13.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。 太平洋戦争の意味
架想戦記的な意味での勝利ではなく。
「対米戦勝利」「ガチンコ戦闘至上主義」ではなく、史実に沿って太平洋戦争を収めるためには。
方策がない訳ではないです。
2つあって、ひとつは英米のうち英国を屈服させて講和を結び、講和の条件として英国に仲介させてアメリカと講和を結ぶ方法。
アメリカとの講和は日本が負けた形にして、条件面で何とか優勢を勝ち取る、という落とし所でしょうか。
もうひとつの方法は、アメリカに内戦を引き起こし、その片方の援軍として参戦し講和を結ぶというもの。
対独戦を戦うイギリスの国力の根源は海外の英連邦諸国で、その中の大きいものがカナダ、オーストラリア、インドだったでしょうか。
このうちのどれかを占領すれば、英国は継戦能力を失い講和に応じます。
白人系のカナダ、オーストラリアは国民全体が敵に回りますのでまず無理です、地政学的にも。
一方、多数のインド人が抑圧されているインドならば、現地人が味方になってくれる可能性があります。
それにインドはアメリカ本国から遠く、簡単に戦力は派遣できないでしょう。
開戦直後にシンガポールとコレヒドール要塞を墜とし、海軍兵力と航空戦力を一掃して経路の安全を確保する。
極力アジア諸国は占領しない。
パレンパンの石油基地だけ抑えたら、他の陸軍戦力はスリランカのコロンボを確保、そこを根源基地にしてコルカタ、ムンバイに上陸(当時のカルカッタとボンベイ)そこから首都ニューデリーを目指す。
もちろん、チャンドラ・ボースと綿密に連絡を取ってインド国民軍も同時に立ち上がって貰う。
主戦線以外の細部には彼らインド国民軍が主導となって、住民を宣撫しまとめていく。
インド侵攻は、インパール作戦、あのビルマ占領軍司令官が退屈しのぎに考えたような片手間な作戦では成功するはずがありません。
インドは中国と同じくらい広く大きく人口は多いのです。
かろうじて、開戦直後に日本陸軍の総力を結集して行えば何とかなるかもしれません。
もし順調にいっても勢いのまま中東、スエズなど行かないように。
まず、兵站線が持ちません。
ここはインド大陸と日本本土の防衛に徹します。
なぜならイギリスは当然、インド奪還に動くからです。
地中海艦隊が出てくるでしょう。
イギリスはアメリカに日本本土への早期の侵攻を依頼するはずで。
フィリピンから台湾侵攻になるでしょうか?
英国は追い詰められていますから、厳しい戦いになります。
それを1年ぐらい凌ぐ事が出来れば、多分イギリスと講和は結べるはずです。
もうひとつの方法はアメリカに内戦を引き起こす事。
望月三起也のマンガに「ジャパッシュ」という作品があります。
1970年代の作品で三島由紀夫が市ヶ谷で割腹自殺を遂げたときの作品ですね。
ジャパッシュという盾の会みたいな政治組織がひとりのカリスマに率いられ、日本に独裁政権を打ち立てる話です。
その終わり数ページにBGMのようにラジオ放送で
「アメリカ黒人勢力を支援した日本軍がカリフォルニアに上陸」と流しています。
1960年代は公民権運動という人種差別解消運動が激しかった頃でした。
あの有名な「私には夢がある。I have a Dream.」の演説をしたキング牧師は暗殺され、過激派ブラックパンサーが活動しています。
アメリカ絶頂期の60年代でさえそうです。
戦前、大恐慌の頃は当然もっと酷かったでしょう。
「怒りの葡萄」は大恐慌の頃の貧困農民層の苦難を描いた小説ですが、主人公の彼らはそれでも白人でした。
有色人種層はどれだけ悲惨だったか。
これらの抑圧層に武器と戦い方を教え、組織化して反乱を起こさせる。
日露戦争で明石大佐がロシア国内でやったことです。
できなくはないと思います。
内戦が激化した段階で日本はメキシコと軍事同盟を結び、越境してきた日系人の保護を名目にメキシコに軍事駐留します。
アメリカが文句を言ってきたら、内戦で日系人が危ない、保護するのは当然、と返せばいい。
もちろん、メキシコ経由で有色人種勢力に武器を供給する。
そのうちアメリカがしびれを切らして日本―メキシコ間の交通を妨害するか、メキシコに越境攻撃を仕掛けてくるかすれば、対米戦の開始です。
佐藤大輔の「レッドサン・ブラッククロス」には似たようなシチュエーションがなかったでしたか?
