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インスタント・セックス・ブルースから、僕らのエチュードへ  作者: 舞夢宜人


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前編:身体から始まった恋は、本物になりますか?

あらすじ

卒業への焦りから、幼馴染のハルと衝動的に身体の関係を持ってしまったナツ。それは愛ではなく、虚しいだけの過ちだった。一度は離れた二人が、すれ違いや葛藤を乗り越え、身体から始まった関係が本当の愛へと変わるまでを描く。不器用な二人が奏でる、恋と人生の練習曲エチュード


登場人物紹介

相沢 夏輝ナツ: 内向的で思慮深い主人公。陽菜に振り回されつつも、彼女を守ろうとする。

篠宮 陽菜ハル: ボーイッシュで行動的なヒロイン。夏輝を失う不安から、衝動的な行動に出る。


### 第一話:境界線の向こう側


 じっとりとした熱が肌にまとわりつく、七月の終わり。僕、相沢夏輝の部屋は、開け放した窓から吹き込む生ぬるい風では到底追い払うことのできない、重たい沈黙に支配されていた。遠くで鳴り響く蝉の声だけが、この世界の時間がまだ止まっていないことを証明しているかのようだ。机の上に無造作に置かれた模試の結果。そこに印刷された志望校E判定という残酷な現実は、まるで僕の灰色の未来を予言する一枚の死亡診断書のように、冷たく、そして絶対的な事実として横たわっていた。天井の木目を意味もなく数えることにも飽きて、ベッドに寝転がったまま、僕はただ無気力に息を吸って吐く。肺に入ってくる空気でさえ、夏の湿気を含んで重かった。


 その時だった。何の前触れもなく、僕の部屋の窓枠に軽やかな影がよじ登った。物置の屋根を足場にする、聞き慣れた衣擦れの音。見慣れたTシャツとハーフパンツ姿でそこに現れたのは、幼馴染の篠宮陽菜だった。短く切りそろえられた髪が、夏の強い日差しを浴びて、色素の薄い茶色に透けている。少年のような快活さで部屋に侵入するその姿は、僕たちの十八年間の歴史そのものだった。


「よお、ナツ。生きてるか」


 陽菜は、僕の許可を得ることもなく、慣れた仕草でベッドの縁にどかりと腰を下ろした。彼女の一人称は「オレ」。その少しハスキーな声と、ぶっきらぼうな言葉遣いは、彼女が繊細な心を隠すために、長い年月をかけて身につけた鎧のようなものだ。だが、今日の彼女の鎧には、いつもと違う微かな翳りがあった。


「見ての通り、かろうじてな。お前こそ、進路指導、どうだったんだよ」


 僕が尋ねると、陽菜の快活な表情が一瞬だけ曇り、遠い目をして窓の外に視線を向けた。彼女もまた、僕と同じように、卒業という名の断崖絶壁を前にして、なすすべもなく立ち尽くしている一人だった。地元の大学で、スポーツ科学を学びたいという彼女の夢は、現実の成績という無慈悲な壁に阻まれている。


「まあ、色々と言われたよ。……このままじゃ、ナツとは違う大学だな、ってさ」


 陽菜は、自嘲するように笑った。その笑顔には、いつものような太陽のような強さはなく、未来への恐怖と、僕への隠しきれない依存心が滲み出ている。僕たちは、生まれてからずっと隣にいた。小学校も、中学校も、そしてこの高校も。僕のいない陽菜の人生も、陽菜のいない僕の人生も、これまで想像したことすらなかったのだ。


「このままじゃ、うちら、離れ離れになんじゃん」


 その言葉は、僕たちの間に横たわる、見て見ぬふりをしてきた現実だった。卒業は、僕たちの絶対的な日常を、容赦なく破壊する。その抗いようのない事実がもたらす焦燥感が、じりじりと僕たちの心を蝕んでいた。


 陽菜は、僕の顔をじっと見つめた。その大きな瞳が、真剣な光を帯びる。夏の午後の気だるい空気が、彼女の放つ尋常ではない緊張感で、まるでガラスのように張り詰めていくのを感じた。


「なあ、ナツ」


 彼女のハスキーな声が、部屋の沈黙を切り裂き、僕の鼓膜を直接震わせた。


「セックスしようぜ」


 その言葉は、雷鳴のように、僕の無気力な思考を打ち砕いた。冗談でも、刹那的な遊びの誘いでもない。それは、失われゆく日常という名の領土に、必死で旗を立てようとする、彼女の痛々しいほど純粋な抵抗の叫びだった。僕は、一瞬、呼吸の仕方を忘れた。心臓が、警告音のように激しく脈打ち、全身の血液が沸騰するような感覚に襲われる。僕にとっての陽菜は、性的な欲望の対象である以前に、僕の半身であり、守るべき存在だったからだ。その不可侵の聖域を、僕たちは今、自らの手で踏み荒らそうとしている。


「……やめろよ、ハル。お前、疲れてるんだ」


 僕が、かろうじて絞り出した理性の言葉は、彼女の決意の前ではあまりにも無力だった。陽菜は、僕の胸ぐらを掴むと、その顔をぐいと近づけてきた。汗と、陽菜がいつも使っている柑橘系のシャンプーの匂いが混じり合い、僕の理性を甘く麻痺させる。


「嫌だ! オレは、ナツにとって、誰にも代えられない特別な存在だって、身体で証明してほしいんだ!」


 その瞳は、懇願と、僕を失うことへの絶望に濡れていた。セックスをすれば、僕たちの間に、誰にも侵されない「特別」な繋がりが生まれる。そう信じ込んでいる、彼女の短絡的で痛々しい純粋さが、僕の胸を締め付けた。


 僕の脳裏に、友人である藤井蓮の、全てを達観したような軽薄な声が蘇る。「恋愛なんて、楽しんだもん勝ちだろ」。その無責任な言葉が、僕の最後の抵抗を打ち砕くための、都合の良い言い訳として機能した。そうだ、楽しめばいい。陽菜を失いたくない。この関係が変わってしまうことへの恐怖よりも、彼女が僕の知らないどこかへ行ってしまうことの方が、ずっと恐ろしい。僕の心の奥底に眠っていた、自分でも気づかなかった独占欲が、彼女の衝動的な提案に、静かに、そして確実に応えていた。


 僕は、陽菜の腕を掴んでいた自分の手に、力がこもっていることに気づいた。それは、拒絶の力ではない。彼女の全てを受け入れるための、覚悟の力だった。


「……わかったよ」


 僕がそう呟くと、陽菜の表情が、安堵に緩んだ。その瞬間、僕たちの十八年間の友情は、終わりを告げたのだ。


 窓からの侵入という、僕たちの変わらない日常の象徴は、今、二度と後戻りできない、新しい関係への引き金となった。僕たちは、友情と恋心、そして未来への焦燥感が入り混じった、甘く重い沈黙の中で、ゆっくりと互いの身体を求め合った。夏の終わりの熱気だけが、僕たちの取り返しのつかない過ちの、唯一の証人だった。僕たちは、境界線の向こう側へ、共に足を踏み入れたのだ。


---


### 第二話:初めての不協和音


 僕の「わかったよ」という言葉は、部屋の空気を変質させた。それまでの気だるい午後の沈黙は、未知の行為を前にした、息苦しいほどの緊張感へと変わる。陽菜は安堵したように僕の胸から顔を離したが、その瞳は期待と不安が混ざり合い、潤んだままだった。僕たちは、十八年間築き上げてきた友情という名の安全地帯から、自らの意思で一歩を踏み出したのだ。その一歩が、底なしの沼への入り口だとは、まだ気づいていなかった。


 どちらからともなく、僕たちは唇を重ねた。それは、恋人たちが交わすような甘いものではない。互いの決意を確かめ合うような、ぎこちなく、そして少しだけ乱暴な接触だった。陽菜の唇は、微かに震えている。僕は、彼女のTシャツの裾に、震える指を滑り込ませた。初めて触れる、スポーツで鍛えられたしなやかな背中の感触。その肌の温かさが、僕の罪悪感を一瞬だけ忘れさせた。


 僕たちは、もつれるようにベッドへ倒れ込む。シーツが擦れる乾いた音が、やけに大きく部屋に響いた。陽菜の服を脱がしていく過程は、発見と戸惑いの連続だった。いつもは男物のパーカーの下に隠されている、引き締まった身体。しかし、その奥には、紛れもなく女性の柔らかさがあった。僕が彼女の胸の膨らみに触れた時、陽菜は「んっ」と短く息を漏らし、恥ずかしそうに顔を背けた。その反応が、僕の奥底に眠っていた、未知の欲望を静かに刺激する。


 僕自身の衣服も、焦るように脱ぎ捨てていく。互いの裸体が、夏の生ぬるい空気の中に晒された。陽菜は、僕の熱を帯びた身体を、戸惑いながらも受け入れる。僕の硬くなった男性の中心が、彼女の太腿に触れた時、陽菜の身体がびくりと硬直した。彼女の肌は汗ばみ、心臓の鼓動が僕の胸にまで伝わってくる。それは興奮ではなく、恐怖に近い感情なのだと、僕には分かっていた。


「……ナツ、優しくしろよ」


 陽菜が、か細い声で囁いた。その言葉に、僕は我に返る。僕は、彼女を傷つけようとしているのではない。彼女を繋ぎ止めたいだけなのだ。僕は、ゆっくりと時間をかけて、彼女の身体を愛撫した。しかし、その行為には、愛が欠けていた。それは、これから起こる結合への、ただの儀式的な準備でしかなかった。


 やがて、その時が来た。僕は、陽菜の脚の間に自分の身体を滑り込ませる。彼女の最も柔らかな場所は、僕の熱を受け入れる準備ができていたが、それは緊張によって強張っていた。僕は、ゆっくりと自分の先端をそこに導く。未知の領域へ侵入する瞬間、陽菜の顔が苦痛に歪んだ。狭く、熱いその場所は、僕を拒絶しているかのようだ。鋭い痛みが彼女の身体を貫き、僕の動きを一瞬止めた。


「……大丈夫か」


 僕の問いに、陽菜は声にならない声で頷いた。彼女は、この痛みを乗り越えなければ、僕たちの「特別」な関係は手に入らないと信じている。その健気さが、僕の胸を締め付けた。僕は、ゆっくりと、しかし確実に、奥へと進んでいく。痛みと、未知の快感が混じり合った、奇妙な感覚。僕たちは、ただ互いの身体を確かめ合うように、無言で動き続けた。期待していたような、魂が溶け合う一体感は、どこにもなかった。あるのは、肉体が擦れ合う生々しい音と、互いの荒い呼吸、そして、圧倒的な気まずさだけだった。


 行為の終わりは、唐突に訪れた。僕の身体の奥から、熱い衝動が突き上げ、思考が白く染まる。その熱を彼女の中に解放した瞬間、僕の心を満たしたのは達成感ではなく、深い虚無感だった。僕たちは、何も手に入れていない。むしろ、何かを決定的に失ってしまったのだ。


 汗ばんだ身体を離すと、僕たちの間には、埋めようのない深い溝ができていた。陽菜は、僕に背を向けたまま、天井をじっと見つめている。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。


「……こんなもんか」


 ぽつりと、彼女が呟いた。それは、失望を隠すための、精一杯の強がりだった。僕は、何も言えなかった。どんな言葉をかければいいのか、分からなかったのだ。僕たちは、最も原始的な方法で繋がろうとして、最も深く断絶してしまった。


 翌日、学校の廊下で陽菜とすれ違った。僕たちの視線が、一瞬だけ交差する。しかし、陽菜はすぐに目を逸らし、何も見なかったかのように僕の横を通り過ぎていった。僕もまた、彼女に声をかけることができない。昨日までの、当たり前だった挨拶さえ、僕たちには許されなかった。


 放課後、僕は一人で帰路についていた。そこに、背後から声をかけてきたのは、親友の坂本健太だった。彼は、僕の数少ない、本当の意味での理解者だ。


「おい、ナツ。なんか元気ねえな。ハルと喧嘩でもしたのか?」


 健太の何気ない問いが、僕の罪悪感を抉る。僕は、曖昧に笑ってごまかそうとした。


「……いや、別に」


 しかし、健太は、僕の嘘を見抜いていた。彼は、僕の肩に手を置き、真剣な眼差しで僕を見つめた。


「ナツ。お前、ハルのこと、本当に大事に思ってんのか?」


 その言葉は、僕の心の最も脆い部分を、容赦なく突き刺した。大事に思っている。だからこそ、僕は彼女の提案を受け入れたのだ。しかし、その結果、僕は彼女を傷つけ、僕たちの関係を修復不可能なものにしてしまったのかもしれない。健太の純粋な問いは、僕の軽率な行動が、決して愛情からではなかった可能性を、僕に突きつけていた。僕たちの間に鳴り響いた最初の不協和音は、友情の崩壊を告げる、静かな序曲だったのかもしれない。


