第20話 帰り道
マルサネが退院してうちのマンションに帰って来た日は雨だった。
激しい雨ではなく、窓を静かに濡らしては景色を歪ませる程度の雨──。
キッチンで夕飯の支度に追われていた俺はソファーに座り、テレビを飽かずに眺めているマルサネを見た。
マルサネは食事は残さずおかわりをして食べていた──別にそれは以前と全く変わりはない。
ただ──俺達に向ける視線がピリピリしていて、絶えず威嚇されている。まるで野生の動物みたいな感じだ。
「学校がちょうど夏休みに入るところで良かったわね」
仕事を休んだ和奏姉ちゃんが珍しく俺にコーヒーをいれてくれた。
「マルちゃん、まだ思い出さないの?」
歌音姉ちゃんはミルクをドボドボとカップに注ぎ、キッチンカウンターのかげからリビングに座るマルサネを盗み見た。
「あぁ──自分は何とかっていう国の公女だって言ってるよ。どうやら──すっぽりここへ来てからの記憶だけがないらしい」
俺は夜御飯用のレタスをキッチンで千切りながら小声で答える。
「そっかぁ──」
さすがの和奏姉ちゃんも困った顔でコーヒーをすすった。
「あんたも不幸よね。お見舞いにいったら目を覚ましたところで『お前は誰だ!』って締め上げられて、ここから出せって騒がれてさ──」
「あぁ──殺されなかっただけ本当に良かったよ」
俺は挽き肉を捏ねながらため息をついた。
あの時──目が覚めたマルサネは点滴を引きちぎり、「どこの刺客だ!」なんて厨二病丸出しの発言をわめきながら病室で暴れたため、強制的に退院となったのだ。
猛獣狩りの要領でマルサネにシーツを投げ、絡めとったところへすかさず鎮静剤を打ってもらい、物理的に止めたところを何とかタクシーに押し込めて俺が家まで運んだのが昨日のこと。
手続きのために後で呼ばれた和奏姉ちゃんも大変だったかもしれないが、筋肉質のマルサネを担いで帰るのも、暴れるマルサネを押さえるために囮になったのも全部俺だ。
昨夜はマルサネにつけられた引っ掻き傷が風呂で盛大にしみた。果物ナイフでブスリとされなかっただけマシだと思うしかない……。
「だけど、心臓の治療は眠っている間に済んだんでしょ? まぁ、元気なマルちゃんが心臓病だっていうのにも驚いたけど──」
「あぁ。薬はもらってきた。まぁ、そっちは服薬で様子みれば良いって言われたんだけど」
俺は退院時に貰った薬袋を冷蔵庫にマグネットで止めた。
水薬で処方してもらい、料理の中に入れることができるようにしてもらったのだ。
「はぁ、もうマルちゃんは本当に私たちのことも覚えてないみたいだし──帰れるものならお家へ帰してあげたいわよねぇ」
「それが出来ればいいんだけど。どこの国なのか本当にさっぱりわからないのよね……」
歌音姉ちゃんの半ば諦めた口調に和奏姉ちゃんは笑った。
「やっぱり異世界なんじゃない?」
「だとしたらどうやって帰せばいいんだ? 呪文でも唱えるのか? それとも秘密のドアを開けるとか、トラックにぶつかって行けばいいのか?」
投げやりに俺は挽き肉をペタペタとハンバーグの形に成形しながら口を挟んだ。
「それが分かれば苦労しないでしょ」
歌音姉ちゃんが眉をひそめる。
「奏大……あんた。マルちゃんと初めて会った時で何か覚えてることとかないの?」
「うーん。初めて会った時ねぇ──」
そう言われても、別に特別なことがあった記憶は……。
「あの時はベランダで音がして──あぁ、そう言えば……」
俺ははた、と挽き肉を丸める手を止めた。
「何よ?」
「月が大きくて赤かったんだ──何だか見たこともないぐらいに真っ赤だった気がする」
「あぁ、あの日はスーパームーンだったわね」
姉ちゃんたちは顔を見合わせた。
「──それじゃない?」
歌音姉ちゃんが腕組みして言った。
「月が何か関係あるのか?」
俺は真面目な顔で歌音姉ちゃんを見返した。
「月は──古来からあの世とこの世をつないでいるっていうし」
「月と魔力の関係もよくネタにされてるでしょ? 月にかわってお仕置きをしちゃうぐらい、絶大な力があるのよ──」
「いや、姉ちゃん。お仕置きとか意味がわかんねーよ…」
俺は困惑しながら洗い物に取りかかった。あとはご飯が炊けるのを待つだけだ。
「だいたい、そんなに都合よく満月になんかなるか?」
「ほら」
カウンターに置いてあった新聞の暦欄を歌音姉ちゃんが指差した。
「明日は新月──」
「そ、太陽と重なりその姿が見えなくなる月齢ゼロの日よ。狼男が変身する魔力の満ちる満月ほどではないけど、何かが起こるような気がしない?」
和奏姉ちゃんがニヤリ、として俺を見た。
「何かって何だよ?」
「それは──奏大が考えてよ。明日は私、飲み会だし」
和奏姉ちゃんは新聞をバサリと俺に放り投げた。
「はぁ?」
「あたしも塾の居残りだから」
歌音姉ちゃんも立ち上がった。
「……要するにあの凶暴化したモンチッチの世話を俺一人でしろと?」
「──別にもう暴れてないから大丈夫じゃない? ご飯出来たら呼んでね」
背伸びをしながら他人事のように歌音姉ちゃんは自分の部屋に戻っていく。
「単に病院で打たれた鎮静剤が効いてるだけじゃねぇの?」
「別にここで暴れてもテレビ以外は壊れるものもないからさ。まぁ、せいぜい頑張んなさいな」
ぽん、と和奏姉ちゃんは俺の肩を叩くとパソコンに向かいだした。
いやいやいや……姉ちゃん!
やっぱりアイツは俺任せかよ──。
俺はエプロンを外すと、ボンヤリとソファーに座るマルサネを見て溜め息をついた。