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とりとめもなく  作者: nayuta
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5.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。 明治維新とは

この時期、海外情勢を把握し、外国への対処方法と日本の政治体制の改革、

つまり「日本のあるべき未来の姿」のビジョンを持っていたのは寧ろ幕府の方です。

先駆者たちの声は小さなものでしたが、それでも日本政治の中枢、老中阿部正弘には届いていました。

そして鈍いながらも各種改革、後の陸軍である講武所、海軍の長崎海軍伝習所、東京大学の洋学所などの設立、が行われていました。

さらに今まで国政を譜代大名、身内だけで行っていたところ、越前藩や薩摩藩、水戸藩などの大名にも参加を求めました。

ファンタジー風に言うと

「国の宰相は貴族と力を合わせて国政を改革、外国の侵攻に備えた。」

でしょうか。

薩摩当たりはさしずめ辺境伯ですね。



一方、その頃「維新の志士」たちは明確なビジョンがあるわけでもなく、尊皇、攘夷を旗印に、ただ抵抗運動、抗議活動、武力闘争を行っていたわけです。

新撰組にスイープされた有名な「池田屋事件」があります。

池田屋で会合を行っていた尊皇攘夷派の志士たちの計画は、権力闘争が不利になったから御所に火を掛けて反対派の公家を殺し天皇を長州に拉致しよう、という場当たり的なものでした。

