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とりとめもなく  作者: nayuta
43/46

脇道26 :天才、この傍迷惑なもの

凡人たる私が、妬み、嫉み、恨み、辛み、諸々様々なネガティブな思いを込めて言います。

天才なんて生き物はそんなに珍しいものじゃない。

探せばそこら中にゴロゴロいる。

異論は認めます。

今回の話は、そんな羨ましくて憎たらしくて愛おしい、天才について、です。

もちろん、大層な事を言えるわけではありません。

適当な所感ですが。



天才とはどういう人のことを言うのでしょうか。

それこそ異論は多々あるでしょうが・・・・。

ここでは常人に考えつかない事をして事態を打開する人、または産み出す人と定義しましょうか。

後、偏屈とか、変人とかも付けてもいいかもしれません。

もっともこれらはやつらの習性の副産物みたいなものだと思いますが。



では何故、そんなにゴロゴロいるのに目に付かないか、と?

それはたいていの天才がひ弱な生き物だからです。

大事に守って育てないと芽が出ない。

芽が出ても育たない。

ついでに言うと、どういうふうに育つかも判らない。

成果を出していない天才は、ただの集団内での異物、集団の和を乱す物でしかありません。

阻害されて、虐められて、潰されてしまいます。

業績を上げた科学者などの子供の頃の話を聞くと、虐められていた、という話は良くあります。



じゃあ、なぜそういう事になるかというと。

やつらは普通の人とは違うものを見ているからです。

首から血を流した女の人がいるよ。

羽の生えた女の人が飛んでいるよ。

子供や霊感少女がそういうのを見える、という話は良くありますが、そういうのではなくて。

天才、やつらは基本的にアホで横着です。

なので真面目にコツコツと手順を憶えようとせず、横着にも目標、目的だけを憶えてそれだけで行動しようとします。

そうするとどうなるか。



例えば貴方たちが街中で、どこかの家を訪ねようとします。

真面目な貴方とアホな天才。

訪ねようとする家への行き方を、誰かが、例えば貴方の親御さんが丁寧に教えてくれます。

「この道をあっちの方にまっすぐ行って、5番目のマックのある角を右に曲がって・・・」

複雑な道順を真面目な貴方は、メモを取るなりしながら一生懸命憶えます。

アホはそんなもの憶えられません。

憶える気もないでしょう。

ひと言、こう聞きます。

「その家、どっちにあるの」

訪ねる家の方角だけを聞きます。



真面目な貴方は正しい道順を辿り、無事目的の家に着きます。

で、アホは大抵の場合、迷います。

訪ねる家の方角に向かって適当に道を選んだあげく、方向を見失い、行き止まりや川にぶつかって渡れなくなったりして。

道順、マニュアル、規定、操典。

それらは先達が試行錯誤の上まとめられた、ベストの方法です。

それに従ってやれば、誰であろうときちんと結果を出せる。

ただ、憶える事は膨大です。

やつらはアホでなまけものだから、そんなもの憶えようとはしません。

常に楽な方、楽な方に考える。

そして失敗する。

それに巻き込まれた人は良い迷惑です。

虐めたくもなるというものです。



まあ、素直で良い子な天才は、そこで反省して真面目に努力して普通の人になりますが。

中には意地っ張りで頑固なやつもいる。

そういうやつは間違いを認めようとしないし、反省もしない。

何をするかというと、自分の考えが正しい事を周りに認めさせるために努力します。

道に迷ったアホは、方角を見失ったのが失敗だったとか考えてコンパスを使う。

行き止まりや川があるのを知らなかったから、とか言って地図を見る。

もし、その世界にコンパスや地図がなければ、やつらはそれをわざわざ創ってまで使う。

道順を憶える、その作業より数倍も困難で大変な仕事をやり始める。

楽をするために、ただそれだけのために、却って困難で大量の作業をするはめになる。

やつらがよくやる事です。



周りに認めさせよう、というやつはまだましなのです。

その上の酷いのは、人の言うことを聞きたくない、というだけで行動します。

例えばコンパスのない世界で苦労して周りに迷惑をかけてコンパスを作る。

地図のない世界で周りに怪しまれながら地図を作る。

そうしてできあがって、間違いなく目的地に到着出来たら。

やつらは満足して成果物を放り投げる。

迷惑をかけた人たちに何のバックもなし。

成果物を要求しても、勝手に持っていけ、というだけ。

捻くれているやつは渡さない事もある。

そもそも、成果物がどういうものなのか他人には判らない。

やつらの理屈だけで作ってあるから、説明がいる。

が、アホの怠け者がまともに説明出来るわけがない。

本当に面倒くさい存在でしょう。



地図やコンパス程度ならば、見ただけで理解出来る人もいるでしょう。

ですが・・・・。

ロシアにツィオルコフスキーという人がいました。

宇宙ロケットに関心がある人はご存じでしょう。

彼はロシアのカルーガと言う田舎町で中学の教師をしながら、宇宙ロケットの論文を書きました。

「宇宙旅行の父」と呼ばれる人です。

彼が書いた論文は、宇宙ロケットに関する全てと言えるほどの基礎を築きました。

今日、全ての宇宙ロケットが、彼が論文で証明した理論によって宇宙に出て行くのです。

彼はまさしく天才だったのでしょうが・・・・。

周りの人は、ひとり机に向かって訳の判らないものを書いている変人、としか思わなかったでしょうね。

