る二人の子供たちに、慈愛に満ちた視線を向ける。


「でも、俺は、もう逃げない。誓うよ、ハル。お前と、フユと、アキを、俺の人生の全てを懸けて、必ず、幸せにする」


 その言葉は、かつて彼が口にした、どんな愛の言葉よりも、力強く、そして、私の魂に、深く響いた。


「オレもだよ、ナツ。オレも、ナツと、この子たちを、絶対に、幸せにする。二人で、一緒に、幸せになろう」


 私たちは、生まれたばかりの未来を象徴する二人の子供を挟んで、固く、固く、誓い合った。


 私たちの愛は、「インスタント・セックス・ブルース」という、痛ましく、そして、どこまでも切ない、不協和音のプレリュードから始まった。しかし、それは今、家族と、かけがえのない友人に囲まれた、温かい日常という、愛おしい練習曲エチュードとなった。そして、このエチュードは、決して、完結することはない。


 愛は、情熱ではない。それは、継続にあるのだ。


 私たちの愛の練習曲エチュードは、責任という名の、美しい和音を奏でながら、これからも、永遠に、続いていく。


【完】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