パラワン水道の悲劇
架空戦記創作大会2024参加作品、お題➀での参加となります。
パラワン水道の悲劇とは、太平洋戦争中に米潜水艦艦隊司令官を務めたロックウッド提督が、戦後の記者の取材に際して「フィリピンの戦いでそもそもケチがついたのは、パラワン水道の悲劇から始まったのだ」と答えたことによる。
このパラワン水道の悲劇自体は、1944年10月23日に発生した。
それに先立つ10月20日に始まった連合軍によるフィリピン奪回作戦を阻止するべく、大日本帝国連合艦隊は残存艦艇を総動員する捷一号作戦を発動していた。
その主軸を務めたのが、ブルネイを出撃した栗田健男中将指揮する第一遊撃部隊であった。
それは戦艦「大和」「武蔵」を中核に、多数の戦艦、巡洋艦、艦隊型駆逐艦からなる、大日本帝国海軍最後の主力艦隊と言うべき打撃部隊であった。
同部隊はパラワン島の西岸沿いを北上し同島と南沙諸島(スプラトリー諸島)の間の狭いパラワン水道を通過した。
艦隊の動きが制約されるこの海域は、潜水艦による攻撃を受けやすく、現にこの時「ダーダ」と「デイス」の2隻が待ち構えていた。
当時の日本海軍の対潜能力は、主力艦隊であっても押しなべて低く、先立つこと6月に発生したマリアナ沖海戦では最新鋭空母「大鳳」ならびに歴戦の大型空母「翔鶴」を潜水艦の魚雷攻撃で喪っており、仮にこの時「ダーダ」と「デイス」が栗田艦隊を襲撃していたならば、戦艦でさえ撃沈できた可能性があることは、戦後多くの識者が指摘するところである。
しかしこの時、運命の女神は2隻の潜水艦に微笑まず、逆にそっぽを向いた。2隻が栗田艦隊を捕捉できる時間帯、この海域にはスコールが発生しており、2隻はこの天候悪化の視界不良により、襲撃のタイミングを逸してしまったのである。それどころか、逆に「ダーダ」が暗礁に乗り上げて、放棄されるというオチまでついた。
この大戦果を逸し、あまつさえ貴重な潜水艦を喪失してしまったことから、この一連の流れを米海軍関係者はパラワン水道の悲劇と呼ぶようになった。
もちろん、栗田艦隊は何ら妨害を受けることなくパラワン水道を通過、シブヤン海へと突入した。
一方、これに対して米海軍の主力と言うべきハルゼー提督率いる第3艦隊は、当然この栗田艦隊の動きを注視していた。しかしながら、彼の意識は栗田艦隊ばかりに向けてもいられなかった。この時日本本土からは小沢提督率いる空母機動部隊が南下中であり、また台湾方面から南下する志摩艦隊や、栗田艦隊と別働する西村艦隊もいた。
これら艦隊のどれが主力であり、どれが陽動であるのか、彼は判断せねばならなかったが、結局根っからの空母屋であるハルゼー提督は、小沢艦隊を発見次第総攻撃する方針を打ち出した。
この時点において、世界最強とも言うべきハルゼー機動部隊であったが、フィリピン各地に点在する日本の軍事拠点を攻撃しつつ、さらに複数の日本艦隊へ対応するのは、やはり困難が伴う。どこかに戦力を集中しなければならなかった。
となると、ハルゼー提督としては、最も脅威となりうる小沢艦隊に戦力を集中するという判断は間違いではない筈であった。
加えて、栗田艦隊や西村艦隊の相手は上陸部隊を直接護衛するオルデンドルフ提督指揮の戦艦部隊や、レイテ島周辺に展開する複数の護衛空母群で充分対応できるだろうという見込みがあった。
こうして、ハルゼー機動部隊の内で空母を中心とする二群が小沢艦隊を求めて北上し、残る一群がフィリピンの日本軍攻撃を主として行い、レイテ島に突っ込んでくる栗田部隊を含む日本艦隊への対応は、レイテ島周辺に展開する艦隊に任された。
しかし、対応を任されたキンケイド提督指揮の第七艦隊からすると、溜まったものではなかった。彼らからすれば、上陸部隊を援護しながら複数方向から突っ込んでくる日本艦隊へ対応しなければならない。それも、悪天候や散発的に行われる日本の基地航空隊への対応も含めてである。
この困難なミッションに、最初に取り組んだのは護衛空母部隊である。定石通り索敵機を放った彼らは、まず西村部隊を発見した。戦艦2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦4隻の小部隊ではあったが、脅威には違いない。