---


### 第三話:身体だけの対話


 あの一日から、僕と陽菜の間には、目に見えない、しかし決して越えることのできない透明な壁ができてしまった。学校の廊下ですれ違っても、互いに視線を合わせることはない。昨日まで交わしていた、当たり前の挨拶や、他愛のない冗談。その全てが、禁じられた言葉のように、僕たちの唇を重く封じていた。初めての性交が僕たちにもたらしたのは、期待していた一体感などではなく、友情さえも破壊するほどの、圧倒的な気まずさと罪悪感だけだったのだ。


 陽菜は、僕の前では何事もなかったかのように振る舞おうとしていた。親友の木下美緒たちと、以前よりも大きな声で笑い、わざと僕の視界に入る場所で、クラスの男子とふざけ合っている。だが、僕には分かっていた。その明るさは、期待が裏切られたことへの失望と、自分から誘ってしまった手前、弱さを見せられないという彼女の必死な虚勢であることを。


 その日の放課後も、僕たちは言葉を交わすことなく、それぞれの教室を出た。帰り道が同じであるという、長年の習慣だけが、僕たちを気まずい沈黙の道行きへと誘う。蝉の声が、夕暮れの赤い光に溶けていく。僕は、彼女の数歩後ろを、まるで罪人のように歩いていた。何を話せばいいのか、どんな言葉をかければ、僕たちはあの夏の午後以前の関係に戻れるのか、全く見当もつかなかった。


 僕の家の前で、陽菜の足が、不意に止まった。


「……ナツ」


 彼女が、僕の名前を呼んだ。そのハスキーな声には、助けを求めるような響きが混じっている。


「……部屋、行っていいか」


 その問いに、僕は首を縦に振ることしかできなかった。拒絶すれば、このかろうじて保たれている繋がりさえ、完全に断ち切れてしまうような気がしたからだ。


 僕の部屋に入っても、会話はなかった。陽菜は、窓から侵入するのではなく、僕の後ろから、まるで客人のように静かに入ってきた。彼女は、僕のベッドに腰掛けると、ただ俯いて、自分の指先を弄んでいる。僕は、机の椅子に座り、読み終えた文庫本を意味もなくめくっていた。沈黙が、鉛のように重く、部屋の空気を満たしていく。この沈黙を破る言葉を、僕たちは持っていなかった。僕たちの十八年間の歴史の中で育まれた言葉の全ては、あの日の行為によって、その効力を失ってしまったのだ。


 陽菜が、静かに立ち上がった。そして、僕の前に来ると、無言のまま、僕のシャツのボタンに手をかけた。その瞳は、何かを諦めたように、深く、そして暗い色をしていた。僕もまた、彼女を止めることができなかった。言葉を失った僕たちに残された、唯一のコミュニケーション手段。それが、これからの行為なのだと、互いに理解してしまっていたからだ。


 二度目の結合は、一度目よりもずっと、機械的で、そして虚しかった。前戯も、愛撫も、最小限だった。それは、互いの不安を埋めるためだけの、儀式的な行為でしかなかった。僕は、陽菜の身体を抱きしめながら、彼女の心を抱きしめることができない自分自身の無力さに、絶望的な感情を抱いていた。セックスをしている間だけ、彼女をこの部屋に、僕の世界に繋ぎ止めていられる。その歪んだ錯覚だけが、僕の罪悪感を麻痺させていた。


 陽菜の喘ぎ声は、苦痛と快感が混じり合った、悲鳴に近い響きを持っていた。彼女の熱い内部で、僕は自分の存在を確かめようとする。しかし、身体が深く繋がれば繋がるほど、僕たちの心は、より一層、離れていくのを感じた。僕の熱が彼女の中に注ぎ込まれた瞬間、僕たちを満たしたのは、幸福感ではなく、行為が終わってしまえば、またあの沈黙が訪れることへの、深い恐怖だった。


 行為の後、陽菜はすぐに僕から身体を離し、服を着ると、何も言わずに部屋を出て行こうとした。その小さな背中が、あまりにもか細く、儚く見えた。


 その夜、僕は、自分の部屋で眠ることができなかった。陽菜の残り香が、シーツに、枕に、そして僕の身体に染み付いて、僕の罪悪感を責め立てる。


 翌日、学校で、僕は陽菜が親友の美緒と話しているのを、遠くから見てしまった。陽菜は、携帯の画面を美緒に見せながら、何かを必死に話している。その表情は、どこか強張っているように見えた。


 昼休み、美緒が興奮した様子で、僕の元へやってきた。


「ねえ、ナツ君! ハルから全部聞いたよ! あんたたち、付き合うことになったんだってね!」


 美緒の言葉に、僕の思考は一瞬停止した。陽菜が、そんな嘘を?


「もう、水臭いんだから! ずっと前から、絶対そうなるって思ってたんだ! だって、運命じゃん、幼馴染なんて!」


 美緒は、少女漫画のようなロマンチックな価値観で、僕たちの歪んだ関係を祝福した。彼女の純粋な善意が、僕たちの罪の輪郭を、より一層、色濃く浮かび上がらせる。僕は、曖昧に笑って、その場をやり過ごすことしかできなかった。


 陽菜は、嘘をついたのだ。僕たちの虚しい関係を、世間一般の「恋愛」というカテゴリーに押し込めることで、自分の心の均衡を保とうとしている。彼女のその痛々しいほどの嘘と、それを無邪気に信じる美緒の存在が、僕たちの関係の歪さを、何よりも雄弁に物語っていた。僕たちの対話は、今や、身体だけで交わされる、虚ろなものになってしまったのだ。


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### 第四話:虚ろな反復


 僕たちの関係は、まるで壊れたレコードのように、同じ溝を何度も、何度もなぞり始めた。放課後、どちらからともなく僕の部屋へ向かい、言葉もなく肌を重ね、そして虚しさだけを共有して別れる。その行為の回数だけが、僕たちの歪んだ関係の唯一の進捗を示す、空虚な指標だった。快感の波が去った後に訪れるのは、魂が満たされるような幸福感ではない。それは、互いの孤独の輪郭を、より一層鮮明に浮かび上がらせる、冷たい静寂だけだった。僕の身体は陽菜の熱を記憶していくのに、僕たちの心の距離は、絶望的なまでに開いていく。


 このままではいけない。頭では痛いほど分かっているのに、僕にはこの悪循環を断ち切る術が見つからなかった。陽菜を失うことへの恐怖が、僕から正しい判断力を奪い、ただ現状維持という名の緩やかな破滅へと、僕自身を追い立てていた。僕は、このどうしようもない閉塞感の答えを求めて、藤井蓮に相談することにした。彼は、恋愛を複雑な感情論ではなく、ある種のゲームとして捉えている、僕とは対極の人間だった。だからこそ、何か単純で、明快な答えをくれるかもしれない。そう、藁にもすがる思いで期待したのだ。


 昼休みの喧騒の中、屋上へ続く階段の踊り場は、生徒たちの声が届かない、束の間の聖域だった。僕は、壁に背を預ける蓮に、事の経緯を打ち明けた。陽菜の名前は伏せ、「ある女の子と、身体だけの関係が続いている」と、当たり障りのない言葉を選んで。僕の要領を得ない告白を聞いても、蓮の表情は少しも変わらなかった。彼は、まるで他人の恋バナを聞くように、退屈そうに空を眺めている。


「なんだ、そんなことかよ。ナツ、お前、相変わらず考えすぎなんだよ」


 蓮は、まるで他愛のない悩みを聞いたかのように、あっけらかんと言った。その軽薄さが、今の僕には眩しく、そして少しだけ憎らしかった。


「要するに、セフレってことだろ。別にいいじゃねえか、身体の相性がいいんだろ?だったら、そう割り切れば楽になる。卒業までの、期間限定の遊びだと思えよ」


 セフレ。その二文字は、ナイフのように鋭く、僕たちの関係の本質を、あまりにも正確に、そして残酷に抉り出した。蓮の現実主義的な価値観は、僕が必死で目を背けていた事実を、容赦なく白日の下に晒す。しかし、僕の心は、その単純な定義を、本能的に、そして頑なに拒絶していた。陽菜は、僕にとって、そんな言葉で片付けられるような、安易な存在では断じてない。


「……俺は、ハルに対して、そんな感情は持てない」


 僕の口から、思わず彼女の名前が漏れた。僕がかろうじて絞り出した反論に、蓮は心底呆れたというように肩をすくめた。その瞳には、僕への憐憫の色さえ浮かんでいる。


「だから、お前はダメなんだよ、ナツ。責任とか、感傷とか、そういう面倒くさいものをいちいち持ち込むから、苦しくなるんだ。女なんて、ヤってる時だけ気持ちよければ、それでいいじゃねえか」


 蓮の言葉は、僕にとって救いにはならなかった。むしろ、彼のようには割り切れない自分自身の不器用さと、陽菜への感情が単なる性欲ではないという事実を、改めて自覚させるだけだった。僕は、蓮に曖昧に礼を言って、その場を離れた。彼のアドバイスは、僕が求めていた答えではなかった。僕は、この泥沼から抜け出すための出口ではなく、この泥沼に名前をつけて安住する方法を、求めていたのかもしれない。


 その日の夜も、僕たちは同じ過ちを繰り返した。もはや、そこには何の躊躇も、何の新鮮さもない。ただ、決められた手順をこなすように、互いの衣服を脱がせ、無言のまま結合する。陽菜の喘ぎ声は、僕の耳には快楽の響きではなく、彼女の魂が助けを求めている悲鳴のように聞こえた。行為の最中、僕は彼女の表情を見ることができなかった。もし見てしまえば、その瞳に映る絶望に、僕の中の何かが、完全に壊れてしまいそうだったからだ。


 全てが終わり、部屋が静寂に包まれる。僕は、陽菜に背を向けたまま、息を殺していた。隣で、シーツが擦れる微かな音がする。僕は、ゆっくりと、恐る恐る振り返った。


 月明かりが、雲の切れ間から、僕の部屋に差し込んでいる。その青白い光の中に、陽菜の小さな背中が見えた。彼女の肩が、小刻みに震えている。僕は、息を呑んだ。陽菜が、泣いている。声を殺し、ただ静かに、涙を流しているのだ。枕に、黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。


 僕は、凍りついたように動けなかった。声をかけなければならない。「どうしたんだ」と、その震える肩を抱き寄せなければならない。しかし、僕の身体は、まるで鉛のように重く、唇は固く閉ざされたままだった。彼女が泣いている理由を、僕は知りすぎていた。求められるのは身体だけだという絶望感。僕を好きだからこそ、この愛のない関係が、彼女の心を深く、深く傷つけている。その全ての原因が、僕の不甲斐なさにあることを、僕は痛いほど理解していた。


 だから、声をかけられない。どんな言葉を紡いでも、それは偽善的な慰めにしかならないだろう。僕の圧倒的な無力さが、彼女の涙を拭うことさえ許さなかった。彼女の涙は、僕が与えた傷口から流れ出る、血そのものだった。


 陽菜は、僕が起きていることに気づいているのかもしれない。それでも彼女は、決して嗚咽を漏らさなかった。それは、彼女の最後のプライドであり、僕に対する、最も静かで、最も痛切な抗議だった。僕たちは、一つのベッドにいるのに、決して交わることのない、孤独な二つの惑星のようだった。


 やがて、彼女の震えが収まり、静かな寝息が聞こえ始めた頃、僕はようやく、固まっていた身体を動かすことができた。しかし、僕にできたのは、ただ、彼女に背を向けて、自分自身の無力さを、朝まで噛みしめることだけだった。


 僕たちの虚ろな反復は、快感の代わりに、彼女の涙と、僕の拭いきれない罪悪感だけを、夜ごと静かに積み重ねていった。僕たちの心の距離は、もう、手を伸ばしても決して届かないほど、遠く、そして冷たくなっていた。


---


### 第五話:ラブホテルという名の逃避行


 僕たちの歪な関係が始まってから、二週間が過ぎようとしていた。夏休みも後半に差し掛かり、肌を焼くような日差しは、季節の終わりを惜しむかのように、その勢いを増している。僕と陽菜の関係は、蓮の言うところの「セフレ」という、身も蓋もない言葉で定義されるものになっていた。しかし、僕の心は、その定義を受け入れることを、頑なに拒み続けていた。


