9.感謝
馬の嘶きに驚いた私だったが、馬は特に何かがあって鳴いたわけではなかったようだ。
エドが馬の首筋を撫でると、鼻先をエドの肩に嬉しそうに擦り寄せて直ぐに静かになった。
しかし馬の嘶きは私にはちょうどよい刺激になった。
「いずれにしても、ここでいつまでもグズグズしているわけにもいかないわね」
エドを今直ぐに侯爵邸に返すことは諦めて、私は馬の背に乗せられた荷物に手を伸ばした。
「どうするんだ? 下ろすのか?」
「ええ。着替えなきゃ」
普段着とは言え、侯爵夫人の着るものが動きやすいものであるはずかない。
ゆったりとした袖や裾は地をこする程にたっぷりと長く、足に絡みつく。
その足にしても、長距離を歩くような靴を履いては居ない。
「着替えって、ここでか!?」
「他にないでしょう?」
馬の背から目当ての荷物を下ろそうと手を伸ばすと、エドは盛大なため息を吐きながら荷を下ろしてくれた。
その荷の中には、かつてイベリスとイタズラ半分で街のお祭りに出かけたときの服が入っている。
お忍び用にと、その服を買いに出たときも、ちょっとしたイタズラ気分だった。
その頃のことを思い返しても、二人の間にあったドキドキは、恋のドキドキなどとは遠く離れたものだったと思い、少しおかしくなる。
イタズラが大人にバレるのを恐れつつも心が踊る、そんなドキドキだった。
死を偽装して、新しい生活を始めるための一歩を踏み出した今も、同じような気持ちが私の鼓動を早めている。
手早く着替えを済ませ、振り向くと、エドは耳まで赤くして背を向けている。
若い女性の着替えなど、独身のエドには縁のないことだろう。
「ごめんなさいね、エド。貴方の羞恥心を煽りたかったわけではないのよ? 馬車を落とす前にその中で着替えれば良かったのだけれど、あのときは思いつかなかったの」
「俺はいいけど…。おまえは、恥ずかしくないのか?」
「私は人前で着替えることに慣れているもの」
「メイドか侍女の前だろ!?」
「そうね。でも今も、貴方に手伝わせたわけではないのだし、貴方は見ないようにしてくれていたのでしょう? それなら問題ないわ」
「もし俺が盗み見してたらどうすんだよ!」
「そうなの?」
「してねぇよ!」
「それならいいじゃない。さ、出発しましょう」
貴族の婦人、令嬢に限らず、女性が安易に男性の前で肌を晒すことは、決して褒められた行動ではない。
それはもちろん私もわかっている。
けれど、そんな細々として煩わしいルールなど、今はかなぐり捨ててしまいたい気分でいっぱいだ。
着替えのために普段着のドレスを脱ぎながら、私は自身を覆っていた貴族という膜を脱ぎ捨てていくような、そんな感覚を味わったのだ。
私はもう貴族じゃない。
エドの言うように、戸籍もない、故に今は平民ですらない。
どこの国の国民でもない。
大地の上に立つ、人間という生き物でしかない。
自由。
光り輝く自由。
両手を広げても抱えきれない大きな世界が、燦々と降り注ぐ陽の光でキラキラと輝いている。
少なくとも、今の私の目には、全ての世界が宝石よりも美しく輝いて見える。
心が踊るままに両手を大きく広げて息をいっぱいに吸い込み、踊るような足取りで歩き出す。
ポコポコと地面に蹄の当たる音が後ろからゆったりと付いて来る。
頬を凪ぐ心地よい風。
渓谷の対岸から吹いてくるその風は、森林の緑の香りを乗せている。
このまま、世界の果まで歩いていけそうなほど、私の足取りは軽い。
そう、思っていたのだが…。
「馬に乗るか?」
「乗れるの!?」
目的地は愚か、近在の村にすら行き着かぬうちに、私はすっかり歩き疲れていた。
名誉のために断っておくが、私は特に体力がないというわけでも、か弱いのでもない。
むしろ私を含め、貴族の女性はその見た目によらず、足腰は存外丈夫だ。
何時間も夜会で立ちっぱなしになることもある。
断れぬまま、何曲も続けてダンスを踊ることもある。
私もだが、大抵の令嬢には乗馬の心得もある。
狩りに参加する令嬢も少なくない。
問題だったのは、この山道だ。
傾斜を登るときの体力の配分を私は間違えたのだ。
渓谷はいつしか道の直ぐ真横で深くえぐれ、谷の底を流れる渓流は目視が難しいほど遠くなった。
その分、濃い影を落とす山の頂きは、思ったよりもずっと近くに見える。
私は気づかぬうちに、山道を平地を歩く感覚のまま登り続けていたのだ。
足を止め、すっかり乱れた呼気を整えながら、私はエドを振り向いた。
エドは何も言わず私を見返し、ほんの少し苦笑いして水筒を私に差し出した。
私は飛びつくように手を伸ばし、夢中で口に運んで水を飲むと、ようやく人心地が着く。
「ありがとう!」
「いや。思ったより、頑張るな」
「えっ? どういう意味かしら?」
「もっと早く音を上げると思ってた」
エドはそう言って笑い、馬の背に積まれた荷を少し後ろにずらした。
「おまえ一人くらいなら座れる」
そうして今度は手を差し出し、私が馬に乗るのを助けてくれる。
エドが居て良かった。
私は心からそう思った。
一人で生きるということを、私は甘く考えすぎていたようだ。
もし私が一人だったら、馬の背に荷を積むのすら上手くできたか分からない。
何度も馬車で越えたこの山が、歩けばこれほど険しいとは、夢にも思っていなかった。
私は着替えや身の回りのものを荷造りしたが、水や携帯食料は何一つ持ってきてはいない。
今も、エドが水を渡してくれなければ、遠からず喉の乾きで参っていただろう。
感謝の尽きない同行者を見下ろして、私は疲労を案じて声をかけた。
「エドは大丈夫?」
「俺は平気だけど、座り心地が悪いだろ」
「そんなことないわ。馬がこんなに有り難い生き物だったなんて、今まで知らなかったわ」
本当に、エドと馬が居て良かった。
そう思いながら答えると、エドはクツクツと笑い、今度は何か布製のものを私の膝に乗せかけた。
首を傾げると、エドは言った。
「山の上は冷えるから、足でも肩でも、好きなとこに掛けとくといい」
「まあ…。ありがとう」
何から何まで気が回るエドの後頭部を見下ろしながら、私はまだ一人では何もできないのだと思い知る。
エドには申し訳ないと思いながらも、少しだけ、エドに甘えて助けてもらいたいとも思う。
「エド…」
「ん?」
「しばらくでいいから、私と一緒にいてくれる?」
「……喜んで」
エドの耳に赤みがさしている。
振り返らずに答えたエドは、どうやら照れているらしい。
そういえばエドは子供の頃から照れ屋だったと、私は静かに微笑んだ。
話数が進み、語呂の良い副題を考えるのが大変であることが、非情によくわかりました!
以降、副題は適当に話の内容に沿ったものを入れていきたいと思います。
よもや副題を楽しみにしているという方はおられないと思いますが、
途中にて変更を致しますことを、ここにお詫び申し上げます。