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とりとめもなく  作者: nayuta
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4.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。幕末とは

幕末というのはNHK大河ドラマの定番で、幕末でなければ戦国時代というほどいろんな視点から繰り返されてきたのですが。

よく判らない、という意見を聞いた事があります。

幕末が単純な勧善懲悪でないのは、ある程度知っている人は判るでしょう。

互いの主張がぶつかり合う権力闘争というのが本質です。

が、「佐幕」vs「勤王」、「攘夷」vs「開国」と、それぞれ主義主張をかかげて争って結局どうなったんだ、と。

幕府側が幕藩体制を擁護する「佐幕」で、維新の志士側が天皇トップの政治体制「勤王」、これは判る。

でも維新の志士側は外国勢力を打ち破るべし、という「攘夷」を推し、幕府側は外国勢力と貿易などを行う「開国」を主張していたと思うのだけれど・・・。



おそらく幕末のあれこれは長い間、権力者側のフィルターがかかっていたと思います。

明治政府の要人は維新の志士側の薩摩、長州の人間だったし、その藩閥の色が薄れてきた昭和になってもある程度残っていたのではないかと。

総理大臣の出身県で一番多いのは山口県、元の長州ですし。

つまり都合の悪い事はうやむやにしていたと思います。

「新撰組」なんて、維新の大義に身を投じた志士を殺して回った無法な人殺し集団、と定義されていたようですし。

明治政府の要人の中には、京都で新撰組の恐怖を感じて逃げ回って恨み骨髄の人もいたでしょう。



鞍馬天狗を書いた大佛次郎は戦前でも公正な視点を持った作家でしたが(wiki情報、余り読んだ事がないので)、それでも近藤勇を正々堂々とした剣豪、としか描いていません。

新撰組がそのままの形で復権したのは、おそらく司馬遼太郎の「燃えよ剣」からではないかな?

少女漫画家の木原敏江も一枚かんでいるでしょうけれど。

それまでの幕末の観点は、正義の維新の志士vs 悪の幕府方&その手先の新撰組、の勧善懲悪だったでしょう。

幕末から100年以上過ぎて、ようやく客観的に見られる環境になったとも言えます。

今現在、私が最も正確に客観的に幕末を描いている、と感じているのは、みなもと太郎氏の「風雲児たち 幕末編」ですね。

客観的事実が丁寧に描かれていて、新鮮な気づきがあります。

できれば司馬遼太郎氏と対談していただきたかった。

もしも対談があったとしたらどなたか教えていただけませんか?

ぜひ、読みたいです。



余談ですが、中国という国は易姓革命とかで王朝が変わります。

元から明、明から清というように。

で、必ず「正史」という正式な歴史書を残すのですが、それを書くのは後の王朝、例えば「明志」を書くのは清、ということですが、必ず王朝交替後100年経ってから書く事になっているそうです。

まあ、後の王朝にとって前の王朝というのは革命戦争の敵だったわけですから、直ぐにはいろいろ主観が入る、と言う事なのでしょうね。



幕末が判りにくいという話からずいぶん寄り道をしてしまいました。

更には幕末当時の欧米列強の植民地化の話からですし。

そもそも国家戦略とか架空戦記の話だったですね。

全部、つながっているのですがうまくまとまるかなあ。



幕末について、いろいろ読んだり見たりしてようやく判ったような感じになったとき、私が思ったのは

「ひでぇ~、詐欺だ。」でした。

一部の判っている人が、大部分の判っていない人を騙して乗せて、幕府を倒して政治形態を変えたのが明治維新です。

嘘か真か知りませんが、騙された人の中には長州藩主、維新の主力勢力である長州藩の殿様もいて、倒幕後

「それで、わしは何時になったら将軍になれるのだ。」と聞いたそうです。

おそらく、幕末後のあるべき日本の姿を最初から判っていたのは、勝海舟ぐらいだったかもしれません。



幕末は何時、始まったのか、そういう設問がどっかにあって、その答えが「黒船」だそうです。

「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった4はいで夜も眠れず」でしたか。

まさしく当時の時代を正しく表現した川柳ですね。

もちろん、海外情勢、特にアジアの植民地化などの情報を知っている人はいて、黒船以前に独自の活動をしています。

主に蘭学、オランダからの情報に接している人ですね。

「海国兵談」の林子平とか、最上徳内とか、佐久間象山とか。

勝海舟や吉田松陰なんかは佐久間象山から教わったのでしょうか?

