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37  暗示(わな) 3

 いつの間にか頬を()らしていた涙が乾いていた。

 どこをどう歩いてきたものか。自室近くのほの暗い廊下でレイリアは突然物陰から突き出した手に右手首をつかまれた。声をあげる間もなく引き寄せられ、背中が暴漢の胸にぶつかる。(あか)じみた掌で口をふさがれ、放棄された小部屋に連れ込まれた。

「静かに! 俺だ。レヴァインだ、レイリア」

 耳元で(ささや)かれた思いもかけない人物の声にレイリアの呼吸(いき)が止まった。もがくのをやめた彼女の口と手首から手が外されると、ヘタリと床に沈み込む。

「レイリア……? どうした、大丈夫か?」

 片膝をついたレヴァインがレイリアの肩に手をかけて顔を(のぞ)き込んだが、手入れの悪い採光管から差し込むかすかな月明かりと枯れかけたコケの光だけではうつむいた彼女の表情を(うかが)うのは困難だった。

 その時、彼女の髪に何かが付着しているのに気づく。いつもはサラサラと指の間をすり抜ける金髪がねっとりした物でかたまりかけていた。

 慌てて彼女の身体をまさぐってみたが怪我をしている様子はない。

「レイリア、おい、この血……」

 レヴァインは彼女の両腕をつかんだ。

 何度も揺さぶられてやっと、黙ってされるままになっていた彼女がうめくように声をもらす。ようやくレイリアの瞳がレヴァインへと向けられ、そこに見いだしたものを拒否するようにまばたいた。

「どうして……」

 おずおずとのばされた右手がその存在を確かめようとするように無精髭(ぶしょうひげ)におおわれた頬に触れる。

「おまえのおかげでライガの片割れの連れと近づきになってな。そのせいで考えが変わった」

(私の……。やっぱり私がライガ様にあなたの居場所を見つける方法を教えたのに気づいていたのね)

 右手が落ちる。握るでなく、開くでなく、ただ落ちていった膝の上にそのまま置かれている。

「それで、私に仕返しにきたの?」

「そうだ、と言ったら?」

 返事はなかった。

 ふうっと息を吐いたレヴァインは手近な壁に背中を預けると、尻が床に着くまでズルズル滑り落ちた。

 中途半端に明かりがあるせいでかえって薄気味悪く見える荒れた室内を、見るともなく眺める。

 部屋といっしょに放置された家具が奇妙な角度で積みあげられて不気味な黒い影となり、新旧入り混じった蜘蛛の巣が薄闇の中にぼんやりと浮かびあがっている。床に着いた両手に厚く積もった(ほこり)が感じられ、()えたような(よど)んだ空気が肺に重苦しさを送り込んだ。

(これがヴェインという場所だ)

 その場所に巣くった亡霊の仕業ででもあるものか、不浄の子と(うと)まれ、(さげす)まれてきた夜々がレヴァインの眼前にちらついた。


 細い声でヴェインのものではない子守歌を歌う女性。

 捕らえられてきた時の恐怖とヴェインのつらい暮らしのせいで少しおかしくなっていた彼女が、どうしても思い出せぬらしい一節の前の節を繰り返し、繰り返し、繰り返し……。

 焦点の定まらぬ瞳からこぼれ落ちた涙が、寝台の上の彼の頬を濡らした。

 それが物心つく前に亡くなった母の、唯一の思い出であるのに気づいて、彼女を犯した父と近隣の村落から生贄をさらい続けるヴェインの民達とへの憎しみを強くした少年の夜。

 その生まれと才能ゆえに総領のお気に入りとして皆からちやほやされていたフェヴェーラ。

 彼にとって雲の上の住人に等しかった腹違いの妹が、年嵩(としかさ)の少年達に訳もなく(ののし)られ、暴行を加えられていた彼を見みとがめた。まだ幼かった彼女が彼に向かって投げかけた憐れみに満ちた眼差しに、自分がひどくつまらない存在であると思い知らされた、あの瞬間!

 彼女が半ば公然と行われていた不愉快な遊びを(おおやけ)にして加害者達を罰させ、吐き気がする程の屈辱感に(とら)われたあの夜。


(くだらない……)

 レヴァインはぎゅっと目を閉じて過去の幻影を追い払った。

 今の彼はあの無力な少年ではない。

 総領の家系の者として相応(ふさわ)しいだけの魔法の才に恵まれていない事に気づいてうちひしがれながらも、忙しい父の他に教えを()う相手さえないまま文献を読みあさり、がむしゃらに様々な武術の修練に励んだのは何の為だったのか?

 現実に立ち返ったレヴァインはさっきと同じ姿勢のまま虚空を見つめているレイリアに向かってきっぱりと言い放つ。

「仕返しの相手はおまえじゃない」

 わずかにレイリアの顔が彼の方に傾けられた。

「おまえが俺を売った訳じゃないのはわかっている。むしろフェヴェーラを連れて行った俺の方がおまえを裏切ったとも言えるしな。

 俺が帰ってきたのは……ただヴェインの行く末を見届けたくなった、とでも言うかな。

 シェヴィンとかいうウェイデルの連れ……ザインが大祭の贄に選んだセグラーナの巫女の兄貴だそうだが、そいつのおかげでライガの前にウェイデルが現れ、奴が変わり始めたのを知った。表だってではないにしても、シャイアやザインに逆らう程に。

