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九幕




――――――――夢を見た。




いや、厳密に言うと。そこが夢の中の世界であるとイチロウは始めから気付いていた。

そこでの彼は夢の中にいる登場人物ではなく、第三者としての視点を与えられた観測者としての立場を与えられていた。

ここは以前来た事があるような気がする…イチロウはそんな既視感を覚えていた。





『おにい!』


『ああ、ミチか』


赤い着物を着たおかっぱの少女…そこでまたイチロウはデジャビュを覚える――――が、兄らしき少年の元へ走っていった。

その少年は学生帽のしたの坊主頭をかきながら、妹らしき少女…ミチを抱きあげた。


『おにい、がっこうおわったの?』


『ああ、でもすぐに畑に手伝いに行かないといけないんだ。今は食べ物がないからね

おにいが帰ってくるまでの間、ミチはおりこうさんにしとけよ』


『うん…わかった』


少女は小さな頭をこくりと頷かせたが、素直な返答とは裏腹に顔は寂しげな表情を浮かべていた。

子供はこういったことには素直だ。直ぐにころころ感情が表に出るものだ。

見れば少女はまだ十歳にも満たないような年に見えた。まだまだ親や兄弟に甘えたい盛りだろう。

彼女のような子供にしてみれば、大人しすぎるとは思った。この年頃の子供はもっと駄々をこねるものだ。


『留守番は任せたぞ。変な人が…物とられるから最近引っ越してきたキムさんは家に入れるんじゃ無いぞ』


『わかった』


少女は兄の言葉に再度頷いたのだった。様子から察するに、ここはイチロウの時代とは違う年代のようだ。

何時の時代なのだろうかと、イチロウはのんきに考えていた。ここも何処かで見たことのある風景のような気がするし、そうでないかもしれない。

それに少女の姿も何処かで見たような気がする。すると衣ってもはっきりとした確証が持てないので何かと勘違いしているのかもしれない。

昔遊んでいた祖父の家の近くの山がこんな場所だったのかもしれないなと、他人事のように考えていた。




そして視界が暗転し、場面が切り替わる。まるで劇場でシアター・ショウを見ているようだとイチロウは思った。

そして再び写しだされた光景は真っ赤であった…いや、地獄そのものでもあった。

空襲。真面目に受ける気の無かった歴史の授業や、戦争物のドラマなどで見たことがある光景。

しかし目の前に映し出されたそれは今までイチロウが見てきたものよりも凄惨で、惨いものだった。

ひゅうひゅうと上空を舞う黒い鉄の鳥の群れ――――B2爆撃機の変態が雨あられと焼夷弾を振りまいてくる。

一発一発の爆発の規模そのものはさほど大きくはない。しかし、それも天空を埋め尽くすように降って来るとしたら話は別である。

焼夷弾は地面や建物に着弾すると炸裂し、炎と化す。それを消す水も設備もここにはない。

人々は自分達を蹂躙せんとする天を覆いつくす炎の魔物から逃げる以外の術を知らなかった。

炎はあらゆる物を巻き込み、飲み込んで炭に返していった。町も家も人も動物も、目に映るものは手当たり次第だ。


『はぁ、はぁ……』


その中を一人の少年が走っていく。手元には何かを抱えて火の海から逃れようと駆けていく。

半身がちぎれとんだ男性も、我が子を抱えつつ家事によって倒壊した建屋の下敷きになった女性も今の彼には映らない。

誰もが自分の為に生き残るので必死だった。国家への忠誠と奉公それ以外の優しさや思いやりは邪魔だとされたのだ。

皆が皆で我慢し、国の為、民族の為へと滅私奉公を強いられその挙句の結末としてはあまりにも残酷だった。


イチロウは自分の足が震えてくるのを感じた。今すぐここから逃げ出したいのに足は地面に張り付いてしまったかのごとく動いてくれない。

悲鳴が彼の耳を突き刺すようにし、爆風による熱気が肌を焼いてくるような錯覚を覚える。

実際の彼は見ているだけで何の被害も無い。にも拘らず心が痛むのは目の前の光景があまりにも凄惨だからだ。


あまりにも可哀相な時代だった。あまりにも人が生きるのに不自由すぎる時代だった。

それでもみんな生き残る事を考えて必死であり続けた。あの少年も生きるために盗みを働いていた。

道徳や綺麗事が、無駄な時代だったのだ。個人個人の良心や営みなどは全て、国家の上に立つ身勝手な者達の理想や傲慢で押し潰され。

