11 逃亡 1
月見月 十二夜
闇の間。それはある種の儀式を行う場である。
窓がなく、入り口はひとつきり。無造作に掘られたむきだしの岩壁。ただ黒い穴のように見えるひどく高い丸天井。
明かり取りの魔法の仕掛けも光ゴケもなく、ちょうど大人の背丈ほどの高さに配された八本の青銅の松明受けと、それに差し込まれた火のついた松明があるのみ。そして、ゆらめく火明かりを映す程に磨き込まれた滑らかな石の床。
その床の中央辺りに膝をついていたライガは、左手に持った小さな壺に入った塗料に筆先を浸すと先程から描いていた幾何学的な床模様に多くのウェリアの民人には馴染みのない文字を書き加え始めた。文字の位置と大きさ、止めやはね、線の正確さだけでなく、その微妙な強弱にまで気を配った見事な書だ。
最後の線を書き終わったライガが湿った布でていねいに筆先をぬぐい、壺にフタをして立ちあがると背後で重い扉がきしり、バラドと肩に麻袋を担いだザインが入ってきた。
ザインはいつもの裾の長い寛衣ではなく、やはり灰色ではあるが野外向けの動きやすそうな服を着て剣まで帯びている。
それを言うならライガも額の銀環の上に鉢巻きを締め、黒っぽい、西域を旅する者が好んでするような服装をしていた。
「準備はおすみですかな、ライガ殿?」
前祭司長、現在はライガの相談役という立場にあるバラドの問いにライガは振り返ることなく答えた。
「見ていらしたのでしょう?」
扉には小さな覗き窓がついている。そうでなければ、ライガの集中が途切れたまさにその瞬間に、松明の燃える音以外響かぬこの部屋の静寂を破ったりはできないはずだ。
「とりあえず微妙な局面は片づいたように見受けたので」
「心遣い感謝します。確かに気を遣う作業だ」
振り返り、あらためて挨拶の礼をする。
「ちょうどそこでザインと出会いましてな。ライガ殿が久々に闇のものを召還なさるというので同道した次第です。
それとも、見物の者がいてはお邪魔ですかな?」
相変わらずの愛想良さ。
だが、ライガはこの人の良さそうな笑顔の奥に狡知にたけた頭脳と並外れた度胸、そして多分、反逆心とすら呼べそうなものが隠されているのを知っていた。
「昔の生徒の手並みを確かめに来られたわけですか? 私は余程信用がないとみえる」
「滅相もない。
既にあなたの魔術は私などの手の届かぬ域に達しておられる。だからこそ総領様も祭司長の地位を授けられた。そうだろう、ザイン?」
部屋の奥、床に置かれた小さな壇の上に下ろした荷をほどこうとしていたザインが振り返る。
「わたくしには答えかねるご質問です。バラド様の魔術を低く見ているような発言は致しかねますから」
「はっきり言ってくれる。答えかねる、と言ったばかりではないのか?」
「申し訳ありません。未熟者ゆえ、バラド様のように常に如才なく、というわけにはまいりませんので」
ザインの答えにバラドは声をあげて笑った。
「貴様に笑わせてもらう事があるとは思っておらなんだわ。もうよい。
どうです、こやつもあなたの魔術が私を超えていると思っておるのですよ。でなければ、最初からあなたでなく、私に助力を求めたでしょう。おそろしく実際的な奴ですから。
ところで……」
語を継いだバラドにライガはやはり、と思う。ただ儀式を見学に来たわけではないのだ。
「今回はただの下見だと聞いておりますが、やはり、お二人だけで行かれるおつもりですか?」
「ああ。計画の細かい所を練る為に地形を把握しに行くだけだ。二人で充分だろう」
「彼の地には常に結界が張られていると聞き及びます。下僕共を連れ込む事はできませんぞ」
「わかっている。だからこその偵察だ。結界の中で私の魔術がどの程度有効かを知っておく必要がある。
いつもは制限されている人の出入りが祭で解放されていると聞く。結界の縁で奴らを待機させて、歩いて行けばいい」
「それは少々危険では?」
バラドは何を考えているのだろう?
一緒に来て欲しいとでも言わせたいのだろうか?
