08 儀式 1
紅星五年 見月月 十一夜
単に冷たいだけではない、何か肌を粟立たせるようなヒヤリとした空気。聞こえるというよりは感じられる、かすかな、かすかな水の囁き。
高い丸天井から垂れ下がる大小無数の鍾乳石は滲み出す地下水に濡れ、常に絶やされる事なく捧げられる贄 ―― 魔法の囲いの中でゆっくりと絞り取られてゆく獣の生気 ―― を糧に、宙に輝く明かりを受けてきらめいている。
混沌の祭殿。
ヴェインの最下層、混沌の王子ミトラが創始者との戦いの後にも保ち得た魔力を使って造りあげたと言われる、五千人は収容できる巨大な空間。
その一角に設けられた石造りの祭壇の前でライガはただ一人、目を閉じ、ひろげた両手を掲げて立っていた。
ゆったりとした白い寛衣に鬱金の帯を締め、まくれた袖やはだけた長い裾の間からピッタリとした黒絹の上下と黒革の半長靴がのぞいている。髪は肩胛骨のあたりまで伸び、額には祭司長の証である細い銀の輪をはめていた。
本来、彼の半身に語りかけるのにそのような儀式めいた事は必要ない。しかし幾度か試みて成果をあげられない彼にいらだつシャイアの手前、というものもある。
いつもの飾り気のない灰色のドレスを着て、数ある出入り口のひとつから現れたフェヴェーラはライガの姿を目にしてスラリとした長身に見惚れるように動きを止めた。
その、ほんのわずかな気配を察したのだろう。
「何かあったのか?」
手をおろし、振り返りながらライガが問う。低く囁くような話し方だが正確無比な発音と力強い発声によって、離れていてさえ耳元から響いてくるように聞こえる。
「お邪魔をしてしまいましたでしょうか?」
「いや……」
ライガは数段高くなったその場所から降り、フェヴェーラのかたわらへ歩み寄った。
「そろそろ切りあげようとしていたところだ。シャイア様はお怒りになられるかもしれないが」
「では、収穫はなかったのですね」
「ああ」
言って、ややうつむき加減に顔をそらし、黙り込んでしまう。
フェヴェーラはライガの正面に回り、その眼を見あげると努めて明るく言った。
「まだ始めたばかりですもの。仕方がありませんわ。
でもウェイデル様、どんな方なのでしょう?
双子であられるといっても、髪の長さやお召し物の好みは違うでしょうし、ライガ様はこのように色白でいらっしゃるけど、日焼けして真っ黒になってらっしゃるかも……いえ、お髭をはやしていらっしゃるかもしれませんわね?」
「フェル、僕は……」
ライガはフェヴェーラの肩に両手を置き、しばらくじっと佇んでいたが、肩から手をおろして顔をあげた。
「何か用があったんじゃないのか?」
ライガの気分が変わった事を感じたフェヴェーラは侍女の役目にふさわしい態度で告げる。
「ザイン様がご相談したい事があるので、私室の方までお越し願えないかと」
「わかった」
「私もごいっしょに……」
「いや。少し一人で歩きたい」
「では、お部屋でお待ちしています」
今ライガが履いている物もそうだが、ヴェインの民は岩窟内では底の柔らかい靴を好んで履き、ほとんど足音が響かない。
所々自然の洞窟を利用したり、硬すぎたり湧水が多すぎたりした部分を避けて造られた為に起伏があり、複雑に曲がりくねって見通しのきかない薄暗い廊下をたった独りでたどっていると、自分が幽鬼かなにかになって永遠にさまよっているような錯覚に囚われる事がある。
バラドがシャイアに指摘した通り、近親婚を繰り返してきた為に流産や死産、奇形児の発生率が高く、じわじわと民人の数が減り、人口の十倍もの空き部屋を抱えて誰かとすれ違う事があまりないせいもあるだろう。
過夜には濃い<混沌の血>と世界全体に満ちた<魔法の気>とでもいうようなものでそのような事が防がれていたようだが、<なぜかここ数百年、魔法の気が薄れ続け、彼らの遺伝形質そのものにも変化がみられるようだ>というのが、古文書を調べ、過去視の魔術を駆使して達し得たバラドの見解である。
そして、このなかば死した地下都市の逍遙は心の底に眠る幻影を呼び覚ます。
つい先夜、シャイアにすべてを思い出せと命令され、ヴェインの祭司達によって封印を解かれるまでは、ヴェインに来る前のライガの記憶はかなりの部分が欠け落ちたうえ、まるで他人のそれのように実感を伴わない無感動なものだった。
思い出せる事共でさえ遠い昔に描かれた絵巻物を見るようで、当然それに付随するはずの感情というものがなかったのだ。その時感じたはずの苦痛、怒り、悲しみ、喜び、嘆き……。
なぜ?
今ならわかる。障壁の消えた今なら。感情を封印したのは、彼の今にも砕けそうだった心を護る為。そして、記憶は……。
彼は護ろうとしたのだ。ウェイデル、もう一人の自分を。
冷たい、声なき声で誰かが囁いた。
『だが、それは間違いだった』と。
そうだ、間違いだ。とライガの心が頷く。シャイア様に隠し事をするなんて。
だから、そう、間違いは正さなければならない。彼がそうであるようにウェイデルもヴェインの大儀に身を捧げなければならない。ウェイデルは彼なのだから。
ヴェインの民は着の身着のままラドウィックの村を飛び出し、西域をさすらって身も心もボロボロになった彼を迎え入れ、住処と安息を与えてくれた。魔力を制御する方法を教え、祭司長という地位さえ与えてくれた。
そして、フェヴェーラ。
彼の喜び、彼の安らぎであるフェヴェーラを与えてくれたのだ。その彼らに隠し事をしていた自分はなんと愚かだったんだろう。
一刻も早くウェイデルを見つけ、ヴェインに連れて来なければ。きっと、ウェイデルも喜んでくれる。
『違う!』
どこかから遠い声が響く。
ウェイデルに自分と同じ過ちを犯させてはいけない。苦痛を消し去る為に心を売るような行為をさせてはいけない。
あの時、あの少年の夜、彼は苦しんでいた。半分にちぎれてしまった心で受け止めるにはあまりにも大きな苦悩に。だから……だから彼は……。
受け入れてしまった。
痛みを感じない心を手に入れるのと引き替えに、自身の判断を放棄する事を。自分の自由を売り渡す契約に署名してしまったのだ。
それは、あのおぞましい儀式と共に彼の心に深く刻まれ……。
この作品の舞台となる世界では昼ではなく夜を数え、日没をもって一夜[日]の始まりとします。
我々の世界で言う前夜はその夜[日]にあたり、その日の夜はもう翌夜と、夜付[日付]の区切り方が違います。王国の人々が昼間<昨夜>という時は我々の一昨夜。
作中の今夜とか、明夜といった妙な表記はその為です。
作中の日付は気にしなくていいです。でてきたら「日付が前か後ろのどっちかに飛んだんだな」と思ってくださるくらいで。
作中の暦や度量衡に興味を持ってくださった方は「ウェリアと呼ばれる世界」というタイトルの短編扱いで投稿していますので、そちらをご覧ください。
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