02 滅ぼすもの(ヴィズル) 2
蒼風十年 冴気月 九夜
「夢……?」
個室ではあるが小さく殺風景な賢者の塔の徒弟部屋のひとつでウェイデルは寝台に身を起こした。知らず、首にさげた指輪を握りしめる。
冷たい ――
青く冴えた宝石は体温にあたためられる事もなく冷気を放つ。
「ライガ……どこにいる?」
(君を感じられなくなってもう一年。遠く離れてしまったからじゃあない。僕達に距離は問題にならないはずだ。
あの時……自分達の犯した罪に気づいた僕らは怖くなって逃げ出した。村から、お互いから……そして、自分自身から。
だけど、まるで違う方角に進んでいても、いつも君を感じる事ができた。互いの思考を遮蔽する方法を覚えはしたけど、感情や苦痛は伝わっていたんだ。なのに……)
キン !
ウェイデルの頭の中で何かが鳴った。
「ライガ……?」
キィィィ ―――― ンン……
それは金属的で攻撃的。それでいて懐かしいような力強い音だった。
「違う……なんだ?」
音は高く、低く、うねるように響き、ウェイデルという存在を形作っているゆるやかな結びつきを揺さぶり、震わせる。
「呼んでる?」
寝台を滑り降りてサンダルに足を突っ込むと粗末な徒弟の貫頭衣をかぶり、麻縄の帯を締める。
音が彼を導いていた。闇の中、まだ勝手もわからぬ広い建物で迷う事も足をとられる事もなく複雑に曲がりくねった廊下を抜け、狭い階段をくだってゆく。
(ライガ、ひょっとしてこれは君に起こったのと同じ事かい?
僕は君が何か得体の知れない力にひかれていくのを感じた。そして、君が自分の力のほとんどを解放したのを。
だけど君が最後に伝えてきたのは、本物の、恐怖。
ライガ……君は今、僕が怯えているのを感じているだろうか?)
闇はねっとりとまとわりつくようで、空気は湿っぽく、埃とカビの臭いがした。人の気配はない。
どれだけ下ってきたのだろう。いく段もの階段をたどり、いくつもの扉を抜け、とうとう彼は行く手を遮る巨大な扉に行き当たった。
厚く、重く、冷厳でさえある扉。
その頑なに閉ざされた扉の両脇で、青銅の小鬼があやしげな紫の炎をあげる金と銀の松明を掲げている。
炎のはぜる音も、煙も、樹脂の臭いもない。ただ、風のない空間にゆらめく炎とそれらの作り出す陰影の踊りが、太古からの闇を押し返し、調和を歌っている。
「歌だ……」
ウェイデルは聴いた。声なき歌を。それは調和を、そう、すべてのものの調和を求めていた。高らかに、否応なく。
「なぜ?」
伝わってくる調べのあまりの切なさ、やりきれなさにウェイデルは問う。なぜ、調和を追求する事がそれほど苦痛となるのか。
応えはざわめき、さざめき、彼の周りを駆け巡る。しかし、彼にはその意味を汲み取る事はできない。
「わからない……。わからないよ。なぜ?
しかも、なぜ僕がそれを理解する事がそれほど大切なんだ?
調和とは美しいものだろう? 安定し、人々を幸せへ導くものだ。なのに、ここにあふれている歌は調和を保つ行為が無慈悲で哀しみに満ちていると言わんばかり。
……どうしてなんだっ?」
思わず張りあげたウェイデルの声が谺し、新たな調べを紡ぎ出す。
『覚悟はいいか?』
「誰だっ?」
あたりを見回したウェイデルの眼に映じたのは彼方へと続く闇、二匹の小鬼、そして紫の光の中に不可思議な文様を浮きあがらせた大扉。
光と陰の声なき歌は止み、鼓動とせわしない息づかいの音だけが静寂を破る。
『我らは護り手』
それは声ではなく思惟であり、言葉ではなく認識だった。
「護り手……? 一体なんの?」
『調和/破壊……均衡/滅亡……』
思考の流れは二つあり、同時にウェイデルの心を打った。それらは矛盾しているとしか思えない概念を伝えており、彼の心を激しくかき乱す。
『覚悟を決めよ……進め……進め……』
見えない力が混乱したウェイデルの身体を前へと進め、両手が扉に触れる。
絶叫 ――
炎が渦巻く。生なきはずの青銅の小鬼達が向きを変え、金と銀との松明から紫の炎をほとばしらせている。それは扉を、ウェイデルを包み込み、のたうち、舐めまわす。
『われらは護り手』
『運命の子よ、進め……進みて、取れ……』
『運命を……取れ……』
苦痛がひいていった。ウェイデルの身体は炎に包まれてはいるが、燃えてはいない。
熱気と冷気。恐怖と歓喜。相反する感覚がめくるめく。
『ここだ……我はここだ』
扉の向こうから呼び声がする。護り手ではない。力強く、高慢で、気高い。それはウェイデルを魅了し、突き動かす。
「僕を通せ。……通すんだっ!」
ドンッッ!
