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36  暗示(わな) 2

 背後に殺気を感じたライガは振り返ろうとする衝動をかろうじて抑えた。

 儀式を続けながら極限状態に陥った者だけに可能な、まばたきの何十分の一かの速度で思考を巡らし、注意力の一部だけを背に振り向けて不測の事態に備える。

 が、そこで後ろの動きが凍りついた。

 不審(ふしん)に思いつつも、可能な限り急いで儀式を完了させる。

 体を回したライガの目に映ったのは腰を沈め、今にも両手で何かを突き飛ばそうとする姿勢で凝固したバラド。彼が押し出そうとしていた何か、がライガであるのは明白だ。

 迂闊(うかつ)だった。

 ウェイデルの存在が明らかになって以来、混沌の書への不審を(いだ)いているバラドが自分を危険視するかもしれないと危ぶんではいたが、まさか手に掛けようとするとは。

 すんでの所で彼を救ったのは……

「ザイン……」

 笛の音は聞こえなかったが、魔法の視覚に切り換えるまでもない。

 だがなぜこの決定的瞬間に介入する事ができたのか?

(ザインがバラド殿に罠を仕掛けたのか?)

 彼をバラドと二人きりにしたのは予定の行動で、座を外したと見せかけて扉の覗き穴から見張っていたのだろうか? しかし……

 その時、ザインの心話が滑り込んできた。

『殺しなさい』

 静かで、ゆるぎない思惟(こえ)

 仕掛けがはねた!

 その内容を知る事にこだわって、すぐには消去しなかった暗示。時間が許さず、無効化しておけなかったそれがライガを支配する。

 鈍器(どんき)で殴られたような衝撃に麻痺した心をよそに、体は素早く懐剣を抜いた。

 動きを封じられたバラドの顔が恐怖にひきつり、滝のような汗が()き出す。ひくついた咽喉(のど)から悲鳴になりそこねた低い(うな)りがもれる。

 飛び散る血しぶき。

 柄まで血に()れているというのに、乾いた音をたてて床に転がる薄刃の短剣。

 喉首をかき切られてバラドが倒れていた。手足を痙攣(けいれん)させ、血走った眼をむいて。

 ゴボゴボという不快な咳といっしょに泡混じりの血溜まりが拡がっていく。

 ()ぎ澄まされた(やいば)が青白い皮膚を切り裂いて厚い脂肪に達した時の、(きた)えられた筋肉を切断する時の、頸骨(けいこつ)をかすめた時の、突然抵抗がなくなり宙を払った時の、感触が手に残っている。

 扉がきしんだ。儀式の為に消されていた松明が次々と点火されていく。八方でゆらめく炎が影を踊らせ、すべての動きを停止したバラドの顔を醜悪(しゅうあく)に彩った。

「いかがですか、フェヴェーラ様とレイリアの父親をその手で殺されたご感想は?」

 うつむいたままのライガ。その視野の隅に灰色の寛衣の裾。

(フェヴェーラとレイリアの父親を……殺した……フェルの……)

「ライガ様、何か御用がおありとか……」

 開いたままだった扉からレイリアが顔を出した。すぐに異様な空気を察して、血まみれのライガと血溜まりに倒れている(バラド)に気づく。

「お父様!」

 危うくまだ効力を持った魔法陣に足を踏み入れそうになりながらバラドのかたわらへまろび寄った。

 響き渡る悲鳴。

「お……父様……なぜ、こんな……」

 涙に濡れたレイリアの瞳に、刃に鮮血をぬめらせたライガの懐剣が映る。それは、血の気の引いた顔でかろうじて立っているという風情の持ち主(あるじ)の足下に寄り添うように転がっていた。

「ライガ……様?」

 問いかけるようなレイリアの視線。様々な感情が込められたその眼差しは、どんな鋭い刃物よりも深くライガの胸に突き刺さる。

「バラド殿はライガ様のお命を狙ったのだ」

「まさか……そんな!」

「私が外している間に召還中のライガ様を魔法陣に向かって突き飛ばそうとなされた。

 丁度戻ってきた私がそれに気づいて声をあげたせいでバラド殿にためらいが生じ、かろうじて儀式を終えたライガ様が御自分の身を守る為に懐剣を振るわれた」

(違う! 違うんだレイリア! 僕は……)

 ライガの心の一部が悲痛な叫びをあげたが、それは言葉にならなかった。

 ライガにかけられていた暗示。それはザインの指示があれば<誰であろうと目の前にいる人間を殺せ>というものだった。

 ザインがバラドを大儀成就の邪魔者と見なしていたのは想像に難くない。

 が、犠牲者を特定していなかった事から()して ―― 候補の一人ではあったとしても ―― 最初からバラドを狙って仕組んだのではないだろう。

 冷静に考えて、ザインがバラドに魔獣召還の手伝いを頼んだのは ―― もしくは混沌の扉を開いてしまう可能性のあるライガの様子を探る為にバラドが手伝いを申し出、その意図に気づきながらも受諾(じゅだく)したのかもしれないが ―― 不穏(ふおん)な動きが予想されるバラドを監視する以上の目的があったとは思えない。

