35 暗示(わな) 1
四頭目の魔獣を服従させたライガはだらりと両腕を下げ、闇に飲み込まれた天井を仰いで目を閉じた。
精神の疲労が肉体にまで影響を及ぼし始めている。
魔物の召還は危険な魔術だ。休憩の必要を感じたが、バラドとザインが傍にいる以上そうする訳にいかなかった。
普段の彼ならこれぐらいで休息を欲したりはしない。日暮れに体調は回復したと伝えたばかりで、今疲労を訴えてはおかしいのだ。
ライガが疲れているのはウェイデルとの接触で崩れかけた心の均衡を取り戻そうと尽力し、更に知らぬ間にかけられていた暗示を読み解こうと苦心していたせいだった。
様々な角度から罠の細部を観察し、バネがはねないよう中味を調べる。
その途中、ウェイデル探索を再開すると告げられたのだった。
「どうかされましたかな?」
黒い石床に青白く浮きあがった魔法陣の向こうから、ザインといっしょに魔物の一体一体にやるべき事を教え込んでは外へと送り出していたバラドが声をかけてきた。魔法陣の光と真鍮の小鉢の中で赤っぽい炎をあげている一片の炭以外明かりはないというのに目ざとい事だ。
「なんでもない」
目を細めて薄闇の向こうのバラドを見つめた。
考えてみればレヴァイン探索に携わっているはずのバラドがここにいるのもおかしな話だ。シャイアが一時レヴァインを放っておいてもウェイデルの確保に全力を傾けるべきだと判断したのだろうか。
だがそれなら他の祭司達も協力していていいはずではないか。
ザインとバラド。この二人の取り合わせには何か不安をかきたてるものがある。
バラドだけではなく、ザインまでがそっと彼を窺っているのに気づいた。
深い呼吸をし、儀式に必要な精神状態へと己を引き戻す。素早く幾つかの印を結び、長年の訓練によって考えなくとも口をついてでる呪文を唱えた。
心が定められた形へと導かれていくのを感じ、そこに宿った力を使って再び魔界への扉を開く。
「ライガ様」
五頭目に服従を誓わせるとザインが話しかけてきた。
「急用ができましたので、しばらく外します。すぐに戻って参りますのでバラド様といっしょに続けていてくださいますか?」
「わかった」
ザインの急用なるものに興味をひかれはしたが、余計な事を考えているゆとりはなかった。疲労は集中の妨げになり、召還中に集中力を失う事は様々な形での死を呼び込む。
ザインがバラドに何か言い、重い扉をきしませて出ていった。
ライガは疲労の度を増しながらも六頭目、七頭目……と魔獣を呼び出し、脅しつけ、屈服させる。
八頭目に以後バラドの指示に従うよう命令を下した直後、足から力が抜けかけて、一瞬左の膝が沈んだ。
バラドの探るような目つきがライガを苛立たせた。
もう二、三頭呼び出せば、訝られずに休めるだろう。今の、普通ではなく疲労している状態をザインにまで見られるのは得策ではない。
間をおかずに次の召還に入った。
バラドは油断のならない異界の獣に指示を与えながらもライガに注意を払うのを怠らなかった。
今夜のライガは明らかに様子がおかしい。日暮れ前には体力は充分回復しているという話だったのに、三、四頭の魔物を召還しただけで疲れを見せ始めるとは。
しかも、余程鋭い観察眼の持ち主でなければ気づけない程にうまくそれを隠している。夜付が変わってからのわずかな間に何があったというのか?
それに対してザインが何の反応も示そうとしなかったのも腑に落ちない。あの男が気づかなかったなどという事があり得るだろうか?
ライガは総領シャイアにとってつまらぬ事故などで亡くしてよい存在ではない。なぜ、儀式をやめさせ、疲労の原因を問いただそうとしなかったのか?
見ている間にもライガの疲労の色が濃くなってきた。
(危険だ。本来ならすぐにもやめさせるべきだが……)
<ウェリアが混沌と混じり合えばヴェインの民は王子ミトラの子として混沌の宮廷に迎えられ、栄華を極められる>
ヴェインの教典 《 混沌の書 》 にはそう記されていたが、バラドには混沌の扉の開通は世界を破滅へ導くと信じる根拠があった。その理論に自信を深めてきたここ数年は混沌の祭司という立場にありながら、一族の悲願が成就せぬよう密かに奔走してもいる。
彼にとって、ウェイデルの出現によって力を数倍する可能性を得たライガは極めて危険な存在となったと言えるだろう。禁断の扉を開き得るかもしれない者。それは世界の為に排除すべき存在に他ならない。
そのライガが、ただ静観しているだけでささいな、しかし致命的な過ちを犯して自滅してくれるかもしれないのだ。
だが、これは千載一遇の好機かもしれない。
運を天に任せるだけでなく、何か、微妙な瞬間にライガの集中を破る……つまづいたふりをして炭火の鉢を支えている三脚を倒すような……事をするべきではないだろうか?
一瞬、ライガの膝が脱力し、肩がさがった。
(それ程まで消耗しているというのに、まだやめようとせぬのか)
なんという意志の強さ、そして己の魔術に対する自信。
何か知られたくない事をしていたと認めたくないにしても、並の者なら命を惜しんでとうに休息を申し出ているだろう。
そしてバラドにはライガが危険な賭けをしているのではなく、この場を切り抜ける自信があるのだと確信できた。
ウェイデルの魔力など合わせなくとも、ライガの潜在能力が傑出したものであるのは否定しようのない事実だ。
(こやつが生き残った場合、簡単に言い逃れられるような生ぬるい方法では目的はとげられまい)
長年、心の底に秘めてきた<あるまじき力を持つ者>への畏怖が最後の一押しをした。ぐずぐずしていてはザインが戻ってきてしまう。
音もたてずライガの背後に移動したバラドの動きは、その眠たげなまぶたや小太りの体からは想像もつかぬほど速かった。
ライガは魔法陣に拘束した人面鳥に服従の誓いを述べさせている。
強制された作法に従いながらも、怒り狂った人面鳥が眼前にいる人間を食い殺してやりたいと思っているのは明白だ。なんとか束縛者の裏をかこうと、誓いの言葉の子音をひとつ飛ばしたり、「っ」を挟むといった微妙な逸脱を企てる者も多い。決して気の抜けない局面だった。
バラドが人面鳥に向かってライガを突き飛ばそうと身構えたまさにその瞬間。
(体が動かん! これは……)
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