音なき音が轟き渡り、扉は跡形もなく吹っ飛んだ。小鬼も、炎も。残されたのは変哲のない石の床と壁。たちこめる闇。
光 ――
青白く、冷たい。静かな光が閉ざされていた部屋を満たし、ウェイデルは見た。
剣を。
中空に浮かぶ剣を。鋭い剣先をもった左右対称の諸刃の剣身は肉厚で幅広く、鏡のようにきらめき、十字型の柄にはふたつの宝石が嵌め込まれている。
氷河の輝きをもつ青玉と、炎の激しさを秘めた紅玉。
「あれは……」
それはウェイデルとライガの持つ指輪の宝石とそっくりだった。ただ、剣の宝石の方がずっと大きい。
ウェイデルは室内へ足を踏み入れた。
光が響きあう。剣と、指輪と、ウェイデルの裡で。
「力だ……力があふれてくる」
身体の奥底から、魂の根底から、たぎるような力が湧きあがってくる。
「僕は……。あの剣は……。この部屋は……一体……」
石造りの小さな部屋。室内にあるのは宙に浮かぶ剣のみ。光源らしきものはなく、陰のない光が静かに満ちている。
『我はそなたのもの……/そなたは我のもの……』
「誰だっ?」
またしてもふたつの思惟。いや、ひとつなのか。
それはまるで、まるで昔夜のライガとウェイデルの心のように異質で同じ。
『我は力……』
「剣? ……剣が話しているのか?」
『我はそなた……』
「訳のわからない事ばかり言うのはやめてくれ。おまえは一体なんだ? 剣の姿をした魔物か? それとも……」
『我は宿命。我は……』
「もう謎かけはたくさんだっ!」
その言葉の終わらぬ間にウェイデルは中空にあった柄に手をかけた。
「ぅわァァァ ―― っ!」
絶叫が咽喉を突き破らんばかりにほとばしる。
全世界が彼の周囲で渦巻き、荒れ狂い、知らずウェイデルは剣をしっかりと両手で握りしめ、大上段にふりかぶっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
大渦のような力の奔流がひいていき、剣を下ろしたウェイデルの肩が荒い息づかいとともに上下する。
「それはそなたのものだ」
「……っ! ヴァルデリュード様……」
いつの間に現れたのか、振り返ったウェイデルの前に杖を手にした賢者ヴァルデリュードがたたずんでいた。
「恐れずともよい。 《 星の淡海 》 をゆく船上でそなたに出逢った時からこの事を予期しておった」
「このこと?」
「そなたがヴィズルの主人となる事」
「ヴィズル? ……この剣?」
「そう、その剣は 《 滅ぼすもの 》 と呼ばれておる。古の時代より伝わりし魔剣」
「魔剣?」
「その剣の柄には氷石と炎石が埋め込まれていよう?」
「この青い石と赤い石が……」
「魔力の宝石じゃ。ふたつの相異なる魔力がせめぎ合い、平常にはその魔力は静の状態にある」
「ふたつの、魔力……」
あえぐようにつぶやいたウェイデルの言葉が、賢者の耳に届いたのか否か?
