微睡み
─あれは 何時だったか そう 妙に眩い暁 其の始まりを語る
あの消えゆく星へ ただ憧れへ手を伸ばした朝 願わくば─
あの星と共に
この日この朝、私はある失意により意識を急速に覚醒させている。動悸さえ感じる程に…。その失意は、日常から抜粋し語るには幾度となく起きる事で、余りにも取るに足らないモノである事が私の体へ焦慮を刻み付けている。ベッドの横に設置された窓の額縁に置いてあった目覚まし時計。それは今私の手の中にあり、手鏡の様に凝視しているのだ。
時刻を合わせるツマミを回転させれば気休めには成るだろうか否ならない、阿呆なのか私は。午前7時へ目覚ましのベルを掛けた筈であるが、時計が標す時刻を解読するに、どうやらその時刻から私は一時間遅れて起床した様だ。両手に時計 猫背気味の長座位 掛け布団の掛かった下半身 数十秒にも感じるで有ろう瞬刻であった。達観した仏の様な、温かな双眸に変わった事が、私の心境の変化を明快に表す。その刹那、糞の役にも立たない木偶の坊時計を放り出し布団から身を蹴りだした。早くしなければと無駄にドタバタと足音を立て洗面台に向かう体とは裏腹に私の思考は最早間に合うまい… と、達観と言う名の思考放棄をしている。人生の終わりに直面した様な顔立ちを鮮明に写している鏡が妙に腹立たしい。いや私の顔なのだけれども 。。
コップに水を垂れ流し歯磨きブラシを口にブチ込み準備完了、トレイに急いで向かう。何度目なのだこの慌ただしいモーニングルーティンは、また遅刻だ。待ち合わせ場所に着き次第頭のてっぺんを打たれるのではないか、そんな懸念をしている。そんな事を考える脳はいっそ命欲しさに二度寝しサボってしまえばいいじゃない、と。キレ気味に私へ提案をしている。
用を足し終え、洗面台に準備したお水タップタプなコップを胸元辺りに打ち撒けながらも口を濯ぎ、無事歯磨きを終えた。何処かで歯磨きは5分掛けるべきだと聞いたがそんな物は知らん。私は今物凄く急いでいるのだ。 自業自得だが。
ボサボサな私の髪とビッショリ濡れた体を洗い流す為に隣接されてある風呂場へと向かい、シャワーを浴び終え素っ裸のまま寝室のクローゼットへ走る。指定された衣服を着衣する。 "変 身" 土曜朝に放送される仮面ラィ…
の様な気分だ。そんな気分で無ければ正気を保てない。 いや正気か…?
まぁいい…、持ち物は昨日の夜纏めて置いてある。必要品を詰めたリュックを背負い、今一度放り投げた時計を確認する為ベッドの近くに向かう。故障してなければ良いがと、今更投げ果せた事を後悔している。然し、やってしまった物は仕方ない。いくら憂いても過ぎた時間は時計の針の様には戻らないのだか …。
正面を床に向け落ちている時計を拾い上げ時間を確認する。時針と分針は依然7時51分を指し示す。
秒針は息の根を止めていた それでも地球は回ってる─
時刻も分からず玄関から慌ただしく飛び出し、右にある階段の方へと向かうがここはマンションの地上6階。高さ約30mであり、ここから階段を使い降りるのは所要時間的にも精神的にも辛いのである。すぐ正面の手すり壁に右手を掛け、身を大きく乗り出した。
「あぁ…青いなぁ…」 晴天の空に虚無の視線を向け爽やかに言い放った。感情など微塵も篭っていない。自業自得による確実な遅刻と時計の故障した現実から逃避しているが故の譫言である。
向かう目的地はここから2km程の練習場。電車を使っても実に20分前後掛かる。絶望感だけが体に纏い付いてくる距離。だが私はそれを優に超え約"1分"で到着する事が可能である。何故なら私は人口の約25%。
─翼人なのだからッ─ ッッッッ 勝ったな
負けました。ボロ負けです。
「約束の時間7時45分から20分の遅刻だ。まぁ座れ、理由はゆっくり聞いてやる。」
大事な理由のない事を見透かし愛嬌なく、かつ嫌味ったらしく言い放つこの男は私のトレーナーである。名を 蝋清という。
「で、理由はなんだ。言ってみろ、金翅。理由があるならな。」
この期に及んで何か言い訳は無いかと思慮してしまうのは浅ましいだろうか。しかし言い訳を探さずにはいられない。何かないか何かないか…。 視線をアチコチに向け回し、ある1か所へ焦点を合わせた。
「そのですね…。 えー…。 時計を落としてしまってですね。スーパーへ買いに行こうと思い立ちまして…。
思い立ったが吉日って言うじゃないですか!」
「それで遅刻したと言いたいのか。」 「はい!」
焦点を合わせたのは蝋清が左手首に身に着けていた腕時計。そこから今さっき我が手により亡骸と化した目覚まし時計に辿り着き、これは占めた。使わぬ手はないと然も自然と嘘八百を並べた。
「はぁ… では一つ聞こう。何故電話に出なかった?」 「…はい?」
なんだと、この男電話をしていたのか。何時だ、何時なのだ。そう告げられ焦りを感じてしまうと、自然とスマホの入っているリュックの方に視線を向けてしまう。
「… マナーモードだったので 。」 「それで20分。遅刻の報告も無しと、」
