ダイナンが消えた
ダイナンからの公衆の面前での頬にキス事件は、誰からも言及されずに終わった。あたふたしているのはチェルシーだけだ。それはそれで、もちろん恥ずかしいけれど。
次の日。
ダイナンがいないのは寂しい。だが、チェルシーにはやることがある。
結婚式に向けた準備だ。
彼と一緒にできないのは残念だが、進められるところは進めておきたい。
エドワードが招待客リストを持ってくる。
「とりあえず、絶対に招待するのは、この程度だな。あとは、陛下や王子たちをどうするかと、神殿関係者か」
とりあえずと言われて渡されたリストが重い。物理的にも心情的にも重い。
王太子妃教育の一環として覚えさせられた貴族名鑑の上から順に並んでいるのではないだろうか。そして、王族まで招待するのか。
さすが、侯爵家。普段は意識しないのだが、高位なだけある。
ダイナンとの結婚式は、思った以上に大変そうだ。
「定型文で良い。招待状を書いていてくれ。宛名は、たまに肩書が変わる場合もあるから、出すときになって確認しながら書く」
文面だけでも結構な量だ。
招待状は、忙しい方もいるので半年前には発送するらしい。一年後に結婚式をあげるとしても、あと半年で他の準備をしながら招待状も書くのか。
会場の形や演出、花の飾り方と、料理、贈り物。どれくらいのものが確保できるか。演出もこだわらなければ、オルダマン侯爵家の名を下げることになりかねない。
それから、衣装だ。ダイナンの隣に立っても霞まないように、少しでもきれいに見せる努力しなければ。
こうしてやることが明確になると、時間の少なさが際立つ。
自由時間なんて持っている場合じゃない。
「はい。頑張ります」
まずは、カード選びからだ。
気合いを入れるチェルシーを見て、エドワードは苦笑いして彼女の頭を叩く。
「まあ、アナやリドルたちもいるから、そんなに気張らなくていい」
その言葉に周りを見回すと、お茶の準備をしてくれている侍女がにっこりと微笑んでくれた。アナだけじゃない。この邸の中、全員が手伝ってくれる気だ。
「えへへ」
思わず、だらしない笑いが漏れてしまった。
エドワードはそんなチェルシーに微笑んで、執務室に戻っていった。
心がほわほわする。
ああ、オルダマン侯爵家にいる間は、いつもこうだったなあと思い出した。
チェルシーは、カードを選ぶためにアナを呼ぶことにした。
なんだかんだと、忙しくしていれば、日常はあっという間に流れて行く。ダイナンが隣国に行ってしまってから、早くも一カ月が過ぎた。
そろそろ会議は始まっているのだろうか。国境で販路を作っていきたいものをいくつも指定して、相手方と条件のすり合わせをする。
その話し合いは、どちらも有利に進めたいので長くかかるだろうと聞いている。
チェルシーは相変わらず、招待状を書いている。
根を詰めてやってしまうと、字が汚くなってしまい、余裕を感じられなくなってしまうので、一日に書く枚数を決めた。目標の日までスムーズにいけば、しっかりと終わるペースだ。
これが終わったら、少し休憩しよう。
そう思っているところで、チェルシーの部屋のドアがノックされた。
「はい」
アナは室内にいるし、誰だろうと声をかけると、エドワードが難しい顔をして入ってきた。
「お父様。どうされたのですか?」
エドワードもとても忙しい人だ。時々お茶の時間に付き合ってくれるが、その時は夕食が厳しくなる。ダイナンをあてにしていると、いつも冗談のように言っている。
「チェルシー、こちらへ。話がある」
文机ではなくソファーを勧められ、チェルシーは首を傾げながら座る。
エドワードが「今いいか?」とも「時間あるか?」とも、両方とも聞かないのは珍しい。
チェルシーは頭を使う作業をしていたわけではないので、すぐに手を止めることが出来る。しかし、訊かれなかったのが初めてで驚いてしまった。
「はい」
チェルシーが座ったことを確認して、エドワードは、大きく息を吐いた。
「取り乱すな。落ち着いて、良く聞け」
背筋を伸ばしてチェルシーを見るエドワードは、仕事をしている時の表情だ。必要な時に笑顔を浮かべ、必要な時に必要な発言をする。
良くない知らせなのだと分かった。
「はい」
チェルシーも背筋を伸ばして、聞きもしないうちからドキドキと不安を奏でる心臓を落ち着かせようと、大きく深呼吸をした。
彼はチェルシーの様子を見て、一つ頷く。
「ダイナンが消えた」
意味が分からなくて、首を傾げた。
エドワードは、チェルシーの様子を見ながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「隣国には到着し、会議が一度目は滞りなく行われた。その次の日、ダイナンが宿泊していた部屋から、あいつの姿がなくなった」
脳が、理解を拒否する。チェルシーは、エドワードを見たまま、視線さえも動かせない。
「供の者が、部屋から出てこないダイナンを迎えに行って、ダイナンがいないことが発覚した。荷物も全部、なくなっていたそうだ。相手方は、交渉がうまくいかなかったから、ダイナンが自主的に逃げ出したのだと訴えている」
チェルシーの唇が少し動いて口を開けたが、唇が震えるだけで、音にはならない。
ダイナンが、消えたって、逃げたって、どこに。なぜ。
「ダイナンが逃げたから、向こうの主張が全て通るべきだと訴えられている。そんなことは許容できない。ダイナンの穴を埋めるため、私が隣国に行かなければならなくなった」
エドワードも、行く。どこに。
――いなくなる。ここから、誰も。
「チェルシー、大丈夫だ。もう一度深呼吸をしなさい」
言われたとおりに息を吸い込もうとして、うまくいかないことに気が付く。息を吸うだけなのに、体中が震えて細かく速くしか息ができていない。
エドワードがチェルシーの隣に立ち、そっと頭を撫でられる。
「さあ、今からすることを言うから、良く聞くんだ」
幼い子供に言い聞かせるような言葉。頭を撫でられながら、柔らかな感触に、チェルシーは頷いて細いけれど深呼吸をした。
「そうだ。……ダイナンが自主的に居なくなることはあり得ない。騙されたか攫われたか。まあ、必要だったら助けてやらんでもない」
優しい声で、エドワードは何でもないことのように話す。最後に、少しだけ冗談を入れて、チェルシーが安心するように。
「一番可能性があるのは、隣国が交渉を有利に進めるために、ダイナンを排除した。という考え方だが、これは、私が後任として行くから、全く意味がない行動になる。他にも可能性はいくつかあるが、ダイナンを処分することにはデメリットしかない。なにせ、オルダマン侯爵が敵になるのだから」
自信にあふれた言葉が、チェルシーの心を落ち着かせる。
エドワードの手腕はすごいのだと、ダイナンが悔しそうに言っていたことがあった。いつか超えてやるから、と。
「とりあえず、行ってみないことには分からない」
――私も行きたい。ダイナンを探したい。
エドワードの目を見つめるが、彼は苦笑いを返すだけ。
チェルシーは、この国の外に出てはいけないのだ。弱い力しかないのに、自由に動けない自分の立場がもどかしい。
エドワードには、チェルシーが望むことも分かっていたはずだ。
けれど、彼はしっかりと線を引く。決してチェルシーを甘やかさない。
「チェルシー。何があるか分からない、危険かもしれない地には、連れて行かない。聖女じゃなくても、連れて行かない。ここに居るのがダイナンでも、それは変わらないよ」