「じゃが、ひとたびその力の均衡が崩れ去り、あるいはふたつの力を融和させる能力を持つ者が現れた時、ヴィズルは強大な魔力を発揮するという。
大海を裂き、山を動かす程の」
「大海を裂き、山を動かす……」
ウェイデルの裡で何かが蠢いた。
力? そう、それは湧きあがる力の感覚。
そして幻影 ――
痩身だが骨太で筋肉質な体躯の男が、その身すら吹き飛ばされかねぬ強風に長い黒髪をあおられて岬の突端に立ちはだかっていた。
複雑な呪文を一心に唱えながらキッと見据えられたその哀しげな眼差しの先には……
嵐?
否、竜巻!
轟音をあげ、すべてを吸い尽くし、切り裂いていく巨大な竜巻が迫り来つつあった。
長い旅路を想わせる旅装束にはまだ生々しい血糊が散り、頭上高く振りあげられた両手には、朱に染まり、静あるもののごとくきらめく《 滅ぼすもの 》が……
その瞬間、ウェイデルの心の眼は男の両手に釘付けになった。
左手の中指にはめられているのは、見まがうはずもない、白金の台座に青石を嵌め込まれた彼自身の指輪、今は指に合わない為に鎖に通して首にかけている指輪なのだ。
ではあれは遠い夜の彼自身なのか?
だが、男の右手に光る、赤石を嵌められた金の指輪は……
「何を観た?」
幻影が消え、ヴァルデリュードの白く濁った眸が射抜くようにウェイデルの瞳をとらえていた。
「僕自身を……。いいえ、それとも……」
ウェイデルは胸に右手を滑らせ、上衣の上から指輪を押さえた。それは彼の懐にあってなお冷たく、燃えさかり、あふれ出そうとする彼の魔力を抑制しているはずだった。
「それとも……?」
ライガ ――
あれは失われた半身。もう一人の彼の未来の姿だったのだろうか?
しかし、ウェイデルには予知の能力などないはずだった。それとも……
「語りたくなくば語らずともよい。啓示は正しき受け手にのみ意味を持つ。
それは必ずしも啓示を受けた者の為に示されるともかぎらぬしな」
「啓示? 今の幻が啓示だったと?」
「儂はおぬしが何を観たのかさえ知らぬのだぞ。ただ、ぬしがその瞳に映るものとは異なるものを観ておったのを感じただけじゃ。
儂自身も人々が現実と呼ぶものとは異なる世界を観て生きておるのでな」
人々が現実と呼ぶ世界とは異なるもの。
賢者ヴァルデリュードはその眸の光を失った時、影を観る能力を授かったという。現在という事象の投げる影。それは永遠の過去と未来とに連なり、決して果てる事がないと言われる。
「ひとつだけ、はっきりと言える事がある」
ヴァルデリュードの言葉に少年はビクリと身を震わせ、固唾を飲んで次の科白を待ち受けた。
「そなたには滅ぼさねばならぬものがある、という事じゃ」
「滅ぼさねばならぬもの? それは一体?」
「答えはその剣が知っていよう」
「そんな……」
「儂には何も言えぬ。儂にはどの影がこの現実の、いや、今のぬしの影なのか判別する事ができぬのだ」
「この現実? 今の僕の影がわからないってどういう意味です?」
盲いた賢者は嘆息を漏らし、ゆっくりと首を横に振る。
「おぬしには……いや、経験した事のない誰にもわかるまい。過去が未来と混ざり合い、現在が埋没する無限の影の世界を覗き見るのがどのようなものなのか」
「……?」
ウェイデルは老いた魔法使いの苦悩に満ちた表情に気づいた。それは彼に衝撃を与え、言葉を失わせる。
「学ぶがよい」
老人とは思えぬ素早い身のこなしで背を向けたヴァルデリュードの声は落ち着きと威厳を備えた力強いものだった。
「まずはその不安定な魔力の制御を覚える事じゃ。以前にも言ったがこの賢者の塔でならそれは可能だ。
そして、知識は解答を得る手掛かりを与えてくれるやもしれぬ。それを持つ者が知恵を備えておる場合には」
賢者は扉があった場所を抜け、その姿は暗い廊下へと溶け込んでゆく。
「解答?」
ウェイデルの手の中でヴィズルの柄に嵌め込まれたふたつの宝石が妖しくきらめいていた。
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