10.野宿
無事に山を超えると、村に行って宿を取ろうとエドが言い出した。
けれどその案を、私はあっさり棄却した。
出来る限り、私が生きた証拠を残したくなかったらだが、それだけではなかった。
以前、イベリスが領地に行く際に同行したとき、泊まったことがあったのだ。
顔を覚えている者がいるかも知れない。
そう告げるとエドは納得したように頷いたが、直ぐにため息を吐いた。
「それじゃあ、野宿するしかないけど、大丈夫か?」
「まあ、野宿…」
思わず口元に手を当てる。
生まれてはじめての野宿に、気を許せば満面に喜色が溢れ出しそうで、私は気を引き締めるのに苦労した。
だがその苦労はいらぬ苦労だったかも知れない。
私が喜んでいることにエドは気づいたのだろう。
馬の轡を取って歩きながら、エドは呆れたような目で私を見上げた。
「言っとくけど、野宿は命がけだからな? 獣が出るかも知れないし、最悪、魔物が出るかも知れない」
「私、魔学の野外授業で魔物を倒したことならあるわ」
「獣の方が怖いこともある」
「オオカミやクマは、魔物と生存域が被ることがあるのに、決して負けてないそうね」
肩をすくめ、エドはそれきり黙ってしまったが、野宿に反対はしなかった。
私がアルヴィ魔術学院の魔術学科を好成績で卒業したことを思い出してくれたのかも知れない。
それとも、馬車を落とした手際が見事だったと思ってくれているのかも知れない。
どちらにしても、エドはもう命の心配はしていないようだった。
やがて日が西に傾く頃、エドは街道から少し離れた小さな林に入り馬を木に繋ぐと、私が降りるのを手を差し伸べて手伝ってくれた。
そうして直ぐに野宿の準備を黙々とはじめた。
落ちている枝を集め、火をつける準備をするのだろう。
私も目についた小枝を拾う。
それをチラリと見て、エドが手を休めずに言った。
「気が変わって、帰りたくなったんじゃないか?」
「いいえ、全く」
「意地を張るなよ」
私は肩をすくめただけで反論はせず、ただ思考を巡らせた。
最初から、随分と躓いてしまったと思う。
屋敷を離れて生きるということは、想像していたのとはまるで違い、心配や不安の種も尽きない。
この辺りはまだ首都に近く、魔物や獣を騎士団が積極的に退治しているから比較的安全だ。
だがやがては、昼日中でも危険な街道も通らねばならないだろうし、街道とは名ばかりで道なき道を進まねばならないこともあるかも知れない。
いくら私が魔道士であったとしても、殆ど実践を知らない素人のような魔道士であることは否めないのだ。
いやその前に、この空腹はどうすれば満たされるのだろう。
口には出せない最も切実な願いを抱え、私はまた小枝に手を伸ばした。
その指先が、同じ枝に伸ばされたエドの手に当たる。
エドが手を引くかと思ったが、エドはそうはせず、逆に私のその手を大きな手で捕まえた。
不思議に思い、エドの顔を見上げると、エドは真剣な瞳を私に据えている。
「ほんっとに、後悔してないのか? まだ今なら、侯爵邸に帰れると思うぞ?」
「後悔はないけれど…」
私は口を濁して、私の手を握ったままのエドの手を見下ろした。
お腹が空いた、と思う。
エドは、何か食べられるものを持っていないだろうか、とも思う。
親兄弟でも夫でも恋人でもない異性に、ガッチリと手を握られているという、普通では有り得べからざる事態など、もうどうでもいいくらい、空腹だ。
「エド…」
私の口から出てくる言葉は、弱々しく小さく、尻窄みに消えた。
エドは空腹を感じないのだろうか。
私の弱々しい声を、弱音を吐いているのだと勘違いしたらしいエドが、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「明日、戻るか?」
問う声が優しい。
だが私は頭を振った。
もう、限界だ。
「貴方…、空腹では、ないの?」
思わず本音を吐き出すと、エドはハーと大きなため息を吐き肩の力を抜いた。
直ぐに私の手を手放し、荷物の方へと歩いてゆく。
私は無意識にその背に期待の眼差しを向けた。
「干し肉しかないぞ」
振り向いたエドに幾度も頷いて見せる。
差し出された干し肉を、卑しくないように、ゆっくりと受け取る。
焦るなと心の中に命じながら、上品に、できるだけ上品に、口に含む。
フワッと口の中に広がる肉の味。
これは、牛ね。
まだ逸る気持ちを宥めながら、口の中のそれに歯を立てる。
硬い。けれど美味しい。
これほどの空腹を体感したことはなかったけれど、その空腹が満たされた時の満足感は大変なものだった。
卒業式と成人式と結婚式が一度に来たような歓喜が血の中に湧き上がり、全身を巡るような心地だ。
「美味しかったわ! ありがとうエド!」
「腹減ってるときは、何でも美味く感じるからな」
「本当ね。少し物足りなかったけれど、空腹感は収まったわ。エドは大丈夫? 足りなかったのではない?」
肩をすくめてエドは私の質問をはぐらかし、直ぐにまた口を開いた。
「明日、近くの村に行って、馬と食料を手に入れてくるよ」
「でも…」
「俺が一人で行けばいいだろ?」
「そうね。エドなら、私ほどは目立たない…かしら?」
「俺の痕跡が残るくらいはいいだろ?」
私は小首を傾げた。
私は未だ、エドを侯爵邸に戻すことを諦めてはいないのだ。
今は考えつかないが、エドを帰らせても不自然ではない、何か良い方法があるかも知れないと、希望は捨てていない。
近在の村に残すエドの足跡が、後でエドにとって不利になるのではないか。
そうは思うが、この先のことを考えれば、
もう一頭馬も欲しければ食料も欲しい。
「行ってくれる?」
「もちろん。朝になれば危険もないと思うから、一人で待てるよな?」
「それは問題ないわ」
私はエドに胸を張った。
危険な生き物に遭遇したら、魔法を使えばいい。
私は強力な風の魔法を使うことで、魔学では一目置かれていた魔道士だ。
学術院を卒業と同時にイベリスと結婚してしまったから、魔道士として何かを成したことはないが、私には魔道士としての自負がある。
「そういえば、この先、私がどうやって生きていこうと思っているか、まだ話してなかったわね」
そう言うと、エドはほんの少しの間私の顔を見つめ、やがて表情を引き締めるとゆっくりと頷いた。
今の今まで、誰にも明かしたことのなかった私の夢。
一冊の本が教えてくれた、自由とスリルに満ちた、私の憧れの職業。
「ニア・ハルマイルに行って、私、傭兵になるの」
私が町と職業の名を告げると、エドの目と口はポカンと半開きに開いた。