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とりとめもなく  作者: nayuta
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7.日本はなぜ太平洋戦争をしたのか。 西南戦争とは

司馬遼太郎の「花神」の冒頭にこのような文があったと思います。

変化、ここでは革命ですね。

革命において、まず「思想家」が現れる。

「思想家」は、新しい思想を世間に広める役割をする。

次に「運動家」が現れる。

「運動家」は、新しい思想に基づいて社会を変革させようと行動する。

最後に「実務家」が現れる。

彼らは変革した社会を、人々の実用に足るよう整える。

う~ん、うろ覚えですが主旨は多分、間違っていないと思います。

「花神」というのは花咲か爺さんの事。

最後に花を咲かせて一連の変化を仕上げるそうで、この小説の主人公、村田蔵六、大村益次郎の事を指しています。

明治維新で言えば「思想家」は吉田松陰、「運動家」は桂小五郎や高杉晋作、「実務家」は大村益次郎や伊藤博文でしょうか。

西郷隆盛は「運動家」であり、大久保利通は「運動家」で「実務家」でした。

「運動家」である西郷隆盛は、明治政府が出来た時点でお役御免、つまりできることがなくなっていたのです。



戦いが終わり、戦後の仕組みを作り上げていく時点、ここは微妙なタイミングで、実は危険な状態です。

豊臣政権、秀吉が天下を統一した政権では、加藤清正や福島正則という武断派?と石田三成のような実務派の間で確執が生じます。

政権が出来たら、次は統治するための行政機構が必要になります。

それを作っていた三成たちと、それが理解できない武力一辺倒脳筋たち。

当然、中央政権の行政機構に脳筋たちの居場所があるわけがなく、彼らは弾かれた理由を理解できるわけもなく怒り心頭になる。

主に武断派が実務派に突っかかる形で争いが生じ、そこを突いた家康が豊臣政権を崩して天下を獲るわけです。

家康は「運動家」というよりは寧ろ「実務家」で、きっちり行政機構たる徳川幕府を作り上げます。

もちろん、脳筋どもは加藤清正、福島正則など、政権が安定した頃にお家取り潰しで潰しました。



海外の酷い例では、ビルマ、現在のミャンマーですが、太平洋戦争後に日本軍を撃退し、国中をまとめた英雄、アウンサン将軍が配下の裏切りにあって殺され、裏切った配下が独裁政権を始めたりしています。