 きっかけは、陽菜の親友である木下美緒からの、何気ない一言だったらしい。昼休み、教室で弁当を広げていた陽菜に、美緒は少女漫画のヒロインのような、夢見る瞳で尋ねたのだという。


「ねえ、ハル! ナツ君との初デートは、どこ行くの?映画?それとも水族館?キャー、想像しただけで、キュン死にしそう!」


 その無邪気で、一点の曇りもない質問は、陽菜が必死で築き上げていた虚構の世界に、容赦なく亀裂を入れた。僕たちは、デートなど一度もしたことがない。僕たちが共有しているのは、僕の部屋のベッドの上での、虚しい時間の反復だけだ。その事実を突きつけられた陽菜は、全身の血の気が引くような、激しい焦燥感に襲われた。彼女は、美緒の純粋な期待を裏切ることも、自分たちの関係の真実を告白することもできず、その場で衝動的な嘘をついてしまった。


「……今度、ちょっと遠出しようって話してる」


 その場しのぎの嘘が、陽菜を新たな、そしてより絶望的な行動へと駆り立てる引き金となった。


 その日の放課後、僕の携帯が短く震えた。陽菜からの、短いメッセージだった。『駅前の、エンジェル・キスってとこの前で待ってる』。エンジェル・キス。その名前には聞き覚えがあった。国道沿いに立つ、けばけばしいピンクと紫のネオンが特徴的な、ラブホテルだ。僕の心臓が、嫌な予感を覚えて、大きく脈打った。


 指定された場所に着くと、陽菜はホテルの入り口から少し離れた電柱の陰で、所在なげに立っていた。その手には、コンビニの袋が握られている。僕の顔を見ると、彼女は無理に作ったような、引きつった笑顔を向けた。


「よお、ナツ。……行こうぜ」


 彼女は、僕の返事を待たずに、ホテルの自動ドアへと向かう。僕は、その小さな背中を、ただ追いかけることしかできなかった。非日常的な空間に逃げ込めば、僕たちの関係も「恋人」という名の、非日常的なものに変わるかもしれない。彼女のその痛々しいほどの期待が、僕の足に、まるで鉛の枷のように重くまとわりついた。


 きらびやかな照明と、甘ったるい芳香剤の匂いが充満するロビー。僕たちは、誰にも見られないように、壁に埋め込まれたタッチパネルで部屋を選ぶと、足早にエレベーターへと乗り込んだ。密室になった途端、息苦しいほどの沈黙が僕たちを支配する。僕たちは、互いの顔を見ることができず、ただ、階数を示すデジタル数字が上がっていくのを、黙って見つめていた。


 通された部屋は、無駄に広く、そして統一感のない趣味の悪い装飾で満たされていた。けばけばしい赤紫色の天蓋付きのベッド、壁一面の大きな鏡、そして天井にまで取り付けられた鏡。その全てが、僕たちの関係が、ただ性的な欲望を満たすためだけのものであると、声高に主張しているようだった。ここに来たのは、間違いだった。そう思ったが、もう後戻りはできない。僕たちは、自らこの舞台に上がってしまったのだ。


 陽菜は、コンビニの袋から、缶チューハイを二本取り出した。


「……飲もうぜ。そしたら、ちょっとは、気分も変わるだろ」


 彼女は、アルコールの力を借りてでも、この気まずい空気を変えたかったのだ。僕たちは、無言で缶を開け、それを呷った。炭酸の刺激と、安っぽい果実の味が、僕の乾いた喉を通り過ぎていく。


 しばらくして、陽菜がおもむろに立ち上がり、僕の隣に座った。そして、彼女は、僕が今まで見たこともないような、不安と決意が入り混じった表情で、僕のズボンのファスナーに手をかけた。


「……オレが、ナツを気持ちよくしてやるよ」


 その言葉と共に、彼女は僕の前に跪いた。そして、どこで覚えたのか、あるいは想像だけで行っているのか、僕の熱くなった中心を、その小さな口に含んだ。慣れないその行為は、ひどくぎこちなく、そして必死だった。彼女の唇と舌の生々しい感触が、僕の理性を直接的に刺激する。しかし、僕の心を満たしたのは、純粋な快感よりも、彼女のその健気な努力に対する、胸が締め付けられるような痛みだった。


 彼女は、僕を喜ばせようと必死だった。「恋人」らしいことをすれば、この虚しい関係から抜け出せると信じているのだ。僕は、そんな彼女の背伸びに応えるために、ただ、彼女のショートカットの髪を、優しく撫でることしかできなかった。やがて、僕の身体が限界を迎え、熱い奔流が彼女の口内へと注がれる。陽菜は、激しくむせ返りながらも、その全てを受け止めた。その姿は、僕の目には、あまりにも痛々しく、そして愛おしかった。


 その後、僕たちはベッドの上で、何度も身体を重ねた。壁と天井の鏡に映る自分たちの姿は、まるで愛のない、ただ欲望をぶつけ合うだけの、二匹の獣のようだった。僕は、陽菜の瞳を見ることができない。彼女の瞳の中に、僕への軽蔑や、自分自身への絶望が映っているのを見てしまうのが、怖かったからだ。行為が終わるたびに、僕たちの心を支配するのは、埋めようのない、深い虚しさだけだった。


 全ての行為が終わり、僕たちが汗ばんだ身体を離した時、陽菜は、力なく天井を見上げていた。その瞳からは、一筋の涙が、静かにこぼれ落ち、彼女のこめかみを伝って、枕に小さな染みを作った。


「……ダメだ。どこでやっても、同じだ」


 彼女の絶望的な呟きが、静まり返った部屋に響く。ラブホテルという非日常空間は、僕たちの関係を変えるどころか、その本質が「セックスだけの繋がり」であることを、より残酷に、そして明確に象徴してしまった。僕たちは、この華美な牢獄から、逃げ出すことはできなかったのだ。そして、この逃避行の果てに、僕たちの間には、より深く、そして決して癒えることのない傷が、また一つ刻まれた。


---


### 第六話:すれ違う「好き」の形


 ラブホテルでの一件以来、僕たちの関係は、より一層深い泥沼にはまり込んでいた。虚ろな反復は変わらず続いていたが、そこに、以前にはなかった奇妙な緊張感が加わった。陽菜は、僕の前で、必死に「恋人」を演じようとし始めたのだ。それは、僕の部屋に来る前に、わざわざコンビニで買った雑誌を広げ、「こういうの、女の子は好きらしいぜ」と、ぎこちなく流行りのスイーツの話題を振ってくるような、痛々しい努力だった。僕は、その背伸びに応える言葉が見つからず、ただ曖昧に頷くことしかできない。そして、そんな不毛な会話の果てに、僕たちはいつもと同じように、言葉を失い、身体を重ねるのだ。


 九月に入り、夏の終わりを告げる涼しい風が吹き始めた週末の午後。僕は、自室の机で、遅々として進まない受験勉強に、苛立ちを覚えていた。参考書のページをめくる指が、まるで鉛のように重い。陽菜との歪んだ関係が、僕の思考能力を確実に蝕んでいた。集中しようとすればするほど、彼女の潤んだ瞳や、行為の後に見せる、あの絶望的な表情が脳裏に浮かんでくる。


 その時、携帯が短く震えた。陽菜からのメッセージだった。『今から、ちょっと付き合え』。いつもの、有無を言わさぬ命令口調。しかし、今日はどこか、その文面に、普段とは違う、はにかみのようなものが感じられた。僕は、重い腰を上げ、玄関のドアを開けた。


 ドアの前に立っていた陽菜の姿を見て、僕は、一瞬、言葉を失った。


 彼女は、スカートを履いていた。白地に、小さな青い花が散りばめられた、風に揺れるフレアスカート。いつもは、メンズサイズのTシャツとハーフパンツに隠されている、しなやかに伸びる脚が、惜しげもなく晒されている。その上には、身体のラインが分かる、タイトなカットソー。そして、その顔には、慣れない手つきで施したであろう、淡い化粧が乗っていた。少しだけ色のついた唇、ほんのりと赤みが差した頬。ショートカットのボーイッシュな雰囲気はそのままに、しかし、そこには紛れもない「女の子」が立っていた。


「……よお」


 陽菜は、僕の視線に気づくと、恥ずかしそうに俯きながら、そう言った。その仕草一つ一つが、僕の知らない、別の誰かのように思えた。


「これ、美緒に勧められてさ。たまには、こういうのもいいかなって」


 彼女は、言い訳をするように早口で言うと、僕の顔を窺うように、上目遣いで見つめてきた。その瞳には、「どうだ?」と尋ねる、不安と期待が渦巻いている。それは、僕からの承認を求める、切実な祈りだった。彼女は、僕に「女の子」として見てもらいたいのだ。この歪んだ関係を、正しい「恋人」の形に変えるために、彼女は、自分自身を変えるという、最も大きな一歩を踏み出した。


 しかし、僕の口から出たのは、僕自身も予想しなかった、残酷なまでに正直な言葉だった。


「……お前らしくない」


 その言葉が、僕の唇からこぼれ落ちた瞬間、陽菜の顔から、全ての表情が消えた。僕の心の中には、戸惑いが嵐のように吹き荒れていた。なぜ、「可愛い」の一言が言えないのだろう。目の前にいるのは、紛れもなく陽菜で、彼女は僕のために、勇気を出して変わろうとしてくれている。それなのに、僕の心は、その変化を素直に喜ぶことができなかった。


 僕が好きだったのは、いつも僕の隣で、少年のように笑う、あの陽菜だった。誰にも媚びず、自分のスタイルを貫く、その強さに惹かれていた。スカートを履き、化粧をした彼女は、まるで、僕の知らない誰かのために作られた、借り物の姿のように見えた。それは、彼女の内面ではなく、関係の「形」だけを、無理やり変えようとしているように、僕の目には映ったのだ。


「お前は、スカートなんて履かなくていい。……化粧なんてしなくても、そのままで、いいのに」


 僕は、必死で言葉を続けた。それは、「ありのままのお前が好きだ」という、僕なりの誠実な愛情表現のつもりだった。だが、その言葉は、陽菜の心には、全く違う意味で届いてしまった。


 陽菜の瞳に、深い絶望と、そして、僕に対する静かな怒りの炎が宿った。彼女は、僕の言葉を、「ありのままのお前は好きだが、恋人としての『女の子』のお前は、受け入れられない」という、究極の拒絶として受け取ったのだ。


「……そうか。ナツは、オレが『女』になるのが、そんなに嫌なんだな」


 陽菜は、か細く、しかし、氷のように冷たい声で、そう呟いた。彼女の全身から、力が抜けていくのが分かった。僕に「女の子」として見てもらいたいという、彼女の最後の、そして最大の望みは、僕のたった一言で、木っ端微塵に砕け散ったのだ。


「じゃあ、どうしろって言うんだよ!『オレらしい』ままじゃ、ナツは、オレを恋人として見てくれないじゃんか!」


 彼女の感情が、爆発した。その声は、涙で震えている。


「身体を重ねるだけじゃ、虚しいだけだって、ナツも分かってるだろ!だから、オレは、変わろうとしたんだ!ナツの、本当の彼女になりたくて……っ!」


 陽菜は、それ以上、言葉を続けることができなかった。彼女は、僕に背を向けると、慣れないスカートの裾が乱れるのも構わずに、走り去っていった。その泣きじゃくる背中を、僕は、ただ呆然と見送ることしかできなかった。


 僕は、彼女を深く、そして致命的に傷つけてしまった。僕の臆病さと、変化を恐れる心が、彼女の最後の希望を、無残にも踏みにじったのだ。僕が望んでいたのは、変わらない日常と、変わらない陽菜だったのかもしれない。しかし、その身勝手な願望が、僕たちの関係を、完全な破綻へと導いてしまった。夏の終わりの冷たい風が、僕の頬を撫でていく。その風は、僕が、陽菜という、かけがえのない存在そのものを、失いかけていることを、静かに告げていた。


