(3)
さて、目的は果たした。
でもどうする?
このまま見えないところまで戻ってチカラを解除するか?
……それにしてもこの爺さん、なんでこんなに速く走れるんだ?
……よし、少し話を聞いてみるか。
でもこんな目の前に立ったままチカラを解除すると、衝突してどちらも怪我するよな。
僕は老人の前方に距離を取って待ち構えると、突っ込んでくる老人を受け止める体勢をとると、思い切ってチカラを解除した。
解除と同時にまた猛スピードで動きだした老人は突如現れた僕に驚いて急ブレーキをかける。
「うわーっ! どかんねー!」
老人の叫び声を無視し、僕はガッチリと両足で踏ん張ると、そのまま慣性に乗って突っ込んでくる老人を抱き止めた。
「ドンッッッ!」
閑静な住宅地に鈍い音が響く。
でも足は速くとも小さな老人だ。
思ったよりも衝撃は小さかった。
「なんね! どっから出てきたとね!?」
老人は慌てふためいた様子を隠す気さえ見せない。
「まぁ、それは良いでしょ。それより、これ、何か分かる?」
僕は老人から回収した自分の財布の端をつまんで、目の前でユラユラと見せつけた。
「そ、それは……」
僕は何も言わず、そのまま財布を揺らす。
「す……すんません。確かにワシが盗ったもんや。す、すまんかった!」
「そう? じゃあこれは返してもらうから」
「はい……すんません」
「まぁ、いいよ」
老人は観念したといった様子でただ謝るだけだった。
「それより、お爺さん、足速いね」
「はぁ……恥ずかしかことです」
「いや、なんて言うか、なんでそんなに足速いの? 昔から? 何かの選手だったとか?」
「いや、昔からやなかです。最近の事で……」
最近?
年とってから足が速くなるなんてあるか?
僕は自分の興味が抑えられなくなる。
「お爺さん、ちょっと時間ありますか?」
多少怒りも収まり敬語で話す。
「はぁ……?」
老人はキョトンとした顔で僕を見つめていた。
「ちょうどそこに自販機とベンチあるんで、話を聞かせて下さい」
「はぁ……」
老人は気の抜けたような声で返事をした。
老人を先にベンチに座らせると、僕は自販機でアイスコーヒーを買った。
「なんか飲みます?」
「いやぁ……そんな……」
「ははっ、どうせ盗んでたらその金でジュースくらい買ってたでしょ」
「あぁ、いや、すんません」
老人はまたしゅんとしてしまった。
冗談のつもりで言ったのだけど、まぁ、そりゃそうか。
「ウソです、何がいいですか?」
「なら、あったかいコーヒーを」
「分かりました」
僕はコーヒーを老人に手渡すと自分もベンチに座って話を続けた。
「で、早速ですけど、なんでそんなに足速いんですか?」
「あぁ、そうやったですね。これは、つい最近ワシの身に起こった奇跡なんよ」
「奇跡?」
「はぁ。ワシは元々脚が悪く、車椅子で生活しとったんです」
「車椅子? 全く動けなかったって事?」
「そうです。下半身は全く。やけん家族にも負担ばかける毎日やった。それが辛くてな。ワシはもう生きとっても家族に迷惑をかけるだけや。そげなふうに考えとった。もちろん家族はそんなワシを嫌な顔も見せんと、精一杯支えてくれとった。でもそれがよけえ辛くてな。それで……」
「それで?」
老人は少し間を置いた後、また静かに話し始めた。
「ほんなこつ恥ずかしい話ばってん……ワシは自ら命を断とうとしたとです。病院から処方されとる睡眠薬ば大量に飲んでな」
「……そうですか」
「次に目え覚めたのは病院のベッドやった。家族は泣いとった。ワシが目え覚ましたのば心底喜んでくれとった。ほんなこつ申し訳なか事ばした」
老人の声は震え、目からは涙が溢れているようだった。
老人は少し黙った後、また話し始めた。
「それからしばらくは入院生活やった。家族が面会に来てくれる度に、ワシはただひたすら謝るだけやった。それからついに退院する日が来て住み慣れた我が家に帰った時、奇跡というものを体験したとです」
「へぇ、ぜひ教えて下さい」
「あれは家に帰って数日が経った頃です。ワシの介護に来とった娘が、部屋の片付けばしよって、棚の上の大きな荷物を移動させようと椅子に上がって作業をしとった。その時、バランスば崩てし椅子から転落しそうになった。すぐそばで椅子に座って見とったワシは、反射的に転落しそうになった娘ば抱きかかえようとした。そしたらたい、今までいっちょん言う事聞かんかったワシの脚が信じられんこつ速さで動いて、娘ば助ける事ができたとよ! ワシもその時は何が起こったんか理解できんかった。ただ娘ば無事に支える事が出来てホッとしとった。そしたらよ、娘がワシに向かって、お父さん! 脚! て叫んだとです。ワシもその声で我に返って、やっと分かったとよ。自分の身に起こった事がね」