中華人民共和国の毛沢東は優れた「運動家」でしたが、多分、「実務家」ではありませんでした。

彼は国共内戦後、ソ連を範に採った「大躍進運動」を行い、未曾有の餓死者を出しました。

それなのに10年もしないうちに、大躍進運動の尻拭いする「実務家」相手に、無邪気な学生を煽る形で「文化大革命」を引き起こしました。

毛沢東に認められたと舞い上がった学生たちは「実務家」官僚相手に、赤い本、毛沢東語録でリンチを繰り返し、国中をガタガタにしました。

彼は、自分の権力欲と国民の幸せを秤に掛けて、自分の権力欲を取ったのでした。

まさか、「文化大革命」の結果が、「実務家」を排除するとどうなるか、知らなかったとまでは思えませんが。



西郷隆盛の本当にえらいと思うところは、そのような権力に対する我欲を一切持たず参議を辞め権力を手放した事でしょう。

おそらく、西郷が一声掛ければ東京でクーデターを起こす事など容易く、新政府は簡単に西郷のものになったでしょう。

彼はそれをせず、薩摩に帰りました。

西郷自身は多分、自分が「実務家」の能力がない事を知ったのでしょう。

大久保が外遊中、留守政府を預かっていたのですから。



そして「実務家」としては力が強すぎる、とも思っていたのではないでしょうか。

実務において、意見のぶつかり合いや食い違い、または問題に対する複数の方策など、選択を必要とする事は多々あります。

現状を調査して、結果を予想して、最善になる選択をするのが実務な訳ですが、おそらく西郷がどちらかに賛成すると、反対意見は簡単に封殺されてしまったのでしょう。

選択の決定が、どちらがより良い結果を生むか、の価値判断ではなく、西郷さんがどちらに賛成するか、西郷さんがどちらを好むか、になってしまうのです。



西南戦争はそんな西郷が新政府に、日本に貢献できる最後の事、だったのかもしれません。

ここから先は、西郷隆盛という人間を、非道な人間として書きます。

嫌な人は読まないでください。













書きます。

前述した、”ある仮説”です。

西郷はわざと西南戦争を起こしたのではないか。

目的は不平士族の討滅。



「運動家」として優れていた西郷隆盛は、自分が下野すればそこに不平士族が集まってくる事は予測できたでしょう。

そして不平士族が集まれば暴発する事も。

それを新政府軍が討滅すれば、不平士族は物理的に、社会的に封殺する事が出来る。

不平士族が天皇陛下に逆らった逆賊の汚名をかぶって討滅されれば、不平士族自体が逆賊と扱われ社会的に力を失う。

社会を不安定にし、新政府を脅かしていた不平士族の問題がこれで解決する。

確かに内戦の負担は大きいでしょうが、病巣を取り除ければいつかは回復します。

「狡兎死して走狗烹らる」という中国の話がありますが、西郷隆盛は当に走狗、新政府軍で先頭に立って戦った戦士たち、を煮ようとしたのではないでしょうか?

西郷隆盛という人物は、情に厚く人格者だったのでしょうが、非情な決断ができなかった人ではなかったはずです。



不平士族を引き連れて北海道に行って開拓に参加する、という選択肢もあったかもしれませんが、幕府軍が「北海道で独立」ってやらかしていますから、二番煎じを警戒したのかもしれません。

それに故郷の薩摩には潜在的不平士族が残っていたようですし。

こうして西郷は中央から最も遠いところ、薩摩に隠棲します。

畑を耕し、一農民として。

健康を害していたという話もありましたが、多分それを押して。

西郷は集まってきた不平士族たちを宥めた。

自分ですら一農民に甘んじている。

お前たちも我慢しろ、このまま歴史の中に消えていけ。

お前たちを死なせたくない、と。



情の深い西郷の事ですから、不平士族、共に戦った戦友たちを死なせたくなかったに違いありません。

そして、彼らが望む事が今の新政府では無理である事も、自分が適えてやる事が出来ない事も充分判っていたはずです。

けれど西郷の願いは彼らに通じる事なく、ついに西郷抜きで暴発、武装して集団で明治政府に意見をしに行く、という事になった時点で、西郷は立つ事になりました。

「翔ぶがごとく」では、西郷はこの薩摩軍では神輿に徹して特に指示などは出さなかったそうです。

唯一、指揮官を桐野利秋にしたという事ですが、どうでしょうか。



中央から最も遠いところ、暴発しても政府への被害が最も少ないところ。

桐野利秋、決して軍才があるとは言えなかった人物を司令官にした事。

停戦交渉をしようとしなかった事。

西郷には勝つ気がなかったのだと思います。

途中で収める気もなかった。

彼は時代の中に消えていく侍たちと一緒に、死ぬ事を望んだのだと思います。

それが彼らに報いる唯一の、彼が出来る事だったからでしょう。



西郷が下野した事で多くの薩摩人が政府を辞職して付いてきました。

新政府は能力優先で人事を決めていたのでしょうが、それでも縁故、血縁で採用していたものもいたでしょう。

そういう人たちは西郷に付いて下野したのでは、と思います。

多分、西郷はそういう人間が新政府内でのお荷物、足かせになっている事と、自分が下野する事でそれが除かれる事も計算のうちだったかもしれません。

有能な人物は自分の仕事を、日本のためにすべきことを理解しており、西郷との板挟みに苦しみながら残ったと思います。

「翔ぶがごとく」の中では、下野してきた人の中に思わぬ有能な人物を見つけて、西郷が惜しんでいるような場面があったような気がします



西郷と大久保は憎み合っていた。

または権力争い、主導権争いをしていた。

両雄並び立たず。

そういう説があるようです。

西郷と大久保、師である島津斉彬の死とそれに続く藩内の弾圧、高崎崩れを乗り越え、権謀術数渦巻く幕末を白刃を潜るようにして戦い抜き、ようやく作り上げた新政府、近代国家。