仮に成果物(宇宙ロケットの理論)について説明をされても、殆どの人は理解どころか信じようともしなかったでしょう。

多分、害がなかったから放置されていたのでしょうが。

もし、害があったなら成果物と共に排除、村から追放されるとか、最悪処刑されるとか、されていたかもしれません。



天才というものは普通の人と違うものを見ている。

周囲に価値を認められなければ、天才はただ埋もれるだけです。

利害の衝突があれば、潰されます。

「それでも地球は回っている。」

ガリレオ・ガリレイが異端審問の結審の後につぶやいたとされる言葉です。

天動説と地動説。

天才たるガリレオは地球が動いている事を知りましたが、既存の学者やカトリック教会は天動説を唱えており・・・・。

異端審問という理不尽な力で、その真実を捻じ曲げられました。

因みにローマカトリック教会、ローマ法王がガリレオ裁判が誤りである、つまり地動説を認めたのは1992年です。

ガリレオはそれなりに世慣れており、人間の社会には理不尽なものがあると知っていましたから自分を曲げる事が出来ましたが。

天才とは往々にして純粋で頑固だったりするので、その時は火炙りだったでしょうね。



天才にはひとつの事に執着する人と、いろんな事に興味を持って成果物をまき散らす人がいます。

まき散らす人の代表がレオナルド・ダ・ビンチとか平賀源内でしょうか。

ダ・ビンチは絵画と彫刻で、世に認められました。

ですがそれ以外にも、科学的、解剖学的、工学的な膨大な手稿も残しています。

現在ではその2/3が失われたそうですが。

それらは何れも天才の閃きを表すものでしたが、成果物として当時実現したものはありません。(ないですよね、詳細に調べていないので)

天才の発想に当時の人間が、概念的にも経済的にも技術的にも着いていけなかったのです。

それが証拠という訳ではありませんが、現代においてはいくつかのアイデアが実現していたりします。

もしダ・ビンチが絵画、彫刻で名を成していなかったら、これらの手稿は世に知られる事なく散失していたでしょう。



平賀源内は説明するのがめんどくさいほどいろんな事をやっている人ですが。

戯作、義太夫浄瑠璃が残っている主なものでしょうか。

他には鉱山開発や治水工事もやっているようですね。

何かいろんな人に便利に使われているというイメージがあります。

天才としていろんな人に愛された人だったのでしょうね。

杉田玄白が墓碑を書いています。

「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」

自分たちには到底出来ない事を軽々とやってみせる。

当に”天才”という名にふさわしい煌めくものがあったのでしょう。

ですが、科学、工学の面で後世に残したものは殆どありません。



ダ・ビンチや源内は天才だったでしょう。

では、天才は彼らだけだったと思いますか?

私はそうは思いません。

ダ・ビンチや源内のような天才の閃きを持つ人は、多分ゴロゴロいたのではないでしょうか。

ダ・ビンチや源内はいろんなところに旅をして見聞を広め、先達の書籍に触れる機会がありました。

ですから多分野において科学的、工学的なアイデアが豊富に発想出来たのでしょう。

そして絵画や戯作などで名を残したからこそ、それら成果物のないアイデアも付随して残ったのだと思います。

そういう条件を満たさなかった人たちは。

彼らの多くが野辺の畑や市井で空しく生涯を終えていたとしても、私は少しも不思議とは思いません。

実際、ツィオルコフスキーなどは少し運命が変わっていれば、そのまま消え去っていたかもしれませんし。



論文など、その人の死後に遺族が出版する事もあります。

クラウゼヴィッツという人はプロシア軍の歴戦の軍人でしたが、まあ特に目立った武功のない少将止まりの人でした。

ですが彼の死後、マリー夫人が彼の残した草稿を出版して「戦略家」としての名前を永遠にしました。

小説などでも、作者の死後に出版されて、という話もあったでしょう。



遺作が世に出る事によって天才が認められる。

そのもっとも顕著な例は絵画においてでしょうか。

識字率が壊滅的だった中世以前において、文章を残すという事は限られた人にしか出来ません。

ですが、絵画は誰にでも描けます。

もっとも中世においては絵画は一種の工業製品で、著名な画家の工房で多数の人間の手で分業制で生産されていたようです。

画家になるためにはそれらの工房に就職して、下働きをしながら技法を身に付け、やがてのれん分けみたいな形で独立する。

日本でも尾形光琳の光琳派なんかは、公儀御用達で似たようなシステムだったような。

現代のマンガ家のプロダクションシステムも似ていますね。



そういう主流というか流行というか、そのような絵画手法から外れて自分の美意識だけで描いた絵画は世間に評価されず埋もれます。

ですが、絵画という成果物は残る。

フィンセント・ファン・ゴッホの絵は、生前1枚しか売れなかったとか。

モームの「月と6ペンス」はポール・ゴーギャンをモデルにした小説ですが、彼が如何に当時の画壇に認められなかったか、書かれています。

他にもモディリアーニとか。

バーンズという富豪が認めてコレクションしてくれなければ、埋もれていたかもしれません。



彼ら、天才の発想というものは常人が及びも付かないものです。

では、彼らはどのようにしてそれを得るのでしょうか。

神に愛されている天才は、神からそっと教えて貰う?