小説やドラマなど、そういう先駆者を主人公にしたものを読むと、黒船以前から海外情勢が広く知られていたように錯覚します。

実際はごく一部の人々にしか知られていなかったのでしょう。



江戸時代の幕藩体制は基本的に地方自治体の集合です。

庶民は自藩の殿様しか知らない。

しかも政治への関与は禁じられている。

御政道批判は重罪ですから、誰も意識した事などなかったでしょう。

政治を司る官僚、武士たちも基本的には自藩の政治、経営しかしていない。

日本全体の政治を行っていたのは江戸城奥詰め老中たち。

海外情勢などを意識していたのは長崎奉行配下や、幕府から調査を命じられた藩の一部の人たち。

それ以外は力を持たない市井の蘭学者たちなどです。

黒船以前の話は彼らが国外情勢について、如何に国政の中枢に届かせるかに苦労する話になります。



そういう状況の中で、一挙に日本中に「外国」を突きつけたのが黒船だったわけです。

江戸湾、江戸城の真ん前にいきなり現れた黒船。

今で言えば東京駅丸の内側広場に、UFOがいきなり現れたようなものでしょう。

江戸は当時は100万都市でしたか、江戸中の町民が海岸に見物に押し寄せました。

さらに幕府が江戸湾警備を各藩の江戸屋敷に命じたせいで、日本中の大名にも黒船の存在が知れ渡りました。

黒船の要求は開国でした。

まあ、全面的に港を開いて欲しいわけではなく、鎖国の条件を緩めて欲しい程度です。

アメリカの捕鯨船が立ち寄って食料、その他を購入できるように。

今まではオランダと清、場所も長崎だけだったのを、アメリカを含む複数の国に長崎以外の場所にも立ち寄る事が出来るようにして欲しい、ということです。



今までもロシアを含め、日本に来た外国船は江戸幕府に同じような要望を提出していました。

アメリカより先にコンタクトを取ったロシアは幕府に

「長崎に行って欲しい。」

と指示され、そこでの交渉でうやむやにされたみたいです。

長き泰平の世、幕府の外国方も変化など起きて欲しいとは思っておらず、開国要求など幕閣と計って握りつぶす一択でした。

彼らも一応、オランダ館長から海外情報を採取する役目がありました。

ペリー艦隊の情報も事前に受け取っていたという説もあります。

それを何の危機感もないまま、幕閣も同じく。

先駆者たちの努力は、未だ実を結んではいなかったのです。



相手国の了解を得ないまま領海に侵入し、しかも首都のある湾内奥深くに停泊するのは非常に無礼な行為です。

ヨーロッパ諸国相手にこれをやったら、宣戦布告されても文句は言えない。

アメリカらしい傲慢で乱暴な行いです。

ですが、効果的でした。

余談ですが、艦船が入港するときに祝砲を発射するのは、実は非武装を体現しているそうですね。

昔の先込め砲は一度発射すると次の装填に時間がかかる。

祝砲を発射して

「ほら、私の船の大砲は、現在筒中は空ですよ。」

と、戦闘する気がない事をアピールしたそうです。

アメリカも一応はこれをやったでしょう。

多分、祝砲の意味を知らなかった日本人はこれをどう受け取ったか。



繰り返しますが、ペリーの行為は効果的でした。

日本満天下に外国の存在を知らしめ、幕府のごまかしを許さない状況を作りました。

幕府はやむなく、1年後の回答を約束せざるを得ませんでした。

そして、泰平の世の中で多少緩んでいたとしても日本の政治官僚は戦闘職である武士であり、ペリーの無礼な行為を許す気はなかったのです。

外国船打ち払うべし、攘夷(夷狄を攘はらおう)の声が日本中に満ちる中、幕府は和親条約を結んだのでした。

黒船対策で市井の意見を聞いたのも良くなかったのかもしれません。

御政道批判厳禁だったはずの世の中に、幕府の弱腰を責める意見が溢れる事になったのです。



さらに幕府の越権を責める意見が出てきました。

御親藩である水戸藩の知識階級からです。

江戸時代初期、水戸藩では徳川光圀、水戸黄門様の手で日本の歴史書の編纂が始まりました。

これが江戸時代中を通し、完成が明治時代になるという大事業「大日本史」です。

この歴史書は中国の正史のように帝王、天皇ごとの事績をまとめていく形の歴史書ですが、これに携わった学者、水戸学派の人々は、日本の国主が天皇である事を明確に認識しました。



幕府の長は征夷大将軍であり、武士の頭領です。

そして征夷大将軍は天皇に任ぜられ、天皇の代わりに日本の政治を執っている、つまり天皇の部下であるわけです。

もちろん、江戸幕府の初代、徳川家康は自分の武力で天下の武将を切り従え権力の座に着いたわけですが、法的(で、あっているのかな)には天皇に認められて征夷大将軍になりました。

みなもと太郎氏の書によると、徳川家康はこの自分の権力の裏付けを京都御所の中に隔離し、世の中の意識から消そうとしたそうです。



徳川家に成り代わろうと天皇に接近する人間が現れたら、江戸幕府の権威が揺らぎます。

この政策はうまくいき、江戸時代後期になると殆どの人は「天子様」の存在を知らないか、知っていてもどのような人なのか知らない、という状況になっていました。

ところがよりにもよって、自分の孫が天皇の存在を詳細に調査し、さらに

「日本の国主は天皇であり、天皇を尊ぶべし、尊皇」

という思想を根付かせるとは思ってもいなかったでしょう。

みなもと太郎氏の書では死んだ家康が、バカヤロウ、と怒鳴っています。



天皇の部下である幕府が外国と条約を結ぶには、天皇の勅許が必要です。

が隔離されて事情がわからなかった天皇は勅許を下さず、幕府は天皇の許可なしでアメリカと日米和親条約を調印しました。

明確な越権行為であり、水戸学派、尊皇主義の人々はいきり立ちました。

弱腰外交、攘夷を求める意見と合わさって幕府批判が大きくなった状況で、幕府大老井伊直弼は弾圧に出ます。

御政道批判厳禁の慣例からしたらこれは通常の罰則ではありましたが、これの反動でテロ、桜田門外の変が発生、井伊直弼が殺害されて世情は一気に混乱状態に陥りました。


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