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### 第七話:初めての「デート」と初めての喧嘩


 僕が彼女の変身を拒絶してしまったあの日から、陽菜は僕の部屋に来なくなった。僕たちの間のコミュニケーションは、完全に断絶した。学校で顔を合わせても、互いに存在しないかのように振る舞う。その息苦しい沈黙は、まるでゆっくりと僕たちの首を絞める蔓のように、日を追うごとに強くなっていった。僕の心の中では、親友である健太からの「お前がハルを追いつめてるんだぞ」という、正論という名の鋭い刃が、何度も突き刺さっていた。彼が正しい。僕の臆病さが、陽菜を追い詰めている。分かっているのに、どうすることもできない自分が、ひどくもどかしかった。


 そんなある日の放課後、僕が一人で帰路につこうと昇降口へ向かうと、そこに陽菜が立っていた。いつものボーイッシュな姿に戻っていたが、その表情は、まるで嵐の前の静けさのように、張り詰めている。僕に気づくと、彼女は意を決したように、まっすぐに僕の元へ歩いてきた。


「ナツ。……頼みがある」


 そのハスキーな声は、微かに震えていた。それは、彼女の最後のプライドを懸けた、必死の懇願だった。


「普通のデートが、したい」


 普通のデート。その言葉が、僕の胸に重くのしかかる。僕たちが失ってしまった、ごく当たり前の恋人たちの営み。彼女は、それを実行することで、まだ僕たちの関係が修復可能であると、信じたかったのだ。僕は、断ることができなかった。彼女の瞳の奥に宿る、か細い希望の光を、僕自身の手で消し去ることなど、到底できなかったからだ。


 週末、僕たちは駅前で待ち合わせた。陽菜は、あの日僕が拒絶したスカートではなく、いつものジーンズ姿だった。しかし、その顔には、どこか諦めに似た、悲しい覚悟が滲んでいる。僕たちは、まず映画館へと向かった。恋愛映画のポスターが、壁一面に貼られている。そのどれもが、僕たちの現実とはかけ離れた、幸福な物語を約束していた。


 暗闇の中、巨大なスクリーンに映し出される、恋人たちの甘い囁き。隣に座る陽菜の気配を、僕は痛いほど感じていた。彼女の肩が、僕の腕に触れそうになるたびに、僕の身体は無意識に硬直する。この気まずい沈黙を破りたくて、僕は何度も口を開きかけたが、結局、何の言葉も出てこなかった。映画の物語がクライマックスに近づくにつれて、僕たちの心の距離は、ますます遠ざかっていくようだった。


 映画が終わり、明るいロビーに出た瞬間、僕たちは再び、気まずい沈黙に支配された。感想を言い合うこともなく、ただ、人混みに流されるように、ショッピングモールへと足を運ぶ。陽菜は、必死に会話の糸口を探そうとしていた。ショーウィンドウに飾られた服を指差し、「あれ、可愛いな」と呟いたり、雑貨屋で奇妙な置物を見つけて、無理に笑ってみせたり。しかし、そのどれもが、空虚に響くだけだった。僕の相槌は、あまりにもぎこちなく、会話はすぐに途切れてしまう。


 焦りが、陽菜の表情を曇らせていくのが、僕にも分かった。彼女は、この「デート」という名の儀式が、失敗に終わろうとしていることを、悟り始めていたのだ。僕もまた、焦っていた。何かを話さなければ。このままでは、本当に終わってしまう。しかし、僕の口から出るのは、天気の話や、受験勉強の進捗といった、どうでもいい、中身のない言葉だけだった。


 太陽が傾き、街がオレンジ色に染まり始めた頃、僕たちは、公園のベンチに、力なく座り込んでいた。もう、どちらも、言葉を発しようとはしなかった。ただ、目の前で無邪気に遊ぶ子供たちの声だけが、僕たちの間の、重苦しい沈黙を際立たせる。


 陽菜の肩が、微かに震え始めた。僕は、彼女の方を見ることができなかった。やがて、彼女の口から、堰を切ったように、溜め込んでいた全ての感情が、涙と共に溢れ出した。


「……セックス以外じゃ、うちら、もうダメなの?」


 その声は、嗚咽に混じり、ほとんど聞き取れなかった。しかし、その言葉は、僕の心の最も深い部分に、鋭く突き刺さった。彼女は、ついに、僕たちが目を背け続けてきた、この関係の本質を、口にしてしまったのだ。僕たちの繋がりは、もはや、肌を重ねることでしか、確認できないものになってしまったのか。


 僕の脳裏に、健太の言葉が蘇る。「お前がハルを追いつめてるんだぞ」。そうだ、僕だ。僕のせいで、陽菜はこんなにも苦しんでいる。僕が、彼女のスカート姿を拒絶したから。僕が、彼女の「恋人になりたい」という切実な願いから、逃げ続けたから。その激しい自己嫌悪が、僕の中で、醜い怒りへと変わった。そして、その怒りの矛先は、僕自身ではなく、目の前で泣きじゃくる、最も傷つけてはならないはずの、陽菜へと向かってしまった。


「そんな関係を始めたのは、お前だろ!」


 僕の口から、感情に任せた、あまりにも残酷な言葉が吐き出された。言ってはいけない言葉だった。彼女の行動の根源にある、僕を失いたくないという純粋な想いを、僕は知っていたはずなのに。僕自身の弱さを棚に上げ、全ての責任を彼女に押し付ける、最も卑劣な言葉だった。


 その言葉を聞いた瞬間、陽菜の嗚咽が、ぴたりと止まった。彼女は、信じられないというように、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、もう涙はなかった。そこにあったのは、全ての光を失った、深い、深い絶望の闇だけだった。


 僕の言葉は、彼女にとって、死刑宣告と同じだった。彼女が、僕を繋ぎ止めるためにしてきた、全ての行動。初めてのセックスも、ラブホテルも、慣れないスカートも、その全てが、間違いだったと、僕自身が断罪してしまったのだ。彼女の心は、音を立てて、粉々に砕け散った。


「……ごめん」


 彼女は、そう一言だけ呟くと、力なく立ち上がり、僕に背を向けた。その背中は、僕が今まで見た中で、最も小さく、そして孤独に見えた。僕は、引き止めることができなかった。僕には、もう、彼女にかける言葉など、何一つ残されていなかった。僕たちの関係は、この日、完全に、そして決定的に、破綻したのだ。


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### 第八話:セックスのない夜


 あの喧嘩の後、僕たちの世界から、音と色が消え去った。携帯の画面に、陽菜の名前が表示されることは二度となく、僕の部屋の窓が、彼女によって開けられることもなくなった。僕たちが十八年間かけて築き上げてきた、あまりにも当たり前だった日常は、僕が放ったたった一言の残酷な言葉によって、脆くも崩れ去ったのだ。僕たちは、互いの存在を、互いの日常から完全に消去した。それは、まるで外科手術のように、正確で、そして痛みを伴う断絶だった。


 最初の数日は、解放感にも似た、奇妙な静けさがあった。もう、彼女の感情に振り回されることも、僕の部屋で虚しい行為を繰り返す罪悪感に苛まれることもない。僕は、この静寂の中で、本来の目的である受験勉強に集中できるはずだった。机に向かい、参考書を開く。しかし、インクの匂いが鼻をつくだけで、そこに書かれた文字は、意味のある情報として僕の頭に入ってこなかった。静かすぎるのだ。陽菜のいない僕の部屋は、まるで音の存在しない、真空の宇宙空間のようだった。


 夜になると、その感覚は、より一層、鋭敏になった。いつもなら、彼女が窓から侵入してきて、「ナツ、腹減った」と、僕のベッドを占領する時間だ。そのハスキーな声が聞こえない。僕のポテトチップスを勝手に食べる、その傍若無人な姿がない。彼女の不在は、僕の部屋の空気を、確実に希薄にしていた。僕は、息苦しさを覚えて、窓を開ける。しかし、流れ込んでくるのは、秋の冷たい夜気だけで、僕が求めている温もりは、どこにもなかった。


 僕は、一人、陽菜のいない日常の喪失感に、耐えていた。それは、恋人を失った悲しみとは、少し違う感情だった。まるで、自分の身体の一部を、ある日突然、もぎ取られてしまったかのような、根源的な欠落感。友情という言葉だけでは、到底説明がつかないほど、篠宮陽菜という存在は、僕の人生の、あまりにも大きな部分を占めていたのだ。僕は、この時になって初めて、その事実に気づいた。


 一方、陽菜もまた、出口のない迷路の中で、一人、立ち尽くしていた。僕から投げつけられた「そんな関係を始めたのはお前だろ」という言葉。その言葉は、呪いのように彼女の心に絡みつき、自己否定の毒となって、彼女の思考を麻痺させていた。自分が、全てを壊してしまった。ナツを失いたくないという一心で取った行動の全てが、結果的に、彼を最も遠い場所へと追いやったのだ。


 彼女は、親友の美緒に相談することはできなかった。美緒のロマンチックな価値観は、今の彼女の汚れてしまった心を、到底理解できないだろう。陽菜は、藁にもすがる思いで、もう一人の親友、佐伯絵里香に連絡を取った。絵里香は、僕たちとは違うクラスで、常に冷静に物事を分析する、キャリア志向のリアリストだ。恋愛に浮かれる美緒や、僕たちの歪んだ関係を、どこか冷めた目で見ている、大人びた存在だった。


 放課後のカフェ。絵里香は、陽菜が全てを話し終えるのを、黙って聞いていた。その表情は、同情でも、軽蔑でもなく、まるで医者が患者を診断するかのような、客観的なものだった。


「……で、あんたは、どうしたいわけ?」


 絵里香は、紅茶を一口飲むと、静かに、しかし、核心を突く質問を投げかけた。


「どうしたいって……オレは、ナツと、元に戻りたい……」


 陽菜のか細い声に、絵里香は、ため息をついた。


「元って、どの元よ。セックスを始める前の、ただの幼馴染?それとも、セックスだけの、虚しい関係?」


 絵里香の言葉は、一切の感傷を排した、冷徹な事実だった。そのどちらも、陽菜が本当に望む関係ではない。


「あんたがナツ君に依存してるのは、見てれば分かるわよ。でもね、ハル。男に依存する前に、まず、自分の足で立ちなよ」


 その言葉は、陽菜の心の最も柔らかい部分を、容赦なく抉った。


「あんたには、ソフトボールがあったじゃない。キャプテンとして、チームをまとめてたじゃない。あの頃のあんたは、誰にも依存せず、自分の力で輝いてた。でも、今はどう?ナツ君のことばっかり考えて、自分の将来、ちゃんと考えてるの?」


 絵里香の指摘は、陽菜が目を背けてきた、もう一つの現実だった。恋愛という名の熱病に浮かされ、彼女は、自分自身の人生を、完全に放棄していたのだ。


「いい、ハル。男なんて、あんたが自立して、輝いていれば、後からいくらでもついてくる。でも、男に依存して、自分の価値を下げたら、いい男は誰も寄ってこないわ。ナツ君が、あんたのスカート姿を拒絶したのも、結局はそういうことよ。彼は、あんたに、彼に依存しない、自立した女でいてほしかったんじゃないの」


 絵里香の言葉は、厳しい。だが、その根底には、陽菜への深い友情と、彼女の可能性を信じる、温かい眼差しがあった。


 その夜、陽菜は、自分の部屋で、久しぶりに、高校のソフトボール部のアルバムを開いた。泥だらけになって、仲間と笑い合っている自分の写真。そこには、恋愛に悩む、弱い少女の姿はなかった。自分の意志で、自分の人生を切り開いていた、キャプテンとしての自分がいた。


 絵里香との対話は、陽菜の心に、小さな、しかし、確かな光を灯した。恋愛一辺倒だった自分を省み、彼女は初めて、自分自身の将来について、真剣に考え始めたのだ。精神的な自立への意識が、絶望の淵にいた彼女の心に、静かに芽生え始めていた。


 僕も、陽菜も、セックスのない夜の中で、初めて、本当の意味で、自分自身と向き合い始めた。それは、あまりにも痛みを伴う、孤独な作業だった。しかし、僕たちが、いつかまた、対等なパートナーとして再会するために、必要不可欠な、静かな夜だったのだ。


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### 第九話:卒業式の涙


 三月の光は、まだ冬の厳しさをその内に隠していた。体育館の広い空間を満たす空気は、ひんやりと肌を刺し、これから始まる儀式の荘厳さを物語っている。高く、節くれだった天井から吊るされた国旗と校旗だけが、この場所で繰り返されてきた数え切れないほどの別れを、静かに見下ろしていた。僕は、卒業生代表として、最前列の中央に用意されたパイプ椅子に、窮屈な礼服に包まれて座っている。布地が肌に擦れる感触が、今日という日の非日常性を、絶えず僕に意識させた。