「アマデウス」

映画としても名作であろう、このモーツァルトを描いた作品、その一場面。

モーツァルトの奥さんがお金に困って、サリエリという人を訪ねる。

サリエリはウィーンの宮廷で認められた、当代一の音楽家で作曲家です。

モーツァルトのウィーン宮廷入りをフォローした、半ば保護者的な人とも言えるでしょう。

奥さんが来た時、サリエリはピアノ(多分、チェンバロではないと思う)に向かって、自分の作曲した曲を推敲というか手直しをしていました。

少し弾いては楽譜に何か書き込んでいましたから、多分そうなのでしょう。

奥さんはモーツァルトの作曲した曲を買ってくれ、と楽譜を持ってきます。

「オリジナルなので」という奥さんの言葉に、サリエリは

「直しがない、これも、これも」と楽譜を床に撒き散らします。

「おい、奥さんが「オリジナルだから大事にしろ」って言っただろ」

映画を見た人は、皆そう突っ込んだと思いますが。

そういう事ではなくて。



サリエリは成功した音楽家です。

映画の中でサリエリはへぼ作曲家みたいに言われていますが、実際はとても良い曲を何曲も書いています。

ちゃんと現代まで曲が残り、CDもあります。

私も買いました。

ですが、自分の才能の限界には気付いていたのでしょう。

自分はその乏しい才能で得られる曲想を、苦労して、工夫して、何とか聞ける曲にしている。

なのにモーツァルトには、まるで直す必要もない良い曲を神から授けられる。

神は何と不公平な事か・・・・。

映画で表現したかったのはそういう意味なのでしょうね。

サリエリは映画の中で、良い曲を作曲できるならば魔法使いになってもいい(30才までっていうあれです)という誓いまで神にしています。(確かそういう場面あったと思う)



話を戻して。

では、モーツァルトは本当に完成した曲を神から授けられたのか。

どうでしょうか。

またちょっと、話が飛びます。



四六時中、ずっと考える、というやつの事を知っています。

確か、プログラムのデバックの話じゃなかったかな?

コンピューターのプログラムを組んで、ちゃんと出来ているはずなのにどこかにバグがあって動かない。

それをデバックする。

普通はその作業は、プリントアウトしたものを手と眼で辿りながらする作業です。

延ばせば廊下の端から端まで届くようなものをひとつずつ辿る。

(今は当然違うでしょうが)

やつはその何千行とあるプログラムコード(だったかな)を全て覚えていて、頭の中でずっと点検をするのだとか。

プリントアウトしてでもキツくてツラいその作業を、通勤中だろうが食事中だろうがずっと繰り返すのだそうです。

バグが見つからなければ、また最初から繰り返す。



「何でそんな事を」と聞いたら、こんな事を教えてくれました。

「間違い探し、というクイズがあるだろう。

2つの絵に6つの違うところがあって、5つは見つけたけど最後の6個目がどうしても見つからない。

そういう時は何度でも見返すしかないだろう。」

やつに言わせれば、

「人間の脳は、見たもの、聞いたもの、全てを認識している訳ではない。

こちらが気がつかない間に、認識せずに飛ばしている場合がある。」

確かに、旅行とかそういう時に撮った動画を後から見ると、

「こんなところ在ったっけ。

こんな話していたっけ。」

という事が良くあります。

気がつかないうちに見落としていた、聞き逃していた、つまり認識していなかったという事でしょう。

そういう場合は認識のパターンが変わるまで、繰り返し同じ作業をするしかない、のだとか。

でも、頭の中だけでするか・・・・。



め〇ら将棋ってご存じですか。

将棋の棋士の物語、マンガなんかで、凄腕の棋士同士がただ向かい合って座って交互に何かつぶやく。

「2三歩」とか。

頭の中に将棋の対戦の盤面が全て入っていて、その中で駒を動かして対戦しているのだそうです。

私はいつも、2人の記憶が食い違っていたらどうするんだろう、とか思ってたりします。

「そこには銀があったはずだ。」

「いや、5手前に角で取ったはずだが。」

殴り合いになったりして。



今のところ、現実で(テレビとかで)め〇ら将棋を見た事ないのですが、多分現役のプロ棋士なら出来るんじゃないかな。

彼らは7手先、9手先まで(もっとかな)手を読む。

1手、自分の駒20枚として、複数の動きが出来るから50通りぐらいあるのかな。

2手目、相手の動きも50通り、つまり50の二乗。

単純計算だと7手先だと50の7乗分の手筋が存在する。

そのうちの可能性のあるものだけを絞って頭の中で駒を動かしているとしても、何通りの手筋を頭の中で動かしているのやら。

これが出来ないと、多分プロ棋士としてやっていけないのでしょう。

当然、め〇ら将棋も出来る、と思います。

一度、め〇ら将棋杯、とかやってくれないかな。

「め〇ら」は今は差別用語ですから、「ブラインド将棋杯」とかになるのかな?

食い違って喧嘩になったりしないかな、と不埒な期待をしてたりします。



で、何が言いたいかというと。

人間の中には膨大な記憶を持てる人がいて、しかもただ持っているだけでなくて完璧に管制して動かせる人間がいるという事です。

やつは”慣れ”とか軽く言っていましたが、”慣れ”じゃないだろう、いくら何でも。

で、モーツァルトもそういう人間で、彼は頭の中にオーケストラを揃えていたのじゃないかな、と。

メロディが頭に降りてくると、彼は彼専用のエアオーケストラに頭の中で公演させる。

無休で、無給で、何度でも。

オーナーが満足するまで。

変更点も修正点も1音、2音のレベルじゃないでしょうね。

いちいち紙に書いていられないほどの大量の修正を行って。

で、完成したらプリントアウト、紙に書きます。

オリジナルの楽譜だろうと、直しがある訳がない。



じゃあ、完成した曲が頭に降りてきたりはしないのか、というと。

ポール・マッカートニーの話です。

ある朝、彼が起きると、メロディが頭に浮かんだ。

余りにもすんなりと、しかも未熟?未完成なあやふやさのない曲だったので、彼はてっきり昔聞いた誰かの曲を思い出したのだ、と思ったそうです。

それから彼は、出会う人、出会う人、皆にその曲を聴かせて覚えがないか問い詰めて。

ようやっと、その曲がオリジナルである事を納得したのだそうです。

まるで神様がポールにプレゼントしてくれたような。

「イエスタディ」の誕生秘話だそうです。

確か、ラジオか何かで聞いたのだったかな。

結構、有名な話だったりする?