 フェヴェーラの件でこっそり手を打とうとしたのを見るとおまえも変わったようだ。

 そしてライガと同じ魔力(ちから)を持つと言われている片割れが半身を取り戻そうとして、妹を助けようと必死になっている男といっしょにヴェインを目指している。

 どう転ぶかはわからないが何かヴェインをくつがえすような事が起こるのは確実だ。だから一度は逃げ出した俺も一役買ってやりたくなったのさ」

「レヴ……」

 聞こえるか聞こえないかのかすかな囁きがもれる。

「馬鹿ね」

「わかってるさ。俺が大馬鹿者だってのは。

 だが死ぬ程それを嫌っているにも関わらず、俺はヴェインの人間なんだ。ここで生まれ、ここで育った。

 ヴェインを離れて、わかった。逃げ出すだけじゃダメだ。俺の中からそのすべてを消し去らない限り、どこへ行ってもヴェインの影がついてまわる。

 だから俺は食う物も食わず、寝る暇さえ惜しんで引き返してきた。

 誰かが召還術でも使っていたのか、ヴェインを目の前にした丁度その時に結界が開いたのはまさに天の配剤(はいざい)ってやつだろう」

 召還術と聞いてレイリアの体に震えが走る。だがレヴァインはそれを彼がやろうとしている事への恐れと解釈した。

「そうだ。俺はヴェインをこの世(ウェリア)から消してやる。それを邪魔しようとするならおまえだって容赦しない。

 シャイアとザイン。まずは何とかしてあの二人を始末する。

 そして、もし親父が混沌への回帰を目的とするのを放棄するだけで、ヴェインそのものは存続させようとするのなら……」

 うつむいたレイリアの手が膝の上でスカートの布地を握りしめた。

「お父様は……」

 それだけ言って唇をわななかせている。

「親父が、どうかしたのか? レイリア?」

 いざり寄ったレヴァインが頬に手を添えて顔をのぞき込むと、レイリアの瞳から涙があふれだした。肩を上下させ、乱れがちな呼吸の合間になんとか言葉を紡ぎだす。

「亡くなられたわ。……これはお父様の血よ!」

 レイリアの両掌が、レヴァインに向かって突き出された。

「死んだ……? 親父が?」

 数鼓動の沈黙の後、レヴァインがかすれた呟きをもらす。その指先がレイリアの手に触れ、乾いた血の跡をたどろうとするように滑った。一度強く握りしめられた後、手が放れ、レイリアはすすりあげるような音を聞いた気がする。

 だが、次に聞こえてきたのは落ち着いた低い声だった。

「殺されたんだな。……()ったのは誰だ?」

 喉元まで出かかった答を飲み込んだのは、レヴァインから狂気にも似た気迫を感じたからだろうか。その勢いに気圧(けお)されたのか涙も止まってしまった。

「言え、レイリア! 誰に殺られた?」

「なぜそんな事が気になるの? あなたの……」

 レイリアは、そこに探している言葉が漂ってでもいるかのように視線を左右に走らせた。

「あなたの……手間が省けただけでしょう。

 お父様にはヴェインを捨てる気なんてなかった。混沌への扉さえ開かなければ、今までと少しやり方を変えさえすれば、失った人口を取り戻してヴェインを繁栄させる事ができると信じていらした。

 あなただって……いえ、あなたの方がよくわかっているはず。だから、あなたはヴェイン( こ こ )を出ていったんでしょう? お父様を説得するのをあきらめて」

「……本当に、変わったなレイリア」

 レヴァインの声がやわらかくなった。

「いつもおろおろして、ただ言われた事に従っていただけのおまえが……」

 閃きがレヴァインの脳裏を走り抜けた。一段階高くなった声が大きく響く。

「ライガか……? ライガのせいか?」

「レヴァイン、一体何を……」

「おまえがフェヴェーラの後釜に座っているに違いないと言ったのはフェヴェーラ(あいつ)をからかう為だったが……。

 どうやら本当にそうなっていたらしいな。あの男のどこにそんな魅力があるのかわからんが、ザインから離れてライガと接する事でおまえは変わったんだ。そうだろう?

 つまりおまえが親父を殺った犯人をかばう必要があるとすれば、それは……」

「ライガ様をかばった訳じゃないわ」

「やっぱりライガ(やつ)か。わずかな間に随分(ずいぶん)惚れ込んだもんだな」

 レイリアは激しく(かぶり)を振った。

「ライガ様なんて関係ない!

 あなたよ、レヴ。私はあなたに生きていて欲しいの。お父様が誰に殺されたとか、そんな事は忘れて。お願いだから今すぐヴェインを出て行って。何の為に……何の為にあんな思いをして……」

 こみあげる思いが嗚咽(おえつ)となってレイリアの言葉を奪った。

「レイリア……」

 レヴァインは右手をそっとレイリアの肩にのせた。

「言っただろう。俺にはただヴェインを出て行く事はできないと。

 おまえこそ、ここを出ろ。おまえにだって樹海で身を守るくらいの魔術(じゅつ)は使えるだろう。

 ザインかライガの使いとか言って宝物庫から役に立つ魔法の道具( し ろ も の )を持って行く事だってできるはずだ。いっしょに行くように何人か説得する事だって」

 レヴァインに言われたように逃げ出して行けたら……。

 だが、そうするならもっとずっと早く、そうでなくともこんな風にすべてが複雑に(から)まり合う前、レヴァインが出て行った時にいっしょに行くべきだった。

 もうこのもつれをほぐす事はできないのだろうか?

 容赦ない(やいば)で結び目を断ち切るしか方法はないのだろうか?

「いいえ」

 袖口で涙をぬぐって顔をあげた。

「いいえ、私も、ただ出ていく事なんてできない」

「レイリア……」

「私にだってまだできる事があるはずよ。私は……」

(私には、もうこれ以上誰かが死ぬなんて耐えられない)

 とりあえずシャイアとザインを始末すると言っていたレヴァインの気を()らさなければ。

「私はあなたといっしょでなければここを出ないわ。

 ……でもまず、結界装置を壊しましょう。出て行きたい者が、出て行けるように」


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