 ザインもライガがその遂行(すいこう)にこれほど不適当な状態で儀式に(のぞ)むとは予想しえなかったはずだからだ。

 危うげに儀式を続けようとしたライガを見てバラドが危険な賭けを思いたち、それに気づいたザインが(のが)さずその機会を(とら)えたというところか。

 明らかになった暗示の構造がその推測を裏づけているように思えた。

 暗示の目的が殺人そのものではなく、ライガに衝撃を与える事だったからだ。

 そうでなければいくら相手がフェヴェーラの父親とはいえ、数多(あまた)の贄を(ほふ)ってきたライガが人一人殺しただけで(いま)だ自失しているはずがない。

 ザインの暗示は彼を行動させるだけでなく、その心に繰り返し死の場面を突きつけるよう()まれていた。

 その時、ザインが想定していた犠牲者達の筆頭がフェヴェーラなのではという疑念に愕然(がくぜん)とした。

 彼女がウェイデルと共にヴェインに向かっているとは知るまいが、レヴァイン一行の捜索は続けられている。彼女が戻ればウェイデルとの対決に先立って……。

 そんな事になってしまえば、ライガは狂い死ぬか、完全に自我を失った操り人形になってしまうだろう。

 暗示に組み込まれていた冷ややかな声が彼の最も弱い部分を何度も何度も責め立てる。

 追い打ちをかけるように両手や衣類、長い髪までもをバラドの血に染めたレイリアが泣きながら彼の足にすがりついた。

 頃合いを見計らってザインがレイリアを引き離し、自室へ戻って休むよう言いつける。

 物言いこそやわらかいが断固とした命令に、レイリアがふらふらとした足取りで部屋を辞した。

 静まりかえった岩室(いわむろ)の中でザインの手がライガの両肩に置かれる。

 凍った緑の双眼が、拳ふたつほど低い位置から焦点の合わないライガの瞳を射抜き、魂を(とら)えた。

「立ちっぱなしではお疲れでしょう、ライガ様。お座りになってはいかがです」

 ライガは軽く押さえられるようにして膝を折り、固い床の上に尻をつける。

 ザインの方は視線を外さぬよう膝立ちになりながら、その動きに合わせて両手をライガの肩から首、(あご)へと滑らせ、顔を上向かせた。

「そう、この方がいい。私はあなたに見おろされるのが好きではないのですよ」

 妖しく、冷めたい微笑。穏やかな声が、やさしげに獲物の心をえぐり始めた。

「ライガ様、あなたはおやさしい御方です。レイリアの悲しみを御自分のものとして感じられたのでしょう?

 彼女の悲鳴、声にならない声を()らしながら死体にすがる様子、父親の血に染った両手を見つめて震えた身体……。

 そのすべてが耐え難い痛みとしてあなたの心に焼きついたのでしょうね。そしてあなたを見あげる涙に濡れた瞳に、言葉にならない非難を感じた。なぜ殺さねばならなかったのか、と。

 それはあなたの繊細な心には荷が重すぎる。

 ましてやあなたの愛するフェヴェーラの事を考えるといっそ狂ってしまいたいとさえお思いかもしれませんね。あなたの手で自分の父親を殺されたと、自分の父が祭壇に供えられた贄のように無造作に喉首を切り裂かれたと知ったら……」

 真っ先に悲鳴をあげたのは長年封じられていた為に傷つきやすい子供のままだったライガではなく、ヴェインでの人格を作られた時に出現した裏の人格だった。

 子供の彼はただ呆然としていると言った方が近い。

 白魔術師ライガは他者に操られるのを良しとせず、ザインの侵入を防ごうとしていたが激しく動揺していて力が振るえない。

 祭司長ライガは大儀とフェヴェーラへの思慕(しぼ)とに引き裂かれ、とても手が打てるような状態ではなかった。

 ザインはそんな彼らに言葉(たく)みに避難所を提供しようと持ちかける。

 傷ついた心を二度と痛みを感じる事のない深い眠りへと(いざな)い、強い心だけを拾いあげて、苦しみのない道へ導いてあげましょうと。

 だがその様子を一歩さがって眺めていた人格(ライガ)もいた。

 黒魔術師にとって殺人は大した意味を持たない。フェヴェーラへの情とて彼女を支配し、独占したいというだけのものだ。

 つまり、なぜ事態を回避できなかったのかと自分を非難する事などなく、ここはザインの目論見(もくろみ)に協力した方が得策かもしれないとすら考えていた。

 ザインに抗するのに力を使い果たして普通なら可能なはずの自己調整ができず、人格が完全崩壊してしまうような事になってしまえば黒魔術師( か れ )とて無事では済まない。それに、もしこれを無事に切り抜けられたとしても、それに力を得たライガがヴェインを捨ててしまうような事になっては困るのだ。

 祭司長ライガが慎重に魔術用人格の力を抑えてきた為に、他の人格が弱っている今でさえ黒魔術師(じぶん)が主人格になるのは無理がある。

 彼と同じ仮人格に過ぎない白魔術師が主導権を握る事はないだろうが、元々のライガや裏ライガが主人格として振る舞い始める、あるいは人格が統合されてしまった場合、黒魔術が敬遠されて黒魔術用人格( か れ )は必要なくなってしまうかもしれないからだ。

 しかし祭司長としてのライガが今まで以上にザインの言いなりになってしまうのは面白くない。

 あくまで仮の人格でしかなく、今は体を使って魔術を編みあげる事もできない彼には大した事はできない。

 が、周囲にはまだバラドの無念と苦悩と恐怖が漂っていた。彼はそれを使ってこっそりとザインの仕事に手を貸しつつ、そこに少し修正を加えようと試みた。


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