事実誤認があったら済みません。

でも、好きな話なので私は誤認のままで良いです。



天才に「天才だ」というと「天才じゃない」と怒る人がいます。

イチローも天才じゃないと言っている人だったように思います。

三浦知良、サッカーのカズですね。

Jリーグ誕生時のベルディのスーパースター。

彼は少年時代、2000回のリフティングをした事があったそうな。

多分、それが彼の日常の練習だったのでしょうね。

天才と言われるアスリートの話を聞くと、信じられないような練習をしている事があります。

常人にはとても耐えられないような。

身体的にも、精神的にも。

彼らに言わせれば、

「私たちは人一倍努力して、練習して結果を出したのだ。

才能だけで何もせずにできた”天才”ではない。」

という事なのでしょう。

ですが。



昔、「ブレイクショット」というビリヤードのマンガがありました。

ちょうど映画「ハスラー2」で日本にビリヤードブームが来ていた頃ですね。

ストーリー的には高校生がビリヤードの大技を連発して強豪を次々連破していく、まあそういうマンガなのですが。

ある場面があって。

主人公がひとりでビリヤード台に向かってボールをキューで付く。

ボールは対面で跳ね返って、ちょうど構えたキューの直前で止まる。

それを何度でも、何時間でも繰り返す。

地味な基礎練習です。

で、当時ビリヤードを囓っていた私もやってみようと思って、ビリヤード台に向かってボールを付いて。

あっさり飽きた。

うまくいかないのはもちろんなのですが、うまくなりたいという気持ちがどうしても湧かない。



努力し続けられるのも才能のうち、と言います。

例えばサッカーが好きで、シュートの練習ならいくらでもする。

野球でも、フリーバッティングならいくらでもする。

そういう人はいると思います。

そういう人も、ある程度はうまくなれるでしょう。

でも大成するには、その基礎となるリフティングや素振りなど、地味な積み重ねがどうしても必要です。

謂わば詰まらない練習を、どれだけ集中して続ける事が出来るか。

頭で理解していても、感情の方は詰まらない、ツラいと思ってしまうでしょう。

でも、それを出来るか出来ないかが、分かれ目なんだと思います。

で、そのキーが、どれだけ”好き”か、だろうと思うのです。

何かを、例えば野球を、サッカーを一途に好きでいられる。

常人がツラいと思い拒否してしまう事も、平気でこなしてしまう。

時には、人生をためらいもなく賭けられるほど。

何かを深く、長く、好きでいられるというのも才能のうちで、その才能が優れている人は天才なんだろうと思います。



さて、天才には変わり者が多い、偏屈者が多い。

近頃はそういう人は少なくなったかもしれませんし、生き残れなくなったと言っても良いかもしれませんが。

一昔前や創作物に出てくる「天才」のトレードマーク的なものが「性格破綻者」風味でした。

ある意味天才は、アウトプット不良、とも言えます。

この、うまく出て行かないアウトプットが他人にぶつかって傷つけたり、または逆流して本人を傷つけたり。

子供の頃は素直な良い子が、大人になると捻くれて、まあ。



その、うまく出て行かないアウトプットをフォローして、世の中に出させてくれる人。

マネージャー、プロデューサーの役をしてくれるバイプレイヤー、名脇役が天才の傍にいます。

というより、こういう人がいないと天才は真価を発揮しない。

「アマデウス」のサリエリは、当にその様な立ち位置でした。

ウィーンの宮廷でサリエリが多分、宮廷の貴族や王族などとモーツァルトの到着を待っているシーンがあったと思います。

サリエリは歓迎の曲まで作曲して待っています。

期待の若手音楽家が不慣れなウィーン宮廷にうまく馴染むように、彼は気を遣っていたのでしょうね。

この後の話でも、そういうエピソードは出てきます。

実際のサリエリも、面倒見が良い人だったそうですが。

でも、モーツァルトはそのサリエリの心尽くしの曲を勝手に改変して、面子を潰したりするのですが。



「アマデウス」では、サリエリがモーツァルトを殺すという話になります。

確か映画のコピーもそんなだったから、ネタバレではないと思う。

同じ道を志すものにとって、傍にいる天才というものは苦しいものなのだろう、と思います。

私が野球をやっていて下手くそだったのは前に書きました。

周りのチームメイトは皆うまくて(というより普通で)、私は苦しかった。

レギュラーとかライバルとか、そういうのではなくて。

ただ、何故自分には出来なくて皆には出来るのだろう。

そういう気持ち。

嫉妬、ジェラシーですね。

ただの下手くそが、普通の人に対してさえそういう気持ちを持つ。

自分の才能に自信を持っていた人が、それより遙かに大きな才能に出会った時、それが判った時、どんな気持ちを持つのでしょうか。



うろ覚えですが。

「月と6ペンス」も同じような展開があったと思います。

この話の主人公は画家で、しかも世間に受け入れられて商業的にも成功しています。

その彼が、ゴーギャンモデルの天才に出会って、その才能を認め魅せられる。

世間に受け入れられなくていろいろ困窮している天才を陰に日向に援助する。

ですが、あろう事か主人公はある日、彼の奥さんの裸婦画、ヌードの絵を見つけてしまう。