 式が始まる前の、ざわめきに満ちた数分間。僕は、一度も後ろを振り返ることができなかった。振り返ってしまえば、そこにいるはずの陽菜の姿を、探してしまうからだ。最後の喧嘩から数ヶ月、僕たちの時間は完全に止まっていた。教室で、廊下で、何度すれ違っても、僕たちの間には、見えない壁が存在し続けた。彼女は、親友の美緒や絵里香に囲まれ、いつも通りの豪快な笑顔を作っているのだろうか。それとも、僕と同じように、このまま終わりを迎える未来に、息を殺しているのだろうか。


 やがて、厳かなパイプオルガンの音色が響き渡り、体育館の空気が一変する。開会の辞、国歌斉唱。一つ一つの儀式が、決められた手順で、淡々と進んでいく。僕は、背筋を伸ばしながらも、意識のほとんどを、数メートル後ろにいるはずの彼女に向けていた。僕が吐き捨てた、あの残酷な言葉。彼女の心を粉々に砕いた、あの日の僕の醜さ。後悔という名の重たい鎖が、僕の心臓に絡みついていた。


 やがて、卒業証書授与が終わり、答辞の時間が訪れた。名前を呼ばれ、僕は緊張でこわばる足取りで、壇上へと向かう。スポットライトの白い光が、僕の視界を焼いた。目の前には、三年間を共にした同級生たちの、期待と感傷が入り混じった無数の顔があった。僕は、深呼吸を一つすると、用意された原稿を、ゆっくりと開き始めた。


 その頃、陽菜は、卒業生の群れの中から、壇上の夏輝の姿を見上げていた。いつもは、僕の部屋の窓から、僕の生活に土足で踏み込んできた、世界で一番近しい存在。その夏輝が、今、手の届かないほど遠い、眩い光の中に立っている。その距離が、陽菜の胸を、万力で締め付けるように、強く、そして痛く圧迫した。


 (ナツは、東京に行くんだ。オレの知らない世界に、行ってしまうんだ)


 夏輝の背中は、記憶の中にあるよりもずっと大きく見えた。そして、自分の力だけでは、もう決して追いつけないほど、遠い場所にあるように感じられた。彼女の心に、この一年間の出来事が、走馬灯のように、鮮やかに蘇る。僕の部屋で交わした、虚しいだけの行為の反復。女になろうとした自分を、冷たく突き放した、彼の戸惑いの表情。そして、デートの終わりに僕が吐き捨てた、あの残酷な一言。


 すべて、僕との繋がりを失いたくないという、彼女の幼稚で、そしてあまりにも切実な愛が招いた過ちだった。夏輝を好きだからこそ、彼を傷つけ、自分自身をも傷つけてしまった。そのどうしようもない矛盾が、彼女の心を容赦なく苛む。


 陽菜の瞳から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。彼女は、制服の袖口で必死に涙を拭ったが、一度溢れ出した感情の奔流は、もう止めることができなかった。それは、単なる失恋の涙ではなかった。自分で自分たちの大切な関係を、取り返しのつかないほど壊してしまったことへの、深い後悔。そして、もう二度と、夏輝の隣で、当たり前のように笑うことができないという、突き刺すような寂しさの涙だった。


 (ナツの隣にいるのは、オレじゃない。オレは、ナツを支えてやれなかった)


 陽菜の嗚咽は、声を殺すことができないほど、大きくなっていた。隣に座っていた親友の美緒と絵里香が、心配そうに彼女の背中を、優しく撫でている。


 答辞を読み終え、深く一礼をして壇上から降りた僕は、自分の席に戻る途中、通路のすぐそばで座り込んでいる陽菜の姿を見つけてしまった。嗚咽を漏らし、涙でぐしゃぐしゃになった彼女の顔。その姿を見た瞬間、僕の胸に、まるで心臓を直接握り潰されるような、激しい痛みが走った。


 僕が吐いた冷酷な言葉が、彼女の心をどれほど深く傷つけたのか。彼女の涙は、僕の無責任さと、不甲斐なさを、何よりも雄弁に突きつけていた。


 このまま、終わらせてはいけない。


 僕たちの関係は、虚ろなセックスから始まり、最悪の喧嘩で終わる。そんな結末であっては、絶対にならない。僕たちの十八年間を、こんなインスタントな愛の残骸にしてはいけないのだ。


 式典が終わり、生徒たちが卒業証書の筒を手に、立ち上がり始めた喧騒の中、僕は、陽菜のもとへと、まっすぐに歩み寄った。彼女の肩に、そっと触れる。陽菜は、驚いたように、びくりと身体を震わせ、顔を上げた。その瞳は、真っ赤に腫れ上がり、僕の顔を直視することができないでいた。


「ハル……」


 僕は、周りの喧騒を遮断するように、陽菜の身体を、優しく、しかし力強く抱きしめた。陽菜は、一瞬、僕の腕の中で抵抗したが、やがて、僕の制服に顔を埋め、子供のように、再び声を上げて泣き始めた。僕たちは、言葉ではなく、互いの身体の温もりだけで、この数ヶ月の心の距離を、一瞬だけ埋めようとしていた。


 そして、僕は、過去の過ちを清算するための、最初で最後の、誠実な決断を彼女に告げる覚悟を決めた。


「ハル。話がある」


 その声は、卒業の緊張や、喧嘩の怒りを含まない、落ち着いた、決意に満ちた声だった。陽菜は、その言葉の真剣な響きを理解し、ゆっくりと涙を止め、僕の顔を見上げた。僕たちの高校生活は、今、まさに、真の終わりを、迎えようとしていた。


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### 第十話:さよなら、プレリュード


 卒業式の喧騒が嘘のように遠ざかった後、僕と陽菜は、人通りの途絶えた、学校裏の駐輪場に続く静かな小道に並んで立っていた。まだ制服を着ている僕たちの周りだけ、時間が止まってしまったように感じられる。体育館で僕が抱きしめた時の陽菜の涙の熱が、まだ僕の制服の肩に、確かな重みを持って残っていた。三月の冷たい風が、僕たちの火照った頬を撫でていく。


 僕は、陽菜と向き合った。彼女の瞳はまだ赤く腫れているが、そこには、泣きじゃくるだけの少女ではなく、僕の言葉を待つ一人の女性としての、痛々しいほどの強さが宿っていた。僕がこれから告げるであろう言葉の重さを、彼女はもう、予感しているのかもしれない。


「……話って、何だよ、ナツ」


 陽菜が、ハスキーな声で、感情を押し殺すように言った。その声の微かな震えが、彼女の張り詰めた心の緊張を、僕に伝えていた。


 僕は、逃げずに、ゆっくりと、僕たちの前に横たわる、残酷な現実を突きつけた。


「まず、俺たちの進路だ。俺は、東京の大学に進学する。ギリギリだったけど、何とか滑り込んだ」


 僕は、E判定を覆すために、この数ヶ月、必死で勉強した成果を、初めて彼女に報告した。陽菜の顔に、一瞬だけ、喜びに似た光が差した。僕が目標を達成したことを、心から喜んでくれている。それは、僕が、彼女の人生の希望を、知らず知らずのうちに背負っていたことの証明でもあった。


「そうか……良かった。ナツなら、やれると思ってた」


 彼女は、安堵の息を漏らしたが、すぐに、その喜びが悲しい現実の序章に過ぎないことを悟ったように、表情を硬くした。


「で、お前は?地元の大学、スポーツ科学部だろ。美緒も一緒で」


「おう。オレは、地元だ。地元に残って、ちゃんと卒業する」


 東京と、地元。その二つの言葉によって、僕たちの未来は、決定的に二つの線路に分かれてしまった。高校時代、物理的に誰よりも近かった僕たちが、これから数百キロという、途方もない距離を隔てた、別々の場所で生きることになるのだ。


 僕は、肺の奥に溜まっていた、この数ヶ月の罪悪感と苦悩の全てを、吐き出すように、話し始めた。


「ハル。俺たちがやってきたことは、間違っていた」


 陽菜は、口を開き、何か反論しようとしたが、僕の言葉がそれを許さなかった。僕が今、口にしているのは、紛れもない、僕自身の罪の告白だったからだ。


「誰のせいとかじゃない。俺も、お前を『幼馴染』という都合のいい枠に閉じ込めて、一人の女性として向き合うことから逃げていた。お前も、未来の不安から逃げるために、身体だけの繋がりを求めた。俺たちは、愛を、最もインスタントで、虚しい手段で、代用しようとしただけなんだ」


 陽菜の瞳から、再び涙が溢れ出した。彼女は、僕の言葉を否定できない。全て、彼女の心の奥底で、とうの昔に理解していたことだったからだ。


「このまま、曖昧な関係を続けながら、遠距離恋愛ごっこなんてできない。そんなことをすれば、俺たちは、きっと、もっと互いを傷つけ合うだけになる」


 僕は、言葉を選ぶように、ゆっくりと、しかし、決意のこもった声で、この関係の清算を切り出した。


「だから、ハル。俺たちの関係は、一度、終わりにしよう」


 僕がそう告げた瞬間、陽菜の表情は、絶望的な痛みに歪んだ。僕の告白は、彼女にとって、最も恐れていた現実、つまり「ナツを失うこと」の、最終宣告だったのだ。


「やだ……!」


 陽菜は、首を横に振り、僕の腕に縋りついた。彼女の身体は、まるで嵐の中で立ち尽くす小枝のように、細かく、そして激しく震えている。


「そんなの、やだよ!オレ、ナツがいなかったら……どうすればいいか、わかんねえよ!」


 彼女の叫びは、依存と、僕への切実な愛が混ざり合った、魂の悲鳴だった。僕は、その依存を断ち切らなければ、僕たちに本当の未来はないと、痛感していた。


「わかってくれ、ハル。これは、逃げじゃない。俺たちが、いつか、本当に恋人として愛し合うために、必要なことなんだ」


 僕は、陽菜の両肩を掴み、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。


「もし、この歪な関係のまま東京と地元で離れたら、きっと、互いに寂しさと嫉妬をぶつけ合って、最後には、本当に嫌いになる。そうなる前に、一度、俺たち自身を、この関係から卒業させよう」


 僕の言葉を聞き終えると、陽菜は、堰を切ったように、再び大声で泣き出した。彼女の頬を伝う涙は、絶望と、僕の言葉の奥に隠された、あまりにも残酷で、誠実な希望を理解したことによる、複雑な感情の奔流だった。


「……ずるいよ、ナツ。そんなこと言われたら、……オレ、待っちゃうだろ……」


 陽菜の、その切実な弱音に対し、僕は、未来への「誓い」を重ねるように、言葉を紡いだ。それは、僕たちの新しい目標であり、愛の再定義そのものだった。


「ああ。そして、もし…もし、いつかまた会えたら、その時は、ちゃんとした形で始めたい。だから、今は、一度、終わりにしよう」


 僕は、陽菜の涙を指で拭い、僕自身の覚悟を、彼女に伝える。


「俺は、お前の人生に責任を持てる男になる。だから、ハルも、誰にも依存しない、一人の強い女になってくれ。それが、俺の、最後の我儘だ」


 陽菜は、僕のその残酷なまでの誠実さに、もう、抵抗する術を持たなかった。彼女は、僕との別れという最大の痛みを引き受ける代わりに、未来への約束という、あまりにも不確かな、しかし、唯一の希望の種を受け取ったのだ。


「……わかったよ。ナツ。ほんと、ずるい奴」


 陽菜は、僕の胸を、一度だけ、弱々しく叩くと、諦めと、力強い決意が混じった、かすれた声でそう言った。


 僕たちは、最後のキスを交わすことはなかった。ただ、互いに背を向け、僕が東京へ、陽菜が地元へと、別々の道へと、ゆっくりと歩き出す。


 僕の背中で、陽菜の嗚咽が、少しずつ遠ざかっていく。僕は、後ろを振り向かなかった。振り向けば、この決意が、いとも簡単に揺らいでしまうと知っていたからだ。


 僕たちの「衝動と焦燥のプレリュード」は、この瞬間、痛みを伴う別離という形で、静かに幕を閉じた。それは、僕たちが、いつか真の愛という名の「フーガ」を奏でるために必要な、最も辛く、そして最も誠実な、別れの練習曲だったのだ。


