2.驚愕の提案
私からの緊急の手紙を握りしめた夫が、息せき切って部屋のドアを開けた。
ノックがなかったと、冷静にその姿を見やりながら椅子から立ち上がる。
「おかえりなさいませ。早々にお戻りいただき、感謝いたします」
謝礼を口にする私をちらりと見たイベリスは、直ぐにその視線をクレオに向けた。
その顔には常にない心配と焦燥がハッキリと見て取れた。
見返すクレオもまた、不安に苛まされ心細そうな表情を浮かべている。
「お前は! クレオに何をしたんだ!」
そんなクレオの表情を誤解したのか、夫のイベリスは私が初めて聞くような怒声を発した。
10年の婚約期間と数日の新婚生活の中で、初めて目にする夫の取り乱した姿。
逆にその姿に落ち着いた私は、ゆっくりと口を開いた。
「貴方のそんな声は、初めて聞きます」
「何をしたのかと聞いている!」
「お静かに。落ち着いてくださいませ。クレオに何かしたのは、私ではなく、貴方でございましょう?」
ぎくりと、イベリスが身を固くする。
警戒するように、私を見る目に猜疑が浮かぶ。
浮気がバレたのか、それともバレていないのか、それを探っているのだろう。
私の表情から何かを読み取ろうとする様子だ。
なるべくならばイベリスには、平静に聞き、冷静に判断し、決断してほしい。
そんなことを考えながら、クレオを見る。
クレオから話す様子は見られない。
ならばと、単刀直入に本題を切り出す。
「クレオが貴方の子を身ごもりました」
「なん……、だと…?」
クレオに妊娠を告げられたときの私より、遥かに衝撃が大きかったらしいイベリスは、
ヨロヨロと数歩よろめくと、崩れるように椅子に腰を落とした。
イベリス・オルティンはオルティン侯爵家を継承したばかりの、我が国で一番若い侯爵だ。
仕事も人生も、まだ経験が浅い。
父親になるのも、当然ながら初めての経験だ。
だから、その衝撃も分からなくはない。
頭を抱えてしまった夫に歩み寄り、私は努めて穏やかに、柔らかく言葉を発する。
「旦那様、新しい命を授かるということは、決して悪いことではございません」
「いや、しかし…」
「問題は、それが私ではなかったということだけです。貴方の子であるのは間違いのないことなのでしょう? ならば、そのように頭を抱えるのはおやめください。妹が不憫です」
驚きに弾かれたように夫が顔を上げる。
縋り付くような許しを請うような、そんな必死の瞳で私を見やってくる。
こんなに頼りない方だっただろうか?
むしろ、少し可愛いような。。。
「大丈夫です。貴方と貴方の子、私と私の妹、全員にとって一番良い方法を考えましょう」
私はまるで妹に対するときのように、夫に対しても姉のように振る舞った。
いやむしろ、義姉になるべきだと、天啓のようにある考えが私の中に閃いた。
侯爵家であるイベリスの家、伯爵家である私と妹の家、そのどちらの家にも醜聞とならぬような妙案が。
「私の死を偽装しましょう」
イベリス、クレオ、二人の表情に激しい驚愕が見て取れる。
全く予想しえぬことだったのだろう。
私自身も、よく思いついたものだと思う。
「侯爵家の領地に行く途中に、ローヴェ渓谷がございますでしょう? 渓谷を流れるロヴェス渓流は激しい急流で諸外国にも知られています。そこに落ちればまず助からず、死体が見つかることもありません」
「まさか! 身を投げると言うのか!?」
「それこそ、まさか、ですわ」
私は思わず笑った。
私が身を投げては醜聞は両家を巻き込み、イベリスとクレオの二人は罪悪感を終生抱えることになり、浮気をされた挙げ句に若いみそらで身投げして自死する私はあまりに哀れにすぎる。
これでは誰も救われない。
「だから、偽装するのです。侯爵家の馬車を一台くだされば、私がうまくやります」
怪訝な表情を浮かべ、イベリスはクレオを見た。
クレオも同じくらい怪訝な表情で、今は涙も忘れた様子で私を見ている。
二人のそんな表情を見ていると、大変な話をしているのになぜかおかしくなり、私は笑顔でうなずいた。
「我が国では、新妻が夫に先立ったときに、妻の実家から後添えをもらうことは少なくありません」
「そういう例がたしかにあるが…」