彼は目の前が真っ赤になってナイフを振り上げて、その絵を切り裂こうとするのですが。

ですが、出来ない。

天才が描いたその絵が素晴らしすぎて。

「名作」なだけ在る、凄く鮮烈なシーンです。

うろ覚えなので、あってるかどうか。

違ったら済みません。

相変わらずいい加減な文ですね。



天才の傍にいる苦しみ。

自分が出来なかった事、苦労して出来るようになった事。

彼らはその苦労をあざ笑うように、その難事を軽々と越えていきます。

本当は彼らがあざ笑ってくれるなら、まだ救いがある。

彼らがその事実を認識して、それに苦労をした自分を意識してくれるのですから。

非常に腹立たしいですが・・・・。

ですが現実は往々にしてもっと残酷で、彼らはそんなものまるでなかったように、あっさり通り過ぎていく。

自分は彼らが通り過ぎていく、ただの路傍の石。

自尊心がズタズタになる。

でも、誰を責める事も出来ない。

唯一、その苦しみから逃れる方法は、自分が志したものを諦めて、天才から離れる事。



それが出来れば良いのですが・・・・。

天才は魅せる。

彼らが次に何を魅せてくれるのか。

サッカー、ファンタジスタ、野球、スーパースター。

天才アスリートたちは今度は、どんなスーパープレイを見せてくれるのだろう。

絵画、小説、、音楽、彫刻・・・・。

天才芸術家たちは今度は、どんな感動を与えてくれるのだろう。

内燃機関、エアプレーン、無線、ジェットエンジン、宇宙ロケット、ロボット、コンピューター・・・・。

天才発明家たちは今度は、世界をどのように変えていくのだろう。

一番近くにいて、一番理解していて、一番最初にそれを見る事が出来る。



井伏鱒二は何故、太宰治の面倒を見続けたのか。

矢田部教授と松村教授は何故、牧野富太郎に大学への出入りを許したのか。

弁慶は何故、義経の館の前で立ち往生をしたのか。

彼らは何故、それをしたのか。



五木寛之の小説の中だったかな。

あるジャズトランペッターの話が出てきます。

そのトランペッターは自他共に認めるトッププレイヤーで、常々こう広言していました。

「俺より大きな音を出せるやつがいたら、この目をくれてやる」

何故、大きな音が出せるのが優れたトランペッターの条件なのか判りませんが・・・・。

ある日、彼の演奏するクラブにふらっと青年が現れて、トランペットを吹いた。

その音を聞いた時、かのジャズトランペッターは無言でドラマーの元に歩み寄り、スティックを奪い取って自分の眼に突き刺した。

例によってうろ覚えなので、真偽のほどはご自分でご確認下さい。

ついでに言うと、創作なのか実話なのかも判りません。

そうして広言を実行したトランペッターはトランペットを捨て、青年のマネージャーになり一流のジャズトランペッターに育て上げたそうです。



丹下段平は夢破れたプロボクサーだった。

レオポルドは自分が才能のない音楽家だと知っていた。

星一徹はプロを追われた野球選手だった。

伊右衛門は富商ながら学問がなかった。

名馬の元に名伯楽有りといいます。

王選手を育てた荒川コーチのように、イチローを育てた河村コーチのように。

創作物では「エースを狙え」が有名でしょうか。

少し違うけど「YAWARA!」の伊東富士子も、そのひとりだと思います。

自らが失った夢を天才に託す。

託された方は迷惑かもしれませんが。

でも、凡人の夢ですよね。



天才なんてものは、そこら辺にゴロゴロいる。

最初に言った私の暴言ですね。

でも、私はそう思っています。

天才を天才たらしめるのは。

彼らを磨き、世に出して輝かせるのは。

本当に得がたいのは、このバイプレーヤーです。



「モルグ街の殺人」

エドガー・アラン・ポーのこの作品には、探偵役のデュパンと語り手たる私が出てきます。

天才的な行動(つまり訳のわからない行動)をするデュパンを、読者が理解出来るように解説する凡人たる語り手。

アウトプットの苦手な天才をフォローする。

この作品は推理小説の元祖とか言われています、が。

ですがまあ、ホームズが「緋色の研究」で言っているように、トリックとしては大したものではない、かもしれません。

でもこの手法、凡人を傍に置く事によって天才たる探偵役を輝かせる手法を発明した事こそが、本当の意味の元祖なのではないか、そう思います。

以降、ホームズとワトソン、ポアロとヘイスティングス、エラリーとクィーン警視。

有名な推理小説は、有名なコンビによって綴られていきます。



天才とバイプレイヤーとの間のドラマ。

ホームズとワトソンは一度、ライヘンバッハの滝で永遠の別れをします。

そして「空き家の冒険」での再会。

ホームズとワトソンの再会はもう一つあって、引退したホームズがある事件で助手が必要となり、ワトソンを呼び出す。

「最後の挨拶:His Last Bow」

この作品がホームズの最後の作品で、読者もホームズと永遠の別れになります。

この事件の時代背景は、第一次世界大戦直前です。

ホームズの言葉。

「東風になるね。ワトソン君」

「東風は来るのだ。

いままでイギリスに吹いた事がない風がね。

冷たく激しい風だと思うから、そのため生命をおとす人も多いことだろう。

だが、それは神の思し召しで吹くのだ。

あらしが治まった後は、輝かしい太陽の下、より清く、より良く、より強い国が出来る事だろう。」

(新潮社文庫版 延原 謙訳より)

