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とりとめもなく  作者: nayuta
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3.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。 欧米の植民地政策

架空戦記というWikiがあるのですね。

びっくりしました。

いろいろのパターンがあり、分類されているのも驚きでしたが。

ここでいう架空戦記とは第2次世界大戦、特に日米戦を描いたものの事です。



歴史と軍事に興味のある方は、史実の太平洋戦史を読んで悔しい思いをなさった事だろうと思います。

兵器に興味、または好きな方は史実を読んで「チャンスさえあれば」「間に合っていれば」と思った事が多々あったと思います。

ミッドウェーの30分とか、レイテの決断とか。

軍艦の方は戦艦大和。

艦隊戦の機会さえあれば。

飛行機の方は震電とか流星でしょうか。

開発が間に合って数が揃っていれば。



そういう無念な思いを晴らしてくれたのが、80年代から架空戦記ブームでしょう。

いろんなパターンがありますが(全てを読んだわけではありませんが)基本的に

「対米戦勝利」「お気に入り兵器無双」が売りです。

そうである以上、開戦後の戦況の推移や戦闘シーンが主となるので、開戦に至る経緯とかがどうしても添え物、前菜になってしまうのは仕方がないと思います。

商業誌ですから読者が望むものを提供するのが、まあお仕事ですから。



歴史というのはいろいろな人の決断によって(後、偶然によって)紡がれてきて、今現在が存在しているわけですが、それらの決断が違っていればどのような歴史になったか。

いわゆるifです。

1900年代、20世紀に入った時点からの日本の決断、舵取りがどのような意図で為されたのか。

そしてそれが違っていれば日本はどのようになっていたのか。

特にこの時期に日本は大きな決断、国家目標について決断をしたはずです。

それがどのようにして為されたのか。



司馬遼太郎の各種エッセイ、半藤一利の著作などにいくつか見えたりもしますが。

最初に「対米戦勝利」ありき、ではなく国家戦略、グランドデザインについて架空戦記というかifを考えてみたいと思います。

とりとめもなく。





大航海時代が胡椒を求めて、というのはご存じだと思います。

当時、胡椒は異教徒であるイスラム国家経由でしか手に入らなかった。

中世、キリスト教正義が確固として存在するヨーロッパ社会において、絶対悪である、悪魔とも称されるべきイスラム教徒の力を借りなければならなかったのはとても辛い事だったでしょう。



異教徒に対する嫌悪感というのは、日本人が想像する以上のものがあります。

「赤毛のアン」。

この有名なカナダの小説は、19世紀末のプリンスエドワード島という片田舎が舞台の、善良で穏やかな人々が織りなす日常を綴った小説です。

その冒頭当たりで、アンを引き取ったマリラがアンがお祈りしたことがない、と聞きギョッとします。

そしてまったくの「異教徒」じゃないと知ってほっとします。

このシーンを読んだとき、キリスト教社会において異教徒というものがどれほど拒絶される存在なのか、気づかされました。



大航海時代ではポルトガルがアフリカ大陸沿いを南下し、喜望峰からインドに至る。

スペインがコロンブスを擁して西に進み、両アメリカ大陸に至る。

何かこの時、教会が東半分はポルトガルのもの、西半分はスペインのものって地球を分け与えたそうですね。

どうやら本気だったみたいで(と、効力もあったみたいで)ふざけた話です。

スペイン人やポルトガル人はよそ様の土地で(彼らからすれば新発見の未開の大地だそうですが)当初は略奪や虐殺に勤しんでいるだけだったみたいですが、イギリスなどが覇権を握ると様子が変わってきました。

彼らはそこの土地の人たちを使って仕事をさせ収穫物を持ち帰るようになりました。

いわゆる植民地経営を始め、そこここの土地を支配するようになりました。

中には北アメリカ大陸やオーストラリア大陸のように、現地人を殲滅してヨーロッパからの移住者で植民地経営をする例もありました。



産業革命が起きて機械力が飛躍的に発展すると、軍事力も従来と比べものにならないほど強力になりました。

かつては十字軍のような大軍を持ってしても勝ち得なかった不倶戴天の敵イスラム国家も一蹴して、世界中をくまなく自分たちの支配下に治めて回りました。

まさにキ〇〇イに刃物という感じで、従来は手出しを控えていたインドのような大きな国家をも下しました。

それまでは生物兵器で殲滅したインカ帝国(天然痘を持ち込まれて人口の94%が死滅したそうな)などの例外を除けば原則、侵略、支配するのは国の形を為していないところばかりでしたが。



日本へは結構早い時期にポルトガル人が到達していましたが、手強い拒絶にあって細々とした交易だけが行われていました。

その間、世界ではヨーロッパを起点として西と東に向かって植民地化が進行していきました。

アジアへは西からの方が早かったですね。

東方面はアメリカが独立してヨーロッパ勢力をそこで足止めした事と、南北アメリカの利権に手を出すな、代わりに自身も外へは行かない(大嘘ですが)と宣言したモンロー主義が関係していたでしょうか。

