4.計画の立案
「馬車を落とすのはいいが、君は一人で屋敷を出るつもりなのか?」
覚悟を決めたイベリスの最初の一言に、私は目を丸くした。
侯爵夫人ともあろう者が、供の一人も護衛の騎士の一人も連れず、馬車で3日は掛かろうかという領地まで単身で行くなど、貴族の常識には決してない。
今の今までそのことに思い至らなかったとは、我が事ながら驚きだ。
馬車を落とすのは造作もない。先祖代々、風魔法に特化した魔術師の家系である私の実家に、魔法が使えない者は今まで一人も誕生しなかった。私も妹も類にもれず、風魔法は国内屈指の腕前だ。馬車の1台や2台、一瞬で谷底に落とせる。
だが、侯爵夫人の一人旅はあり得ない。ましてや、御者もいない馬車での移動など、まかり間違ってもあり得ない。
「それは、考えてもみませんでした。私が一人で領地に行くなど不自然すぎますね。屋敷の者たちにも止められてしまうでしょうし…」
力なく答えると、フーとイベリスがため息をつた。
「私が言いたいのは、そういうことではない。そうでなく、本当に、君はそれでいいのか? 死を偽装などすれば、君は、実家にもここにも戻れなくなってしまうんだぞ? どこで、どうやって生きていくつもりなんだ?」
少し怒った様子で声を尖らせたイベリスが言うのは、従者なしの侯爵夫人の旅が不自然だ、ということではなかったようだ。どうやら私を案じてのことらしい。
今度は私がため息を吐いた。
「なぜ貴方は怒っているのですか?」
「当たり前だろう! 君が、自分ばかり犠牲になろうとするから…。私は確かに君にひどいことをした。だが、それは君が憎くてしたことじゃない。むしろ、いつも罪悪感を覚えてはいたんだ。ただ…クレオが愛しくて、我慢できなかった…」
イベリスのその告白は、少し私の心を傷ませた。
天真爛漫で可愛い私の妹クレオ。誰からも愛される優しく愛くるしいクレオ。女性として私よりもクレオを愛してしまったイベリスの気持ちは分からなくもない。だからこそ、イベリスに女性として選ばれなかった我が身は情けなくも悲しく、少し悔しい。
「貴方の懺悔はもう結構です」
私は少し不機嫌に言った。
妻が憎いから浮気をするということに道理があるとも思えないが、悪しく思っていない妻がいるのに浮気をする男性の気持ちは、女性の私には理解ができない。
だが、やはり今更憤ったり、二人を責めても何も解決しない。起きてしまったことは覆せないのだから。
それなのに、根本を蒸し返すような話をするイベリスに些か腹が立ってきた。先の見えない堂々巡りの議論は、もう一時たりともやりたくない。
「私はもう決めたのです。私は私の死を偽装して、私は私の新しい生活を始める。そのために必要な元手くらいは蓄えがあります。実家にも侯爵家にも、戻る必要はありません」
ピシャリと鼻先を指で弾くような強い語気で、私はきっぱりと言い放った。
その瞬間、またも私の頭に天啓が降りた。
「あなた!」
私は思わず、イベリスの手を両手で取った。
「な、なんだ?」
「私達、喧嘩をしましょう!」
「…喧嘩?」
「ええ! 使用人たちがびっくりして駆けつけるくらい、大声で罵り合うような大喧嘩をするんです」
私の剣幕に、最初は驚いたように目を丸くしたイベリスだったが、直ぐに冷静に考え込むような顔になる。
しばし、私の考えを吟味するように眉を寄せて考え込み、やがてポツリと言った。
「喧嘩……。なるほど、それで、君が侯爵家を飛び出す…」
「ええ、そうです」
イベリスが理解を示したことに気を良くした私は、続けざまに自身の考えを夢中になって口にした。
「私が『貴方の顔なんか見たくない』と言いますから、あなたは『少し頭を冷やせ』とでも言い返すんです。そうしたら、私は『そうしますわ。私はしばらく領地に行かせてもらいます』と返すんです。それだけ使用人に聞かせれば、後は私が馬車に乗って飛び出せばいいんです。完璧なシナリオではございませんか?」
満足感がいっぱいに広がって、自然に微笑みが漏れる。そんな私につられたように、イベリスの顔にもわずかに笑みが見えた。
「それならば、私は口実を設けて玄関に馬車を用意させておくといいな?」
子供の頃に、共にいたずらを企んだときのような表情だ。そう思うと、また少しだけ胸が痛む。今度は私が失うものへの哀惜の痛みだ。もう彼と一緒にいたずらのような真似も出来ないし、こうして笑顔をかわせなくなるのは、やはり寂しい。
だが、もう私は決めてしまった。
私は再び今に立ち返り、具体的な案を口にした。
「御者はいない方が良いですわね。私にも馬を御するくらいはできるでしょうし、慣れぬ私が谷に馬車を落としてしまうということにも、説得力が出ます」
だが、それにはイベリスは慌てて首を振った。
「それは駄目だ! いくら君が跳ねっ返りの令嬢だったとはいえ、馬車を自分で動かすことは危険すぎる! 谷に付く前に事故を起こしかねないぞ」
一瞬、ムッとしないでもなかったが、イベリスの言うことも最もだと素早く溜飲を下げる。
「跳ねっ返りは余計な一言とは思いますが、貴方の仰ることも、もっともです。谷に着く前に事故を起こしては計画そのものが台無しになります。とは言っても…」
馬車と一緒に御者を谷に落とすわけにはいかない。かといって、一緒に連れて行くという選択肢もない。口止めをして御者だけを侯爵邸に帰すのも、御者が責任を問われるような事故を装うことになるのだから論外だ。
「途中で、馬車を降りるように、私が御者に命じるのはどうですか?」
「それも不自然じゃないか? 私たち貴族は、御者がいる馬車に乗るのが当たり前だ。余程のことがなければ自分で馬車を御そうなどと思う者は、男性でもまずいないぞ?」
「そうですね。これも不自然ですね」
順調に進んでいた偽装死計画が、行き詰まった。私もイベリスも、その解決策を求めて必死に思考を巡らせた。
しばしの時が流れた。
お互いの存在を忘れるほどに、真剣に深刻に、御者問題に頭を悩ませる。
そしておそらくは、二人同時にある人物に思い至る。
「エド!」
二人同時に顔を上げ、殆ど同時に同じ人物の名を口にする。
その瞬間、私達はお互い声を立てて笑い合っていた。