ホームズはこのように言って彼の時代、二輪馬車ハンサムで駆け巡った栄光のビクトリアンエージに別れを告げたのでした。



そういえば、余談ですが。

この「最後の挨拶」の中にトーケー酒というのが出てきます。

上等のブドウ酒らしいのですが、私はずっとこのお酒の正体が判らなかった。

ボルドー辺りにトーケーなんて場所があるのかな、などと漠然と思っていましたが。

それが判ったのは、木原敏江の「無言歌」を読んだ時。

まあ、確証がある訳ではないのですが、多分ハンガリーのトカイ(Tokaj)ワインの事でしょう。

流石、イギリス人。

フランスワインなど飲むはずがなかった。

今、読み返してみれば

「シェーンブルン宮殿(オーストリア、ウィーンの宮殿)のフランツ・ヨゼフ(オーストリア皇帝)の酒庫から出た。」

などと書いてあるのですから、中欧のワインである事は明白だったのに。

昔は無知でしたねえ。

でも、まあ、よくあんな甘いワインを飲めるものだ。



ついでの余談で。

押川春浪の「海底軍艦」

この序盤で、主人公が帰国のために乗船する弦月丸が碇泊していたのが、イタリー国の名港ネープルス。

さて、どこだろう。

そんな名前の港、聞いた事がないぞ。

こちらはまあ、トカイワインと同じ伝で綴りを想像してみたら。

「ナポリ(Napule)」でしょうね。

Wikiで調べてみたら「英語名はNaplesネイプルズ」と、ちゃんと書いてありました。

余談でした。



ポアロとヘイスティングスの別れは、まあ、シリーズの中では多々あるのですが。

永遠の別れは「カーテン:彼の最後の事件」です。

クリスティはこの作品を早い時期に書き、遺作として自分の死後公開するように準備していたのですが。

出版社の圧力に負け、生前に公開させられてしまいました。

いろいろ不味い事、書いたりしてなかったのかな。

自分の死後に公開されるなら、好き勝手言えるとか考えて。

特に変な事は書いてなかったように思いますが。

もっともその1年後にクリスティは死にます。

この作品にはポワロが(つまりクリスティが)究極の殺人犯と考える人物が出てきます。

この作品の最後は、ポワロのヘイスティングスへの手紙で終わります。

天才の、友人バイプレーヤーへの想いが綴られています。



信長という人は、日本史に燦然と輝く人物です。

古くは信長公記から、現代では「国盗り物語」など多数の作品に描かれています。

きっと、眩いばかりの人だったのだろうなあ。

田舎の百姓のせがれや生きる事に汲々としていた小土豪の息子が天下を望むほどに、強烈な影響を与えていた人だったのでしょう。

私が好きな信長を描いた作品は「KING OF ZIPANGU 信長」です。

題名からしてどこか仰々しくてうさんくさそうですが、森川久美さんが描いています。

内容は、世を儚んだ武将のせがれ、三郎が信長に会って、この人のために生きたいと思う。

三郎から見た信長を、主に三郎の心中をモノローグで表す事で物語は綴られていくのですが・・・・。

やがて物語は破局を迎えます。

信長の苛烈な生き方に三郎の心が耐えきれなくなっていき・・・・。

殺されたいと願って信長に刀を向けて、突き放される。



最後のシーン。

ここを彩るモノローグ、三郎の心が凄く切ないのですが・・・・。

ですが、ここに下手な引用をするのは勿体ないというか、冒涜というか。

ぜひ、ご自分で読んで下さい。

なので、三郎のセリフだけ。

去って行く信長の後ろ姿に膝を付け、額を地に打ち付けて。

「お許し下さい。

もう一緒には行けません。

お許し下さい。」

慟哭する。

ちゃんと本を確認して書きました。

横着な私でも、いい加減にしたくないものはあります。

この後の話があって。

潜伏先で三郎は、本能寺の変を聞きます。

「どうします?

