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とりとめもなく  作者: nayuta
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6.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。  西南戦争、西郷隆盛のこと

革命が内戦に発展した状態での一番最悪なシナリオは、泥沼化する事です。

戊辰戦争が長期化した場合、新政府軍側にはイギリスが付き、幕府軍側にはフランスが付くでしょう。

薩摩、長州はイギリス人、グラバーから借金をして武器を揃えていますし、幕府側は陸軍の教練を始めとしたさまざまな事、武器の調達も含めて、当時世界最強陸軍のフランスに依頼しています。

ヨーロッパの歴史ではイギリスとフランスは不倶戴天の敵同士で、100年戦争、ナポレオン戦争、アメリカ独立戦争などで散々、対立しています。

フランスがイギリスのライバルを降りたのは、普仏戦争やWWⅠでドイツに散々痛めつけられた後です。

それまでは植民地確保競争で、世界中で対立していました。

つまり、戊辰戦争の長期化は借金の形で、英仏代理戦争に陥る可能性があったのです。



新政府側も幕府側もそれは判っていたようです。

特に幕府側は、さまざまな裏切り行為、利敵行為で新政府軍を助けています。

徳川慶喜はそれを判っていたでしょう。

彼が14代になっていれば、状況は変わっていたかもしれません。

人材の枯渇は厳しい問題でしたが、彼なら維新側、西郷や大久保、桂や坂本を自陣に取り込む事も出来たやもしれません。

邪魔をしたのは大奥や幕府官僚たちで、事態が手に負えなくなってから丸投げされれば、「知るか、お前ら自分で責任取れ。」とか思うのも無理はない。

勝海舟はその慶喜の命を受けたのか、意を汲んだのか。



西郷と勝が江戸城総攻撃の前に駿府城で会談する、有名な逸話が有ります。

江戸城を攻撃すると主張する西郷に対し、江戸の町に新政府軍を誘い込んで焼き討ち、焦土作戦で勝は対抗した、とありますが、本当かな?と思います。

慶喜はそれ以前にフランスに頼って徹底抗戦を主張する幕臣を罷免し、フランスとの関係を清算、縁を切っています。

それから考えると、慶喜の望みはなるべく早く穏便に幕府方が負ける事だったのではないでしょうか?

その意を受けた勝は、新政府軍に勝ち方を指導するために会談したのかも。

江戸になるべく被害を出さず早期に占領する、させる方策を打ち合わせたのではないかな、と思います。

江戸100万都市に幕府方が籠もってゲリラ戦をされたら、新政府軍は非常に困った事になったでしょう。

時間がかかり、被害も拡大する。

江戸の町は、アメリカ軍の言い分ではないが、木と紙で出来ていて火災に非常に脆弱です。

迂闊に市街戦などやって大火事でも引き起こしたら大変な事になる。

さらに勢いのまま押し切ろうとしているのにここで頓挫したら、新政府軍に味方、または日和見している勢力が幕府方に寝返りかねない。



新政府軍側はお金がありません。

さらに近代化でお金がかかる事が確定している新政府としては、江戸の町の大復興など間違ってもしたくなかったでしょう。

幕府側ももちろん。

江戸市民は何だかんだいって、江戸幕府を支えてきてくれた人たちだし。

その結果、江戸は無血開城になったわけですが。

徹底抗戦主張の強硬派は上野の山に籠もって潰されました。

(潰しやすいよう)一箇所に集まれ、と指示したのは誰でしょうか?

司馬遼太郎は村田蔵六、大村益次郎が巧みに誘導した、と書きましたが。

これは勝海舟自身が言っているようですが、市街戦に滅法強い新撰組を江戸戦の前に甲州方面に追っ払っています。

維新後、慶喜は勝海舟を嫌っていた、という話を聞いた事があります。

裏切りの謀略と、その手足となった実行犯。

私、「氷川清話」も読んだ事もなくて、勝手な事を言っています。

ただ、事実ならどこにも書けないでしょう。

皆さん、墓まで持って行かれたのではないか、と。



西南戦争の話のはずなのに西郷隆盛の話になって、幕末のおさらいをしていますが。

後、少しです。

函館戦争に勝利して戊辰戦争は終わりました。

実は革命戦争の場合、勝利した直後が一番危ない。

いろいろな思惑を持った兵力が共通の敵に向かって戦っているわけですが、勝った途端それがなくなる。

それぞれの兵力が共通の敵という箍が外れて、自分たちの思惑で勝手に動き始めるわけです。

それを抑えるものは味方の兵力しかいない。

味方同士が険悪になり、下手したら同士討ちが始まる。

古代や中国の会戦の場合は、大抵敵の財産や人間に対する略奪が争いの元ですが。

戊辰戦争の場合、この後は函館や横浜の外国人居留地を襲って攘夷戦争に移行する、と考えた人や勢力がいたのではないでしょうか。

そこらへん、資料を見たわけでないので完全に想像で書いていますが。



新政府軍が平和裡に解散して新政府樹立に向かって動けたのは、西郷隆盛が説得したからではないかと、想像します。

「西郷さん(せごさぁ)の言う事なら。」と、皆納得は出来なかったかもしれませんが、受け入れた。

西郷隆盛という人はそういう人だったのではないかと。



維新後、西郷隆盛は新政府に参議として参加します。

そうして、大久保たちが外遊しているときに征韓論が起きる。

新政府樹立に伴い、外国への挨拶として韓国に国書を送りました。

挨拶と共に外国勢力が迫ってきていますから、鎖国をやめて近代国家になった方がいいですよ、という忠告めいた事もしたようですが、それが実に失礼な扱いを受けた。

使者は無事だったのかな?

