結婚なんてしない
チェルシーは浮かれていた。
これは、聖女だと教会に言われて、これからどんなに大切にされるのだろうとどきどきしたときの高揚感と似ている。
だからこそ、どこか、不安がつきまとう。
どこか、思っていたのと違う現実が待っているのではないかと、十歳のチェルシーが不安がっている。
「チェルシー様。もうすぐダイナン様がお帰りになるようですよ」
チェルシーがそわそわしているのを微笑ましそうに見ていたアナが、教えてくれる。
チェルシーとダイナンの結婚が決まって、エドワードは、すぐにダイナンを呼び戻すために手紙を書いた。
今日、ダイナンが帰ってくるのだ。
「ねえ、私、どこかおかしくない?大丈夫かしら?」
「まあ。もちろんですとも。どこから見ても完璧な淑女です」
完璧な淑女とまでは言いすぎだと思うが、彼女の優しさに、ほっと力が抜ける。
すると、階下が突然騒がしくなった。
大きな足音が、階段を上ってくる。
「ダイナン様!」
家令の慌てたような声が聞こえた。
「お兄様?」
さっきまでの緊張などより、喜びが勝る。
ああ、早く会いたい。
足音は当主たるエドワードの部屋へ向かっている。
本来ならば、チェルシーは部屋で待っていて呼ばれるのを待つべきなのだろうが、待っていられない。
――チェルシーは、この時、全く疑っていなかった。
チェルシーが「お帰りなさい」と言えば、ダイナンは満面の笑みで「ただいま」と彼女を抱き上げてくれるだろうと。
チェルシーが促すと、アナも心得たようでドアを開けて侯爵の部屋へと向かわせてくれる。
チェルシーの部屋は、玄関から離れた場所にある。
エドワードの部屋は、玄関の傍で、執務室の隣だから、ダイナンの方が侯爵の部屋に辿り着くのは早かった。
チェルシーがダイナンの後ろ姿をみつけたのと、エドワードの部屋のドアが彼によって乱暴に開けられるのは同時だった。
「父上!どういうことです!?」
明かな怒声に、チェルシーの足はピタリと止まった。
「どういうこと、とは?」
ドアが開け放たれたままなので、声がよく聞こえる。
きっと、聞かない方がいい内容だ。
それが分かるような、ダイナンの声だった。
「私は結婚などしないと言ったでしょう?」
全ての音が消えた。
ダイナンが苦しげに吐く息の音だけが、鮮明だ。
喉が詰まって、息ができない。
ああ、どうして、ダイナンも結婚を了承してくれると思ったのだろう。
続きが聞きたくないのに、体が動かない。
「事情が変わったのだ。だから、お前に結婚してもらおうと――」
エドワードがダイナンを止めようとする声が聞こえる。
だけど、ダイナンはひどく興奮しているようで、怒鳴るように叫ぶ声を止めない。
「どんな事情が変わろうとも、私は、愛する人がいると言ったでしょう。私は、彼女以外と結婚する気はない」
心臓が、壊れてしまう。
こんなに、痛くて痛くて、それでも、チェルシーの心臓は止まってくれない。
愛する人から疎まれる場所にいるのに、チェルシーを殺してはくれないのだ。
「だから、話を聞け!」
エドワードが声を荒げた。
きっと、チェルシーに聞こえないようにしようとしてくれているのだ。そうして、説得してくれようとしている。
「ああ、何度も聞きましたよ。彼女を手に入れることはできないと。だからこそ、私は結婚しない。彼女が他の男のものになって、幸せそうに子供でも抱いていたら、本当に諦めて、後継のために若い女でも娶りますよ」
ダイナンがその人を諦められたら、チェルシーと結婚してくれる気になるのだろうか。
だけど。だけど。そんなことしないで欲しい。
ダイナンの幸せを祈れない妹にしないで欲しい。
こんなに役立たずで、邪魔にしかならないチェルシーが。
「それまでは、私は決して彼女を諦めることはできません」
「いや、だから――」
大好きなダイナンの幸せを邪魔するようなことがあってはならないのに。
呼吸などできなくなればいい。
心臓をとめて、彼を縛り付けようとするチェルシーなど、二度と目を覚まさず、動かなくなってしまえばいい。
「チェルシー様っ!?」
隣に立つアナが悲鳴を上げた。
「――チェリー?」
懐かしくチェルシーを呼ぶ声が聞こえたような気がした。
昔と同じように、優しく呼ぶその声を聞かないように、チェルシーは逃げた。