もう一度王太子妃候補へ
チェルシーがオルダマン侯爵家の庭を満開にしてから、彼女の力は大きなものだと民衆たちの間であっという間に広がっていた。
オルダマン侯爵領は、聖女の力で豊かなのだという結論にまで、その日のうちに市場に行けば耳にするような話題になってしまった。
チェルシー・オルダマン侯爵令嬢は、豊穣の聖女だと民衆は盛り上がっていた。
そんな噂を聞いた貴族たちは、不快感をあらわにした。
豊穣の聖女など、そんなものはただの民衆の中だけの噂で、教会が認定したわけではない。貴族が振り回されるような噂ではない。民衆の中にはそんな噂もあるのかと、ただ聞き流してしまえばいい。
庭が花だらけになっただけで民衆からの人気を独り占めしようとするオルダマン侯爵に不満が向かう。
貴族院は、チェルシーを連れてきたカーシルを招聘した。
「あの娘は、真に聖女か」
「はい。微弱ながら、植物を育てる力があると私は感じました」
「では、教会を代表として、神官や巫女たちの上に立てる人物か」
「いいえ。神に仕えるものは、清貧かつ実直に日々の修練が必要でございます。あのお方には辛い場所になってしまいます」
やはり、噂になったような力はチェルシーにはないと、貴族院は判断した。オルダマン侯爵が自身の力を上げようとして、無理矢理、邸宅を花で豪勢に飾ったのだと結論付ける。
役に立たない娘を押し付けられたと言っても、何とも汚い人気取りをするものだと、貴族たちは顔をしかめる。
すでにチェルシーは聖女として民衆からの支持を得てしまった。
これでそんなに強い力はないのだと発表しても、『自分は見た』という人たちが出てきて、結局は流れてしまったうわさは消えない。逆に、消そうとするほど燃え上がってしまうかもしれない。
だったら、その民衆の支持を集めた聖女を王太子が娶るのが一番いい。
オルダマン侯爵にこれ以上の力を与えず、かつ王族が注目されるとてもいい考えだ。
オルダマン侯爵嫡男と婚約を認めてしまったが、破棄でも解消でもさせればいい。理由は何でも付けられる。
例えば、チェルシーが王太子に恋をして、ダイナンを捨てるのだ。
あの我儘な娘ならばやるだろう。
王太子の結婚としては、本当はもっと有用な相手との婚姻を望んでいた。オルダマン侯爵家は縁をつなぐには良い相手だが、チェルシーは所詮、養女だ。しかも、王家が押し付けたような。
王は仕方がないのでそうしようと決定した。
チェルシーは王太子妃になってもらう。
ただの農村の娘に、過剰すぎる待遇だ。彼女に暗に提示したら、案外向こうからサミュエルにすり寄ってくるかもしれない。
何せ、サミュエルは美しい。十人女性がいれば、十人ともサミュエルを振り返るだろう。
「サミュエル。いいか、聖女を連れてこい」
王に言われてサミュエルは座っていた席から億劫そうに立ち上がり、オルダマン侯爵家へ向かったのだ。
こうして、チェルシーはまた城へ連れ戻されてしまった。
城に戻され、与えられた部屋は、今まで暮らしていた場所よりも広く日当たりがいい。明らかに厚遇されているようだ。
サミュエルは、城に着いて、チェルシーを侍女に預けた後で早々にどこかに行ってしまった。
この豪勢な部屋で、見張りの兵に見守られながら、チェルシーは座り心地の良いソファーに一人、ぼんやりしていた。
どれだけ考えても、何故、連れ戻されたのか分からない。
そもそも、サミュエル自身が迎えに来たことが信じられない。
……本人が迎えに来たと言っていたので、迎えに来たのだろう。
なんか勢いで、家を守るために!というようなのりでついてきてしまったけれど。
で、何のためにここにいるのだろう?
リドルは、随分と心配していた。
チェルシーが城に行くことは心配をかけるようなことだろうか。一応は侯爵令嬢という高い身分を持つため、直接的に害されるようなことはない。
それ以外で心配されること……?