意味のない動きをして事態を混乱させるという無責任な行動は、どこかの国の野党や昔の学生運動に共通するものがありますね。

まあ、知識不足、現状の認識が出来ていない以上、仕方がありませんが。

いわゆる無能な働き者です。

実際の所、尊皇と担がれていた孝明天皇ご自身は

「幕府頑張れ。政治は任せた。」と考えられていらっしゃったそうです。

新撰組の元締め、会津藩主松平容保にも宸書を下されていました。



このまま推移すれば、志士たち(バカども)を抑え付けながら、トップダウンで日本は近代国家に生まれ変われたかもしれません。

ところが不幸な事に、この時期大事なキーパーソンが相次いで死んでしまうのです。

越前藩、松平春嶽の懐刀、橋本左内。

水戸藩、徳川斉昭のブレーン、藤田東湖。

土佐藩、山内容堂の改革者、吉田東洋。

長州藩、市井の展望者、吉田松陰。

薩摩藩、西郷隆盛と大久保利通の師、藩主島津斉彬。

そして幕府老中首座、阿部正弘。

地震で、テロで、弾圧で、病気で。

さらに大奥の横やりで、この事態を対処できる能力を持つと見なされた徳川慶喜は14代将軍になれませんでした。

勝海舟は残りました。

絶望したのではないでしょうか。

こうして日本の改革は、暴れるしか能のない、若さに任せて暴走する「志士」たちに委ねられる事になったのです。



幕末が判りにくいと思われるもうひとつの理由は、主人公たちが変化、成長していく事にあると思います。

幕末の主人公と言われる西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎、高杉晋作、坂本龍馬。

彼らは最初は尊皇、攘夷を無視する幕府に対し、正義感からただ反発するだけでした。

司馬遼太郎の「龍馬が行く」によると。

龍馬が最初に勝海舟に会いに行ったのは、開国派の大物を斬りに、要は暗殺するつもりだったそうです。

それがいつから日本の未来、新しい日本の夜明けを考えるようになったのか。

「馬関戦争」「薩英戦争」で外国の力を思い知らされた事もあったでしょう。

海外にも渡航した人がいたはずです。

おそらくその頃には、かつての阿部正弘や島津斉彬が目指したものが判ったのではないかと。

開国が必要だと。

ただ、その時は既に禁門の変や長州征伐で幕府との対立は決定的になっていました。

もう、幕府を改革して新しい日本を作る事は不可能になっていたのです。



長州征伐を撃退し、薩摩と連携、英国を中心とした諸外国から各種兵器を導入した事で倒幕が視野に入ってきました。

ただ、日本の未来、ビジョンを持ち得たのはごく一部の人だけだったでしょう。

大部分の人間は尊皇攘夷のために幕府と戦うという、言うなれば古い考えのままだったはずで。

中には戦で手柄を立てて立身出世を目指すという人もいたかもしれず。

ビジョンを持った人たちはそういう連中を率いて、謂わば騙して、倒幕戦争を戦わなければならなかったのです。

長州、薩摩と権力闘争を行ってしまった幕府には、もうすでに日本の未来を描ける人材がいなくなっていました。

家茂が死んで慶喜が15代将軍になったときは、すでに手遅れだったのです。

どこかの文に

「我が方に西郷、大久保のようなものがいるか!?」という言葉があったように思います。



幕末戦争、戊辰戦争といわれる一連の内戦の最初は鳥羽・伏見の戦いですが、この時点で純兵力では幕府軍の方が優勢だったはずです。

しかし徳川慶喜が松平容保を連れて大阪天保山沖から江戸に逃げ、幕府軍は司令官不在で明確な戦略目標もなく、各個撃破されていきました。

徳川慶喜は既に大政奉還、幕府の政治担当任務の返上を行っています。

彼は既に勝たなければならない理由も、勝つ気もなかったのでしょう。

停戦に持ち込んで家臣を救う気も。

勝海舟も新撰組を無意味な甲州征伐に行かせるなど、謂わば利敵行為で幕府軍の敗北を勧めました。

こうして日本の政治体制は一新され、開国がなされました。



攘夷をするために戦ってきたはずの大部分の人間は、狐につままれたような、騙された気持ちになったでしょう。

攘夷をするはずの新政府が、いきなり開国して近代化を進め始める。

彼らには

「開国して技術を吸収し力を溜める。」と説明されたはずです。

戦場で手柄を立てて立身出世を目指す、新政府で高官になれると思っていた人もいたと思います。

彼らも一部の有能な人を除いて、市井に放り投げられました。

革命に多大な犠牲はつきものですが、明治維新は他国の革命から見れば長期間の内戦を招く事もなく、比較的穏やかに終わりました。

それでも、いろんな軋みの残るものでした。



明治維新では沢山の有能な人物が夭折しています。

生きていれば、と惜しまれる人の筆頭は坂本龍馬でしょうが、私は阿部正弘と島津斉彬に生きていて欲しかったと思います。

彼らなら穏やかに日本を開国し、緩やかに、でも確かな近代国家を作り上げてくれたように思います。

それはどこか猛々しい、欧米列強に対して懐に刃を呑んだような明治維新政府とは異なり、諸外国を友とし善隣外交を旨とする穏やかな国になったのではないか。

そうであれば、嵐の中を必死で走り抜けたような日本の近代史も変わっていたのではないかと。



攘夷勢力の力で倒幕し、作り上げられた新政府は開国し、外国から旺盛に技術を始めとした知識を導入し「富国強兵」を目指します。

国家目標は「欧米勢力に植民地化されない軍事力を始めとした国力を付ける事。」です。

明治時代を考えるとき、日本人の心の中には植民地化される危機感、プレッシャーがあったと言われます。

ただ、私はその中に

「何時の日か、攘夷(東洋から西洋勢力を打ち払う)をしてやる。」という気持ちがなかったとは思えないのです。



こうして明治政府は成立し、憲法を発布し、近代国家の道を歩み、日清、日露を戦います。

ただ、その前に大規模な内戦、西南戦争があります。

維新の英雄、西郷隆盛が明治政府と袂を分かって下野、薩摩の田舎に隠棲します。

西郷を慕って同じく下野した薩摩士族を中心に全国の不平士族が集まり、やがて軍勢を持って東上、熊本を中心とした九州各地で新政府軍と激戦を繰り広げ、敗れて最後は鹿児島の城山で残された僅かな同士と共に闘死します。

私は司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」で概略を読みました。

その解説でしたか、司馬先生が迷って書いている、とありまして。

維新の英雄が、確かに最後は新政府、天皇陛下に反旗を翻して晩節を汚したわけです。

多分、西郷ほどの人物がこのような結果を予測できなかったはずがなく、防げなかったはずがなく。

出来て間もない、特に財政基盤が不安定で脆弱な新政府にとって、大規模な内戦がどれだけ負担になるか、下手すると新政府を潰しかねない危険な状況に陥る事が西郷に判っていないはずがない。

なのに、なぜ。

司馬先生が迷うのも無理はない、と思います。

でも、先生は判っていて書かなかったのでは、とも思います。

西南戦争について、ある仮説(暴論)があります。



西郷隆盛という人はどのような人か。

人間が大きい、器が大きい、底が知れない、と多くの幕末の偉人たちは語っています。

そして、非常に魅力的な人だと言うことも。

情が深い人だ、とも聞こえています。

幕末、大久保利通は国元にいて島津久光や各勢力の調整に奔走し、西郷隆盛は京都にいて自藩や各藩の志士たちを取り纏めた、と聞きます。

西郷には主義主張の激しい彼らをまとめるだけの度量があった、と言う事なのでしょう。

福沢諭吉などは辛辣な評価、「あれは薄らばかだ。」(うろ覚えです。ごめんなさい。)と、言っていたような。

誰もが絶賛する西郷をこのように言う福沢の度胸にも感心しますが。

もっとも福沢諭吉を評して勝海舟が「あれは小物だ。」とも言っています。(これもうろ覚えです。)

「龍馬がいく」で、坂本龍馬は「鐘のようなもの。小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。」

おそらくいくら聞いても、実際に会わないと判らない人なのでしょう。

そして、会う人間次第で小さくも見えれば、大きくも見える。



幕末を大きく俯瞰すると、最初に水戸藩が騒ぎ、次に長州藩が暴れまくる。

最後に薩摩藩が出てきて、一挙に方を付ける。

薩摩藩を嫌う人は大勢います。

当初は幕府の味方をして(禁門の変では会津藩と共同して長州藩を破っています)、途中から倒幕勢力に加担します。

矢面に立って苦労して、何人も犠牲を出した長州藩からすれば、日和見していいところだけ持っていった。

幕府側から見たら、前述の通り裏切り者。

ただ、倒幕を戦略的に見た場合、薩摩藩は極めて合理的な選択をしています。

長州藩に陽動をやらせて、自藩の力、軍備や人材、人脈などを蓄え、時期を見て参戦、一気に戦況を優勢に持ち込む。

司馬遼太郎をして「日本の幸い」と評した坂本龍馬は、薩長連合、薩摩と長州との連携の仲立ちをした事で、日本の未来を切り開いたと言われています。

確かに薩長連合が成立した事で倒幕、つまり近代的国家の制作が可能になったのですから。

ただ、もしかして薩摩には倒幕までのシナリオが有って、薩長連合も予定のうちだったら。

以前どこかの記事で、龍馬の海援隊のスポンサーは薩摩藩だった、というのを読んだ事があります。

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