中米、南米はかつてそこを侵略したスペイン、ポルトガルの影響が大きかったので、それへの対処も遅れた原因かもしれません。

メキシコの土地を奪うのに躍起になってもいたみたいですし(アラモの砦とか)。



ロシアも同じ頃太平洋に到達して、南下を始めています。

司馬遼太郎の「ロシアについて」が知識の下地ですが。

モンゴルに支配されていたヨーロッパが、お葬式とモンゴル帝国の衰退によって解放されても、ロシアは長い間支配され続けていたそうです。

「韃靼の軛」と表現されていました。

そこからやっと独立して、宮廷は整えられていたみたいですが国力自体は低かったみたいです。

当時、ロシアの主要な輸出品がシベリアで採れる黒テンの毛皮だったそうで、これがヨーロッパの貴族の女性たちに高値で売れたそうです。

貴族女性の衣装代がロシア国家の貿易額の大半と釣り合っていたと言う事が、どれだけの経済格差があったか判ります。

で、その黒テンを追って人の住めない極寒のシベリアの森林地帯(南の草原は怖いモンゴルを含む遊牧民の支配領域でしたから)を東に進むうちに太平洋に出たわけです。

気がついたら地球半周に近い大きな領土になっていました。(当初はアラスカまでもロシアのものでしたから)



西から順繰りに海沿いの国家を植民地化してきたイギリスをはじめとしたヨーロッパ諸国は、いよいよ中国に取りかかりました。

それまでの間、インドからミャンマー(旧名ビルマ)、マレーシア、フィリピン、太平洋諸島、インドネシアなど、殆どの国、地域は植民地化されています。

その中で、領地を削られながらも独立を保ち得たタイ王国は、本当にすごいと思います。

因みにこれらの侵略行為は、イギリスでは英雄的行為とされていました。

シャーロックホームズを書いたコナン・ドイルの「失われた世界」、ロストワールドという映画の方が有名でしょうか。

その小説のイントロで主人公が好きな女性に英雄的行為として

「クライブを見るがいい。ただの東インド会社の書記だったのにインドを征服した。」

と、言っています。

コナン・ドイルは当にその時代の人だったので、この当時のイギリス社会の空気を正しく伝えていると思っていいでしょう。



さて、中国はシルクロードの行き着く先の文化の香る大帝国。

ヨーロッパ人の誇りの根底にあるローマ帝国と対等に向き合えた東の強国。

イギリス人やフランス人が「ガリア」と呼ばれていた野蛮人の頃から栄えていた大国です。

今までのように単純に武力で威嚇してうまくいくとは思えません。

イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国は、最初は屈辱に耐えながら貿易を行いました。



ところが貿易の結果が大赤字、その赤字を補填しようとアヘンを輸出してアヘン戦争という不名誉な戦争(イギリスでは アヘン=悪 という認識がしっかりとあり、それを咎められての逆ギレ戦争はみっともない、という意見がありました)を起こしました。

これから見ると当時のイギリス人は、中国人を対等な人間とみていたようですね。

他の植民地の現地人には同じ人間とは見ずにもっと酷い事(アメリカでの一連のインディアン戦争でのジェノサイドとか、オーストラリアでアボリジニをハンティングの獲物にしたとか)をしていた事を考えると、中国には遠慮というか構えていたように思います。

まあ、実際に中国と対峙していた現場の人間はそうは思わなかったと思いますが。



中国には、というか中華思想には対等な相手、互いに敬意を払う相手という概念がないようで、したがって対等の相手と行う貿易というものがなかったそうです。

当時、イギリス側が貿易と称していた事は、中国側からすると朝貢と回賜(貢ぎ物を持って挨拶に来た蛮族に対し土産物を下賜すること)だったそうです。

帝王としての徳を見せる意味で、貢ぎ物の数倍の価値のものを与える事が慣例だったそうですが。



つまりイギリスの持ってきたものの価値は中国側が勝手に評価し、下賜品もイギリス側の希望など考慮されないと言う事です。

それにおそらく、朝貢を受けてもらうためには中国人官僚に貢ぎ物が必要だったろうし、下賜された土産物も中抜きされていただろうし。

当時の清の腐敗ぶりとイギリス人を見下していただろう意識からすれば、当然あっただろうと思います。

どこかで読んだ気がしますが、中国から輸入したお茶には普通に灰や砂が混入していた、とか。

それでも貿易を続けたのは、その土産物を本国に持っていけば莫大な利益になったからでしょうが。

まあ、アヘン漬けにしても気に病まない程度には、現場のイギリス人は腹に据えかねていたのかもしれません。



神様とさえ「契約」という対等な関係、フェア、公正を重視するキリスト教社会の人間からすれば、不公正、理不尽を平気でしてくる中国は腹立たしいというより理解不能だったのでしょう。

まあ、もともと邪悪なる異教徒の国でもあるし、アヘン戦争あたりから中国を武力でちまちまと切り取りにかかります。

ロシアも北側からろくな戦闘もなく沿海州を切り取っていきます。

よく満州、現在の黒竜江省が無事だったなあ、と思いますが。

ロシアが欲しかったのは不凍港、凍らない港であったのと、満州が清帝国の根源の地であったことも関連していたかもしれません。

日本が幕末を迎える頃、周りの国はこういう状態でした。



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