「そうですか……それが本当なら確かに奇跡ですね。別に入院中に脚の手術もした訳じゃないんですよね?」
「もちろん。むしろ手術しても治らんって言われとった」
「じゃあ、さっきの覚束ない足取りは演技ですか?」
「……はい。こすかばってん、そっちの方が疑われんやろう?」
「まぁ、確かに」
「でもそれからは世界が違って見えたとです。自分の脚でどげんでもできる。ワシも家族も喜んだ。大喜びたい。そのうちワシはどのくらい自分の脚が動くようなったんか確かめたくなった。それである夜、散歩に出かけるって言って近くの公園で試してみる事にしたとです。家族もあんま遅い時間やなかったら外に出る事ば許してくれた。歩ける事が余程嬉しかと思ったとやろう。公園に着くなり、ワシはその公園の端から端まで軽い気持ちで走ってみたとです。結果はどうね。あっという間やった。ワシは仰天した。恐ろしかとさえ思った。人間の速さやなか。メジャーリーガーの豪速球たい。いや、本気で走ったらもっと速かとやないかな」
「確かに、僕もビックリしました。次元の違う速さというか、むしろ超能力に近い」
「ワシは仏様に感謝した。何より普通に歩けるようになった事。そして、それ以上の力まで与えて下さった。それで十分なはずやった。それなのにワシは欲を出してしまったとよ。今まで迷惑かけた分、何か家族にお返しばしたかった。家族には金銭的にも負担をかけとったしね。やけん金だけでも返しちゃろうと思って、あろう事か人様の金に手ばつけるようになってしまったとよ」
「で、今に至ると?」
「ほんなこつ、恥ずかしか」
「僕もあまり人の事言えた身じゃないですけど、やっぱり盗むのは良くないですよ」
「仰る通りたい……申し訳なか」
老人はまたうつむいて両方の目頭を指でぬぐっていた。僕も次の言葉を探しながら少し黙っていた。
「ん? 超能力?」
老人は急にハッとしたような顔をし、ものすごい勢いで僕の方へ振り向いた。
「そうや! あれはなんね!? どうやったと? さっき、どうやって急にワシの前に現れたと? 君もワシと同じね!?」
「あっ、やっぱり覚えてました?」
上手い事忘れてくれている事に期待していたけど、そうはいかなかったようだ。
「んー、まぁ、お爺さんと似たようなものかな? ははは」
「そうか! やっぱりか! なんか仲間できたみたいで嬉しかー」
老人はそれ以上僕のチカラの事については深くは聞いてこなかった。僕も内心胸をなでおろしていた。
「そうですね。家族の方は知ってるんですか?」
「いやぁ、家族にはこの異常なチカラの事までは言ってなか。言ったところで今度は頭おかしくなったと思われるやろうし、見せたら見せたで大騒ぎするやろう。そんな必要はなかよ」
「確かに、僕もこのチカラの事は誰にも言ってません。お爺さんもこの事は秘密にしておいてください」
「分かっとる、ワシも君には負い目があるけん。誰にも言わんたい」
「お願いします」
「ばってん、せっかく手に入れた力、何かに活かせんかねえ」
「そうですね、悪事に使ってばかりいたら、いずれは足元をすくわれます。それだけ脚が速いんだから、何かの大会とかに出たらどうですか? 賞金とかもあるでしょうし。もちろん全力で走る訳にはいかないでしょうけど」
「大会? そうか! そげな手があるったいね! いくら健康でもこんな老人ば今さら雇ってくれるところはなか。ばってん、そういう道ならワシも何か家族に恩返しできるかも知れん! ほんなこつ、あんたに会えて良かったたい! ワシ、やってみるぞ!」
老人は子供のように眼を輝かせて笑っていた。
名前すら知らない。
多分もう会うこともないだろう。
人と関わるのがあまり好きではない僕は、この時の自分の行動に少しの驚きを感じながら、鈴虫の鳴く小道を通ってまた自宅へと向かった。
金木犀の甘い香りをくぐって自宅の門扉を前にした時、僕は微かな違和感を覚えた。
違和感の原因はすぐに分かった。
片方の門が微妙に開いていたからだ。
もう母たちが帰ったのだろうか。
でも部屋の明かりは点いていない。
恐らく母たちではない。
でも何かが家の中にいる。
単純な直感だった。
でも直感というものは馬鹿にできない。