別れを
家庭教師から教えてもらった。
この国の聖女とは、常と異なる力をその身に宿す乙女のことだ。
聖女は、歴史書にたびたび姿を現す。
水不足の地に雨を降らせたり、逆に大雨を止めたり。感染病が流行ったときは、奇跡の力で治癒してみせたともある。
全てが神々しく描かれ、全ての人に恵みをもたらす神の使いとして、その存在は国にとっての吉兆。
聖女が現れた時代、国は栄えると、国民は信じている。
だけど、どんなに歴史書を読んでも、その存在は曖昧だ。
国が混乱した時に、突然聖女は現れる。神の慈悲で遣わされているというようなことを書いている本もあった。
あまりにも都合がいい。聖女が現れたから頑張れと、国民を鼓舞しただけにも見える。
聖女の多くは貴族から出ている。そうして、国を救った後、彼女は王族と結婚して、聖女としての力を失う。
けれど、彼女が生きている限り、国は光り輝く恩恵をいただき、発展していくのだ。
めでたしめでたしとなる。
そんな聖女は、結局は作られたものではないかと考えてしまう。
だったら、チェルシーは何なのだろう。
今、国は平和だ。
田舎に住んでいたから、本当は戦争がはじまりそうだとか、内乱が起きそうだとか、そういう情報にうといのは分かっている。本当は平和ではないと言われたら、どうしようもない。
ただ、田舎でも、貧しくても、食べ物はあった。根こそぎ税で奪われていくことはなかった。
それが一つの指標になる。
国が貧しくなれば、最初に被害を受けるのは、貧しい者たちだ。
税金はあげられ、男手が捕られ、田舎は死んでいくしかなくなる。
そんなことは全くなかった。
貧しいけれど、畑を耕してご飯を食べて暮らしていける収入があった。
聖女が現れるほどの事態は何も起こっていないのだ。
だけど、チェルシーは聖女として認められた。
――間違いだったのではないか。
たまたま、チェルシーが育てた畑だけが元気だっただけだ。日当たりや肥料の具合でそういうことが起こることも考えられる。
思えば、歴史書で大げさに書かれている聖女も、偶然と言えば偶然のような出来事もある。それが、その時代にどう利用されたかだ。
わざわざ、聖女になんてしてくれなくても良かった。
たまたま作物が育ち、チェルシーに特別な力があると噂されてしまった。
だからこそ、チェルシーを王家が引き受ける必要があるのだろう。
突然、体が浮き上がる。
「チェリー。難しいことを考えているね?ダメだよ。私と楽しく散歩している時に楽しくないことを考えては」
ダイナンがチェリーの両脇に手を入れて持ち上げたのだ。
「お兄様!」
この四年で、チェルシーだって背が伸びた。体つきだって少しは丸みを帯びて女性らしい体になってきている。
――にもかかわらず!
ダイナンはこうやってすぐにチェルシーを抱き上げるのだ。
勉強だってマナーもダンスも頑張った。
どこに出しても恥ずかしくない――とまではいかないが、淑女になったというのに、ダイナンはいつもチェルシーを甘やかす。
「チェルシーはもう、女の子ではなく、女性なの。むやみに抱き上げないでください!」
「ふふ。もちろん、わかっているさ」
ダイナンは、チェルシーをそっと下ろし、微笑む。
そうして、辛そうに眉間にしわを押せて、チェルシーを抱き寄せた。
「分かっているけれど、チェリーは、いつまでも俺の大切な女の子だ。それは決して変わらない」
五年の間に身長差は縮まるかと思っていたが、あまり変わらなかった。
チェルシーも大きくなったが、ダイナンもさらにスラリと背が伸びて格好良くなった。
だけど、こうして二人きりの時にだけこぼす呟きは、少しだけ幼い。
チェルシーをいつまでも幼い妹扱いしたがって、抱き寄せて甘えて欲しいと言うのだ。
「辛いことがあったら、必ず言うんだ。俺が何をしても守ってやる」
最後に言う言葉も、同じ。
受け取る側――チェルシーが大人になって、それは無理だと分かってしまったことだけが変わったこと。
「はい。ありがとうございます。お兄様」
何をしても……なんて、許されるわけがない。
城に行きたくないから、留学先に連れて行ってと言われたらどうするのだろうか。
ダイナンは優しすぎて、時々心配になる。
チェルシーはオルダマン侯爵家で施された教育の成果を見せつけるように微笑んだ。
温かくて柔らかな空気に包まれて、この家にいた五年間は、大切にされたと感じられた。
本当はお城になんか行きたくなかった。
だけど、エドワードもダイナンも何も言わないけれど。オルダマン侯爵家の名を貰ったチェルシーが、王太子の婚約者になることを望まれていた。
家庭教師に、聖女として王族に嫁ぐことこそ、オルダマン家の力をさらに高めるのだと幾度となく教わったのだ。
政略結婚は、貴族の子女の義務。家の権力をより高めるために、令嬢は存在する。
チェルシーが城に行きたくないなんて言ったら、オルダマン侯爵がチェルシーを引き取ったのは、無駄だったということになる。
衣食住と教育。そして、この五年間、与えてくれた家族の愛情。
――充分だ。
こんなに幸せをもらって、これ以上、何を望もうと言うのか。
チェルシーは、彼らのために、何をすればいいのか分かっている。
ダイナンが領地経営を学ぶために周辺国へ留学すると聞いた。
何故、チェルシーだけが城に行くのが嫌だとわがままが言えるだろうか。
嫁ぐのも勉強するのも、全ては領民のため。
チェルシーは、オルダマン侯爵家の人たちのために。