カリブ海で長門が海戦を行う架想戦記もどこかで読んだ気がする。
私でも思いつく事です。
対英米戦を真剣に考えていた当時の日本の人が考えつかない訳がない。
なぜ、行わなかったのか。
おそらく。
インド侵攻もアメリカ内戦もアジアのためにならない。
特にアメリカが揺らぐと、戦後世界が不安定になる。
下手すると世界各地で紛争が勃発し、世界中が終わりの見えない戦争状態になる、かもしれない。
そう考えたのでは?
対米戦で勝つ方法を見出せる人は、その後の世界も判る人だったでしょう。
つまり、太平洋戦争に日本の勝ち目はなかったのです。
では、なぜ勝ち目のない太平洋戦争を始めてしまったのか。
回避する方法も、豊かになれる方法もいくらでもあったと思います。
私は、日本は勝つ事ではなく、大東亜共栄圏を作る事を目的にして戦争を始めたように思われます。
大東亜共栄圏。
アジア諸国と日本帝国との広域経済、軍事同盟になるのでしょうか?
今のEUに近いものを目指したのかもしれません。
実態はどうであれ。
力の弱い小国が広域同盟を結ぶ、というのは有効な方法です。
特に西欧列強に逆らって独立をするのですから。
戦後の話で言えば、欧州連合EUは1948~1952年頃に萌芽があります。
それに遅れる事10年足らずでASEANの前身、ASAがマレーシア首相の提言で立ち上がっています。
つまり、大東亜共栄圏自体は少なくとも悪い政策ではなかったと思うのです。
大東亜共栄圏、アジア解放。
きれい事と言われるでしょう。
まあ、そうでしょうね。
日本の思惑は真っ黒だったと思います。
例えば、アジア諸国のトップに君臨して威張りたかった。
欧米列強に東洋の黄色い猿「Oriental Yellow Mankey」と蔑まれた悔しい思いを晴らしたかった。
昔の中国皇帝のように周辺諸国を従えたかった。
幕末にやられた仕返し、ペリーの屈辱や馬関戦争、薩英戦争の報復、「攘夷」を行いたかった。
でも、約束を果たしたかった、というのもあったと思います。
明治期、植民地からいろんな人が来ています。
彼らは公式な使節などではもちろんなく、殆どが日本の市井の人々に匿われています。
彼らはおそらく祖国の解放を懇願したでしょう。
約束を求めたでしょう。
近代中国の父、孫文もそのひとりです。
孫文を匿ったのは宮崎滔天で、以来中国は中華人民共和国になっても宮崎家に敬意を払い、駐日大使が新たに赴任すると必ず訪問すると言います。
もちろん、植民地の宗主国に成り代わり現住民をこき使って儲けようという人はいっぱいいたでしょう。
経済封鎖を受けて日本に必要な物資が入ってきませんでした。
アジア諸国を占領して、そこから必要な物資、原油や天然ゴムなどを収奪しようと考えていた人もいたでしょう。
まさに侵略をしようとした日本人も大勢いたはずです。
中には善意で彼らを助けようとした人もいたでしょう。
しかし、当時の日本人は傲慢でした。
三浦哲郎という芥川賞作家がいて、受賞作「忍ぶ川」が表題の短編集に「驢馬」という作品があります。
太平洋戦争末期の頃、日本人の老年の中学校校長の家に満州人の青年が留学する話です。
そこに出てくる校長の人物像が、そうですね、司馬遼太郎の言う醜い日本人のような。
狭量で傲慢で威丈高で。
でも、彼は悪人ではありませんでした。
劣等民族と蔑んで己の優越感を満足させるような事も、奴隷のように安い労働力としてこき使う事もなく、本当に善意から満州人の青年を教え、育てようとしていたのです。
いろんな日本人がいろんな思惑を持ってアジア侵攻を行い、いろんな現地の人がいろんな状況で日本軍に遇いました。
大東亜共栄圏会議で日本に来たインドネシアのスカルノ将軍は天皇陛下に面会しています。
深田祐介の「神鷲商人」の中だと思いますが、
「ああ、陛下は本当に大東亜共栄圏を信じていらっしゃる。」という感想を持ったという節があったと思います。
スカルノ将軍は大東亜共栄圏の裏にあるものを気づいていたのでしょう。
こうしていろんな人がいろんな思惑を持って作られた大東亜共栄圏は、アメリカ軍大反攻の前に消えました。
日本のした事は無駄だったのでしょうか?
