06 混沌の民 1
緑刃七年 星火月七夜
お気に入りの青磁の茶器が粉々に砕け散った。彼女の夫が遠い街で買ってきてくれた物だ。
食卓が、椅子が、家全体が揺れ、扉が激しく開閉する。
アリエルは絶叫し、美しい黒髪をかき乱した。
もうこれで何度目だろう。彼女は悪霊に取り憑かれたのだ。この悪魔は彼女の身体に入り込んで、彼女の生気を吸い、すべての皿を砕き、家具を壊し、やさしい夫ジョルディに怪我を負わせた。
アリエルの眼前で重い寝台が宙に浮き、勢いよく落下する。
雷が落ちたような轟音!
そして、いきなりそれは終わった。もう食卓は踊らないし、床も震えてはいない。窓からは明るい陽が差し込み、裏手に流れる小川のせせらぎも聞こえる。
いつもこうなのだ。いつも。
それは前触れもなく始まってだしぬけに終わる。
初めはほんの数瞬で終わり、それもちょっとした地震程度のものだった。一度起こると次の騒ぎまでの間も随分あった。
それが、今はどうだ。この間などはとうとう飛んでいった椅子がジョルディの肩の骨を砕き、アリエルは彼を残してキャウィックの生家へ帰ってこなければならなくなった。
この悪魔は着実に力を強めてきている。今のうちになんとかしなければ、いつか彼女自身も悪魔に殺されてしまうだろう。彼女の胎内に宿ったこの悪魔達に。
「そう、今……。今やらなければ……」
アリエルはふらふらと台所へ進んだ。
今、家の中には彼女の他には誰もいない。両親はアリエルを迎え入れるとすぐに悪魔を退治してもらう為に魔法使いを呼んでくると言って隣村に出かけてしまった。
だが、そんなのは言い訳に決まっている。両親でさえ、彼女を育て、いつくしんでくれた両親でさえアリエルを疎んじているのだ。
以前は美しかった彼女のお腹は西瓜のようにふくらみ、耳をつければふたつの心臓の音がはっきりと聞こえる。この中に彼女の家を、家庭を、評判を、何もかもを傷つけ破壊した悪魔達がいるのだ。
台所にたどり着いたアリエルは包丁を取り出し、柄をつかむ。
「きゃあっっ!」
手が震え、取り落とした包丁が床に突き立った。
「あ、あ、あ……」
床に膝をつき、今度はしっかりと逆手にそれをつかむ。
「そう、これで……これで、おしまい……」
絶叫 ――
紅星五年 月見月 十夜
「ライガ様っ、ライガ様? どうかなさいましたか、ライガ様?」
瑠璃色の瞳。吸い込まれてしまいそうな。天井にはられた光ゴケのほのかな明かりにまたたくそれは不安そうに彼の顔をのぞき込んでいる。
「フェル……」
ヴェインの祭司長たる自身を取り戻したライガは左手を伸ばしてフェヴェーラの額にかかったまっすぐな金色の髪をかきあげた。
《 混沌の祭殿 》 の巫女であり、彼の侍女でもあるフェヴェーラはほっそりとした指で彼の面長で彫りの深い顔をなぞり、そのまま裸の胸へと滑らせる。
「覚えているはずのない……夢をみた」
煙るような黒い瞳。一体何を見つめているのか。
「……? お忘れください。悲鳴をあげなければならないような夢なんて」
「あれは僕の悲鳴じゃない……。アリエルという、女の悲鳴だ」
「女……?」
「強い力を持った子供が腹に宿り、その未熟な能力の表出に耐えきれず、自分の腹に包丁を突き立てようとした哀れな女……」
「もしやそれは……」
「だが結局は子供達の防衛本能に包丁をそらされて己の心臓に刃を突き刺した愚かな女……」
「あなたの、おかあ様ね?」
「そうだ。彼女は死に、僕達は駆けつけた治療師によって胎内から取り出され、生きのびた」
「僕達? そういえばさっきも子供達と……」
「僕には双子の兄弟がいる。ウェイデル。 心と力を分け合った僕の半身」
ライガは自分が軽い呪縛の糸にからめとられている事に気づく。細く、かよわい。
破り捨てるのは造作もないが、フェヴェーラの紡ぎ出すそれはやさしく、心地良い。
「ウェイデル。それがあなたの半身の名前? その方は今どこに?」
「わからない。ヴェインの民に捕らわれ、大いなる力に屈服した時、僕はウェイデルとの接触を断った」
「なぜ?」
「どうしてだろうな。だが、それが正しい事だと思えた。残った力のすべてを使ってウェイデルへ繋がった通路をふさぐのが……」
「そう、それだったのですね。シャイア様のおっしゃっていた現れざる力というのは……」
しかし、再び眠りに落ちていたライガは彼女の言葉を聞いてはいなかった。
「ぐっすりおやすみください、ライガ様」
フェヴェーラはそっとライガにくちづけると寝台を抜けだし、身支度を整えた。
ヴェイン。