それで韓国許すべからず、という意見が巻き起こり、韓国懲罰軍を派遣しようという事になった。

西郷隆盛は大官である自分が使者として韓国に行き、事態を収拾したいと願い出ます。

しかし、多分に殺されて戦争になる可能性もありました。

西郷の思惑の中には不平士族の問題があったと言われています。

因みに韓国は書かれた内容ではなく「皇」という文字などが、中国皇帝専用の文字で日本が使うのは無礼だ、と怒ったそうですが。



この、使者認定が帰国した大久保などに反対されて、西郷隆盛は新政府参議を辞任します。

この時期、日本国内には不平士族が溢れ、社会は不安定でした。

みなもと太郎氏によると、元々、幕藩体制は管理者が多い、歪な社会だったと言います。

戦国時代が終わり、戦闘職の仕事がなくなりました。

秀吉の刀狩りによって、武士と農民は分離させられ雑兵などは土に帰りました。

それでも武士階級は多く、失職した彼らの多くを役人、管理者として養わなければなりませんでした。

激しくて長かった戦国の弊害ですね。

社会というのは一番下に食糧生産者がおり、その上に工業生産者、商業者、そしてその上に管理者、政治や軍事を司る人がいます。

上が小さく、下が大きいピラミッド型が安定した社会になるのですが、管理者人口が大きいと食糧生産能力が支えきれない。

幕藩体制は常に飢饉と隣り合わせの危ない体制だったのです。

武士階級は一汁一菜、食事は質素を極めていました。

支配者階級なのに。

さらに江戸時代を通して干拓や開墾、さらに魚粕などの肥料、農業生産力向上に必死でした。



それでも幕藩体制は何とか武士階級を維持していたのですが、明治新政府にはそんな余裕はありませんでした。

元武士の士族階級は僅かなお金を与えられて市井に放り出され、慣れない商売などに失敗して没落していきました。

負けた側の賊軍側士族はまだいいです。

”まだいい”は語弊がありますが、処遇について困る事なく、彼らを蝦夷地などに強制移住させる事ができました。

当時蝦夷地、北海道は松前藩の領地ですが、彼らは意気地のない事に渡島半島南端函館にしか居住しておらず、北海道全域はアイヌ人が住んでいました。

アイヌ人は部族単位で暮らしていたようで、国の形を為していなかった。

謂わば、ヨーロッパ人入植前のアメリカ大陸のような状態でした。

手塚治虫が「シュマリ」という、この頃の北海道を舞台にしたマンガを書いています。

手塚治虫によると、日本版西部劇を書きたかったという事で、確かに状況は似たようなものだったでしょう。

つまり、凄く危ない状況でした。



既にロシア人は樺太、サハリンまで来ています。

彼らがロシア人で良かった。

ヨーロッパ的礼儀を重んじるロシアだったからこそ、日本国を尊重して北海道に入り込むのを待っていてくれた、と思います。

これが西部開拓時代のアメリカ人だったら、遠慮なくフロンティアされていたでしょう。

アラモの砦ならぬアサヒカワの砦でも作っていたかもしれない。

屯田兵、という開拓と兵力を兼ねた人々を入植させて対処するのですが、それに賊軍士族を当てたのではなかったかな?

ある意味場当たり的ですから、高温多湿の本州からろくな防寒具も防寒設備もない移住。

北海道開拓史には悲惨な犠牲があったでしょう。



良くない、これも語弊がありますが、良くないのは勝った方の武士階級で、彼らは命がけで戊辰戦争を戦ったのに却って戦争前より酷い生活になりました。

不平が溜まるのも無理はない。

新政府に出仕できたのは一部の武士階級だけで、多分戊辰戦争で手柄を立てたわけではない人たちだったと思います。

そんな戦争で役立たずだった人間が新政府の役人となって贅沢をしている、そう見えたでしょう。



もちろん、新政府の役人たちはそれどころじゃない。

凡そ見た事も聞いた事もない、しかも概念に近い近代国家の仕組みを理解して、しかも日本の実情に合わせて導入しなければならない。

当時はまだ英語の本を読める人も希少だったと聞きます。

日本の語学教育が会話の役に立たないといわれて久しいですが、元々の日本の外国語教育はこの時の事態に対処するため、つまり外国語の参考書籍を翻訳するために発達したものだからです。

彼らは必死でした。

何かの挿話で読んだのですが、明治政府から留学生として派遣された人物(誰かは判りません)は、英国の下宿で寝る間も惜しんで勉強ばかりしている。

下宿のマダムが見かねて少しは休むように言うと

「私が1時間休むと、日本がそれだけ遅れるんです。」と言って、休もうとしなかったといいます。



不平士族たちはそんな事は判らない。

判るような人材なら明治政府に出仕している、多分。

彼らの希望は西郷隆盛に向かいました。

想像ですが、戊辰戦争終了時に西郷が彼ら新政府軍の兵たちを説得していたならば、なにがしか希望になるような言質を与えていたかもしれません。

そして西郷は情の深い人物でしたから、困窮している彼らを見て辛い思いをしていたでしょう。

征韓論は征韓戦争を起こして彼らの働き口を作るため、という説もありますが、西郷がそれを思わせるような言動をしたのでしょうか?



一方、西郷自体は困っていたかもしれません。

西郷自体は征韓論に積極的に賛同した事はなかった、と聞きます。

でも、「韓国許すまじ」という話にうっかり相づちを打ったとしたら、それだけで西郷は征韓論に賛成した、という事になり日本国中に征韓論が満ちた。

「西郷さんが賛成したのならば。」

彼は自分の影響力の大きさに当惑したのではないでしょうか。

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