わんわん泣きたい(ダイナン)
母が亡くなった。
優しい母だった。
エドワードは仕事以外で口を開くことがなくなった。
ソフィアは、黙々と嫁ぐ準備をして、いつも下を向いてため息ばかり吐く。
ダイナンは、後継者教育を馬鹿みたいに詰め込まれて、荒んでいた。
そんな時、この国のどこかで聖女が見つかったらしいと話題に上った。
国を沸かせるそんな話題さえ、オルダマン侯爵家に会話を呼び戻すことは無かった。
聖女は城に行き、披露という見世物にされ、教育がなってないと嘲られている。ずいぶんと我儘だという噂も聞いた。
聞けば、農民の娘を連れてきたという。
それで、どうして貴族の中に放り込もうと考えたのか。教育がなってないのなど、当たり前じゃないか。
今まで貧しい生活をしていたところから、過剰なものが与えられれば、贅沢をしたいと我儘を言っているのだろう。適当に豪勢に見えるものを与えて黙らせておけばいいものを。
実際、この頃のチェルシーはそういうことをされていたようだ。豪勢なものを与えても、感謝もせず不満ばかり言う子供に、周囲はいら立っていた。
そんなことをダイナンが知るのは、もっと後の事。
この時は、ダイナンは、自分には関係ないこととして眺めていた。
そんなことに心を割く余裕など、今の自分たちにはない。
暇さえあれば、誰かの弱みを探して歩く卑しい者たち。友人という肩書を自分勝手に掲げて、オルダマン侯爵家の内情を探ろうと近づいてくる。
そこで弱みを見せれば、あっという間に足を引っ張られ引きずり降ろされる。立場が逆転すれば、見下ろされて嗤われるだけだ。
そんなことはさせない。
ダイナンは、母が亡くなって、少しだけ悲しそうな表情を取り繕い、いつも以上に勉学に励んだ。当主夫人がいなければ、社交が滞る。エドワードが後妻を取らないのならば、ダイナンが迎えるしかない。
だが、ダイナンは弱冠、十五歳だ。
まだまだ結婚できる年ではない。ただ、婚約はできる。その座を狙って、令嬢たちからもアプローチが始まる。
――喪中に何をやっているんだか。
冷めた目で周囲を見回し、喪中であることを理由に周囲と少しだけ距離を取った。
――たったそれだけが、失敗だった。
社交が途切れた一瞬を見定めて、面倒ごとを押し付けられた。
どうして、王族というやつらは傲慢なのか。貴族たちは足を引っ張るのが好きなのか。
マナーが身についていない聖女を、王太子妃となるよう教育しろとオルダマン侯爵家に押し付けてきたのだ。
聖女を王妃としたいが、教育するのは、城であってはならないらしい。城は高貴な人間が住まう場所であり、まだ教育前の娘がいて良い場所ではないのだそうな。
そういって、我が家にやってきたのが、チェルシーだ。
フワフワの緑の髪と緑の瞳。肌は健康的に日焼けして、プニプニで柔らかそうな小さな女の子。
エドワードが屋敷に連れてきた日に、腰をかがめて笑顔を作った。隣で、ソフィアも似たような表情をしていた。目を細くして口をひん曲げるだけの、全く心の伴わない笑顔だが、無表情よりましだろう。
ダイナンは、奢っていた。
自分の優れた容姿は、田舎しか知らない少女を虜にするだろう。こんな自分が笑って彼女を歓迎しているのだ。感謝して泣きだしたとしてもおかしくない。
「こんにちは」
挨拶をすれば、チェルシーは素直に挨拶を返した。
「こんにちは」
しかし、その表情は、ダイナンが想像していたものとは全く違う。
ダイナンと、ソフィアの表情を見て、落胆したように目を伏せた。
「……今度は、ここなの」
そうして、不満げに眉を寄せる。諦めが混ざる呟きが聞こえ、驚いた。
聖女なんかに関わるほど暇じゃない。屋敷に置いて、勝手に家庭教師をつけておけばいいだろうと思っていた。ダイナンが直接話しかけるのは、この場が最後のはずだった。
「嫌なの?」
何を読み取られたのだろう。ダイナンの笑顔は完璧だ。本心を悟られないのは得意だった。
わざわざ浮かべていた作った笑みを消して問うと、チェルシーは苦く笑った。
ダイナンの笑顔が消えたことに、全く驚いていない。もともとそういう人間だと悟られていたようだ。
「嫌って言っても、私は幸運なのだから、感謝しなければならないんでしょう?」
きっと、この生活になってから、何度も諭されてきたのだろう。お前は幸運だ。幸せなのだと、何度も押し付けられてきたはずだ。
――とても我儘で。傲慢な田舎娘。
そんな印象を受ける態度なんて、全く無い。
ダイナンの作った笑顔は、大抵の貴族をだまし続けてきた。少し気乗りしなくても、誰かに指摘されるような下手な表情を出した覚えはない。
「そうか。この家から出すことはできないが……何が嫌だ?チェルシーがしたいことを教えてくれれば、それを一緒にしよう」
チェルシーは、目を丸くして俺を見上げた。
その素直な感情表現に、可愛いと思う気持ちが沸いた。
ダイナンがふんと鼻を鳴らして、顎で促すと、彼女の目に涙がみるみるうちにたまった。
「……泣きたい。わんわん泣きたいの。大声で笑いたいの。足を鳴らして怒りたい」
こんな幼い子に、貴族教育なんて受けたことも無い子に、まずさせたことが、感情の制御か。
王太子妃になるならば、絶対に必要なことだが、順番があるだろう。
「ああ。いいぞ」
泣きたいなら泣けばいい。
ダイナンが頷くと、ボロボロと涙を流しながら、腕を握ってきた。
「お兄ちゃんも一緒にするって言った。泣いて」
「俺も泣くのか!?」
「泣いて!お姉ちゃんも、おじさんも!」
小さな手が、ダイナンと、ソフィアとエドワードの手を重ねて、大声で泣いた。
母が亡くなって以来、初めて感情が動いた。
泣いて良いと、許しを貰ってしまった。許しどころか、約束したから、泣かなくてはいけないという強制。
家族の手の温かさに、勝手に涙がにじんだ。
「あ……」
小さな呟きに、横を見れば、ソフィアが涙を流していた。エドワードが、眉間にしわを寄せて目をきつく瞑っていた。
勝手に重ね合わされた手に力を入れて、家族の手を握った。
チェルシーはわんわんと声をあげて泣き、ダイナンとエドワードは静かに、ソフィアは時折小さな声をあげなら、四人で手をつないで泣いた。
そうして、気が済んだのか、泣き止んだチェルシーは俺たちを見上げて満面の笑みを見せた。
「本当に一緒に泣いてくれたのね。ありがとう!」
感謝までされてしまった。
涙というのは、心の淀みを洗い流してくれるものだったのか。こんなに泣いたことなんてなかった。
そうだ。母が死んだのだ。
――俺は、悲しまなくてはならなかった。
周囲ばかり気にして、周囲からどう思われるかしか考えてなかった。ダイナン自身の心を先に癒さなければならなかったのに。
エドワードは珍しくぼんやりとした表情を浮かべている。
涙を流した。たったそれだけのことで起こった自分の心境に驚いているのだろう。ダイナンだって、こんなに気持ちが楽になるとは思わなかった。
この場では、何も取り繕いたくないと思う。
「ああ、チェルシー。あなたが来てくれて嬉しいわ」
ソフィアが、感極まったようにチェルシーに抱き付き、また涙を流した。