同部隊に対して、米護衛空母部隊からは4派延べ120機が出撃した。上空に敵戦闘機がいないために、護衛の戦闘機までもが爆装しての出撃であった。
この攻撃の結果、魚雷と爆弾多数を受けた戦艦「扶桑」が轟沈、巡洋艦「最上」が大破し、旗艦の戦艦「山城」も出し得る速力12ノットにまで落ち、浸水による傾斜で戦闘不能となり、この時点で西村艦隊は壊滅した。
このため、西村中将は駆逐艦「朝雲」に将旗を移すと「最上」を自沈処分として「山城」には駆逐艦「時雨」を護衛に付けさせて後退を命じ、自らは残存艦艇を率いて、当初の作戦計画では南下してくる志摩艦隊との合流を目指して針路を変更した。
水雷畑出身の西村提督は、残存駆逐艦での海戦参加続行を図ったのである。
これに対して北回りでの突入を図る栗田艦隊は、昼過ぎまで発見されないという僥倖に恵まれ、サマール島沖合にまで達していた。
このため、キンケイド提督は護衛空母の艦載機の攻撃目標を変更させるとともに、オルデンドルフ少将指揮下の戦艦ならびに巡洋艦部隊に迎撃を命じた。
しかしここで、米軍側にとってまたもや思いも寄らぬ事態が発生した。
なんと栗田艦隊と護衛空母群の内でもっとも西にいたスプレイグ少将率いる部隊が遭遇してしまったのである。
栗田艦隊では当初この護衛空母部隊を高速正規空母部隊と疑ったが、発進した偵察機と見張りからの報告で、商船改造の小型空母部隊とすぐに訂正された。
このため、栗田提督は戦艦部隊には遠距離砲戦を命じつつ、巡洋艦部隊に突撃を命じた。駆逐艦部隊は燃料の残量を警戒して、突撃命令を出さなかった。
とは言え、敵は小型とは言え空母部隊。その艦載機は上空に戦闘機を持たない栗田部隊には大きな脅威となる筈であった。
しかしこの時米護衛空母部隊の艦載機は、朝から行っていた西村艦隊攻撃により補給を必要としており、すぐに飛び立てる機は少なく、それどころか栗田部隊に備えて新たに装備する爆弾ならびに魚雷が格納庫に出ていた。
そこに、日本艦隊の砲火が降り注いだのだから、目も当てられない。もちろん、護衛空母も全速で逃げ、護衛の駆逐艦や護衛駆逐艦も文字通り体を張って抵抗したが、上空援護がないのではどうにもならず、わずか30分余りの砲撃戦で全滅してしまった。
これに対して日本側は、米側の必死の反撃で巡洋艦「熊野」と「筑摩」が大破し、落伍したがそれ以外に目立った損傷はなかった。
ただし、日本側は戦列が大きく乱れてしまったため、この収拾を行っている間に10月24日の日没を迎えてしまった。
加えて西村部隊が空襲で壊滅し、後方から来る志摩部隊との合流を目指す旨の無電も入っていた。
栗田部隊にとってある意味僥倖だったのは、「大和」「武蔵」「長門」と言った戦艦がいる中で旗艦を巡洋艦「愛宕」としていたことである。
「愛宕」自身の通信能力はこれら戦艦に劣るが、逆を言えば戦艦各艦が艦隊旗艦としての任を負わないために、その分通信などの各種業務にも余裕が出ていた。これにより、戦闘中でも戦艦が通信の傍受を行い、それを旗艦の「愛宕」に転電できる結果に繋がっていた。もちろんタイムラグはあるが、栗田提督に西村部隊壊滅の報などが正確にもたらされていた意義は大きい。
この栗田部隊に対して、護衛空母群1個が文字通り全滅してしまった米軍であったが、こちらも栗田部隊の正確な戦力を把握し、戦艦6、巡洋艦12、駆逐艦20隻によるオルデンドルフ提督指揮の艦隊を迎撃に向かわせた。
なお、この時点で米側にはあと二群の護衛空母部隊が健在であったが、これらはハルゼー機動部隊の主力が北上したために、上陸地点周辺ならびに輸送船団上空の援護に全力を尽くす必要があり、栗田艦隊への積極的な攻撃は行うことができなかった。
栗田艦隊とオルデンドルフ艦隊が遭遇したのは、10月25日夕方のことであった。この時点で、ハルゼー機動部隊を北方に吊り上げる任務を帯びた小沢艦隊は、同艦隊の航空攻撃で壊滅的な打撃を受けていたが、その情報はしっかりと栗田艦隊にもたらされており、栗田艦隊は後顧の憂いなくオルデンドルフ艦隊との戦闘に入った。
