再び城へ
チェルシーは、城に一室を与えられた。
さすがに城に戻るように命令しただけあって、部屋の調度品はしっかりと整えられているし、侍女も準備されている。チェルシーは一人でここに来ても困らないだけのものはあった。
そう、表向きは。
挨拶している時、侍女たちは無表情だった。案内をしていたどこかの貴族と言う男性も、チェルシーに向ける視線は蔑むようなもの。
あのときと、何も変わっていない。
変わったのは、チェルシーだけだ。だから、周りが変わってなくても大丈夫。
十歳の幼くて何も分からなかった女の子じゃない。五年間、オルダマン侯爵家で淑女教育をしっかりと施された。
チェルシーは、ここでは聖女で王太子妃候補だ。
身分だけは、自分に不釣り合いなほど高い。
「お嬢様の教育係を勤めます。マリランシアと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
初日、部屋に案内された途端に教育家係がやってきた。
みっちりと勉強しろということなのだろう。
なにせ、チェルシーが望まれているのは、王太子妃。ゆくゆくは王妃となる位置だ。
挨拶をして、その場でいくつか課題を出された。内容は、文字の書きとりと単語の意味を書くこと……まるで小さな子供への問題のようだ。
やらなかったらどうなるかなんて、すぐに想像できる。こんなこともできないと噂を広げ、城から追い出すつもりなのだろう。
こんな場所、いたくない。追い出してくれるなら、追い出されたい。
――だけど。
オルダマン侯爵家の家族の顔が浮かぶ。領民のためを思い仕事をして、学んでいた。
愛してくれた彼らに報いたい。
チェルシーにできることなんて、オルダマン侯爵令嬢として、王家と縁続きになる事だけだ。
「かしこまりました」
チェルシーはやってもやらなくても馬鹿にされることは分かっているけれど、穏やかに微笑みながら課題を受け取った。
城に来て一週間がたったころ、ようやく王と王太子に会うことが出来た。……会う気があったのだなと、思わず感心してしまった。
チェルシーは謁見の間に連れて行かれ、大勢の貴族が立ち並ぶ中で、出来る限り美しく見えるように心がけて、微笑んだ。
「ほう。令嬢に見えるようになったな。喜ばしいことだ」
王の言葉には、チェルシーは何も答えず、視線を伏せるだけで返事とした。
王の隣に立った王太子、サミュエルは何も言わずチェルシーを見ているだけだ。チェルシーがサミュエルに視線を動かした時だけ、不満げに表情をゆがめた。
王族のくせに。
チェルシーに課した感情制御ができていないのか。それとも、わざとチェルシーにその表情を見せたのだろうか。
どちらにせよ、嫌がられているのは同じだけど。
「では、聖女としての力はどうか」
城に来て何度もやらされた。
植物の種が植えられた鉢に力を注ぎこめと言われるのだ。毎日毎日何度も何度も。
どうやら、同じ条件の鉢をあちこちに設置しているようだが、チェルシーが育てたものが明らかに生育が良い――などということもなく。鉢の生育速度は同じ。何も変わらない。
「愚鈍な私では、判断することさえできません」
「なんと。己の事であろうに」
臣下から結果は聞いていたはずであろうに、王は責めるようにチェルシーに問いかける。
「以前はもっと花を咲かせられていたように思うが」
「幼少のみぎりなれば」
もう五年も前の話だ。オルダマン侯爵家では、庭にたくさん花が咲いていたし、庭師がいたのでチェルシーが自分で花を育てることはなかった。
幼いころに花を育てることが上手だっただろうと言われても、専門的にやっている人たちよりできるかといえば、できるわけがない。
「もっと聖女としての力を発揮するよう励め」
「はい。全力で勤しむ所存でございます」
できるなら、とっくの昔にやっている。
聖女の力があれば、オルダマン侯爵家の役に立てたはずだ。何もできないから、チェルシーはここに居るのだ。
「王太子との婚約は保留とする。聖女と認知されれば、また考えよう」
「かしこまりました」
チェルシーは、さらに深く頭を下げた。
――ここから、チェルシーの王太子婚約者候補としての生活が始まった。