おそらく斉彬の夢だったもの。

それをつまらない我欲で台無しにするような人たちとは思えません。



おそらく、不平士族討滅の謀略は大久保だけには打ち明けていたはずです。

それがおそらく、日本にとって、そして何とか近代国家日本を作り上げようと苦労している大久保にとって、西郷ができる唯一の事だったのではないか、と。

西南戦争中、大久保利通は現地、九州に一度も行かなかったそうです。

想像します。

九州に行けば山々が見える。

あの山の向こうで吉之助さぁが戦っている、今、死のうとしている。

辛くてとても行けなかったのではないか、と。

または、行けば必ず止める、停戦させてしまう、から、とか。



西南戦争後、大久保の言動がおかしくなった、という話があって、西郷の呪いとか祟りとか言われたそうですが。

大久保のような大人物がそのようなつまらないもので動揺するとは思えない。

西郷隆盛の一番近くにいたのは大久保利通。

人の気持ちは変わる、いつ憎み合うかもしれないとも言いますが。

西郷をもっとも敬愛していたのは大久保で、失ってもっとも辛かったのは大久保だったと。

明治維新を成功させ、何だかんだいって今の私たちの生活、社会を作ってくれた二人の偉人。

感傷的かもしれませんが、私はそう思いたいのです。



西南戦争についてはもうひとつ、書く事があります。

簡単に言えば、日本における戦闘職の交替の成功、です。

戦国が終わって秀吉が刀狩りをして、戦闘職は武士の専売特許になりました。

戊辰戦争も、長州の奇兵隊などの一部の例外を除けば、武士同士による戦争でした。

しかしながら当時先進国の軍隊は、ナポレオン戦争辺りから始まった国民皆兵、徴兵制による軍隊が主流になってきています。

戦闘職は国家によって選定された一般人に移行しているのです。

武術に優れた個人または血族、小集団の連合である軍勢と、国家が装備を揃え訓練を施した軍隊と。

ヨーロッパの数々の戦争や、植民地戦争でどちらが優れているか、既に証明されています。



日本も明治新政府は、大村益次郎が主体となって、鎮台兵、という近代軍隊を作っていました。

しかし元々は江戸260年の中で平和に暮らしてきた農民や町人の子供たち。

少し装備と訓練をしただけで使い物になるのか?

元・武士が主体の明治新政府には懸念があったでしょう。

西南戦争の相手は勇猛と名高い薩摩隼人たちで、しかも戊辰戦争で実戦経験済み(コンバットプルーフ)。

弾丸の消費が予測を超えてとんでもなかったり、白兵戦ではしょうがなく元・武士をぶつけたり、苦戦はしましたが勝ちました。

薩摩軍の将校で新政府で軍政に携わっていた人が、薩摩軍を打ち破った新政府軍を見て

「これで日本も大丈夫だ。」

と、喜んだという話も小説の中にあったと思います。

こうして日本は内憂を解決し、近代的軍事力を整備し、国際政治に乗り出していくのです。

唯一の誤算は暗殺で大久保利通を失った事でしょうか。



これを書いてから随分経ってふと思いついたのですが。

確かドラマの中のせりふだったでしょうか。

勝海舟が大久保利通に「この日本の中に西郷ひとり住まわせてやることもできんのか。」

というような、大久保を責める言葉を言っていたような気がします。

でもなあ、西郷という人は何事もなく日本に住むには大きくなりすぎていたのでしょう。

氷川町に逼塞するようには、行かなかったのだと思います。

だけれども海外なら、日本の外だったら住める余地もあったかもしれません。

西郷という人は人間としての魅力に溢れた人だったと聞きます。

駐英大使に赴任して、欧州各国の社交界で日本の紹介、日本国の侍の体現者として存在して貰ったらどうだったでしょう。

西郷という人の魅力は多分に日本的、東洋的で、ヨーロッパ人に通じるかどうかは判りません。

でも、もしかしたら欧州の上流階級の人々の知己を得、魅了し、強固な絆を作る事ができたかもしれません。

それはきっと、朝鮮半島を巡る外交の舞台で大きな力を発揮したでしょう。

今となっては、夢のまた夢ですが。

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