この海戦の結果は、日本海軍の軍人が戦前から思い描いていた理想ともいうべきものであった。世界最大最強の艦砲である「大和」「武蔵」の46cm砲で米戦艦を圧倒する。そのままの光景が実現したのである。
オルデンドルフ艦隊は戦艦全てと巡洋艦と駆逐艦の半数を喪い、壊滅した。対して栗田艦隊は戦艦「金剛」巡洋艦「鈴谷」「能代」と駆逐艦3隻の喪失こそあったが、多くの艦はまだ戦闘状態を維持していた。
この勢いのまま、レイテ湾に突入すれば輸送船団を全滅させられたと言われているが、護衛空母とオルデンドルフ艦隊との連続戦闘で、栗田艦隊は戦艦部隊はほぼ主砲弾を使い切っており、戦闘続行不可能となっていた。
このため、栗田提督は第一戦隊司令の宇垣提督に戦艦全てと損傷艦、残存駆逐艦の半数をつけてブルネイへの後退を命じ、自身はレイテへと突撃を継続した。
そしてこの時点でもなお、旗艦「愛宕」を含む4隻の「高雄」型巡洋艦は全て健在であった。既に他の巡洋艦は同型艦の多くが姿を消している中で、奇跡とも言ってよいものであった。
この4隻に加えて「羽黒」「利根」「矢矧」と駆逐艦6隻が、レイテ湾突入艦隊となった。
もし米軍側に航空攻撃をする力があれば、この程度の艦隊は撃退できる筈であった。
しかしここでも、天は日本側に味方した。ハルゼー機動部隊は北方に吊り上げられた上に、補給を必要としており、フィリピン沖に残された一群は日本海軍が乾坤一擲とばかりに送り込んだ神風特別攻撃隊を含む基地航空隊の最後の力を振り絞った攻撃にさらされていた。
このため軽空母「プリンストン」が艦爆の爆撃で大破炎上後処分、さらに「エセックス」が2機の特攻機により飛行甲板を大破し、戦闘不能に陥っていた。
パイロットの犠牲を前提とした作戦の最終的な戦果はこれだけであったが、当初想定されていた「敵空母の飛行甲板を1週間程度使用不能にする」という目的は達せられ、米空母群は空母の半数に打撃を負う結果となった。
なお、この戦果から「体当たりでは撃沈に追い込めない」という認識が全軍に広まり、結局通常の航空機に爆装しての特攻はこのレイテ戦のみで終わったのは、広く知られているとおりである。
そして、レイテ湾突入を図った栗田艦隊残存艦艇であったが、輸送船団と橋頭堡を守るべく残されていた米駆逐艦戦隊と魚雷艇隊との熾烈な戦闘に巻き込まれた。
この戦闘で、日本側は「高雄」がついに大破し、その他の艦艇にも損傷が発生した。さらに、弾薬も底を尽き、レイテ湾目前でのUターンを余儀なくされた。最終的に米駆逐艦9隻と魚雷艇7隻を道連れにしたが、作戦の戦略目標たるレイテ湾に蝟集する輸送船団の撃破は、ついになし得なかった。
こうして、大日本帝国連合艦隊が乾坤一擲の大作戦として発動した捷一号作戦は終結した。多数の米艦艇を撃沈したものの、日本側は米軍のフィリピン攻略阻止に事実上失敗し、南方資源地帯と日本本土の連絡寸断は確定的なものとなった。
栗田艦隊残存艦艇は、三々五々ブルネイ泊地へと帰投し、再集結した。
戦略的に見て、レイテ沖海戦は日本側の敗北である。しかし、帰投した艦艇の乗員たちの顔は皆明るかった。彼らは思う存分、自分たちの腕を振るって戦うことが出来たのだから。そしてその心を満たすだけの戦果を見届けることができたのだから。
その後、残存艦艇はそれぞれの道を歩むこととなった。
その中で、レイテ沖海戦終盤まで同型艦全てが揃って奮戦を続けた「高雄」型重巡についてみてみよう。
ネームシップの「高雄」は、海戦最終盤で米駆逐艦の魚雷を受けて艦尾切断、大破と言う打撃を受けつつも、辛うじてシンガポールに入港し、同港での修理が試みられた。しかし、度重なる空襲や英潜航艇の妨害によって、ついに二度と海上に出られないまま、昭和20年7月15日の敗戦を迎えた。
その後英軍に接収された後、敗戦後に賠償艦として英国割り当てとなったが、同国にとっては不要であったため、台湾に逃げ延びた中華民国に譲渡された。
しかし、それも束の間のこと。長年海軍が壊滅状態であった同国では、このような大型艦(日本から他に「利根」「酒匂」を入手していた)を複数保有するだけの力はなく、この中でも一番古株の「高雄」はしばらく係留された後、今度は日本の海上警備隊(後海上自衛隊)に返還のされ、大型護衛艦「たかお」として再就役し、昭和35年に退役した。
