オルダマン侯爵家
チェルシーという面倒ごとを押し付けられたのは、オルダマン侯爵という人らしい。
城から、わざわざ馬車を使わなくてもいいような距離に、その屋敷はあった。
城から出されて、オルダマン侯爵という高位貴族に引き取られるなど、幸運だと教えられた。少ない荷物をまとめられている時も、どんなにチェルシーが恵まれているかを何度も聞かされた。
こんな生活ならば、チェルシーはあのまま野菜を育てながら暮らしていたかった。
周り全員に嫌われて、笑うこともできないこの状態に感謝しなければいけない?
何もかも、誰かが決めた幸せで、光栄に思えと、大切を押し付けてくる。
それでも、チェルシーは聖女として認められてしまったから。
――チェルシーを大切にしなければいけないから、チェルシーは、大切を押し付けられるのだ。
ほんのちょっと馬車に乗って、すぐに下ろされる。
オルダマン侯爵家の屋敷は、緑に囲まれた白い建物がとてもきれいなところだった。
「ようこそ、聖女様。オルダマン侯爵家当主、エドワード・オルダマンでございます」
入口で出迎えてくれたのは、なんとオルダマン侯爵、その人だった。
城に迎えられて、国王様に会ったのなんて、最後の日だけだったのに。
「お、お世話になります」
チェルシーは、きっとまた嫌なことを言われるのだろうと警戒しながら挨拶を返した。
エドワードは、黒髪を綺麗に撫でつけて、スラリとした長身の洗練された男性だった。父と言うよりも、兄の方に年が近いようにも見えた。
今は優しそうに見える。でも、カーシルも最初はとても優しかったのだ。
玄関は、大きな花瓶にたくさんの花が飾られて華やかだ。案内される廊下にも、花やリボンが飾られて、とても可愛らしい。
いつもこうなのだろうか。
そうだったら、少しうれしい。
でも、きっと、チェルシーの希望なんて関係ないから。
エドワードが案内してくれた部屋には、女性と男性がいた。チェルシーが部屋に入ると、二人ともソファーから立ち上がり、にっこりと笑ってくれた。
その反応に、ホッとする。
王城よりは歓迎されているように思えた。
「聖女様、長男のダイナンと、長女のソフィアです」
エドワードが二人を紹介すると、二人とも同じような笑顔で、「いらっしゃい」と言った。
エドワードと同じ黒い髪と青い瞳。背が高いが、どことなく幼くも見える。まだ成人はしていないと思うが、立ち居振る舞いから、男の子とは呼べない雰囲気の男性。
女性の方は、ダイナンよりも少し年上に見えた。金髪に、男性二人と同じ青い目の色をしている可愛らしい人だ。チェルシーにはない柔らかそうで真っ白な肌をしている。
「こんにちは。お世話になります」
チェルシーは、彼らをじっと見つめた。二人の表情が変わらない。
――これは、一番強く言われたこと。
常に穏やかに微笑んでいなさいと。
聖女たる者、常に穏やかに微笑んでいなくてはならない。怒ったり泣いたりなどもってのほか。表情を変えずに、常に良い姿勢で立っていなさい。
貴族であれば、誰でもできる処世術。この感情を隠すことが出来なければ、ここで生活させるわけにはいかないと。
結局、彼らも同じだ。
表情を変えずに、穏やかに微笑んで見せて、何を考えているか分からない。
チェルシーは、うずくまって泣き出したかった。
そんなことをすれば、この優しい表情を保った人たちはどうするだろうか。
「どうかされましたか?」
エドワードがチェルシーの様子に首を傾げる。
こんなに丁寧に接してくれるのはいつまでだろう。
食事の時には、チェルシーの下品さに眉を寄せて蔑んだ瞳を見せるのだろうか。
「別に。また、同じようなところに来ちゃったなと思っただけ」
チェルシーの言葉に、エドワードは目を丸くした。
次は、『こんなによくしてやっているのに』と言うのだろうなと思った。
「嫌なの?」
そうしたら、ダイナンがさっきまでの笑顔を消して聞いてきた。
気に入らないという表情だ。
穏やかな笑みを消すと、少し幼くなる。思ったよりも年が近いのかもしれない。
能面のような笑顔と蔑み以外の表情を久しぶりに見たような気がする。
ダイナンは、とても深い青い瞳をしている。澄んだ青い色に、不満げなチェルシーが映っている。
「嫌って言っても、私は幸運なのだから、感謝しなければならないんでしょう?」
チェルシーは気に入らなそうなダイナンに、同じだけ気に入らない顔をした。
そうしたら、もっと嫌なことになることが分かっているのに、心が言うことを聞かない。とげとげとして、攻撃したがっている。
「やっぱり嫌なのか。何が嫌だ?言わないと分からないだろう」
チェルシーはとても嫌な言い方をしたのに、ダイナンは逆に表情を緩めた。
何が嫌か。
「その……表情が嫌だ。何を考えているのか分からない」
今度は、エドワードもソフィアもそろって驚いた顔をした。
「そうか。だったら、どうしたらいいかな。君は、どうして欲しい?」
――どうして欲しい?
聖女と言われてから、今までで、初めて訊かれた。
押し付けるばかりで、チェルシーの気持ちなんていらなかった人たちには、彼女の想いなど必要なかった。ただ、高級品を与え続けただけだ。
「私は、聖女様じゃない。チェルシーっていうの」
聖女なんて、チェルシー一人だけではない称号で呼ばないで欲しい。
最初は、全然気にならなかったのに、気が付けば名前を呼んでくれる人は一人もいなくなっていた。
「ああ。可愛い名前だな。チェルシー」
ダイナンがほほえんで、彼女の名前を呼んだ。
「それで?どうして欲しいって?」
ダイナンの笑顔に促されて、チェルシーは床を睨みつけて言った。
きっと、『馬鹿なことを』と言われるだろうと予想して。
「……泣きたい。わんわん泣きたいの。一緒に大声で笑いたいの。足を鳴らして怒りたい」
たくさん欲しいものがあった。
家族の元を離れるまでは、綺麗な服もふかふかの布団も、全部欲しかった。
でも、与えられる向こうに見えるのは、蔑みの表情で。
そんなものを前にして、チェルシーに穏やかに微笑めと言うのだ。できるはずがない。
チェルシーは、もう限界だった。
「なるほど。いいぞ。存分に泣け」
ひょいと、チェルシーの前にしゃがんで、顔を覗き込まれた。
こうして、目を覗き込んでくれる人なんていなかった。
勝手に、涙があふれてきた。もう、止めようと思っても止まらない。
チェルシーはダイナンとエドワードとソフィアの手を順番に引っ張って、自分の手に重ねた。三人とも、されるがまま、チェルシーを見ていた。
「一緒に泣きたいの。泣いてっ」
「俺たちもか!?」
ぎょっとしたようにダイナンが手を引きかけたけれど、その手をぎゅっと握って、チェルシーは言う。
「良いって言った!泣いて!お姉ちゃんも、おじさんも!いっぱい、わんわん泣くの!」
チェルシーが叫んだ瞬間、ソフィアの瞳から、ポロリと涙がこぼれた。
一緒に泣いてくれたと思って、チェルシーは三人の手をぎゅっと握った。
「あ……」
誰の呟きだったか分からない。気が付いたら、三人ともぽろぽろ涙をこぼしていた。
チェルシーは泣いた。思い切り泣いた。
何が悲しくて、何の原因で泣いているのかなんて、もう頭にはない。
とにかく、今は泣きたいのだ。
王都で初めて表情を見せてくれた人たちと。