かくれんぼ
急いで部屋に戻ったチェルシーは、追いかけてきたアナを締め出して、ドアに鍵をかけた。
もう、ここにはいられない。
ダイナンの邪魔になるくらいならば、チェルシーは消えた方がいい。
涙がこぼれそうだが、今はそれを自分に許してやる時間がない。涙がこぼれ始めたら、きっと目の前が見えないくらいぼろぼろとこぼれてきてしまう。
便箋なんて洒落たものを準備する時間も無くて、ノートを思い切り開いて、真ん中に綺麗に書いた。
『今までありがとうございました』
たくさん書きたいことはあるけれど、文章になんてできない。
家族にしてくれてありがとう。話を聞いてくれて。一緒にご飯も食べたし、ピクニックにも行った。たくさん遊んで、たくさん一緒に笑ってくれた。
それだけで充分だと思えるくらい、大切にしてくれてありがとう。
――大好き。
最後の一言は、心の中にギュッと押し込んで、ペンを置く。
ダイナンに、これ以上罪悪感を持たせるようなことをする必要はない。
優しいダイナンは、チェルシーのことを聞いたら追いかけてきてしまうだろう。
ダイナンは、相手がチェルシーだと知らなかったのだと思う。
知っていたら、あんな風に怒鳴らなかった。
それを信じられるほどに、チェルシーはこの家で、ダイナンに大切にされてきた。
結婚相手がチェルシーだと知っていて、彼女が他に行き場がないと知れば、きっと自分の想いを殺してでもチェルシーを大切にしてくれるはずだ。
だけど、チェルシーはそんなことは望んでいないのだ。
彼に愛する人がいるならば、その人と幸せになって欲しい。
愛する人と結ばれなくても、彼女を想っていたいのなら、そうして欲しい。
チェルシーをずっと幸せにしてくれていた人だから、彼が幸せにならないのは嘘だと思う。離れていても、彼が笑っていると思えるだけで幸せな気分になれる人なんて、他にいない。
傍に居なくても大丈夫。チェルシーは一人でも生きていける。
だから、ダイナンには、心のままにいて欲しい。
――嫉妬で胸が張り裂けてしまいそうだけど。
良心で飾った心の中で、本音がポロリと飛び出した。
いい子ちゃんぶってないで、ダイナンに泣きついてしまえばいい。きっと、ダイナンは受け入れてくれるだろう。そうして、結婚してくれると言ってくれたら、結婚してしまえばいい。
頭の片隅で、そんなことを考える。
ダイナンが、チェルシーを妻としてその腕に抱いてくれる。あの笑顔が、チェルシーだけのものになって、ずっと彼の傍に居られる。
エドワードから、ダイナンの妻にと言われてから、ずっと浮かれていた。
心の奥にある不安に気が付いていたくせに、見ないようにして、幸せな想像ばかりしていた。
オルダマン侯爵家から、二度と出て行かなくていいキラキラした生活を想像していた。
でも、それは幸せなのは一瞬だから。
ダイナンを不幸にしていることにも、愛されないことにも、チェルシーは苦しめられて、幸せになんてなれない。
彼の本当の心を知ってしまったのに、張りぼての夫婦生活なんていらない。それなら、兄妹のままの方がずっといい。
ダイナンがチェルシーを呼ぶ声が記憶から蘇る。もう一度。もう一度呼ばれたかった。
ただいまって言って、チェルシーを抱きしめて、呆れるほどのお土産を自信満々で並べてくれるのだと想像していた。
ああ、きっと、彼の乗ってきた馬車には、見たことがないようなものがたくさん乗っている。
それらを受け取る権利を、チェルシーは失った。
王太子妃になれていれば、『大好きなお兄様』には時々でも会えたかもしれないのに。
王太子に言われた瞬間は虚しさしか感じなかったのに。王太子と結婚できないことによってもたらされた、今の状況の方が胸が痛い。
控えめに、何度もドアがノックされている。
「チェルシー様?」
アナが廊下から優しく呼びかけてくれる声がする。
――ごめんね。
チェルシーが部屋に入れなかったから、主の命令を無視して部屋に入れないことは分かっている。
窓を大きく開く。
シーツをカーテンにぎゅっとしばった。そうして、シーツを外に向けて放り投げた。
