第10話 放置される眠り姫?
八月も半ばを過ぎているのに今年はなぜか、気温が上がらない。記録的な冷夏だ、異常気象だと連日ニュースで囁かれている。
今年は梅雨の後もカラッと晴れる日はほとんどなく、折角今朝は青空だったのにも関わらず、やっぱり午後からは分厚い雲が一面に広がり、空の色は俺の気分のようにどんよりと重く変化していた。肌にまとわりつく空気も段々湿っぽくなってきたようだ。
また、雨……。
ゴロゴロと遠くから雷の音も聞こえる。
せめて駅まで小雨だとありがたいんだけど、またどしゃ降りかなぁ……。
昔はのどかな田園風景と野山に囲まれたのんびりとした田舎町だった、このS戸町。
数年前に近隣の市町村と併合してS戸市となり、駅近くは大型ショッピングセンターや高層マンションが立ち並ぶ。
なので駅まで出てしまえば、とりあえず雨雷をしのげる場所も多い。
問題なのは、この学校から駅までの下り山道だ。
そんな急成長を遂げ、変貌していく市街地とは別世界のような、ある意味、趣のあるどっぷりと緑の木々に囲まれた丘の上にこのS戸高校は建っていた。
今年、めでたく創立70周年。
これでも一応、ここら辺では伝統ある名門公立高校である。
……だがそれはつまり、スクールバスなどはないということだ。
雨が降ってきたら、ぬかるんだ山道を駅までダッシュしていくしかない。靴は泥々、不幸にも転んでしまった日には、泥水にまみれ悲惨なことになってしまうのだった。
キンコンカンコーン♪
「やった~!」
澄んだ音のチャイムが本日の出校日という名の補習の終わりを告げる。
窓の外の雨雲をボンヤリと眺めていた俺は佳彦に揺すぶられた。
「奏大、アレどーするんだ?」
「うーん……」
佳彦の指先には、もちろんガゴォッと猛獣が唸るようなイビキを発しているマルサネ。
これ。
起こして……俺がウチに連れていくしかないんだろうなぁ。
「佳彦、頼む!」
「お・こ・と・わ・り」
女子に腰砕けのイケボと評判のスイートテノールが俺の耳元で囁かれた。
「何でだよ」
「面白そうだからに決まってるだろ?」
「……俺は何にも面白くない」
「ま、あきらめて眠り姫を起こしてやれよ、王子!」
佳彦はニヤニヤして机に突っ伏した俺の肩をポンポンと叩いた。
「誰が王子だよ。だいたい王子なら、お前が適任だろ? まぁ、こいつが眠り姫なら一生眠りから醒めない方が王子の身のため……ん?」
俺のズボンのポケットが震えた。メールかLINEのメッセージが着信したらしい。
スマホを確認すると、和奏姉ちゃんからだった。
『ちょっと今日遅くなる。マルちゃんと先に食べてて』
ぷっちーん!
何だよ、それ。
俺は和奏姉ちゃんに怒りのスタンプを連打して送信した。
「はぁ? 早く帰ってこいよ! コイツのお守りをいつまで俺にさせる気だっ」
五分待っても既読はつかない。
「クソ姉貴っ……!」
仕事中は電話は極力かけるな、と言われてるが仕方ない。
俺は気持ち良さそうに寝ているマルサネを放置して、廊下に出ると和奏姉ちゃんの番号を苛々しながらタップした。
30秒ほど呼び出した後、不機嫌そうな声で和奏姉ちゃんが出た。
「ちょっとぉ、仕事中に電話しないでって言ってるでしょ? あと変なスタンプ山盛り送らないでよね!」
「そんなことよりも、早くアイツを引き取ってくれよ。寄り道なんかしてる場合か! だいたい、何で学校なんか連れてきた……」
「ったく。うるっさいわね。ケツの穴のちっちゃいことをグダグダ言ってんじゃないわよ」
和奏姉ちゃんの低音が俺の耳に刺さる。
「ハァ!?」
「あのね。私は仕事があるし、歌音は塾。家にマルちゃん一人でずっと置いとくわけにはいかないでしょ?」
「そんなのパンか何か食い物与えて、テレビの前に放置で充分だろ?」
それでも見知らぬ怪しいヤツには手厚いわ!
「捨て猫じゃないんだから……まぁ拾った責任であんたが世話しなさい。じゃ、私はもう仕事に戻るから。そんなことでイチイチ呼ばないでよね」
「……ちょっ、待て待て待て~ぃ!! 俺だって部活が……」
「テスト前で部活はないはずよ。じゃ! 家でご飯は食べるから後はヨロシクね」
ツーッ、ツーッ、ツーッ……。
通話ボタンを連打しても、流れてくるのは「只今おかけになった番号は電源が入っていないためかかりません……」という無情なアナウンスだけ。
クソ姉貴! スマホの電源切りやがったな!
何で俺が大食いモンスターのモンチッチ娘の面倒をみなくちゃいけないんだ?
……言っとくが、俺はアイツを拾った覚えはないぞ。ベランダに居るのを不運にも発見しただけだからな。
俺はのっそりとした足取りで教室に戻った。
……窓の外はすっかり真っ暗だ。
雨雲がトグロを巻き、雨粒が派手な音をたてて窓をたたきはじめていたが、マルサネはまだ幸せそうな顔のまま、のんきに眠りこけていた。