3.過去と未来
夕食を共にし、妹を家に返した後、私達は初めて夫婦の寝室に二人になった。二人で使われたことのない大きなベッドは、結婚して3日間、私が一人で占領していたが、今にすれば、夫はどこで寝ていたのだろう。
そんなことを想いながら夫を見やる。
夫はソファに沈み込むように座って項を垂れ、組み合わせた両手を沈鬱な表情で見下ろしている。
私の視線を感じ取っているだろうに、顔を上げようともせず、苦悶の表情を浮かべたまま、絞り出すように言った。
「すまない。私が…悪かった」
心底申し訳無さそうに紡がれた言葉に、嘘はないだろうと思う。彼のことは子供の頃から知っているが、嘘がつけるような器用な性格ではない。
むしろ嘘は下手なほうで、私が完成率80%の大嘘をつけるとしたら、彼は8%くらいの幼稚な嘘しかつけないだろう。
だから彼は、本当に自分が悪かったと思って詫ているのだ。それは痛いほどに伝わってくるが、謝罪はもう十分だ。
「私への謝辞はもう結構ですから、具体的な話し合いをいたしましょう。私の計画には、貴方の協力が不可欠なのですから」
言い切った私の言葉が冷ややかに聞こえたのだろうか、夫は急いで顔を上げ、ソファから腰をわずかに浮かせた。
その様子にため息をつき、私は夫の正面のソファに腰掛けた。途端に、罪悪感からか顔を背けようとする夫の名を呼ぶ。
「イベリス。私は本当に怒っていないし、貴方のこともクレオのことも、嫌いになったりしていないから、私の顔を見て頂戴。私達が、結婚前には良い友達であったことも忘れてしまったの?」
「その友達を、私は裏切ったというのに、君はどうして、私達を許せるんだ?」
「なぜかしら? 私にもよくわからないのだけど、私はまだ一度も、貴方を男性として見ていなかったんだと思うわ」
状況だけを見れば、私は二人に腹を立てても良いだろうし、憎んでも、嫌っても、二人はもとより関係のない他人からも、私が非難されることはないだろう。
だが実際、クレオから妊娠の報告を受けても、私の心の中にはそうした負の感情が殆ど生まれなかったのだ。
ほんの僅かに、裏切られたという気持ちがないでもなかった。けれど、それは私達の長年の信頼や友情を一瞬で砕いてしまうほどのものでもなかった。
私の中には、まだ二人に対する信頼も友誼も残っているし、それを一時のマイナス感情で失うことの方が愚かしく思える。
「確かに、貴方達は私を裏切ったと言えるのでしょうけど、私が私の心の中を憎しみや嫌悪で真っ黒に染め上げても、私には何も良いことがないでしょう? 辛いだけだし、いつまで憎めばいいのかその期間も分からないし…」
言葉を止めて首を傾げ、少し眉根を寄せる。
本当に、もし彼ら二人を恨み憎むとしたら、それはどのくらいの期間やればよいのだろう。
クレオが子供を生むまで? その子が成長するまで? 彼らに具体的な復讐をするまで?
私が自身の一生を使い果たすまで?
もし私がイベリスを心から愛し、すべてを委ねてしまっていたなら、私は深く深く二人を憎んで許さなかったのだろうか?
イベリスとクレオの二人が過ちを犯した過去について【もし】と仮定することは、今の私には殆ど意味がない。
私が考えたいことも、成したいと思うことも、全ては未来に関することだ。【もし】となにかを仮定するならば、未来をよりよく迎えるための懸案事項として冷静に捉えるべきだ。
過去の取り返せない【もし】を思うのは、将来時間を持て余して他にやることがなくなったときでいい。
私は更にイベリスを励ますように口を開いた。
「貴方とクレオの間には子供が出来て、その子はなんの穢も知らずに生まれてくるのよ。伯母として、私も綺麗な心で祝福したいわ」
「君は…聖女のようだな。知らなかった…」
「それは知らなくても無理はないわ。私は聖女ではないし、高潔でもないもの。私は自分のために美しい心でありたいと願っているだけで、誰かのために美しい心で他者を慈しみたい救いたいと願っているわけではないわ。だから、私は聖女とは程遠いわよ」
イベリスの言いように少し笑い、私は肩をすくめてみせた。許されたイベリスからすれば、私は聖女とも女神とも見えるのかも知れないが、私は私のために大切な二人を憎みたくなかった。ただそれだけなのだ。
「貴方達がとても反省していることは十分に伝わりましたし、貴方も私が許していることを分かって下さったようですから、そろそろ具体的な相談をしてもよいかしら?」
私はやはり、私の未来に対して明るい希望を持ち、楽しみにしていることに改めて思い至った。大切な二人に、今後は会うことも難しくなるだろうことを差し引いても、新生活に寄せる期待の方が遥かに大きい。
そう思ってはたと気づいた。
もしかしたら、私は本当は二人の裏切りに傷つき、二人に腹を立て、憎んだのかも知れない。自分でも意識できない深層で、私は憎悪を感じていたのかも知れない。
そんな感情から逃れるために、無意識に彼らの顔を見なくても良い方法を考えることに思考を逃したのかも知れない。
二人の声を聞き、二人の仲睦まじい姿を見、二人の愛の結晶を伯母として祝福して抱き上げなくてはならない未来を、瞬間的に思い描き、苦悩する自分を逃していたのかも知れない。
否! それはただの仮定だ。
好ましくない思考に囚われかけた頭を軽く振り、私は一度大きく息を吐いた。背をただし、呼気を整える。
私が見るべきは、私達三人がどこかで混迷して間違えてしまった過去ではない。見据えるべきは私の未来で、そこには伯爵令嬢の私も、侯爵夫人の私もいない。ただの一個人としての私が、私のためだけに生きる未来だ。
気がつくと、イベリスが心配そうに私を見つめている。
私は軽く息を吐き、顔に笑みを浮かべた。
大好きな妹のクレオと大好きな友人のイベリス。
そして一番大好きな私自身。
いつまでも、私が私自身を一番好きでいられるように、私は私の未来を輝かしく幸せなものにしなくてはならない
そのための偽装。
平穏な国の平和な貴族たちは、権力争いに余念がなく、互いの足を引っ張る材料を探すのには長けている。
私の事故死は間違いなく事故死に見えなくはならない。間違っても、夫や妹が計画した殺人に見えてはならない。
私が今一番神経を注がねばならないのは私の死を偽装する計画であり、私達に起きてしまった過去ではない。
私は表情を引き締め、夫のイベリスを見据えた。
「これからのことは、三人の共謀ですからね? 今度は裏切っては駄目ですよ?」
この計画は、それこそ期間は一生涯。それぞれが墓場に入るまで持っていかねばならない秘密であり、大嘘なのだ。
私の険しい表情に、イベリスもようやく覚悟を決めたのか、彼もまた表情を引き締め、しっかりと私の目を見つめ返して力強くうなずいた。