シーツは窓から外側にだらんと垂れ下がる。
ここからシーツをつたって外へ出たと思われるはずだ。
そして、自分はクローゼットの中に潜り込む。
そこは、チェルシーの大好きなものであふれかえっている。
エドワードからもらったドレス。ソフィアからもらった刺繍道具。ダイナンからもらったぬいぐるみやアクセサリー。
どれもこれも大切すぎて、しまい込んでいたら、みんなから使って欲しいと困った顔をされてしまった。
ちょっと勉強に疲れた時や、ふとした自由時間に、これらを並べて眺めていることが好きだった。
こんなにたくさんの宝物に囲まれている空間は、夢が現実になったような場所だ。
三人を引っ張ってここに連れてきて、しっかり使っていると言えば、みんな照れたように微笑んだ。
「使い方が違うぞ」
ダイナンはそう言って、ブレスレットを付けてくれた。
「ほら、こうすれば、いつも宝物と一緒だ。並べているものはそのままでいいけど、どれか一つには、いつもチェリーと一緒にいる栄誉を与えてくれ」
そうして、騎士が姫にするように、チェルシーの手の甲にキスを落とした。
その時のことを思い出して、頬を染めながらチェルシーはブレスレットをはめた。
嫌な人たちばかりの城に持って行くのは嫌で、ここに入れたままだった。
チェルシーが戻って来ることは無かったはずなのに、チェルシーがいた時のまま、変わっていないクローゼット。チェルシーの部屋だって、綺麗に整えられていた。
こんなに優しい人たちを苦しめたくない。
チェルシーがいなくなることが、一番いい。
チェルシーが家を出て行くことだって、きっとオルダマン侯爵家の人たちは苦しんでしまうけれど。だけど、無理矢理チェルシーに縛りつけるよりは、ずっといいはずだ。
花壇の花を見て、ああ、あの子は元気にしているだろうかと、ちょっとだけ心に余裕がある時に思い出してくれたらいい。
この宝物の中から、いくつかは持って行かせて欲しい。
ソフィアに貰った刺繍箱と、エドワードに貰った髪飾り。今腕に嵌めているブレスレット。
あとは、小さな鉢植え。チェルシーが城に行く前に、中のお花は庭に移してしまったから、何も植えられてないけれど。これは、チェルシーが初めてもらったお花だ。
そんなことを考えていた時、ノックの音が変わった。少しだけ強めに、ゆっくりとノックする音。
「チェリー?ただいま。開けてくれ」
ダイナンの声を聞いて、チェルシーの目から涙があふれた。
結婚を押し付けられようとしているのに、まだチェリーと呼んでくれる。ただいまって言ってくれるのか。
ダイナンが追いかけてきてくれた。
おかえりなさいと言いたかった。
ダイナンが留学に行ってしまってから、ずっと、ずっと、会いたかった。寂しかった。
耐えきれず、か細い泣き声が漏れてしまう。
だけど、大丈夫だ。クローゼットと部屋のドアに阻まれて、音が廊下まで届くことはない。
ガチャガチャと鍵を開けるがした。
今から、もう絶対に声は出さない。
涙は止められないけれど、膝に顔をうずめて声を出さない。
「チェリー!?」
合鍵でドアを開けたようだ。彼ならば、チェルシーが許可など出さなくても、ドアを開けることが出来る。
そして、真っ直ぐノートを置いた机へ向かって、開け放した窓を見て、彼は使用人たちに探しに出るように言うだろう。
今から、ダイナンもチェルシーを探しに外に向かうだろう。
この部屋から、誰もいなくなってから、チェルシーはゆっくりと出て行く。
ダイナンがゆっくりと歩いている足音がする。まっすぐに机に向かって、立ち止まる。
それから、窓を見て……
もうすぐ、彼はここからいなくなる。
予想する未来のことを思うと、さらに涙が出てくる。
――私を見つけて!
ボロボロと流れ出る涙をぬぐいながら、必死で声を出さないように気を付ける。馬鹿な願いを叫んでしまわないように。
楽しいことを考えなければ。二度と涙が止まらないような気がする。
ああ、だけど、チェルシーにこれから楽しいことはやってくるだろうか。
ダイナンの足音は、窓に向かわずに、すぐに廊下の方へ向かう。
そして――
「チェリー、みいつけた」