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### 第十一話:新しい生活、見えない距離


 四月の空気は、まだどこか冬の硬さを残していたが、僕、相沢夏輝が降り立った東京の駅のホームは、人々の吐き出す熱気でむせ返るようだった。ひっきりなしに行き交う電車の轟音と、無数の足音が奏でる不協和音。それは、僕が十八年間過ごしてきた、あの静かな地方都市の音とは、全く異質なエネルギーの奔流だった。高校時代の全てを、あの卒業式の日に、陽菜と共に葬り去った僕は、新しい人生を始めるためにこの街へ来たのだ。


 親友の健太も同じ大学の工学部に進学しており、僕たちはすぐに大学近くの安アパートで共同生活を始めた。健太は、僕たちの過去の過ちを一切蒸し返さなかった。「お前が決めたことなら、応援する」とだけ言って、彼は僕の新しい日常に、静かに寄り添ってくれた。彼のその変わらない誠実さが、見知らぬ土地での僕の唯一の心の支えだった。


 大学の入学式を終え、桜並木が続くキャンパスを歩く。サークルの勧誘に沸く先輩たちの声、新しい友人たちとの他愛のない会話。その全てが、新鮮で、無限の可能性に満ちているように感じられた。幼馴染という名の呪縛からも、歪なセックスがもたらした罪悪感からも、僕は物理的に、そして精神的に遠く離れたのだ。「今度こそ、普通の青春を送れる」。そんな淡い期待が、僕の胸を微かに満たしていた。


 しかし、その期待は、夜になると、たちまち幻のように消え去った。


 夜九時。健太は真面目な彼らしく、大学の図書館へ自習に行ってしまった。二人で借りた、六畳一間のアパート。がらんとした部屋で、僕は一人、コンビニで買ってきた弁当を広げた。窓の外では、都会の夜景が、無数の光の点で煌めいている。その光の一つ一つに、僕の知らない誰かの人生があるのだと思うと、途方もない孤独感が押し寄せてきた。


 静かすぎる。いつもなら、この時間には、陽菜が窓から侵入してくるはずだった。「ナツ、いるか?」という、あの少しハスキーな声。僕のベッドを我が物顔で占領し、僕のポテトチップスを勝手に開ける、あの傍若無人な姿。その全てが、ここにはない。都会の喧騒の中にいるはずなのに、僕の耳には、彼女の不在がもたらす、絶対的な静寂だけが、痛いほど響いていた。


 僕は、無意識に、部屋の窓に視線を向けた。そこに映っているのは、隣の建物の無機質な壁だけだ。物置の屋根もない。彼女がよじ登ってくるための、あの慣れ親しんだルートは、どこにも存在しない。僕たちの別れは、僕自身の孤独の輪郭を、より鮮明に描き出すための、残酷な儀式だったのかもしれない。


 一方、地元に残った篠宮陽菜もまた、新しい生活の入り口に立っていた。彼女が進学した地元の私立大学のキャンパスは、高校の時よりもずっと広く、そして自由な空気に満ちている。親友の木下美緒と同じ学部になったことは、彼女にとって数少ない救いの一つだった。


 学食の広いテーブルで、陽菜は美緒とランチを囲んでいた。


「ねえ、ハル!あのサークルの先輩、マジでカッコよくない!?なんかさ、大学に入って、速攻で運命的な出会いとかしちゃって、もう最高!」


 美緒は、ロマンチックな話題で興奮し、目を輝かせている。彼女にとって、大学生活は、新しい恋の物語の輝かしい第一ページなのだ。


「……そうだな」


 陽菜は、素っ気なく答えることしかできなかった。美緒が語る、純粋で健全な「恋」の話を聞きながら、陽菜の心には、夏輝との、あのインスタントな愛の残骸が、冷たく沈殿していた。僕たちの間で交わされたのは、「恋」などという綺麗なものではない。未来への焦燥と、相手への依存が生み出した、ただの過ちだった。


 美緒の恋愛話に、陽菜は心から楽しむことができない。それは、彼女の心が、まだ東京に行った夏輝の影を、必死で追い続けているからだ。


 (ナツは、今、どんな景色を見てるんだろ。……もう、オレのことなんか、忘れてるかな)


 その日の夕方。陽菜は、高校時代から通い慣れた、バイト先のカフェへと向かう途中、ふと、夏輝の家の前で足を止めた。二階にある、彼の部屋の窓を見上げる。そこには、いつも通り、固く閉ざされたままの窓があるだけだ。もう、あの部屋には、彼がいない。自分が、窓から侵入する理由も、勇気も、もうないのだ。


 その見慣れた景色の中に存在する、夏輝の不在という、決定的な変化。陽菜は、胸の奥で、鈍い痛みを感じた。それは、寂しさであり、そして、自立しなければならないという、夏輝との最後の約束がもたらす、重い緊張感でもあった。


「俺の隣に立てる女になってみせろ」。


 あの日の夏輝の言葉が、彼女の心を支える、唯一の道標だった。陽菜は、美緒のロマンチックな世界から意識的に距離を置き、キャリア志向の友人、絵里香から教わった資格の勉強を、本気で始めようと決意した。


 寂しさと、耐え難いほどの喪失感。だが、それは、過去の歪な関係の中で感じた虚無感とは、確かに違っていた。僕も、陽菜も、互いの不在の中で、「自分自身を見つめ直す」という、新しい人生の課題と、静かに向き合い始めていたのだ。僕たちの「葛藤と模索のインターリュード」は、互いの心に、決して消えることのない、見えない距離を感じながら、静かに、そして痛みを伴って、始まったのだった。


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### 第十二話:「普通」の恋愛


 東京での大学生活が半年を過ぎ、僕はようやく、この巨大な都市が持つ独特のペースに慣れ始めていた。健太と借りたアパートでの共同生活は、驚くほど平穏そのものだ。夜は穏やかで、陽菜が窓から飛び込んでくることもない。僕の日常から、あの予測不可能な嵐は完全に姿を消した。健太は、僕の大学生活が、彼が言うところの「普通」のレールに乗ったことに、心から安堵しているようだった。


 僕は、大学の映画研究サークルに籍を置いていた。とはいえ、熱心に活動しているわけではない。人間関係を構築するのが億劫で、いつの間にか幽霊部員と化していた僕を、唯一気にかけてくれる存在がいた。サークルの先輩である、沢田里美さんだ。文学部に所属する彼女は、長く艶やかな黒髪が印象的な、知的な静けさを湛えた女性だった。彼女と話していると、ささくれ立った僕の心が、穏やかに凪いでいくのを感じた。


 里美先輩は、僕が上映企画として提案した、古いヨーロッパ映画の難解なリストに、熱心に耳を傾けてくれた。他の部員が退屈だと切り捨てた僕の趣味を、彼女だけは、真摯に受け止めてくれたのだ。


「相沢君の選ぶ作品は、いつも静かで、人間の感情の奥深くを探るようなものが多いわね。そういうところが、私、すごく好きよ」


 部室の隅で、二人きりで古いフィルムを眺めながら、彼女はそう言って、優しく微笑んだ。その言葉には、僕を傷つける要素が、何一つ含まれていない。そこには、僕の言葉尻を捉え、感情的にぶつかってくる陽菜のような、激しい衝突の予感は微塵もなかった。僕は、里美先輩とのこの健全で穏やかな関係の中で、高校時代の陽菜との関係が、いかに歪で、異常なものだったかを、痛いほど痛感していた。


 その日の深夜、健太と二人で、インスタントラーメンを食べながら、僕は里美先輩のことを話した。


「里美先輩と話してると、すごく楽なんだ。なんというか、余計な労力がいらない」


 僕の率直な感想に、健太は、ラーメンを啜る手を止め、真面目な顔で僕を見た。


「それが、『普通』の恋愛ってもんだろう。お前とハルは、お互いの感情に、全部持っていかれ過ぎてたんだよ。嵐の中にいるみたいだった」


 健太は、僕の肩を軽く叩いた。彼のその言葉は、僕の背中を、新しい世界へと優しく押しているようだった。


「ナツ。お前、ずっと苦しんでたろ。今度こそ、ちゃんとした恋愛をしろよ。里美先輩は、すごく良い人だ。……もう、ハルのことを『待つ』なんて、現実から逃げるのはやめろ」


 僕は、健太の言葉に、強く頷きそうになった。そうだ、僕は逃げていたのかもしれない。陽菜との別れ際に、再会の約束のようなものをしたのは、僕が彼女を忘れられないという現実から、ただ目を背けるためだったのではないか。里美先輩との穏やかな関係は、僕が、あの罪悪感に満ちた過去から抜け出し、正常な世界に戻るための、唯一の救いの手のように思えた。


 一方、地元に残った陽菜もまた、新しい恋愛の可能性という、穏やかな波に直面していた。


 彼女がアルバイトをするカフェには、竹内猛という、少し年上の真面目な同僚がいた。彼は、陽菜の飾らない性格と、裏表のない言葉遣いを、いつも尊敬の眼差しで見つめていた。陽菜が仕事でミスをしても、彼は決して責めず、黙ってその後始末を手伝ってくれるような、誠実な青年だった。


「もしよかったら、今度、ちゃんとした食事に行きませんか。僕、篠宮さんと、もっと色々な話がしてみたいんです」


 彼の誘いは、高校時代に僕が陽菜に向けたような、衝動的で歪な欲望とは、全く異質のものだった。彼が求めているのは、身体ではなく、言葉と時間、そして心からのコミュニケーションだったのだ。


 その夜、陽菜は、親友の美緒に電話をかけた。美緒は、竹内さんの話を興奮気味に聞いた後、いつものようにロマンチックな言葉で、陽菜の背中を後押しした。


「キャー!ハル、それ、絶対に運命だよ!新しい恋が、一番の薬なんだから!ナツ君のことは、もう、辛い過去の話なんだって。竹内さんと、ちゃんとした、普通の恋をしなよ!」


 美緒の言葉は、陽菜の傷ついた心に、甘い毒のように響いた。頭では、美緒が正しいと理解している。竹内さんのような、誠実で、優しい人の元へ行くべきだ。それが、幸せになるための、最も正しい選択なのだと。


 しかし、陽菜の心は、激しく戸惑っていた。


 (オレに、そんな資格があるのか……?)


 夏輝との関係は、愛のないセックスから始まった。彼女は、愛を偽装した行為によって、自分の心を、そして身体を汚してしまったのではないかという、深い自己否定を抱えている。竹内さんの誠実で、真摯なアプローチが、かえって彼女の低くなった自己肯定感を、残酷なまでに浮き彫りにした。


「普通の恋」という、あまりにも眩しい光の前で、陽菜は自分の過去の闇の深さを思い知らされていた。自分には、そんな綺麗な場所に行く資格などないのではないか。夏輝への依存心と、彼に与えられた傷跡。そして、「愛が何か」を知らないまま、誰かと本当の意味で向き合えるのかという、拭い去ることのできない恐怖を感じていた。


 僕も、陽菜も、新しい恋への招待状を受け取った。それは、僕たちを、過去の罪悪感から救い出し、「普通」の世界へと戻すための、優しい選択肢だった。


 だが、僕たちの魂は、その最も深い場所で、その「普通」を拒絶していることに、まだ気づいていなかった。僕たちの間で交わされた歪んだ愛の残骸こそが、誰よりも強固な絆となって、互いの心に、根深く、そして、しつこく絡みついていることに、僕たちはまだ気づかない。僕たちの「エチュード」は、「普通の恋愛」という名の、最も難解な練習曲に、直面したのだった。


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### 第十三話:嫉妬という名の本音


 大学一年目の夏休み。僕は、東京という名の巨大な迷宮から一時的に解放され、鈍行列車の窓に流れる景色を眺めながら、故郷へと戻っていた。都会の喧騒と、里美先輩との穏やかで、しかしどこか物足りない関係。その全てを振り払うように、僕は帰省した。陽菜に会うためではない。ただ、僕が失ってしまった、あの夏のひとかけらを、もう一度探すために。


 地元に帰ると、健太や蓮が、僕を温かく迎えてくれた。僕たちは、高校時代と何も変わらない、馬鹿げた話で盛り上がった。その夜、僕たちは、町の小さな神社で開かれる、ささやかな夏祭りへと繰り出した。境内を埋め尽くす夜店の灯りと、綿菓子の甘い匂い。浴衣を着た人々が、楽しげに行き交っている。その喧騒の中で、僕は、里美先輩との健全な関係が、いかに自分を「普通」の人間にしてくれたかを、健太に熱心に語っていた。


 その瞬間だった。人混みの向こうから、聞き慣れたハスキーな声と、豪快な笑い声が、僕の耳を、そして心を、直接突き刺した。僕の心臓が、警告音のように激しく高鳴る。全身の血が、一瞬にして逆流するような感覚。そこにいたのは、紛れもなく、篠宮陽菜だった。