数百年もかけて西域奥地の岩山を穿ち造られた多層構造の地下迷宮、いや、地下都市である。照明には蝋燭や洋燈を用いるだけでなく、天井には光ゴケがはられ、更に無数の小窓と鏡張りの筒、太古から息づく魔法を使って外の光を取り入れている。
壁のほとんどは飾り気のない岩肌のままであるが、要所要所に手の込んだ彫刻が施され、または街路標識とでも呼ぶような文字や記号が刻まれて、そこに暮らす民人が迷うことはない。
フェヴェーラはぼんやりとしたコケの光とわずかばかりの月光とに照らされた、鱗と背ビレを持つ山猫のような獣の奇怪な彫像 ―― その力を知る者はその名を口にする事さえはばかる ―― 真の混沌に住まう魔獣に護られた扉を叩く。
意外にも誰何する声はこの部屋の女主のものでなく、祭祀の場で詠唱を先導する事の多い、良く通る太い声だった。
「フェヴェーラでございます。シャイア様にお目通りを願いたいのですが」
「お入り」
扉が開き、四囲の壁を様々な織りと彩りの布で覆われた室内に足を踏み入れる。
「久しいな、フェヴェーラ。息災であったか?」
問うたのは壮年の男。頭を剃りあげた血色の良い丸い顔、愛想良く微笑む厚ぼったいまぶたの下には抜け目なく光る瑠璃色の眼。白い寛衣、赤い袈裟。腰には房飾りの付いた紐を締め、小太りではあるが、たるんではいず、脂肪の下にたくましい筋肉が隠されている。
「はい、おかげさまで息災でございます。お父様……」
軽く腰を折って答えたフェヴェーラは顔をあげながら男の隣の青年に視線を移す。
不穏な光を宿す青い瞳。左手でベルトに提げた長めの短剣の柄を所在なげにいじっているその青年はライガより七つ年上。長く伸ばした鳶色の髪を項で束ね、猟師のような茶色い革のヴェストとズボン、半長靴を身に着けている。
「お兄様もお元気そうで何よりです」
「総領様の前だからといって、そう堅苦しくする事はない。そうですよね、ひいおばあ様?」
青年は首を曲げ、部屋の一段高くなった側で黒檀の椅子に座す老婆を見やった。
白い寛衣を着てフードの付いた黒いマントを羽織り、右脇に金属の魔物に支えられた水晶球と燭台、薬酒の杯が載った小卓を置いている。
「おまえはいま少し作法をわきまえた方がよかろうがな、レヴァイン」
ヴェインの民の束ねである老女は送ってきた歳月の重みに屈する事なく、いまだあきらかな力を感じさせる声で言った。
「こいつは手厳しい」
レヴァインはたじろぐ事なく、むしろ不遜ともとれる態度でまっすぐにシャイアの眼を見つめ返す。
「しかし、私は愛する妹にはもう少し親しみのこもったあいさつをして欲しいのですよ。たとえ腹違いでも。
彼女がその主人……だか、虜囚だかにするようにね」
フェヴェーラの表情が凍りつく。
「レヴァイン」
バラドが静かだが断固とした口調で息子を叱責した。
「これは失礼。では、御免こうむって不作法者は退散すると致しましょう」
レヴァインはにやりと笑って肩をすくめると、道化のような礼をしてフェヴェーラの脇をすり抜け、部屋を辞した。
「どうもあれは悪ふざけが過ぎていけませんな」
バラドの口調はその科白や首を振る仕草ほどには困っているように響かない。
「なに、生まれの卑しさは隠せぬものよ」
シャイアはその言葉に含まれるトゲを隠そうともしなかった。
「レヴァインとて、あなたの血を引いておる事にかわりはないのですぞ」
「そのような、おぞましい事。代々ミトラ様の血を守り抜いてきた我らの純血をなんと心得るか」
「その為に我らはひどく数が少なくなってしまった。そろそろ外の血をいれるべき時なのです」
「なにを言うか。もうよい。その話を聞くと胸が悪うなる。さがれ」
「私はあなたの望み通り、従姉と、そして姉との間にすら純血の娘をもうけました。その為に姉上は……」
わずかに語尾が震え、言葉が途切れる。
「これ以上私に何を望まれるのです!」
シャイアは床に視線を落とし、見えない物を押しやるように右手を振った。
「もうよいと言うに。さがれ。ぬしの顔など見ていとうないわ」
「おっしゃる通りにいたしましょう。では、またのちほど」
バラドは一礼して退室した。
シャイアは軽く嘆息するといまだ扉の傍にたたずんでいたフェヴェーラを手招いた。
「そのような表情をするでない。こちらへおいで、フェヴェーラ」
作中の日付は気にしなくていいです。でてきたら「日付が前か後ろのどっちかに飛んだんだな」と思ってくださるくらいで。
作中の暦や度量衡に興味を持ってくださった方は「ウェリアと呼ばれる世界」というタイトルの短編扱いで投稿していますので、そちらをご覧ください。
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今日は夜まで頑張ってたくさん更新します。