別れ
――なんて、希望に満ちていた三日前。
チェルシーと幸せな日々を過ごした三日間。
本日、王から、外交員としての派遣命令が下った。
「――っっざっけんなっ」
「それは留学先で覚えた言葉か?」
エドワードが冷静に突っ込んでくるが、ダイナンはそれどころではない。
「何故、今、いきなり外交員としての任務が?」
「お前が、留学から帰ってきたようだから、と言われた」
エドワードが疲れたように息を吐く。どうやら、この三日間、ダイナンへの命令が出ないように苦心してくれていたらしい。
隣国とは、別に仲が悪いわけではないが、特段多く交流しているわけではない。商人たちや、地方ごとでは交流もあるようだが、国の事業として販路が確立しているわけではない。
だからこそ、国のさらなる発展のために、両国で貿易を広げようという話がある。
その話し合いに、ダイナンが行くように指名を受けたのだ。
隣国の各地域を回った留学経験と、侯爵令息という高い身分。幼いころから培ってきた教養と生まれながらの優秀さ。
全てがこの任務に向いているのだそうだ。
ちょうどこの役目を探しているところに、ダイナンが留学から戻ってきたので、適材だということで、王の目に留まった。
隣国との販路拡大の話は知っていた。最近始まったような話ではない。
それなのに、チェルシーとダイナンの婚約が決まったから、こうして嫌がらせのように引き離そうとしているように感じてしまうのは何故だろう。
「行きたくないっっ……!」
ダイナンは頭を抱えて苦悩する。ようやく、チェルシーとるんるんで暮らせるというのに、仕事でまた隣国に?
「だろうな。だが、この話をお前に持ってくる理由は筋が通っている。婚約者といたいからという理由では断れない」
それもまた、理解している。
オルダマン侯爵家は、王を支える一臣下だ。王のため、国のために義務を果たすのが貴族だ。
指示された任務内容は、ダイナンをあてることが的確だろう。
だが、婚約がなった途端だ。
チェルシーと離れることがとても不安だ。
「仕方がない」
ダイナンは覚悟を決めて、一つ大きく頷く。
「このままチェリーと結婚して、チェリーと行く!」
任務に妻を同行させることはよくあることだ!
「他国にチェルシーを伴うことはできないだろう。それこそ、反逆者として逮捕されるぞ」
しかし、エドワードの冷静な声にあっという間に却下される。
聖女は、国の財産とみなされる。
チェルシーの力が弱いと思われているせいで、ひどい扱いをされているが、本来ならば聖女は貴族よりも上の存在のはずだ。
その財産を、婚前旅行としてでも、外国に伴うことは許されない。
だから、外国との取引には、チェルシーは連れて行けない。
分かって……いるのだけれど……
「離れるなんて嫌だあああああ」
泣き崩れる息子を、エドワードは残念なものを見る目で眺めていた。
正式に婚約者になった。ダイナンの、婚約者になったのだ。
チェルシーは、それを思い出すだけで心がポカポカして、顔が熱くなる。
婚約誓約書に署名した日の帰りは、少しだけ喧嘩みたいになってしまったけれど。むくれてしまったチェルシーを放っておくことなどせずに、ずっと機嫌を取ってくれる。
本当は、もうそんなに怒ってなかったけれど、ダイナンがずっと機嫌を取ってくれるのが嬉しくて、わざとムスッとしていたところもある。
それも、夕食までは続きはしなかった。
美味しい料理をみて、ダイナンもエドワードも一緒にいて、不機嫌なままなんて、無理だった。
彼らはとっても優しい。
ずっと意地を張っていたから、気恥ずかしかったけれど、ダイナンに微笑む。ダイナンからは、満面の笑みが返ってきた。
本当に、チェルシーに甘すぎるのだ。
次の日は、庭園を二人で散歩した。その次の日は、部屋の中でたくさんおしゃべりをして過ごした。
「チェリー」
以前よりも甘さを含んだように感じられる声に名前を呼ばれると、それだけで胸が高鳴って頬が熱くなる。
きっと、ダイナンも知っていて、チェルシーの耳元で囁いたりするのだ。
そんな幸せな日が、たった三日間だけ続いた。
ダイナンは隣国への外交員としての任務を得て、また遠くに行ってしまうことになった。
連絡を受けて二日後、ダイナンは隣国に旅立つことになった。
準備期間も短い。もしかしたら、ダイナンとエドワードには、先に通達があってからの任命なのかもしれない。
チェルシーとっては、これから一緒にいられると思っていた分、落胆が大きくて、平気なふりなどできそうにない。
「戻って来られたばかりなのに」
ダイナンが出立する日、彼の部屋でエドワードと最後の家族の場なのに、思わず口から恨み言がこぼれてしまう。
ダイナンが留学から戻ってきて、一緒に過ごせたのは、ほんの一週間ほどだ。
……まあ、たったの一週間だと思えないほどプロポーズから婚約成立など、いろいろあったので、そうとは思えないほど濃い期間ではあったが。