 彼女は、紺地に白い朝顔の模様が描かれた、涼しげな浴衣を着ていた。いつもは少年のように無造作なショートカットの髪は、丁寧に整えられ、白い花飾りが揺れている。うなじの白さが、提灯の赤い光に照らされて、妖艶に浮かび上がっていた。その姿は、僕の記憶の中にある、どの陽菜とも違う、見慣れない「女」の姿だった。僕は、息を呑んだ。


 そして、陽菜の隣には、一人の男が立っていた。優しそうな目元をした、少し背の高い青年。彼が、陽菜が以前、電話で話していた、バイト先の同僚の竹内猛だろう。彼は、陽菜の肩を、親しげに、そしてごく自然に抱き寄せ、楽しそうに笑っている。その仕草は、僕が今まで一度も陽菜に見せたことのない、恋人同士の、親密な空気に満ちていた。


 僕の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた音がした。「彼女は、俺のテリトリーだ」。そんな、猛烈な独占欲が、僕の理性を完全に焼き尽くした。僕と別れた後、彼女が、僕の知らない場所で、「普通の恋」を始め、幸せになっている。その当たり前の現実が、僕の心の最も醜い部分を、容赦なく抉り出したのだ。


 陽菜も、僕たちに気づいた。彼女の笑顔が、一瞬にして凍りつく。その視線は、僕の顔全体に、まるで無数の針のように突き刺さっている。陽菜は、竹内さんに何かを囁くと、怒りにも似た強い視線を僕に向けたまま、こちらへ向かって、カラン、コロンと下駄の音を鳴らしながら歩いてきた。


「よお、ナツ。……久しぶりだな」


 陽菜の言葉は、まるで鋭い棘を含んでいるようだった。その声には、再会の喜びなど、微塵も感じられない。


「ああ、久しぶりだ。地元、満喫してるみたいだな。……そっちこそ、バイトの奴と、随分と楽しそうじゃないか」


 僕の口から出たのも、挨拶ではなかった。それは、煮えたぎるような嫉妬と、皮肉を込めた、攻撃的な言葉だった。


 陽菜も、僕の理不尽な嫉妬の炎を、敏感に感じ取ったのだろう。彼女の目つきが、さらに鋭くなる。


「そっちこそ、東京で、さぞお楽しみのようだな。……サークルの先輩と、うまくいってんのかよ」


 陽菜の反撃は、僕の心の最も脆い部分を、正確に、そして深く貫いた。僕たちが、互いに新しい人間関係を築いているという事実が、今、僕たちの間に、修復不可能な亀裂を生み出そうとしている。


「俺が、誰とどうしようと、お前にはもう、関係ないだろ。俺たちは、別れたんだ」


 僕が吐き出すように言うと、陽菜は、僕の顔のすぐ近くまで詰め寄ってきた。彼女の吐息の熱と、夏の夜の匂いが、僕の理性をさらに揺さぶる。


「関係なく、ねえだろ。ナツは、オレのモノだ。オレが、一番最初に、手に入れたんだ」


 彼女の言葉には、「身体の繋がり」がもたらした、異常なまでの独占欲が、剥き出しになっていた。彼女もまた、僕が他の女と「普通の恋」をしているという事実が、許せなかったのだ。


 その時、陽菜の背後から、竹内さんが心配そうに顔を覗かせた。


「篠宮さん、大丈夫?知り合い?」


 その誠実そうで、何の罪もない顔を見た瞬間、僕の嫉妬は頂点に達した。僕の拳が、硬く、強く握りしめられる。それを見た健太が、僕の腕を強く掴み、「ナツ、やめろ」と、僕を制した。


 陽菜は、僕の爆発寸前の感情を読み取り、一瞬、満足したように、しかし、すぐに深い悲しみをその瞳に宿らせた。


 僕たちは、嫉妬という名の本音を、最悪の形でぶつけ合ってしまった。卒業式の日に交わした、未来への、あの誠実な約束は、互いの心の奥底に眠っていた、醜い執着の前では、あまりにも無力だった。


 陽菜は、竹内さんの腕を取り、「行こう」と促すと、一度も僕の方を振り返ることなく、その場を去っていった。僕は、人混みの中に消えていく、彼女の朝顔柄の浴衣の残像を、ただ、見つめ続けることしかできなかった。


 僕たちのエチュードは、まだ終わっていなかった。むしろ、この偶然の再会と、激しい嫉妬によって、最も困難で、最も情熱的な第二楽章へと、突入してしまったのだ。僕たちの心は、身体から始まったこの歪な関係を、本物の愛へと変えようと、今、必死で、もがき始めていた。


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### 第十四話:再燃、そして間違いの再確認


 夏祭りの夜が残した熱は、嫉妬という名の毒となって、僕たちの身体を内側から蝕んでいた。互いに「普通」の恋愛へと踏み出そうとしたはずなのに、偶然の再会は、僕たちの心の奥底に眠っていた醜い独占欲を、容赦なく炙り出してしまった。竹内さんという誠実な男性の隣で笑う陽菜の姿。里美先輩という優しい女性について、陽菜から詰問される自分。その光景は、僕たちの脳裏に焼き付き、卒業の日に交わしたはずの、あの誠実な別れの約束を、いとも簡単に無効化してしまったのだ。


 祭りの喧騒から離れ、僕と健太は、重い沈黙の中でアパートへの道を歩いていた。健太は、僕が陽菜にぶつけた棘のある言葉の全てを聞いていたはずだが、何も言わなかった。彼の沈黙は、どんな叱責よりも、僕の罪悪感を深く抉った。


 アパートの前に着くと、僕は、自分の部屋の窓が、微かに開いていることに気がついた。心臓が、警告音のように激しく高鳴る。あの窓は、僕たちの過ちの始まりの場所だ。そして、今夜、再び、過ちの舞台となろうとしている。


 健太は、僕の視線の先に気づくと、諦めと、心配の入り混じった、複雑な表情で僕を見た。


「……ナツ。今度こそ、ちゃんと、話を聞いてやれよ」


 健太は、それだけを言うと、僕の肩を一度だけ強く叩き、自分の部屋へと鍵を開けて入っていった。彼のその優しさが、僕に、これから犯そうとしている罪の重さを、改めて突きつけていた。


 僕は、重い足取りで自分の部屋のドアを開けた。陽菜は、僕のベッドの上に、体育座りでぽつんと座っていた。祭りの華やかさを演出していた浴衣は、無造作に脱ぎ捨てられ、いつものTシャツとスウェット姿に戻っている。その目元は、先ほどの喧嘩と、僕を待っていた時間の不安で、赤く腫れ上がっていた。


「……なんで、いるんだよ」


 僕がそう言うと、陽菜は、僕にまっすぐな視線を向けた。その瞳は、竹内さんの誠実な優しさと、僕の残酷なまでの本心を天秤にかけ、最終的に、僕という名の破滅を選んでしまったことを、雄弁に物語っていた。


「わかんねえよ、ナツ。オレだって、竹内さんとちゃんとした恋人になりたいって、頭では思ってた。でも、お前が、オレの知らない女と親しくしてるのが、どうしても許せなかったんだ」


 陽菜は、僕への依存と、独占欲を隠そうとしなかった。それは、彼女の最も弱く、そして、最も純粋な部分だった。


「お前だって、そうだろ。里美先輩とかいう女と、健全な恋愛なんか、本当はしたくないんだろ。オレが、竹内さんの隣で笑ってるのが、死ぬほど腹が立ったんだろ」


 彼女の指摘は、図星だった。嫉妬と、彼女を独り占めにしたいという幼稚な衝動が、僕の理性を完全に凌駕していた。僕たちの間にあるのは、愛ではなく、互いを失うことへの恐怖が生み出した、共依存という名の、醜い執着だ。


 僕たちは、言葉での理性的な対話を、またしても放棄した。身体が、言葉の代わりに、互いを求め合う。陽菜は、僕のシャツのボタンに手をかけ、まるで獲物に襲いかかる獣のように、荒々しく、そして貪るように、僕の唇を奪った。そのキスは、愛の確認などではない。嫉妬と執着が爆発した、欲望の火花だった。


 前回までとは違い、愛撫は激しく、焦燥に満ちていた。それは、互いの身体に刻まれた、他の誰かの影を、必死で消し去ろうとするかのような、暴力的な行為だった。僕の熱く硬くなった男性の中心は、陽菜の口内へと熱狂的に迎え入れられる。彼女は、高校時代のようにむせることもなく、僕の欲望を、まるで自分のもののように、巧みに刺激した。その技術は、僕の知らない誰かとの経験を、嫌でも想像させた。


 そして、僕の身体は、再び陽菜の熱い内部へと、突き刺さるように侵入した。行為は、互いの不安と虚無感を埋め合わせるための、暴力的で、衝動的な反復だった。陽菜の女性器の粘膜は、熱く、そして強烈な力で僕を締め付ける。そのたびに、僕の身体には、「俺はまだ、ハルの特別なんだ」という、歪んだ錯覚が、稲妻のように走った。


 僕たちは、互いの身体を、まるで傷つけ合うような激しさで求め合った。陽菜は、僕の背中に爪を立て、甲高い喘ぎ声をあげる。その声は、純粋な快感だけではない。「この行為が終われば、また私たちは離れてしまう」という、恐怖が混ざり合った、悲痛な叫びだった。


 二度の激しい絶頂の後、僕の熱い体液が、陽菜の子宮の入り口に、深く、そして大量に注ぎ込まれた。


 行為が終わった。激しい愛の残滓が残る部屋の空気は、重く、淀んでいた。僕が、陽菜の身体から離れると、彼女はすぐに、僕に背を向け、シーツに顔を埋めた。


 そして、陽菜は、静かに、しかし、激しく泣き始めた。それは、祭りの夜に僕が抱いてしまった、歪んだ期待の全てを、完全に打ち砕く、絶望の嗚咽だった。


「……これじゃ、ダメだ……」


 陽菜は、嗚咽を殺しながら、そう呟いた。その声は、僕の鼓膜を通り抜け、心臓を直接鷲掴みにした。


「うちら、結局、セフレじゃん」


 僕の全身が、冷たい水を浴びせられたように凍りついた。陽菜の口から吐き出された、「セフレ」という、あまりにも現実的で、僕たちの関係を正確に定義する言葉。友人である蓮が使った時とは、全く違う重みを持って、その言葉は僕に突き刺さった。


 僕は、抗う言葉を、何一つ持たなかった。僕たちは、身体の繋がりという、最も安易な手段に、二度も逃げ込み、そして、二度とも、それが愛ではないことを、互いに証明してしまったのだ。泣きじゃくる陽菜を前にして、僕は、今度こそ、この歪んだ関係から逃げずに、彼女の心と、そして自分自身の弱さと、向き合わなければならないと、固く、固く決意した。僕たちの魂は、セックスという行為だけでは、もう決して繋がれないことを、決定的に悟ったのだった。


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### 第十五話:友達のエチュード


 夏祭りの夜に再燃した僕たちの過ちは、陽菜の「うちら、結局セフレじゃん」という涙の告白によって、決定的な終焉を迎えた。あの言葉は、僕たちの関係の本質を白日の下に晒し、もう二度と後戻りはできないという冷たい事実を、僕の心に深く刻みつけた。僕たちは、身体の繋がりという最も安易な手段に逃げ込み、そして、それが愛ではないことを、互いに証明してしまったのだ。あの夜以降、僕たちの間に連絡はなかった。夏休みが終わり、僕は東京へ、陽菜は地元の大学へと、それぞれの日常に戻った。しかし、その日常は、以前とは全く違う、重たい意味を帯びていた。


 僕は、サークルの先輩である里美さんからの優しい誘いを、理由をつけて断るようになっていた。彼女の健全な優しさに触れるたびに、陽菜との歪んだ関係と、自分自身の醜い嫉妬心が思い出され、耐え難い自己嫌悪に苛まれたからだ。一方、陽菜も、バイト先の同僚である竹内さんの誠実なアプローチを、きっぱりと断ったと、人づてに聞いた。彼女もまた、僕と同じように、自分たちの過去を清算しようともがいているのかもしれない。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。


 秋が深まり、木々の葉が赤や黄色に色づき始めた頃、僕は二度目の帰省のために、夜行バスに揺られていた。窓の外を流れていく、見慣れない街の灯りを眺めながら、僕は、陽菜のいない日常を、この先もずっと続けていくのだろうかと、言いようのない虚無感に襲われていた。このまま疎遠になることが、本当に正しいことなのだろうか。卒業式の日に僕が下した決断は、ただの自己満足で、彼女をより深く傷つけただけではなかったのか。