日本人の大部分の人は日本の勝利を信じて懸命に戦いました。
しかし、一部の人は判っていたはずです。
日本に勝ち目はなく、大東亜共栄圏も一瞬の夢に終わる。
では、なぜ太平洋戦争を始めたのか。
絶好のチャンスだったのです。
第2次世界大戦はヨーロッパの殆どの国を巻き込み疲弊させました。
アジアの植民地の宗主国も。
今、植民地統治機構を根こそぎ排除してしまえば、疲弊した宗主国に取り返しに来る力はありません。
ヨーロッパの戦争で勝利したとしてもまずは祖国の復興が先のはずで、取り返しに来るのは遅くなるでしょう。
その間に力を付ける事が出来る。
今を逃せば、平時の宗主国と泥沼の内戦をするか、紐付きの半傀儡の形で独立させて貰うか。
人を育てる方法。
山本五十六の
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて」でしたっけ。
日本軍は欧米白人の宗主国植民地軍、現地の人から見れば絶対者のような支配者を打ち破って追放しました。
やって見せました。
そして、現地の人の多くに戦い方、戦闘訓練を行いました。
言って聞かせました。
そして日本軍敗色濃厚の時、連合国の援助を得てですが、自分たちの手で日本軍を追い払いました。
させてみて、をしました。
裏切り、というかもしれませんが、負け側に与して折角の独立の芽を潰す訳には行かなかったのでしょう。
日本軍は”育てた”と思うのです。
それが来るべき独立戦争のためだったかどうかは知りませんが。
現地人を何人も残虐に殺した、という話も聞きます。
占領地統制に違反する人間は処罰したでしょうし、スパイやゲリラには攻撃もしたでしょう。
でも、日本軍は自分たちの戦いに植民地の人々や占領地の人々を巻き込もうとはしていないと思います。
2000年版韓国の歴史教科書「韓国の歴史」の中にも
「悪辣な日帝は優良たる我が民族の青年を多数拉致し、地獄の戦場に送り込み無辜な命を散らさせた。」などという記述がないので、朝鮮半島でも徴兵はしていなかったのでしょう。
ある南の島では日本軍と一緒に戦うと申し出た現地の人たちに、司令官が
「お前たちのような弱兵は足手まといだ。さっさと出て行け。」(うろ覚えです)
と避難させて自分たちは玉砕したという話も聞きます。
日本は己の欲望のためにアジアを侵略し、現地の人に苦しみを与えた、と言われています。
確かにそうでしょう。
太平洋戦争は多くの人の意志決定によって行われたもので、その意志決定の動機の多くは”欲望”であったのは間違いないと思います。
人間は己の欲望のために行動する生物です。
日本人といえど純粋にアジアの人のためだけに戦争をした、なんてあり得ません。
なのに、それを世界の人が日本人に要求するのは余りにも勝手でしょう。
欧米列強の植民地政策の中で、どれだけ現地の人のための政策がありましたか?
自国の国益のために戦争をする、それが帝国主義だったはずです。
でもおそらく、知られているより遙かに多くの日本人がアジアの人のために侵攻し、戦い、死んでいったと思います。
多くの日本人がアジア侵攻に参加し、さらに多くの現地の人がそれに対しました。
いろんな状況があったでしょうし、その中には残虐な暴略も善意の解放もあったでしょう。
それは無数の場面のひとつであって、それでもって全体を決めつけるのはフェアではないと思うのです。
もうすぐ100年です。
日本軍のアジア侵攻が客観的に語られる日が来るのでしょうか。
私が思うに。
日本軍の侵攻は台風のようなものではなかったか、と。
あるいは大規模な山火事のようなものではなかったか、と。
台風は確かに荒れ狂い、いろんな所に被害をもたらしたでしょう。
でも、間違いなく現地の人を捉えていた牢獄も吹き飛ばしたのです。
山火事は大規模に森林を焼き、逃げ遅れた多くの人に被害をもたらしたでしょう。
でも、古い木々や下草を焼き払い、新しい芽が出るのをうながしもしたのです。
アジアの戦後は平坦ではありませんでした。
二つの独立戦争、ベトナム戦争とインドシナ戦争、ポルポト派や軍事独裁政権、国共内戦や朝鮮戦争。
今もミャンマーやロヒンジャなど、問題は抱えています。
でも、アジア諸国とアフリカ諸国。
同じ時期に独立した元の植民地地域。
私は偏見かも知れませんが、アジアの人の方が幸せであるように思います。
経済発展と生活の向上、活力。
気候風土の問題もあるでしょう。
植民地化される前の歴史の違いもあるでしょう。
でも、もしかしたら。
もし日本軍のアジア侵攻が、少しでも今のアジアの人の幸せに寄与しているとしたならば。
私は太平洋の島々で、懸命に戦って死んでいった日本兵の事を、少しは誇りに思っても良いと思うのですよ。
感傷的かも知れませんが。
太平洋戦争の話は取り敢えず、これで終わりです。
結局のところ、数多の歴史の例と同じく統一したひとつの意志などは存在しないのでしょう。
とはいえ、現状は日本は己の欲のためだけにアジアを侵略した、と言われている訳で。
もしかしたら、日本には侵略以外の何らかの意志があったのではないか、
それを考えるために、これを書きました。
もちろん結論など望むべくもないですが。
もし、今後太平洋戦争を研究される方がいたとして、何らかの示唆となればいいかな、と思います。