言い出した本人がいないけれど、サミュエルはチェルシーをどうこうするつもりはないと思う。
害するにも、厚遇するにも、彼にとってはどちらでも面倒くさいことではないだろうか。
離れてみたら、実は好きだったことに気が付いた――なんて、あり得ない。
絶対に嫌われていた。気になる子には意地悪をするなんて、恋愛小説にはよくある話だが、あれは違う。そういったどきどきな展開を期待できないほど、チェルシーには無関心だった。
チェルシーとの時間を持たなければならなかったのだろう。一緒に過ごさなければいけない時間があっても、彼がチェルシーの存在を認めたことなどない。意地悪とか無視とかいうレベルではない。いないものとして扱われたのだ。
それが、いきなり迎えに来た?何のために?
馬車の中でも、ずっと無表情だった。途中、何のために城に行くか尋ねてみようかと思ったが、声を出した途端、睨まれた。
チェルシーが面倒なことを言い出さないかだけを心配していたように思う。
ダイナンが隣国に行って、それを追うようにエドワードも屋敷にいなくなった。
その留守を狙ったように、チェルシーを連れ戻しに来たサミュエル。
これは偶然だろうか。
偶然でなければ、ダイナンは今、どこにいるのだろう。
隣国にさらわれたように見せかけて、本当は自国の仕業……?
淑女のマナーなどは学んだが、隣国の情勢などは学んでいない。政治もチェルシーは苦手な分野だ。
サミュエルが何をもって突然チェルシーに価値を見出したのか分からない。
攫われるように連れて来られたけれど、チェルシーには見えない何かの取引があったのだろうか。
格好つけずに、何故一緒に行かなければいけないのか、聞けばよかった。なんだかみんな、当たり前にチェルシーを重要人物扱いしてくるから、そういう感じにしてしまったけれど。今更恥ずかしい。
どれくらい経ったのか、ノックの音が響いて、侍女はチェルシーに何も聞かずに開けてしまう。
部屋は豪華になったけれど、こういうところは変わっていない。
チェルシーには拒む権利も、何かより優先されることも無い。
ドアを開けた先に立っているのはサミュエルだった。
「チェルシー・オルダマン」
そんなに嫌なら呼ばなければいいのにと思いながら、立ち上がって出迎える。
「殿下のご来訪、心よりお喜び申し上げます」
顔を上げると、おそらくチェルシーと同じ表情だった。
そんなに嫌なら言わなければいいのにって思っているに違いない。
この人、王太子のくせに表情に出過ぎだ。
サミュエルはチェルシーに声をかけるでもなく、勝手にソファーに座る。すると、勝手に侍女がお茶を出してくる。
何が楽しくて、誘拐犯と仲良くお茶の時間を過ごさなければならないのか。
「座れ」
「……」
この、身分社会のしがらみが辛い。
王太子妃候補でなくなって、ようやくサミュエルにとってそこまで煩わしい存在ではなくなったということだろうか。
チェルシーは、初めてサミュエルの前に座ることが出来た。ティーセットを前にして、無言で向かい合う。
しばらく無言で過ごしていたが、サミュエルがおもむろに口を開く。
「私は、無駄なことが嫌いだ。君との時間を、私は有益なものだと感じられない」
「さようでございますか」
まったく同意見だ。こうしていても、無駄でしかない。
「しかし、君が聖女だから、私と結婚しなければいけない」
サミュエルは一人頷いて、お茶をすする。
チェルシーは、『今さら何言ってんの、この人?』という言葉が浮かんできたが、賢明にも口に出さなかった。
「エメラルド様はどうなさったんですか?」
彼女が妊娠したから、チェルシーは城を追い出されたはずだ。
だが、サミュエルは眉間にしわを寄せて、首を横に振る。
「妊娠してなかった。妊娠したと思い込むことで、似た症状が出るということもあるらしいが……どこまで本当だか分からない」
妊娠してなかったとしても、やることはやったということだ。
そして、チェルシーを追いだす理由として、彼女が妊娠したことを理由とした。つまり、彼女はすでに処女ではないことを公表したも同然なのだ。
その状態で、妊娠していなかったからといって、そちらを放り出していいはずがない。
この男は何を言っているのか。
「私は、ダイナン・オルダマンの婚約者です。聖女にも王太子妃にもなるつもりはありません」
サミュエルもエメラルドもどうでもいい。
チェルシーは、ダイナンの妻になりたいのだ。
「私は、無駄が嫌いだと言っただろう。一人で考える時間をやろう」
「考えても、考えは変わりません」
言い返したチェルシーを一瞥して、サミュエルは部屋から出て行った。
チェルシーが城に戻されたのは、どうやら、もう一度王太子妃婚約者候補に返り咲いたことが理由なようだ。
チェルシーは、深いため息をついた。




