出戻り
馬車は、間もなくオルダマン侯爵邸に到着する。
高位の貴族であるオルダマン侯爵は、城のごく近くに屋敷を構えるほどの権力者だ。
「チェルシー。おかえり」
この方が後見になってくれたことだけが、チェルシーの幸せだ。
「ただいま戻りました。お父様」
チェルシーは、ようやく肩の力を抜いて、笑顔で挨拶をした。
そして、帰ってきてしまったことに罪悪感を抱く。
農民の娘だったチェルシーを、王太子の婚約者となれるまで教育してくれたのは、この家の人たちだ。
その教育は、全くの無駄になってしまった上に、優しいエドワードは、チェルシーを追い出したくとも追い出せない状態になってしまった。
「ごめんなさい」
謝ったチェルシーに、エドワードは苦笑を漏らす。
「そんな顔をしなくてもいい。謝る必要だってない。疲れただろう。早めの夕食にしよう」
エドワードの言葉に従って、使用人たちがチェルシーの荷物をあっという間に運んでくれる。
この家で暮らしていた時にチェルシーの世話をずっとしていてくれたアナが、嬉しそうに「おかえりなさいませ」と言ってくれた時は、涙がにじんでしまった。
チェルシーの部屋は、変わってなかった。
ドレスなどはサイズも変わっただろうからとなくなっていたが、ベッドも机も、そのままおいてある。
「……変わってない」
もう、戻ってこないだろうと思っていたのに。チェルシーのために、部屋を保ってくれているなんて。
「ええ。毎日お掃除させていただいておりましたよ」
アナが城から運んだ荷物を適当に放って、ドレスを取り出す。
城から持ち帰った荷物に執着がないことを見抜かれているようだ。どんなに値打ちがあったとしても、それは辛い記憶の象徴でしかない。まあ、着の身着のままで侯爵家を追い出された時には、換金できるようにとっておくことにする。
「サイズ、ぴったりなのね」
「うふふ。私、顔が広いんです!」
王太子婚約者候補の体のサイズなんて、どうやって調べたのだろう。蔑まれはするけれど、無駄に高い地位をもっているから、妬まれていた。
アナの有能さには舌を巻く。
チェルシーは、聖女なのだ。王太子の婚約者にはなれなかったが、
そんな中で、何故王太子がチェルシーとの婚約を白紙にできたのかは知らない。
エメラルド――とは、公爵令嬢のことだろう。王太子の従姉妹だっただろうか。
華やかで美しく、お姫様のような女性だ。彼女は、いつも大勢の人に囲まれて微笑んでいた。
それなのに。
どうして、こうなってしまったのか。
夕食の席について、チェルシーは改めて大きく頭を下げた。
一緒にテーブルについているのはチェルシーとエドワードだけだ。
ダイナンは留学先からまだ帰ってきていない。
久しぶりに娘と食事ができてうれしいと、彼は微笑んでくれた。
「申し訳ありません」
王太子妃を輩出するという名誉を、この家に与えることはできなかった。
チェルシーにはそれ以外にできることがないのに。
チェルシーの聖女としての力は、本当に微弱だ。
自分が育てた作物はよく育つが、飢饉が無ければ気が付かれないほど。飢饉が起こったとしても、チェルシーが育てる量などたかが知れていて、何の役にも立たない。
聖女なんてもてはやされても、出来ることなどないのだ。
優しくしてくれた彼らに名誉を与える。
この家で教育を受けていた最後の一年は、そのために頑張っていた。
「謝る必要はない。お前を蔑むものがいないように、権力でしっかりと守れるようにと考えた相手だ。――失敗だったが」
いつも穏やかなエドワードが眉間に皺を刻む。
そうして、チェルシーの表情を見て、小さく首を振った。
「本当だ。チェルシー、お前がこの家に来てくれて、この家がどれだけ明るくなったか。ソフィアもダイナンも、お前がいたからこそ、立派に育った」
それこそ、とんでもない過大評価だ。
二人は、チェルシーがいてもいなくても、立派で素晴らしい人たちだ。
「最初から、こうしておけばよかった」
エドワードが大きくため息を吐いた。そして、チェルシーの表情を見逃さないように、じっと見つめながらゆっくりと口を開いた。
「うちの愚息――ダイナンと結婚してくれないか?」
目が飛び出るかと思った。
声よりも先に、震えながら必死で首を横に振った。
「だ、ダメです。そんな。私なんかが。私にはもったいない」
「ああ、チェルシー。良く聞きなさい」
低い声に促されて、エドワードを見れば、彼は真面目な顔で真っ直ぐにチェルシーを見ていた。
「私が、娘が可愛いからというだけで、跡継ぎの妻を選ぶと思うかい?オルダマン侯爵家は、さすがにそんなに甘くない」
オルダマン侯爵家は、王族、公爵家に次ぐ有力貴族だ。
口出しをしてくる親族も多いし、領地は広大だ。それに伴う責任も、莫大なものとなる。
「どの家から令嬢を招いても、どこかが文句を言う。ダイナンは、それを黙らせる力を学んできてもらっている」
跡継ぎとしてふさわしく、彼はさらに立派になっているのだろう。
「だが、聖女を娶るとなれば、どの家も反対はしない」
思ってもみないことを言われて、チェルシーは目を瞬かせる。
「しかも、その力は豊穣の女神の力。領民からの指示は絶大だろう」
「こんなに微力な力が、ですか?」
「力の大きさなど、実際に見たわけじゃないから分からないよ。ただ、教会に認められた聖女という肩書は、オルダマン侯爵家にとって、有益だ」
肩をすくめて、聖女など崇拝の対象でいればいいのだと嘯く。
「三年前は王の命令でチェルシーを差し出したが、返してもらったのだ。もう文句は言わせない」
じわじわと、体温が上がっている気がする。
さっきとは別の意味で手が震える。
エドワードは、そんなチェルシーを見てふっと視線を和らげて、聞いた。
――それで、ダイナンと結婚してもらえるかな?
ダイナンと結婚する。
『チェリー』
チェルシーを優しく呼ぶ声が思い出の中から鮮やかによみがえる。
侯爵と同じ黒い髪と、深い海の底のような碧い瞳。陽の光の中ではサファイアのように輝いてチェルシーのその美しい瞳に映してくれた。
温かくて大きな手を、もう一度取れる日が来るなんて。
それも、妹ではなく、妻としてだ。
エドワードは、チェルシーの表情をずっと見守ってくれていた。きっと、少しでも嫌そうな表情、それを隠すような仕草をすれば、ダイナンとの結婚なんて言われなかった。
エドワードにも分かってしまったのだ。
チェルシーが、夢でも見ているのかと思うほど喜んだのを。