 その夜、健太と二人で、アパートの近くの居酒屋で飲んでいる時だった。僕の携帯が、テーブルの上で短く震えた。画面に表示された名前に、僕の心臓が激しく高鳴る。「篠宮陽菜」。最後に言葉を交わしたのは、あの夏祭りの夜、僕の部屋で彼女が泣き崩れた時以来だった。


 僕は、震える指で、通話ボタンを押した。


「……もしもし」


「よお。久しぶりだな、ナツ」


 電話の向こうから聞こえてきた陽菜のハスキーな声は、少しだけ遠慮がちだったが、以前のような焦燥感や強がりは消え、どこか落ち着いた響きを持っていた。


「どうした、急に」


「……いや、そっちに帰ってきてるんだろ。話がある。……いつもの、窓から行ってもいいか?」


 その言葉に、僕の胸に、一瞬だけ期待にも似た熱が広がった。しかし、すぐに僕はそれを理性で押さえ込んだ。二度と、あの過ちを繰り返してはならない。僕には、今度こそ、彼女の心と向き合う覚悟が必要だった。


「窓はやめろ。ちゃんと、正面の玄関から来い」


 僕のきっぱりとした拒絶に、陽菜は一瞬、戸惑ったようだったが、やがて、小さな安堵のため息が、受話器の向こうから聞こえてきた。


「……そうか。わかった」


 数分後、玄関のチャイムが鳴った。健太は、僕を激励するような視線を送り、「俺は部屋に戻ってる」と、気を利かせて自室へと消えていった。


 僕は、ゆっくりとドアを開けた。そこに立っていた陽菜は、半年前と変わらない、Tシャツにジーンズ姿だった。しかし、その瞳には、以前の不安と依存ではなく、自らの足で立とうとする、静かで、そして強い決意が宿っているように見えた。


 リビングに通すと、陽菜は、ソファに座る僕から、意識的に物理的な距離を取って、向かい側の椅子に腰掛けた。その数メートルの距離が、今の僕たちの心の距離を、正確に示しているようだった。


「あのさ、ナツ」


「なんだ」


「オレたち、このまま疎遠になるのは、やっぱ、寂しすぎる」


 陽菜は、本心を隠さなかった。彼女の正直な弱さに、僕は胸を打たれた。


「でも、あの時の最悪なセックスを、繰り返すのはもう嫌だ。オレ、もう、あんな虚しい行為で、ナツを繋ぎ止めようとしたくないんだ」


 彼女は、僕との関係を、愛なきセックスによって汚してしまったことに、深い傷を負っていた。そして、それは僕も同じだった。


 だから、僕は、この帰省の間、ずっと考えていたことを、彼女に告げた。それは、僕が、僕自身の弱さと向き合った末に見つけ出した、唯一の答えだった。


「セフレじゃなく、本当の友達に戻ろう」


 その提案は、僕が心の奥底で、ずっと願っていたことだった。セックスを抜きにした、純粋な、互いの人間性への繋がり。僕たちの原点である、あの性別のない、唯一無二のパートナーへ。


 陽菜は、僕の言葉に、驚いたように目を見開いた。そして、その瞳に、ゆっくりと涙が滲んでいく。それは、悲しみの涙ではなかった。僕が、彼女を、身体だけの存在としてではなく、一人の人間として、再び向き合おうとしていることへの、安堵の涙だった。


「……うん。友達に、戻ろう」


 陽菜の同意に、僕の心も、ようやく、重い枷から解き放たれたような気がした。


 そこから、僕たちのぎこちない「友達のエチュード」が始まった。帰省のたびに、僕たちは会う。場所は、ラブホテルでも、僕の部屋のベッドでもない。地元の駅前にある、ありふれたカフェや、高校時代に通った、静かな図書館だった。


 陽菜は、僕に、キャリア志向の友人、絵里香の影響で、栄養士の資格を取るための勉強を始めたことを、少し照れくさそうに話してくれた。スポーツ科学部にいながら、卒業後のキャリアを真剣に見据えているのだという。


「絵里香がさ、『男に依存する前に、まず自分の足で立ちなよ』って言ってくれて。ナツに、卒業式の日に『一人の強い女になってくれ』って言われた意味が、少しだけ、わかった気がするんだ」


 彼女の言葉に、僕は驚きを隠せなかった。陽菜は、僕のいない間に、精神的な自立という、最も困難な課題に、前向きに取り組んでいた。その横顔は、僕が知っているどの彼女よりも、強く、そして美しく見えた。


 僕も、東京での生活を、正直に話した。健太の影響で、週末に地域の児童養護施設で、学習支援のボランティア活動に参加し始めたこと。サークルの人間関係には馴染めないが、一人で本を読むことで、自分の内面と向き合う時間が増えたこと。


「ナツが、ボランティアなんて。昔のナツなら、絶対やらなかったのに」


 陽菜は、心から驚いたように、そう言った。そして、少しだけ、僕を尊敬するような目で、僕を見つめた。


「友達」という関係は、僕たちに、互いを「尊敬する」という、愛の最も重要な構成要素を、ゆっくりと、しかし、確実に教えてくれた。僕たちは、最も遠回りな、しかし、最も健全な道筋で、真の愛へと、その第一歩を、踏み出し始めていた。僕たちのエチュードは、まだ始まったばかりだった。


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### 第十六話:見えてきた本当の姿


 秋から冬へと季節が移ろう中で、僕たち二人の「友達のエチュード」は、静かに、そして着実に、その旋律を深めていった。東京と地元を隔てる物理的な距離は、数百キロ。しかし、僕たちの心は、高校時代、一つのベッドの上で虚しい行為を繰り返していた時よりも、ずっと近くにあった。身体の繋がりという安易な近道を捨てた僕たちは、言葉という、最も遠回りで、最も誠実な道を、一歩一歩、確かめるように歩んでいたのだ。


 東京での大学生活も二年目に突入した頃、僕は所属していた映画研究サークルで、深刻なトラブルに見舞われた。きっかけは、僕が次の制作課題として提出した、一本の企画書だった。それは、僕が敬愛するヨーロッパの監督に影響を受けた、台詞を極限まで削ぎ落とし、映像と音だけで人間の孤独と再生を描くという、極めて個人的で、内省的な作品だった。しかし、サークルの実権を握る上級生たちは、僕の企画を一瞥するなり、鼻で笑った。


「相沢さあ、こういうの、誰も見たくないんだよ。もっと分かりやすくて、ウケるやつ、撮ろうぜ」


 彼らが対案として出してきたのは、流行りのJポップをBGMにした、ありきたりな恋愛ドラマだった。僕は、自分の情熱と、作品に込めた哲学を、丁寧に説明しようとした。だが、彼らの耳には届かない。多数決の結果、僕の企画は、議論の対象にすらならず、無残にも否決された。僕の情熱は、集団の論理の前で、あまりにも無力だった。その日の夜、僕は、自分の表現欲そのものを否定されたような、深い屈辱と孤独感に苛まれていた。


 健太は、僕の落ち込みを見て、「まあ、サークルなんてそんなもんだろ」と、彼なりに励ましてくれた。工学部の彼にとって、僕の悩みは、理解の範疇を超えた、感傷的なものに映ったのかもしれない。里美先輩も、僕の様子を察して、「元気出してね」と優しく声をかけてくれた。彼女の優しさは、傷つけることのない、透明な水のようだった。だが、その優しさは、僕が本当に求めている、問題の核心に触れてくれる、熱を帯びた言葉ではなかった。


 その夜、僕は誰にも連絡せず、一人アパートの部屋で、膝を抱えていた。ふと、携帯に目をやると、陽菜からのメッセージが届いていた。内容は、僕が以前、電話で熱く語った、企画の元ネタになった映画についての、何気ない質問だった。僕の情熱を、彼女は覚えていてくれたのだ。


 僕は、衝動的に、陽菜に電話をかけた。


「……ナツ?どうした、こんな時間に」


 電話口から聞こえてくる陽菜のハスキーな声は、僕の心を、一瞬で故郷の、あの狭い六畳間へと引き戻した。僕は、堰を切ったように、サークルでの屈辱と、自分の無力さを、感情のままに陽菜にぶつけた。理路整然と話すことなどできない。それは、ただの、子供じみた愚痴の垂れ流しだった。


 陽菜は、僕の支離滅裂な話を、一切遮ることなく、ただひたすら聞き続けた。彼女は、僕の感情的な爆発を、決して否定しない。


「そうか。ナツは、そこまで真剣に考えてたんだな」


 僕が全て話し終えると、彼女は、静かにそう言った。彼女の声のトーンは、単なる優しさだけではない。僕の痛みを、まるで自分のことのように受け止める、強い共感に満ちていた。


「オレには、文学のことも、映画の小難しいことも、全然わかんねえ。でもな、ナツ」


 陽菜は、言葉を選びながら、続けた。


「ナツの言ってた、あの企画、すごく面白そうだって思った。誰かに否定されたからって、ナツ自身が否定されたわけじゃねえだろ。ナツの考えは、ちゃんと人に響く力がある。オレが、今、ここにこうしているのが、その何よりの証拠だろ」


 彼女の言葉は、僕の人間性そのものを、揺るぎない力で肯定していた。里美先輩の優しさが、傷口の表面を撫でる、冷たいガーゼだったとすれば、陽菜の言葉は、僕の魂の最も深い部分にまで届き、そこから再生を促す、熱を帯びた、確かな光だった。


 僕たちは、その夜、夜通し話した。話題は、サークルのトラブルから、陽菜が最近合格した、栄養士の資格試験の話へと移っていく。彼女の口調には、以前のような依存的な焦燥は一切なく、自分の力で未来を切り開こうとする、自信が満ち溢れていた。


 数週間後。今度は、陽菜が落ち込む番だった。資格試験に合格し、自信をつけて臨んだカフェのアルバイトで、大きなミスを犯してしまったのだという。常連客の注文を取り違え、アレルギーに関する重大なクレームにまで発展してしまったらしい。店長からは厳しく叱責され、彼女はすっかり自信を失っていた。


「ナツ……オレ、やっぱダメだ。才能ねえよ。何をしても、空回りばっかりだ」


 電話口から聞こえる彼女の声は、かつての自己否定に苛まれていた、高校時代の彼女を彷彿とさせた。僕は、この時、僕にできることが、あの頃とは違うことを、はっきりと自覚していた。


 僕は、彼女の感情論に付き合わない。冷静に、そして論理的に、アドバイスを始めた。ミスの原因分析、再発防止策の提案、そして、店長とお客様への、誠実な謝罪の方法。


「ハル。お前がミスを犯したのは、才能がないからじゃない。焦りすぎただけだ。お前は、昔からいつもそうだ。でもな、焦るのは、お前が誰よりも真剣だからだ」


 僕の言葉は、彼女の短絡的な行動を客観的に指摘しながらも、その根底にある情熱を、決して否定しなかった。


「失敗から逃げるなよ。竹内さんのような誠実な男の誘いを断ってまで、自分で選んだ道だろ。お前が、誰よりも努力していることを、俺は知ってる。だから、お前は絶対に、立ち直れる」


 僕の言葉に、陽菜は、電話口で、涙をこらえるような、長い、深い息を吐いた。


「……ナツ。ありがとう。ナツは、本当に、優しいな」


 その夜、電話を切った後。僕は、ベッドの上で、言葉にできない、温かい感情に包まれていた。


 陽菜は、僕の最高の理解者であり、僕の人間的成長を、誰よりも力強く促進してくれる存在だった。僕もまた、彼女の精神的な自立を、最も近くで支え、彼女の強さと弱さの全てを受け入れている。


 それは、身体の快感とも、焦燥からの依存とも、全く違う感情だった。互いの魂を、心から尊敬し、そして、愛おしいと感じているという、揺るぎない確信だった。


 (僕は、ハルが恋人でもセフレでもない、ただの友達だなんて、もう思えない)


 僕たちの関係は、「友情」という名の、あまりにも安全なシェルターを、完全に超えていた。僕たちは、互いが、かけがえのない、唯一無二のパートナーであることに、気づき始めていたのだ。そして、この感情が「愛」であると自覚した瞬間、僕たちの長く、遠回りだった「エチュード」は、いよいよ、そのクライマックスへと、向かい始めていた。


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