7.計画の実行 侯爵邸
その後は、トントン拍子に進んだ。
あまりやることがなかったのも確かだ。
多少は計画のために準備が必要だったが、その準備そのものよりも、何かを計画して準備していることを誰にも知られぬようにすることに神経を使った。
予め着替えなどの最小限の荷物を荷造りし、それをイベリスに預け、更にエドと共に予め馬車に積み込んでもらう。
後は実行する日を決めて、それまでに私が出来ることは殆どなかった。
念の為に、私の両親と兄に宛てて手紙を書いた。
計画通りにイベリスが妹と結婚できれば不要のものだが、もし万が一、反対されたときのためだ。
無事に結婚できたらその手紙は燃やすように頼み、イベリスに預けた。
そもそも、私は両親や兄とは仲が良くない。
イベリスの両親は他界して10年くらいになる。
成人前のイベリスを後見していたイベリスの叔父は、彼が爵位を継ぐと同時に自身の領地に戻って一切の口出しをしなくなった。
私の偽装された死の原因を熱心に究明し、私が死んで直ぐの再婚に煩く言うような親族はいないはずだ。
反対の声が全く上がらぬわけではないだろうが、親族でも分家筋ならば幾らでもその声は抑えられる。
私の計画は成功するはずだ。
そう確信していたけれど、当日は朝から動悸が収まらず、ともすれば身体震えそうになるのを抑えるのは大変だった。
それはイベリスも同様らしく、朝日に照らされた横顔が青ざめて見える。
「緊張している?」
「ああ。君は大丈夫なのか? 私は今にも卒倒しそうだ…」
「心細いことを言わないで。私も初めて国王陛下に謁見したときよりも緊張しているんだから…」
「……いっそ、私を張り倒してくれないか?」
「……それは、いいかも知れないわね。誰がみても喧嘩したように見えるわ」
「そうだな…。では、やってくれるか?」
「ええ」
イベリスが青白い顔を向け直し、真正面から私を見た。
私もその目を見上げる。
ほんの僅かな間、お互いを見つめ合う瞳に温かい何かが流れる。
この人を、男性として意識したことはなかったけれど、好きだったな、と思う。
イベリスも、同じような気持ちでいたのだろうか。
「ビクトリア」
久しぶりに、私の名を、とても大切そうに、静かに呼んだ。
一瞬、涙が溢れそうになる。
本当は暖かく優しいこの友人と、もう二度と会えないのだと思うと、今更ながらとても哀しい。
それでも、必死にそんな思いを堪えて笑う。
「急に名前を呼ぶなんて、驚かせないで」
「ごめんな…」
「もういいの。お願いだから、もう詫びたりしないで」
泣きたくなるからとは言いえずに、私はまた涙を隠して笑った。
そして小さくウィンクして見せる。
「ところで殴り方だけれど、握りこぶしの方がいいかしら?」
「や、それはやめてくれ。せめて開いた状態で!」
「ふふふ、冗談よ。そこまで意地悪はしないわ」
「君のことだから、本気かと思った」
イベリスの顔にも笑みが浮かぶ。
私も笑みを取り戻し、小首をかしげる。
「覚悟はいいかしら?」
「ああ、しばらく赤みが引かないくらいには、思いっきりやってくれ」
パァアン!
叩いた私が驚くくらい、大きな音がした。
人など叩いたことは今まで無かった。
まさか、叩いた手がこれほど痛いとは…。
「いったぁいっ!!」
思わず悲鳴を上げると、それを聞きつけた者がいたのだろう。
激しいノックの音が響き、慌ただしくドアが開いて入室してきたのは執事だった。
喧騒に次々と使用人たちも集まってくる。
思いもよらぬ素早い執事たちの対応に、むしろ私達が慌てた。
予定では、私がドアを開けて部屋を出しなにイベリスと怒鳴り合うところから、みなに喧嘩を見せつけるはずだった。
「き、君が叩いたんだろう!?」
イベリスも慌てた様子で、とにもかくにも、計画にない言葉ながらも、目を釣り上げて怒鳴った。
こうなれば、喧嘩に見えれば内容などどうでもいい。
私もそれに合わせ、声だけは大きく、できるだけヒステリックに見えるように、仕草も荒々しく怒鳴り返す。
「あなたのせいでしょう! 私に手まであげさせて!」
「夫に手を上げるなんて! そもそも淑女のすることか!」
「悪いのはあなたよ!」
どうやって出ていこう…。
イベリスが計画通り早々に「頭を冷やせ」と言ってくれないだろうか。
内心では焦りと混乱に見舞われながら、私はイベリスに掴みかかった。
とにかく暴れよう。
暴れて怒鳴れば、家を出ていく気になるくらいの喧嘩に見えるはずだ。
「やめろ! 乱暴な女め!」
私の直接的な行動にイベリスがますます慌てた様子で声を荒げる。
イベリスは本気で私の暴力を恐れているのかも知れないと、少し冷静さを取り戻しながら思う。
もう片方の頬も殴ろうかと、思いついて手を上げる。
だが、これが功を奏したらしい。
呆然と見守っていた執事が我に返ったという様子で私の手を取り、私の暴挙を止めた。
「奥様! 落ち着いて下さい!」
「放しなさい!」
私は荒々しく執事の手を振りほどく。
こうなれば、ボロが出る前に退出を急ぐだけだ。
「もう我慢ならないわ! 貴方の顔はしばらく見たくありません!」
急いで踵を返し、制止するように「奥様」と呼ぶ執事たちをかき分けて廊下に飛び出す。
「勝手にしろ!!」
吐き捨てられたイベリスの怒声が、演技とは思えない強さで背中を押した。
イベリスは、ずっと、これを言いたかったのではないかと、ふと思う。
彼は自分のせいで死を偽装までしようとする私を、止められることなら止めたかったと、言外に、態度に、ずっと表し続けていた。
こんなことまで思いついた私に、怒れる立場ではないから怒らなかっただけで、もしエドのように友人として相談していたら、きっと、本気で怒っていただろう。
私が逆の立場だったら、イベリスが半生を捨てることに憤り、案じ、悲しんだだろう。
友として、何もしてやれない自分の無力を嘆き、憤り、やり場のない怒りを持て余して「勝手にしろ」と怒鳴っただろう。
ごめんなさい、イベリス
私は今ようやく、彼らが悲しんでいるということを、心から理解する事ができたと思った。