朝起きて、着るものを全て準備される。立ち居振る舞いは、常にチェックされる。朝食を食べ、午前中の勉強をし、昼食時には幾人かの貴族と交流を持ちながら、食事を楽しんでいるように見せなければいけない。午後の勉強をして、ダンスもピアノも分刻みで計画に入っている。夕食ご入浴、課題を終わらせて就寝。
自由時間は全くなかった。
下賤な者が王太子の婚約者に候補と言えどもなったのだから、誰よりも厳しい努力が必要なのだ。そうでなければ、民は納得しない。
民が納得しない――なんて。見え透いた言い訳だ。
民は、着飾って手を振れば見た目も性格も分からずとも、王太子妃として認める。そもそも民衆が王太子妃に反対だと言っても聞き入れられることはないのだから。
納得しないのは貴族だろう。
平民が、自分たちよりも上にいることが気に入らないのだ。
あんなやつら、大嫌いだ。
そう思いながら、チェルシーは机に向かう。
弱音なんて吐かない。絶対に王太子妃になる。
チェルシーは全ての時間を王太子婚約者の勉強に費やした。
三年がたった。
チェルシーはもうすぐ十八歳になる。
十八で成人したら、チェルシーは正式に王太子婚約者となる。
やっと……やっと、だ。
チェルシーは久しぶりの王太子との顔合わせに大きなため息を吐きたいのをこらえた。
嬉しそうにするのは無理だ。だけど、嫌そうに見られるのは避けたい。
こういうとき、感情の制御を学んでいたのは良かったと思う。感情を見せることで、隙を突かれるなんてまっぴらだ。
いつもの穏やかな微笑みを浮かべて、チェルシーは、サミュエルがお茶をするテーブルの傍に立っていた。
『正式な婚約者でもない平民が、王太子殿下と同じテーブルにはつけない』のだそうだ。
チェルシーの身分は、オルダマン侯爵令嬢のはずだが、チェルシーをひたすら蔑む人たちに、そんなものは関係ないようだ。
「エメラルドが懐妊した。彼女と早急に婚姻を行うことになった。あなたとの婚約は白紙となった」
彼は、綺麗な青い目をちらりとチェルシーに向け、彼女の反応を窺う。
チェルシーはどくどくと心臓だけ大きく動いているのに、体の力が抜けるという奇妙な感覚を味わっていた。
何か、答えなければ。
侯爵家と城で八年間やった淑女教育は、チェルシーの味方だった。
「かしこまりました」
両手足が震えて今にも倒れそうなのに、身につけたとおりのお辞儀をしてチェルシーは自分に与えられた部屋に戻った。
王太子の前を辞し、部屋に戻ると、荷物がすっかりまとめられていた。
すぐにやってきた家令によって、城を下がるように伝えられた。
婚約者でなくなったから、城にいる理由がなくなった。だから、後見人であるオルダマン侯爵家に帰るのだと。
王太子妃になれないチェルシーなど、侯爵家に戻っても何の価値もないのに。
「分かりました。準備を」
そう言うと、一瞬、侍女たちに不愉快そうに見られたが、気が付かないふりをする。
いつもいつも、気が付かないふりをしているから、どんどんあからさまになっていった。城に勤める侍女たちでも、『田舎の農家の娘』よりは地位が高いのだ。突然侯爵令嬢になったチェルシーを蔑む表情に気が付いて、咎めて欲しいのだろうか。
自分では動いてはいけないと言われているから、着替えも食事も入浴も全てやってもらわないといけない。
その度に嫌そうな表情をされることが苦痛だと訴えて何になるだろう。
そうやって使用人を入れ替えても、濡れ衣を着せられて辞めさせられたと、彼らは周囲に訴えるのだろう。新しく来た使用人も、同じ表情をする。
何度繰り返しても同じこと。
平民が聖女へと取り上げられて、いい気になってわがまま放題だと言われ続けるのだ。
すぐに整えられた荷物と共に馬車に乗せられる。いつから準備をしていたのと笑ってやりたい。
荷物の確認はしない。絶対に持ち出したいものなどない。なんなら、荷物などなくてもいい。
「お世話になりました」
最後の挨拶だけはした。
二度と戻って来たくなんかない。ここから出られてうれしいと思っていても、表情だけは辛そうに。悔しそうに。
その表情で、彼らは満足するのだから。