「結界の中でも、ザインの術は使えるさ。二人とも多少は剣の心得もある。しかし……」
ライガは隅に置いてあった剣と長めの短剣のさがったベルトを取って、身につける。
「もっと率直にお話し願えれば、バラド殿のご希望に添うよう努力する事もできるかもしれません」
「私の希望?」
しばしライガは、変わらずにこやかだが怪訝そうなバラドの顔を見つめる。
「いや、私の思い違いでしょう」
どうやらバラドの狙いはそこではないらしい。では、二人の出立そのものを自ら確かめる為とでも?
(まぁ、いい。深くつつく事もないだろう)
それよりライガはこの会話を切りあげ、早々に出立してしまいたかった。
「ところで、結界の制御をやっていただければ有り難い。外からより中からの方が楽ですから」
「開けっ放しで出て行かれては事ですな。どうやら塗料も乾いたようだ。口うるさいと思われる前に協力いたしましょう」
いつの間にか、三脚の上に載った小さな真鍮の鉢から紫色の煙があがり、四肢を縛られたウサギが袋から出されて仰向けに寝かされていた。ウサギの手前には鞘を払った黒い短剣があり、ザインは隅に引き下がっている。
バラドが大きく両腕を動かして不可思議な仕草をし、混沌の宮廷で使われていたと伝えられる言葉で呪文を唱える。
ライガとザインにはバラドの力がヴェインの奥深くで結界を造り出している古代の装置に働きかけるのが感じられ、内からも外からも意識ある者が通り抜ける事をはばむ、目に見えない障壁が開かれたのがわかった。
ライガが宙に向けて手をのばし、秘密の言葉で囁きかける。
と、勢いよく燃えていた八本の松明が瞬時に消え、床に描かれた魔法陣が闇の中に青白い光を放って浮かびあがった。
一瞬のためらい。
ライガの魔力を持ってすれば、数匹の魔物を呼び出す事など、生け贄なしでも可能だ。彼はたとえ小さな獣のものであれ、生命を奪うのは好きではない。
しかし、他者から力を引き出す事で自らの魔力が温存される。この後どれ程の力が必要とされるかわからない今、生け贄の使用を主張したザインは正しい。
傍目にはこれ以上ないほど沈着に、冷酷に、所定の呪文が唱えられ、儀式に要求される作法で生け贄が屠られる。
ザインとバラドは凍りついたように動かず、息を潜めていた。
魔法陣の中央、何もないはずの空間が悶えるようにゆらめいて裂け、薄闇にあってなお暗い闇が開ける。しばし常の世界とせめぎ合い、厚みのない完全な円形となって落ち着いた。
咽喉をつまらせそうな音が続く長い名が発音され、闇の扉から鋭い爪を持った四本指の手が突き出して周囲を探るように蠢いていたかと思うと、まばたきする間にライガが一角鬼と呼んでいる種類のもののけが全身を現した。
全体は人間に似た姿をしているが、所々に鱗のようなもののある肌は薄気味の悪い青緑色で、円錐形の角と毛のない頭、蹴爪のある足、先端が矢尻状になった細長い尻尾、コウモリのような翼を持っている。
背後の闇が縮んで消え、それは縦長の瞳孔をした黄色い眼でライガの姿をとらえるや否やクルリと回転して尻尾でライガを薙ぎ払おうとした。
「ギャアァ ―― ッ!」
バチバチと音をたてて白い火花が弾け飛び、見えない障壁に灼かれた尻尾がシュウシュウいいながら煙をあげている。
「おおおおォ……。なんて事だ、なァんて事だァ」
一角鬼は尻尾の半ば辺りを両手で握って、けぶっている部分に息を吹きかけた。
「頭の悪い奴だ。貴様が立っているのがどういう場所かわからなかったのか?」
闇に住まう者の言葉で話しかける。下位の魔物はヒトの言葉を解さない。
「おまえかァ? おまえがオレを痛くしたのかァ?」
一角鬼の言葉はピチャピチャズルズルと行儀悪く物を喰らう時の音に似ている。
「そうだ。貴様の主人、ヴェインのライガが罰を与えたのだ」
「主人だと? 主人だとォ? おまえなど、ただの人間だァ。オレのエサだぁァ」
「違うな。貴様を闇から引きずり出したその瞬間から、貴様の主人はこの私だ。
そして私の意志に逆らえば貴様はその魔法陣の中で終わりのない苦痛にさいなまれる事になる」
「閉じこめる? 閉じこめるゥ? オレ様をォ? この痛い檻にィ?」
「私に従わねばそうなる」
「出来るものか! オレ様を閉じこめるなど、出来るものかァ!」