逃げる理由なくなりましたで?」

「あの男のいないこの国にいて、どうする・・・・?」

何度読んでも胸をつく、私の宝物です。



バイプレーヤーというのは得がたい存在です。

天才を見出せるほどの人間に対する見識があって。

天才を理解出来るほどの知識と柔軟性があって。

天才を世に出して演出できるほどの社交性があって。

そして何より、天才を大事に出来る(天才は多かれ少なかれ性格に難がある、かも)強い心があって。

それは時に自分の心を殺して、天才を突き放す事もできる。



余談ですが、確かアインシュタインが特殊相対性理論を発表した時、

「この理論が理解出来るのは、世界中に3人しかいないのではないかな」と言って

擁護してくれた大科学者がいた、という話を聞いた事があります。

その人がいなければ、またはその人の目にとまらなければ「相対性理論」は世の中に埋もれていた可能性もあったのでしょうか。



自分の見出した天才が成長していって、もう自分には育てられないと思った時。

自分の存在が足かせになると判った時。

巣立ちの時。

「がんばれ元気」では少年時代のトレーナー三島栄司が、最後のスパーリングをして送り出します。

「男どあほう甲子園」の最終回は永年の女房役、捕手の岩風、豆タンとの別れです。

調子に乗りやすい甲子園にキツい一発を喰らわして、別れを告げます。

他にも、思い出せないのですが、いっぱいあったような気がする。

何れも、凄く切ない思いをした覚えがあります。



終戦直後、オートバイメーカーが雨後の竹の子のようにいっぱい出来たそうです。

それまでの軍事産業、兵器生産がパタッとなくなって、転向した人が大勢いたのでしょうね。

そんな浜松の小さな町工場に現れたひとりの男。

社長の事が気に入って、一緒に仕事をしたいと言ったそうです。

その男、藤沢武夫氏は、社長である天才、本田宗一郎氏を支えきり、ホンダを世界の大企業に育て上げました。

技術部門しか担当せず工場に籠もりきりの本田宗一郎氏に文句を言う事なく、経営、営業、人事などの会社の他全てを取り仕切り。

資本金の数千倍?の工作機械を輸入した時も、世界一のオートバイレース、マン島TTの挑戦を発表した時も、会社を破綻させる事なく立ち行かせました。



藤沢武夫氏自身も天才だったのでしょうね。

スーパーカブのコンセプトは藤沢氏が考えて、本田宗一郎氏が形にしたと聞いています。

優れた製品のコンセプトを見出すのがどれだけ困難な事か、商品企画を経験した人は身に沁みて判っていると思います。

現在、製品を買うともれなく付いてくる(と思う)アンケートはがき。

あれは製品への不満を調べ、ユーザーが欲しているもの、ユーザーニーズを探して、製品コンセプトを作るための物です。

そのユーザーニーズを満足させるように製品を作れば、売れる事は売れます。

欲しい人、アンケートに答えた人にはある一定数売れるでしょう。

ですが、まあ、それだけです。

爆発的に、長期に渡って売れるものはその方法では作れない。

商品企画の常識です。



ユーザーは、ユーザー自身が欲するものを知らない、と言う言葉があります。

ユーザーが知らないユーザーが欲しがるもの。

それこそが爆発的に、長期間に渡って売れ続ける、真に優れた商品です。

そのコンセプトを作れるのは、天才だけです。

例えば固定電話が一般的だった頃。

電話ユーザーにアンケートを採って「不満点」「欲しいもの」を書いて貰ったとして。

「携帯電話」が欲しいと書く人たちがどれだけいたでしょう。

企業や大学でコンピューターが導入され始めた1970年代、またはPC6001が発売された1980年代でもいいですが。

「パソコン」が欲しいと言う一般人がいたでしょうか。

目の前にものがあって、使ってみて有用性が理解出来て、初めて欲しいと思う。

それが普通の人というものです。

こういうものが欲しい、と製品を想像(創造?)出来るのはごく一部の人間だけです。

なければないで、一般人は不便とも思わず(不満にも思わず)日常を暮らします。

そういう意味からいえば、常にないものをドラえもんに要求できるのび太君は、商品企画の天才かもしれない。



1958年発売、半世紀以上、63年間(2021年現在)。

販売台数一億台以上。

どれだけ優れた商品コンセプトだったのか。

そのコンセプトから外れる事なく、更に優れた設計をした本田宗一郎氏の天才も凄まじいものですが。

優れた商品はそれを望んでいた(潜在的に)ユーザーを満足させるだけでなく、新たなユーザーニーズも作り出します。

蕎麦屋のあんちゃん用に作られた物が(シーソーペダルは雪駄でもギヤチェンジできる用に作られたとか)、新聞配達や郵便配達にも使われ、今では女子高生が通学に使っています。



余談ですが。

昔、スーパーカブの一面新聞広告を見た事がある。

確か、燃費が向上して大台に乗った、とかじゃなかったかな。

その時初めて、スーパーカブが現在も改良し続けている事を知りました。

あれだけ安定して売れていて、競合車メイトとかバーディーとかもとっくに撤退していて、手を入れなくても良いだろうに。

因みに聞いた話ですが。

オイルライターのジッポは現在、生産部門とケースのデザインをする部門しかないそうです。

中身は改良する必要がないから、技術部門とかはないのだとか。

ケースのデザイン違いで安定して売れるから、無駄な部門を削ぎ落としたのでしょうね。

会社として利益を追求するなら、”有り”だとは思いますが。

ジッポ、使っていますが、ちょっとほっとくとガソリンが直ぐ蒸発して着かなくなる。(着火しなくなる)