海自就役期間は短かったものの、大型艦艇は見栄えが良いために、同時期多数が製作された怪獣映画に度々出演し、日本を代表する怪獣たちと幾度も共演を果たした。
映画では幾度も怪獣によって撃沈破された同艦であったが、実際の同艦は退役後も江田島に係留されて実艦教材として使用され、艦艇が登場する戦争映画の撮影場所として幾度となく使用された。
そしてバブル景気に沸く平成元年に呉市に譲渡されると、同市の再開発で建設された海事資料館の海上パビリオンに利用され、数少ない旧海軍の実物艦艇として人気の的となっている。
2番艦の「愛宕」は栗田艦隊旗艦としての武勲を立て、その後他の艦艇とともに日本への帰投についたが、台湾海峡通過中に、米潜水艦「タイガーフィッシュ」の雷撃に遭った。この時ばかりは、幸運の女神は二度と微笑まず、同艦は4本の魚雷を受けて大破沈没した。
ただこの時「愛宕」の後方には、戦艦「武蔵」が走っており、「愛宕」が身を挺して守る形となった。
3番艦の「摩耶」はレイテ沖海戦出撃時点で、以前の損傷修理の際に3番砲塔を撤去し、そこに二基の12,7cm連装高角砲と機銃座を搭載し、他の同型艦よりも対空火器を増強した一種の防空艦となっていた。
そのため、11月に行われたサンホセ突入作戦に際しては、来襲する米軍機の撃退に一役買っている。また2月に行われた日本本土への物資輸送作戦である北号作戦では、同型艦で唯一の参加艦となった。
日本本土に帰還後は、その持ち前の火力を活かして3月の呉空襲も乗り越えたが、それゆえに4月初旬の戦艦「大和」「武蔵」とともに行われた海上特攻作戦の参加艦となった。
同艦は持ち前の対空火力で奮戦したが、それゆえに米攻撃隊の優先目標となり、魚雷2本と爆弾5発を受けて、大破後自沈となった。
しかし、同艦に攻撃が割かれた結果「大和」と「武蔵」は小規模な損傷で済み、翌日の米戦艦との決戦で米戦艦「ニュージャージ」「アラバマ」を道連れに、帝国海軍最後の大戦果を挙げることとなる。
そして4番艦の「鳥海」はレイテ沖海戦で軽微な損傷を受けたが、シンガポールでの修理の後に、戦線に復帰し、その後はシンガポールを中心とした海域で活動を続けた。
しかし、昭和20年5月に重巡「羽黒」駆逐艦「神風」とともにアンダマン諸島への補給作戦中に、5隻の英駆逐艦戦隊と交戦した。この時「羽黒」と「神風」は武装の多くを降ろして物資を搭載しており、実質的に戦闘可能なのは「鳥海」だけであった。
このため、同艦は英駆逐艦戦隊の前に立ちはだかり、1対5の戦いを挑んだ。その結果2隻を撃沈し、1隻を大破させたものの、残る2隻より発射された魚雷3本を受けて航行不能になったところを、追いうちの砲雷撃で撃沈された。
「鳥海」の身を挺した働きで「羽黒」と「神風」は輸送作戦を成功させたものの「鳥海」の生存者は英駆逐艦に救助されたわずか11名のみであり、これは同型艦の中で最小の生存者であった。
パラワン水道の悲劇が起こらず、いやパラワン水道の悲劇が日本側にとっての悲劇であったとしても、戦争の結果自体は大きく変わらなかったというのが、多くの識者の一致した意見である。
しかしながら、海戦の推移や参加した艦艇や人員の運命が大きく変わったことは、まず間違いないであろう。
これもまた、歴史の事実である。
先日日本の架空戦記のパイオニアとも言うべき高木彬光氏著の「連合艦隊、ついに勝つ」を読みました。
この作品では、歴史をいくら改変しても結果は変わらないという、その後の歴史改変作品でとられるスタンスが取られていました。中の人としても、そうした考え方があることは否定しません。
しかし、自分の場合は史実を調べれば調べるほど、歴史は些細なことで容易に変わり得ると考えるのです。もちろん、大局的な結果は変わらないでしょう。でも、たった一人の気まぐれが、その後の世界に生きる、10万、100万、1億の人々に影響を与えないとは、言い切れないのではないでしょうか?
そうして、過去から未来を考える。それが架空戦記の醍醐味ではないでしょうか?