「まだ私達は結婚して間もないですし、クレオと私は2つしか歳も違いません。幸いクレオには婚約者もまだおりませんし、その候補も、まだ我が家では探していません」
「なるほど……」
どうやら乗り気になってきたらしいイベリスを、クレオがまるで嗜めるかのようにキッと睨みつけた。
「お姉さまはどうなるのですか!? 死んだふりだと言っても、もう家にも戻れなくなってしまうし、侯爵家にも戻れないではありませんか!」
ハッとしたようにイベリスはクレオを見、私を見た。
みるみる申し訳無さそうな表情になり、肩を落としてしょんぼりと俯いていく。
そんな姿が、今まで見た中でも一番愛おしく思えてしまい、またチクリと胸を指す痛みを覚える。
「貴方達に、二度と会えなくなるのは、少し寂しいわね」
「だったら、そんなこと仰らないで! 私が、私が悪いんです! お姉さまがそんなこと、する必要なんて全くないです! 私が…私が……この子を………」
クレオは自身のお腹を両手で抱えるよように抱き、黙り込んだ。
この子は、自分の子供を堕胎しようと、考えたのだ。
「いけませんクレオ。貴方の子は私の姪か甥なのよ? 貴方一人の勝手にはさせませんよ」
厳しい声で釘を差し、その険しさが残ったままであろう顔をイベリスに向ける。
「旦那様、貴女が私の妹を守らずに誰が守るんですか? 貴方と妹の子を、私の甥か姪を、貴方ではなく、誰が守るというのですか?」
「すまない…」
「謝罪などいりません。私がほしいのは決断です。今は私の申し上げたこと以上の妙案はありません。決断してください。早ければ早いほどいい。この子のお腹が目立つようになってからでは、すべてが遅くなります」
「本当に、すまない…」
いつまでも罪悪感から逃れられず、悄気げたまま顔も上げないイベリスに、段々と苛立ちが募ってきた。
眦が釣り上がるのが自分でも分かる。
私は少々気が強く、女として可愛げがないと若い殿方に全く人気がない令嬢だったことを思い出す。
だが、今はそれでいい。
「女の一人もさっさと捨てられない男が、権謀術数が渦巻くような政治の場で、その道では歴戦の雄たる老獪な貴族たちと渡り合えるのですか!? しっかりなさって下さい」
弾かれたように上がったイベリスの顔を、両側からパチンと音がするほど勢いよく両手て挟む。
真っ直ぐにその目を見て、更に言う。
「貴方は私に対して不義理でした。それは貴方が終生抱えていく罪です。私が許そうとも貴方の罪が消えるわけではありません。だからこそ、二度とこんなことをしないようにして下さい。私の妹に、同じことをしないで下さい。生涯、私の妹クレオだけを愛すると誓って下さい。それで、手打ちにします」
いいですね? と付け加えて言い、私はイベリスから離れた。
もう二度と、彼に近づくことも彼に触れることもないだろう。
そう思うと、少し寂しいような、少し心が軽くなるような、不思議な心地がした。
唐突に、私は自由になるのだと理解する。
家という守らねばならないものがなくなり、夫という支え敬わねばならない者がなくなり、妹という抱え慈しまねばならない者がなくなる。
その代わり、自分で自分を守らねばならないという、今までにはない危機が迫っていることもまた事実だが。
私はワクワクしているんだ。
そう気づくと、もう先の未来の自由しか、私には見えなくなってしまったようだ。
思わず綻びそうになる表情を引き締めようと、わざと眉間にシワを寄せる。
それを苦悶の表情ととったのか、私を気遣うように、クレオがか細い声で泣き出しそうに言葉を紡いだ。
「でも、お姉さまは、一人になってしまう…。たった一人で、どこで生きてゆかれるというの? 一人で生活したことなんて、ないのに…」
「そうね。だから、これからそのことを、貴方達にも考えてほしいの。私が偽装で死んで直ぐに、本当に野垂れ死にするようなことがないように、ね」
クレオの言うように、一人で生きていくということは、私のような世間知らずの令嬢が思うよりもずっと困難ではあるだろう。
けれど、私は幼い頃に憧れていた生き方がある。
今こそ、その生き方を実践する最高のチャンスだ。
ことの重大さと罪悪感に気鬱が晴れぬ二人には悪いけれど、私の心は既にここにあらず。
遠い日の夢に向かって既に進み始めていた。