ホンダはそうは考えなかったのでしょうね。

一見、完成形に見えてもいくらでも改良の余地はある。

より良いものをお客さんに届けるために。

私がホンダが好きな所以です。

新聞広告の意味も、販売促進だけじゃないんだろうなあ。

優れた商品、完璧に近い商品の改良って凄く難しいんです。

昔、マツダがFFファミリアで大ヒットをとばした時、次のモデルチェンジ車が旧型と殆ど変わらないようなものになった事があります。

自動車評論家は怖くて大きく変えられなかった、と言っていましたが。

下手な改良は、その商品が持っている個性、良いところを壊してしまう。

そういう制約がある中での改良は、大きな効果が見込める大幅な変更はできません。

地味な、難しい、でも効果が現れにくい仕事です。

新聞広告はきっと、そういう地道な努力を続けてきた技術者への褒賞。

謂わば全世界に自社の技術者たちの偉業を誇った、ノーベル賞の授賞式みたいに、そういう意味の新聞広告だったのではないかなと、勝手に思っています。



本田宗一郎氏が自分の技術者の限界を自覚して会社を辞める時。

「おれ、会社を辞めるよ。」

「そうか。

じゃあ、おれも辞めるよ。」

そう言って藤沢武夫氏も会社を辞めたそうです。

前述の信長の三郎の言葉。

「あの男のいないこの国にいて、どうする・・・・?」

藤沢武夫氏にとって、本田宗一郎氏のいないホンダなんて居る意味がなかったのかもしれません。



本田宗一郎氏も藤沢武夫氏も、調べようと思えばご自身が書かれた本も含めて、資料は大量にあります。

でも、私は漏れ聞いたエピソードだけでこれを書きました。

だから真実(そんなものがあるとすれば、ですが)から程遠いものだろうとは思います。

Wikiによれば、マン島TTの優勝宣言も、会社を辞めると言ったのも藤沢氏かららしいですし。

私の書いた物は所詮私の虚像にすぎませんし、これが正しいなどと押しつける気は毛頭ありません。

ただ、天才の傍にいたバイプレーヤーとしての藤沢氏が(私の描いた虚像が)、最高に格好が良いと思ったのです。



やつに会ったのは、重役が気紛れに思いついた商品企画の打ち合わせでした。

どこか面倒くさそうな無愛想な態度の悪いやつに、一応私の企画案を説明して。

「バカじゃねえの。」

思わず胸ぐら掴み上げてましたね。

「どこがバカか、説明しろ。」(話、盛ってます。)

面倒くさそうなのを脅して、すかして。

あちこちに飛ぶ話を強引に戻して。

初歩だ、そんな事も知らねえのか、という暴言をじっと我慢して。

尋問しました。

(拷問ではなかったはず、物理はほんの少ししか使ってないですし)

基本だ、と抜かす事を聞き出すのに4日。

やつの企画案を説明させるのに3日。



で。

何で、誰も知らないようなマイナーな昆虫の脚部構造を使う?

何で、誰も知らないようなヨーロッパ中世異端キリスト教集団の兵器の構造を使う?

何で、誰も知らないようなアジア高山の地殻構造を使う?

やつは、とんでもないものを、とんでもない加工をして、とんでもないところに使う。

でも、それはとても効果的で、まるで絡まった糸がほどけるように、あるべきものがあるべきところに納まるように、綺麗に問題を解決する。

凄い、と思った。

やつに言わせれば、

「毎年世界中で発明されるもののうち、本当の意味の発明は2~3点にしか過ぎない。

残りの発明といわれるものは、何かしらの応用(他で使われているものを持ってきた)に過ぎない。」

のだとか。

このデータ、どうやって調べたんだろう。

もうひとつ言っていたのは

「科学とは自然現象の模倣に過ぎない。」

これは、エリアルとかいうラノベの中のセリフだとか。

まあ、応用っちゃ応用、模倣っちゃ模倣なんでしょうが。



で、難事に立ち向かう羽目になりました。

企画案自体はシンプルで判りやすい。

まるで、E=MC^2みたいに。

ですが、その裏付けとなるものは、広くて、深くて、大きくて、繊細で、大胆で・・・・。

こんなもの、どうやって30分で説明しろって言うんだ。

案の定、企画会議で重役に絡まれました。

多分、自分が考えていたのとは違ったのでしょうね。

その浅薄な考えを振り回す重役を、どうやってなだめすかしてご機嫌損ねないようにしようかと考えて。

やつの顔が、諦めたような、でも少し悲しげな顔が眼に入ってきて。

思わず、重役を怒鳴りつけていました。

・・・・・・・・・。

ったく、何で私が感情的にならないといけないんだ。

はた迷惑な。



結局、企画は流れ、私は元の部署に戻り、やつはいつの間にかいなくなっていました。

やつは天才という言葉が嫌いでした。

お前は天才だから出来るはずだ。

お前は天才だからやらないといけないんだ。

お前は天才だから判らないんだ。

お前は天才だから俺たちとは違うんだ。

お前は天才だからこっちには来るな。

あの、無愛想で面倒くさがりは、ちゃんとやっていけてるのだろうか。



もし、貴方が出会ってしまったら。

そして逃げ損なってしまったら。

取り敢えず話を聞いて上げて下さい。

うざがろうが、嫌がろうが、怒り出そうが、逃げ出そうが。

しっかりと捕まえて、ちゃんと説得して(時には物理で)話を聞いて上げて下さい。

そうして、しっかり躾けたら。

人の輪の中に連れて行ってやって下さい。

でも、甘やかしてはいけません。

直ぐつけあがりますから。



そうしたら、きっと。

そうしたら、素晴らしいものを見せてくれる。

貴方の魂に刻み込まれるような、素晴らしいものを。

天才とは本当は、人の中にいてこそ輝くものなのですから。



でも、後始末はきっと、貴方に降りかかってきます。

係わらなければ平穏に過ごせるのに。

はた迷惑な存在でしょう、本当に。


信長ファンの方の中には、私が「KING OF ZIPANGU 信長」を取り上げた事にご不満な方もおられるかもしれません。

信長のエピソードの中に、浅井長政と朝倉義景のしゃれこうべに金箔をし、それを酒杯にして酒を飲んだ、というものがあります。

私の知る限り(ほんの少ししか知りませんが)このエピソードを取り上げた信長物はなかったように思います。

「国盗り物語」の中でも1行や2行ぐらいしかなかったかも。

この作品では、2ページでそのエピソードが取り上げられています。

「それが何」と言われればそれまでですが。

「それが何」と言わなかった、思わなかった方には伝わるだろうと思います。

しゃれこうべの酒杯で酒を飲んだ信長も、信長なのです。

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