6.過剰な反応
想像の埒外の反応だった。
成人してからは雇用主と使用人の境界を踏み越えたことのなかったエドの思いもよらぬ反応に、私もイベリスも絶句した。
屋敷の中で話をしては人目があるからと、イベリスはエドを御者に任じて、私を伴って外食に出た。
それが半時ほど前のことだ。
そのまま馬車を街まで走らせようとするエドに言いつけ、屋敷と街の中間辺りにある森に馬車を入れさせた。
そこには狩猟のときに使う簡素な小屋のようなものがある。
その小屋で、私達はエドにこれまでの経緯をすべて話した。そのくらい、私達とエドの信頼関係は強固で厚い。
その厚い信頼が、よもやこんな大騒ぎになるとは、私もイベリスも思いもしなかった。
「貴方がまさか、こんな方だったとは!! どうしたら、そんな残酷なことを奥様にできるのですか!?」
口角泡を飛ばす。
私はその言葉を体現する人を初めて目の前に見た。
本当に起きる現象なのだと、いつまでも罵る怒声が収まる気配のないエドを見ながら思った。
「政略結婚で結ばれた一般的なご夫婦ならばいざしらず、奥様と旦那様は幼き頃からの信頼と強い絆があるご夫婦ではありませんか! それなのに、なぜそのようなことを!!」
簡素なテーブルを壊しかねない勢いで、エドがテーブルをドンと拳で叩く。
それでも怒りが収まらぬのか、きつく眦を上げた顔は、温厚篤実と思っていたエドの顔を戦場往来の兵士もかくやという恐ろしい形相に見せている。
「旦那様をよく知るからこそ信じて疑いもせぬ奥様を騙し、よりにもよって、奥様が大切になさっておられた妹御に手を出すなど……呆れてものも言えません!」
それは同感ではあるけれど、なんとか落ち着かせなくてはいけない。
起きてしまったことの責任追求は、この場合あまり意味を成さないのだ。
領地に関することや国事に関わることならば、事件が起きれば解決まで責任追及も義務も放棄することはできないけれど、これは私事であり、なによりも被害を受けた立場の私が今後の方針を企画し決定した事項なのだ。
だがその計画を話す前に、イベリスとクレオに子供が出来たと、そこまで話したそのときに、既にエドは怒り出してしまったのだ。
まずはエドが話を聞ける状態にまで冷静にさせなければならない。
「エドウィン!」
私は鋭く厳しい声で彼の名を呼んだ。
厳しい声で使用人の名を呼ぶことは、貴族の夫人となるべく生まれ、貴族の令嬢として育った私ならばすぐにでも出来る。
使用人を統括し、家を守るのは貴族の婦人が成すべき仕事だからだ。
そして使用人もまた、夫人に厳しく名を呼ばれたときには、すべての作業を中断してでもその話を聞く必要があることを理解している。
エドも言葉を止めて私を見た。
その途端くしゃりと泣き出しそうに顔を歪め、また違った驚きを私達に与えたが、私はその驚きを顔には表さず、表情に厳しさを繕ったまま再び彼の名を呼んだ。
「エド、落ち着きなさい。私は貴方に怒って欲しくて一緒に来てもらったわけではありません。弁えなさい」
「ですが…奥様……」
「私達が貴方を友達と思うように、貴方も私達を友達だと思ってくれていることは分かっています。それでも、貴方の怒りは行き過ぎています。冷静になりなさい」
「……申し訳…ありません」
項垂れた肩の中に顔を埋めるように下げ、エドは泣きそうな声で詫びて口を引き結んだ。
その悄気げた姿を見下ろして、私は大きくため息を吐いた。
「旦那様と妹のことは、貴方にこれまでの経緯を知らせるために話しただけで、貴方の感情に何かを訴えるためではありません。私達は一つの計画を立て、その計画の実行のために、貴方の力を必要としているのです。ここまでは理解できましたか? 感情を落ち着かせて、ものを考えられる状態になったら、顔を上げなさい」
本当は少しだけ、エドが憤ってくれたことを嬉しく思いながら、私はエドが落ち着くのを待った。
思うよりは早くエドは顔を上げた。
「お話の途中に口を挟み、申し訳ありませんでした」
「もう大丈夫ね?」
「はい。もう、口は挟まずに伺います。どうぞ、お話下さい」
私はイベリスと目を見合わせほんの僅か頷き合うと、偽装死に関する計画をエドに全て打ち明けた。
そうした偽装をしなければならない貴族としての立場も含めて、エドには納得した上で協力をして欲しかった。
全てを話し終えると、しばし小屋の中には沈黙が降りた。
エドは今度は冷静に話を聞き、今はその計画を吟味するように軽く目を閉じて考えふけっている。
「何か質問はあるかしら?」
ややあって私がそう問うと、エドは目を開けて「はい」と応え、直ぐに疑問を口にした。
「奥様は、この計画を実行された後、どうなさるのですか?」
「身を落ち着ける場所は決めているわ。でも、それは貴方達に告げるつもりはないの」
「何を言ってるんだ!? 行く場所を私にも告げないつもりだったのか!?」
私の答えには、むしろイベリスが驚いたように反応した。
無遠慮に私の二の腕を掴み、やや乱暴に引き寄せると強引に目線を合わせる。
「言わないわ。貴方は私がどこに行くのか知れば、人を使って私の安否を気遣おうとするでしょう?」
「いや…、それは…、君が望まないなら、そんなことはしないようにするが…」
「いいえ、貴方は情が厚いし、私のことを友達としては好いてくださっているでしょう? しばらくは我慢できても、そのうち、私の安否が知れないことが心配で我慢できなくなるに違いないわ。そうなったとき私の元に人を遣わされたら、せっかくの計画が外に漏れてしまう恐れが出てくるわ」
イベリスは黙り込み、エドも深く眉を寄せた。
私が逆の立場であったなら、そう思えば彼らの気持ちも分からなくはない。
本当の死ではないけれど、彼らと私は今生の別れをすることになるのだから、寂しさや心配が湧いてくるのはむしろ当たり前だろう。
それでも、ここはお互いに心を無にしてでも、決断しなければならないときだ。
「この計画は、伯爵令嬢として生き侯爵夫人として死ぬという、私のこれまでの人生全てが掛かっているの。些細なことから失敗するほど悔しいことはないわ。生家の伯爵家にも嫁いだ侯爵家にも傷をつけず、大切な友人と妹の間に出来た尊い命にも傷をつけない唯一の方法、そう思うから、私は私の半生をこの計画に捧げているの。だから、私は誰にも告げずに、私の生きたい場所に行く。理解して」
私はイベリスとエドを説得するために口を開いた。
けれど、はからずも私自身の決意を再確認し、固める言葉になった。
死を偽装すること。
それすなわち、今までの私を消し去るということ。
今までの私を知る全ての人に別れを告げ、一人で新しい人生を歩むということ。
私の知る大切な人たちにも、私を守ってくれる大きな人たちにも、もう、二度と会えない。
私は静かに目を閉じた。
今この場で、私の心にある大切な全てに決別するために。
思い出だけを抱えてこれから一人歩いていけるように、もう一度、自分の決意を堅固にする。
そんな強い決意が伝わったのか、エドが盛大なため息を吐いて言った。
「奥様の意に従います。なんでも、お申し付け下さい」