寂しいことは寂しい。
「チェリー。すぐに任務を終わらせて帰ってくるよ」
ダイナンが穏やかな笑みをチェルシーに向ける。
笑顔で見送るべきなのかもしれない。ダイナンが留学するときは、無理矢理でも笑顔を向けることが出来たのだ。
ダイナンが、ふっと笑いをこぼす。
「寂しいね」
チェルシーの目から流れ落ちていく涙を両手の中に入れて、彼女の頬を包み込む。
「きっと立派な仕事をやってくるよ」
立派な仕事でなくてもいいから、ここに居て欲しい。
我儘が口から飛び出しそうになって、唇をぎゅっと噛みしめた。
ダイナンは、国から任命されるほどの名誉を賜った。それだけ信頼があるということ。
きっと、彼が留学先での勉学を修めて戻るのを、みんなが心待ちにしていたのだろう。
それなのに、チェルシーが彼と一緒にいたいからという理由だけで引き止めることはしてはいけない。
「ぎゅって、してもいいですか」
いけないと分かっているから、最後に甘えたかった。
ダイナンは目を丸くして、笑った。
「もちろん」
ダイナンは、チェルシーが抱き付くよりも早く、その腕の中に彼女を抱きしめた。
力強い腕が、強くチェルシーを引き寄せてくれる。
「チェリーが寂しがってくれるから、私はこうして格好つけていられるよ」
ダイナンがチェルシーの頭に頬ずりしながら言う。
「ああ、任命状もらったときは泣きじゃくっていたからな」
エドワードまで、そんなことを言う。
ダイナンがチェルシーほど寂しがっていないと不安に思うことはないと遠回しに伝えてくれているのだろう。
ダイナンは王から任命を受けた仕事を拒否しない。さらに、行きたくないからと泣くなんて、想像もつかない。
――まあ、もしも泣いている姿を見れば、それはそれできゅんとすると思うが。
チェルシーはそんな想像をして、くすくすと笑った。
「ありがとうございます」
チェルシーは、ようやく笑顔を浮かべることが出来た。顔を上げて、腕を解いて、きちんと挨拶をしよう。
ダイナンもエドワードも冗談まで言ってチェルシーを慰めようとしてくれているのに、これ以上泣き続けるなんてできない。
「え、もう?」
ダイナンが残念そうな顔をする。
チェルシーだって、もっと抱き付いていたいが、馬車を待たせているのだ。自分のせいでずるずると引き延ばせない。
「大丈夫です」
「私が大丈夫じゃないのだが」
ダイナンが悲しそうな顔をするから、チェルシーは笑顔を浮かべることが出来た。
「頑張ってこい」
エドワードが、ダイナンの肩を叩いて、ドアを開ける。
ダイナンの肩を押し出すようにして廊下に出すエドワードは、とても嬉しそうだ。
「大丈夫だ。その間、私はしっかりとこの屋敷で仕事をしながら、チェルシーと穏やかに暮らすから。仕事の合間にチェルシーのお茶に付き合ったり、たまには二人で出かけたり。ああ、ドレスを数枚仕立てよう。仕立て屋も呼んで、チェルシーに似合うものも、私がしっかりと見立てておこう。何も心配はいらない」
「ぐっ……!」
ダイナンが振り返ってエドワードを睨み付けた。
その表情に驚いているチェルシーに気が付いて、取り繕ったような笑顔に変わる。
「安心して、しっかりと仕事をして来い」
エドワードは、初任務に出勤するダイナンが嬉しくて仕方がないようだ。
いつもよりもずっと饒舌で、彼を励ましている。
「お兄様、私も応援しています!」
チェルシーも一緒に応援しよう。とても寂しいけれど、離れている間に思い出す自分の姿は、笑顔で応援している姿がいい。
ダイナンの肩が下がって、おとなしく歩き始めた。
「ははっ。泣くなよ」
エドワードはその後ろから、背中を数度叩いている。
親子の絆だ。応援されて涙をにじませてしまったのだろう。その中に、チェルシーも入っていると嬉しい。
だけど、ダイナンの泣き顔を見てしまうのは良くないよねと思い、少しだけ間をあけてついていった。
玄関には、すでに手の空いている使用人たちが並んでいた。
「いってくる」
玄関から一歩出たダイナンが振り返ると、全員が揃えたように頭を下げた。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、気を付けて」
「ご無事のお帰りをお待ちしております」
いざ、出立となると、止まったはずの涙がこぼれそうになる。
だめだ。こんな大勢の前で、寂しいと泣くわけにはいかない。
ダイナンはチェルシーに目を止めると、ふっと微笑む。
泣きそうになっているのに気が付かれてしまった。
「待っていてね」
ダイナンが近づいてきた……と認識したと同時に、頬に柔らかな感触がして、すぐに離れて行った。
「いってくるよ」
チェルシーに目を合わせて、にっこりと笑ったダイナンは、馬車に乗り込んだ。
……チェルシーはじわじわと赤くなる頬をどうしようもなくて、突っ立っているだけしかできないのに――。