「… 」 「で 見つかったのか、目覚まし時計。」
「…? はい…!」
何故にコイツは購入の有無を聞いてきたのか、よく解らないが取り敢えず快活な返事をして置いた。
「ふーん、」 「スーパーで ね、」
あ…
瞬間、見事脳天に拳が着弾した。痛みで片手を頭に乗せた私は酷く不格好だろう。
今更気付いた事だが食品を売るはずの"スーパー"で電化製品である目覚まし時計が売っているはずも無い。はい…!等と威勢よく答えた私はまるでバカじゃないか。
「全く…これで何度目だ。」 「スミマセン…」
「もう少し練習に意欲をだな、」 「善処シマス…」
練習場の方へと向かい乍も説教は続き…受付に着くまでそれが止む事は無かった。100対0で遅刻をした私が悪い為なにも言い返せなかったのである。既に精神的な疲労が溜まっているが、練習場の使用料金を払い貴重品をロッカーへと閉まった。
「これから練習を始める。準備運動をしておけ 」 「はぁい 」
そう準備運動を促し片手にスマホを取り出していた。恐らく練習のメニュー確認であろう。屈伸や前屈、伸脚などを行い翼を広げる。普段は100cmほどに萎んでおり、それを大きくする為だ。翼の皮膚の中にある袋へ、それ専用の肺に吸い込んだ空気を送り込む事により翼は大きく広がるのだ。筋肉も伸縮性を持ち、ゆっくりと伸びてゆく。
広がりきった翼の全長はざっと7mほど。勿論個人差があり、それにより翼の重量も変わってくる。軽く大きい翼が理想的であり、私はその理想的な体躯をしている。要するにナイスボディと言う訳なのだ。次いでに言うとチビでもある。断じて気にしてない。いやマジで、ホントに。
「準備運動は終わったか。」 「滞りなく、問題ないです。」
「よし、では練習を始める。先ずはスタート地点から1km離れた── 」
蝋清トレーナーはここから1km先の地点まで飛行する事を指示し、それに従う為スタート地点へ向かう。
要するに本格的な練習の肩慣らしだろう。最終的には午後でトラック10周。つまり60kmをぶっ続けで飛ばすつもりだな、う〜ん。やはり二度寝してサボるのが正解だったか。な、私の脳。
予定調和1kmの飛行を無事行った。体の調子も良く、まぁこの高揚した気分であれば60km程度容易いとも感じ始めた。然しその思索はえも言えぬ程の大きな勘違いであった─
「トラック10周!」 午前の練習も11時を過ぎ、素早く羽撃く練習や 着陸が失敗した場合の受け身など、色々なメニューをこなした。その果てに言われたのはトラック10周。
……?????
何を言っているんだ…? 設備時計を確認するとまだ午前の11時半。耳に詰め込まれた無線通信機から聴こえた指示が奇怪な呪詛に感じ、内容を上手く呑み込もうとした瞬間 「何をしている!休憩は終わりだ!早く飛べ!!」
と、怒鳴り声を上げる始末。従来は午後の最後ら辺にやるモノであったが、まさか…午後はそれ以上の飛距離を飛べと言うまいな…。 飛び立とうとする背と翼に凄まじい悪感が走り過ぎた。結局トラック10周をするのに何時もより遅い26分掛かってしまった。明らかにオーバーワークだ…。蝋清トレーナーの居るスタート地点に戻り、苛立ちながらもその事に就いて抗議をした。
「午前からトラック10周は無茶です!」
「何を言っているんだ。次の大会は飛距離150km、今の距離の2.5倍だ。大会まであと2週間、今の内に体を慣らさずにどうする。」
「そんな事言われても、その大会が初参加ですし…何より午後の練習に体力が残りませんよ…。」
「 ─分かった。午後に行うメニューを軽くしよう。然しどの道慣れの為、この二週間…いや一週間。150km飛行練習は免れないぞ。」
「え゛え゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛え゛え゛え゛!?!?!?」
体力が余っている筈もない。その私の口から物凄い怒声と嘶きの混じった傍迷惑な発狂音が出た。
束の間、何時の間にか手に持っていた黒色のクリップボードでパシンと頭を叩かれた。痛くは無いがなんかムカつく…第一これは体罰だ、別に怪我をする程では無いから何も言わなけど。というか私が悪い時にしか打たれないけど…。
「さぁ、昼食を摂りに行くぞ。」 「何を食べるんです?」
「玄米に鶏胸肉とほうれん草 」 「ジュースは─ 「ないな。」
先程まで人の多かったこの広大な練習場にもお昼となった今。辺りを見渡し確認出来るのは私達を含めたった6人ほどであった。
─この物寂しい景色が何か私の感性を強く擽るのだ。
唯一人、この大地から取り残された様な 押し潰されんばかりの この感覚─
「何をしている。昼食だ、早く行くぞ。」
…………。 不幸中の不幸。私と同伴しているアレは風情を感じない様だった…。。
ふと空を見上げると、中天に掲げられた太陽は12時を告げている。
瞬刻 間の抜けた腹の音がだだっ広いグラウンド全体に響き渡っていった─