5.適格な人材
エドウィン、通称をエド。
イベリスの幼馴染で、侯爵家の馬丁の息子であったことから、今では自身も馬丁になりイベリスの愛馬の飼育を担当している。身分に隔たりはあるものの、そんな格差を知らぬ子供の頃はイベリスや私とも一緒に遊んだり時には喧嘩をしたこともある、私達二人の共通の友人だ。
私もイベリスもあまり表にこそ出さないよう努めているが、他の使用人たちとは全く違った意味でエドには深い信頼と友誼を感じている。だからこそ、エド以上に適任は見当たらない。その上、彼はイベリスの御者を務めることも多々あり、この計画にば打って付けの人材なのだ。
けれど、エドが私達二人にとってかけがえのない大切な友人であることも確かだ。まさか、エドまで偽装死させるわけにはいかない。私は素早く思考を巡らせた。
「エドには、一年くらい、記憶を失って貰えばよいでしょうか?」
「は? なんの話をしている?」
「エドだけ谷底に落ちなかったというは不自然ですし、エドが一人で馬車から飛び降りて助かってもいけません。侯爵夫人の死亡事故なのですから、御者は責任を追求されるでしょうし、逆にしなければ余計な詮索をされます」
「だからエドは助かったことにするが、直ぐではいけない…ということだな?」
「ええ。私は死亡しなければなりませんが、エドはその必要はないんですから」
「転落事故にはエドも遭うが、奇跡的にエドは助かって記憶喪失になっていた…というシナリオか」
「ええ。そうすれば、エドは侯爵邸に帰れます」
「私は、一年と言わず君が落ち着くまで、エドには君と一緒にいてもらいたいと思うのだが…」
途中で言葉を止め、イベリスは眉間に深くシワを寄せた。
イベリスは自分の代わりにエドに私を守らせようと思っていたのだろうか。
私は大きく頭を振った。
「お断りします」
「いや、しかし…」
反論を試みるイベリスの言葉を、私は途中で遮った。
「貴方は、私に対して責任を感じていらっしゃるんだと思いますけれど、そのご親切はかえって私の足かせになります。エドと行動する間は私がエドの雇用主です。例え短い期間であっても、その間、私はエドに不自由をさせるわけにはいかないのです。それを何年も、だなんて…」
「経済的なことを言っているなら、それは私が用意する。何もかも、君に押し付けるわけがないだろう?」
これだから殿方は、と言いかけて私はまた大きく頭を振った。
「イベリス、貴方の用意できるお金というのは、まさか、侯爵邸のお金ではないわよね?」
「もちろんそうだ。侯爵邸の財産、すなわち私の財産だ。君は、何を言ってるんだ?」
「どんな名目で、侯爵邸の財産を持ち出すつもりなの?」
「………」
黙り込んだイベリスも、ようやく気がついたようだ。
イベリス個人のお小遣いのような私財と、侯爵としてのイベリスの財産は性質を異にするものだ。イベリスが私的な用事に使うお金はイベリス個人のものだが、侯爵としてのイベリスが侯爵の務めを果たすために使うお金は、イベリスのものではあるが公的な財産のような性質を持っている。
侯爵としての財産の出納は記録され、使徒用途も明確に記される。それが領地を授かり、国民から税を取る貴族がなすべき当然の財政管理だ。
すなわち侯爵としてのイベリスが、私とエドに秘密裏に侯爵邸の財産を与えることはできない、ということなのだ。
「ご理解くだされたようですね。では、エドはなるべく早い段階で怪我も癒えて記憶が戻った、ということにして侯爵邸に帰します。よろしいですね?」
「…分かった」
イベリスは肩を落とし、悄気げたように俯いた。
それを励ますように、私はあえて明るい声で言った。
「あまり思い詰めて考えないで下さい」
「しかし、君がこの先も不自由なく生活できるように、助力を惜しまないつもりでいたのに、それすらも出来ないとは…」
背信行為に対する罪悪感や夫としての義務感、友人としての好意など、様々な感情からイベリスは私のために何かしたくて仕方がないのだろう。まだ悄気げた様子のイベリスを軽く苦笑いで見つめる。
「私のためを思うなら、明日も早くお戻り下さい。明日はエドを呼んで、計画のことをエドにも話しましょう」
「…そうだな。私が言うのもおかしいが、前を向かなくては、な」
「ええ、ぜひそうして下さい。私はもう前向きな考えしか持っていないのですよ?」
「分かった。そうするよ。明日、エドを呼んで三人でしっかり話し合おう」
私は笑顔でうなずき、視線を窓の外に目を向けて、更け行く夜の静けさに目を閉じる。
知らず、ほっと息が漏れる。
今日は実に衝撃的な1日だった。
妹の妊娠と夫の不義の発覚。
その事実から両家の体裁を傷つけぬ解決策を探し、死を偽装しようという計画を立案。
計画を具体的かつ詳細に練り上げていく傍らで、その計画に同意を得るまで説得を繰り返す。
そうして計画を立てる傍らで、自身の未来に対する明るい展望と期待に胸を弾ませる時間も確かに存在した。
自由とスリルに満ちたこれからの生活を具体的に考えるのは先に送るようだが、漠然とした展望は私の中にある。
計画通りに行かぬことも多く、失望や絶望に陥るかも知れないが、それでも未来に寄せる期待は大きい。
これらを半日ほとの時間に詰め込んだ今日という1日は、相当に内容の濃い1日だったのは間違いがない。
目を開くと、心配そうに私の顔を横から覗き込むイベリスが横目に映る。
薄く笑みを浮かべ、私は首を軽く振った。
「大丈夫よ。ごめんなさい、少し疲れただけ」
視線を窓からイベリスに、そして室内に戻すと天蓋の付いた大きなベッドが目に入る。
途端、強い眠気と疲労感が押し寄せる。
「あなた、昨夜まではどちらでお休みになっていたの? 帰りは遅かったのでしょう?」
「結婚前まで使っていた寝室で休んだよ」
「では今夜もそちらで休んで……。と言いたいところだけど、まだ喧嘩を見せつけるには早いから、今日はここで休んだ方が良さそうね」
「そう、だね。では私はソファで…」
「そう? それなら、お言葉に甘えて私が寝台を使わせてもらおうかしら。おやすみなさい、イベリス」
私はあっさりとイベリスの提案に頷き寝台へと歩み寄り、天蓋のカーテンを引いて室内からの視覚域を遮ると手早く夜着に着替えてベッドに寝転ぶ。
これからは、毎日一人で夜着に着替え、朝も一人で起きて洗顔の湯を用意し、化粧に着替えまで、全て一人でやることになる。
いつも周囲にいたメイドは一人もいなくなり、爪の手入れも髪の手入れも、なにもかも、自分でやらなくてはならない。
それは大変かも知れないけれど、煩わしさもない。
死を偽装することによって失うものと得るものがある。
それらをもう一度脳裏に浮かべようとしたものの、私は私の人生が変わる起点となった今日という日を、瞬く間に訪れた深い眠りに抗うことなく落ちることで終わらせた。