言って、一角鬼は何やら怪しげな仕草を繰り返し、ブツブツと呟き始める。が、すぐにその呟きは泣き声に変わった。
「馬鹿な。馬鹿なァァ……。戻れない。戻れないィィ……」
「わかっただろう。貴様の名と存在にかけて私への服従を誓うならよし、でなければ……」
ライガが右手で複雑な仕草をしながら短い呪文を唱えると、生き物のように岩壁の一部が口を開け、握り拳ほどの大きさの球が漂い出て一角鬼とライガの中間に浮かんだ。
その球は一角鬼が捕らえられている魔法陣のような青白い光の線でできていて、よく見るとその中で小さな生物が苦痛にのたうっていた。球体の上部から何本もの稲妻が絶え間なく降り注ぎ、赤っぽい犬に似た妖魔を打ち据えている。
「それは私の支配を拒んだ愚か者だ。
その檻は契約によって光に属する精霊から引き出される力で構成されている。契約は私が死んでも継続され、世界が滅びるまでそやつが解放される事はない。
貴様のような者の代わりはいくらでもいる。私に従わぬなら、貴様にも同じ運命が待っているだけだ」
ライガの口調はいつもの囁くようなそれで、凄む事も威嚇する様子もない。だがその響きは恐ろしく冷たく、魂を震撼させる。
「光ィ! 光だとォ? 闇を操る者が光と契約するのかァ?」
「光であるか闇であるかなど私には意味の無い事だ。役に立つか立たないか、それだけだ。さあ、貴様はどっちだ?」
言うなり、大きな球を抱えてでもいるかのように両手を広げ、押し潰すようにその手の間隔を狭めていく。
「ぎゃあァァッ! やめっ、やめてくれェッ!」
床に描かれていた魔法陣が縁の方からまくれて伸びあがり、一角鬼を包み込んだかと思うと球形になって縮み始めた。そして一角鬼そのものの躰も球の大きさに合わせて縮み始める。
「従うっ! 従わせていただきますぅゥ! 後生だからお仕えさせてくださいィ……」
一角鬼が誓いの言葉を述べ始めると縮退は止まり、指を噛み切って流した妖魔の黒い血で宙にその名を記すと、文字が前にかざしたライガの右掌に向かって飛んで行き、吸い込まれた。
「貴様の命は私の手の中にある。私の機嫌を損ねぬよう気をつける事だ」
「おおせの通りに致しますゥ。なんでもご命令くださいィ」
「では魔法陣から出て、隅に控えていろ。それはもう貴様に害は与えん」
一角鬼が言われた通りに引き下がると再び呪文が唱えられ、闇の扉が開かれた。
そんな事はあり得ないのだが、結界が閉じる物理的な衝撃を感じたようにレヴァインはよろめいた。
「間に合ったかっ……」
太古の昔からヴェインをおおい、入ろうとする者も去ろうとする者もはばんできた見えない壁。それがたった今、まるでレヴァインが境界を越えるのを待っていたようにすぐ後ろで閉じたのだ。
彼は知らなかったが、実際結界はレイリアが彼の荷物にそっとしのばせた小さな呪物によってレヴァインの位置を追っていたバラドが頃合いを計って閉じたのだった。
レヴァインが宝物庫から盗み出して身につけた 《 禁呪の首環 》 によってレヴァイン自身の姿を透視する事はできなくなっていたが。
レヴァインは父親の愛情をさして信用していなかったが、レイリアの相談を受けた時、バラドはレヴァインの将来を思って息子を手放す悲しみに耐える事を選んだ。
このままでは何かとんでもない事をしでかすに違いない、というレイリアの意見に賛同した訳ではない。
親としては口惜しい事だが、バラドはレヴァインにはさしたる魔法の才も人望もなく、大した事はできまいと思っていたからだ。
息子を逃がす事で買うであろうシャイアの怒りは騒ぎだてする程のものにはならず、この慌ただしい時期に本格的な追っ手を出す事すらしないだろうと判断したせいもある。
だからバラドはヴェインを逃げ出すにあたってレヴァインがどういう準備を整えたかなど気にもかけずにレイリアを通じてまもなく結界が解ける事を伝え、レヴァイン逃亡への彼の関与を否定しやすいようライガから結界の操作を頼ませるように気を配ったのだ。
が、間もなくバラドは自分の、息子に対する認識が間違っていたと知る事になる。
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