最小単位の人間の価値など雑草のごとく扱われ、国家や軍といったものが際限なくその権力を肥大化させる。

それを止める者などいやしない。少なくともこの国が戦争で敗北を認めるまでは軍や権力といった巨大すぎる力が小さな声なき声を圧殺してきたからだ。


そういった歪んだ時代に生まれなくてよかったとイチロウは心から思っていた。

人間という者は取るに足らない、偶然地上に発生した塵から生まれた矮小な存在に過ぎない。

それに命だ生命だと手前勝手な付属価値を見出しては、自分達以外の生命の存在は軽視するくせに地球そのものが大事だと綺麗事を吐く。

地球にとって人間とは…人類とは、環境が齎したたかだか十数万年程度の安定期の間にのみ繁栄を許された脆弱な生命体に過ぎない。

誰かが、そんなことをテレビだか何かで言っていた気がする。過激な環境保護者か、地球教を名乗る新興宗教団体の主張だったかもしれない。


その是非を問う事…彼らの主張が正しいかどうかなんていうことはイチロウにはわからない。

ただ、目の前で行われている一方的な虐殺に対してそれが絶対的に悪い行いであり許されない愚行であろうことははっきりと分かる。

あの兄妹はこんな激動の時代を過ごしていたのだろうか?そう思うだけで平和な時勢で暢気に過ごしている自分が申し訳なく思えてしまう。


場面がまた切り替わる。最初に見た光景と近い場所だ。

少年が煤で汚れたボロボロの衣服を纏いながら、家に帰りつく。其処には最愛の妹が彼の帰りを待っているはずであった。

身体は既にボロボロで疲労困憊であった。隣の村の民家からコメを一掬いほど盗んで命からがら逃げてきたからだ。

しかしこれで妹にもやっとまともなものを食わせてやる事ができる。粥を作ってやる事ができると、思っていた。


あいつに今まで何一つ兄らしい事をしてやれなかった。しかし、これでようやく少しは報いる事ができるのだ。

村に来ていた若い医者は兵役に取られていなくなってしまった。だからミチの病気を見てくれる人間は誰もいない。

彼」は苦しむ妹の姿を見て何かしてやりたいと思った。村では薬どころか食べ物すら不足している。

他所の村ではあまりの貧困に動けなくなった老人を鍋で煮込んで食ったという恐ろしい噂も聞いた。

国は宛に出来ない。あいつらはお国の為といって村から全てを持って行った。そのくせ自分達は贅沢をしている。

あいつらが人も食料も薬も医者も奪った。だからミチは今苦しんでいる。そんな奴等が決めた決まりなど守る気は無い。


「…!」


帰った、確かに自分の家に帰宅したのだ。

だが、様子が変だった。静か過ぎる。どういうことだ?

…それに、変な臭いがする。今まで散々嗅いできた、嫌な臭いが…人間の体が腐るような臭いが。


「ミチ…どこだ?帰ったぞ?」


返事は無い。おかしい、確実に何かが変だ。

彼はしばらく家の中を探す。そして黒い塊のようなものを見つけた。

悪臭の元はこれなのだろう。非常に臭うので外に捨てようとした。

それに触れたときに黒いものが一斉に飛び立った。耳障りな羽音は無数の蝿によるものだった。


「…ミチ」


そこで彼はようやく気付いた。その蝿の集っていたものがかつて愛しい妹だったミチだという事に――――――


「…誰がこんな事を…ッ!」


蠅を払った後の黒ずんだミチの体の衣服はやけに乱れていて上半身はほとんど裸であった。

特高の手が薄い田舎では治安が悪化し、苛立ちからかそういう行いに手を染める輩がいるのは知っていた。

だが、実際に身内がそんな目に遭うまでは誰もが自分や親しい者だけはそういう目に合うはずがないのだと…

最愛の妹と静かに暮らせるささやかな幸せがこうも簡単に奪われることなど

絶対にあってはならないのだと…人は誰しもそうだ。不幸に直面するまでは無責任な楽観論を抱いてしまう。


ある意味、空襲で死体が残らないことよりも残酷な仕打ちなのかもしれない。

国の為に尽くして…汚い事をしてまで生きて生きて生き抜いてやっと妹の待つ家に帰ってきたというのに…


(…許さない!)


彼の心は憎悪に染まった。ミチを殺した者、戦争を起こした者、食べ物を分けてくれなかった大人達…

そして妹を守れなかった自分…この世のなにもかもが許せなかった。

ミチの遺品でもある人形はそんな哀れな兄の姿をじっと無機質な瞳に映していたのであった。







「うわぁっ!」


イチロウは自分の声で飛び起きた。気を失っていたのだ。

あの後で彼は直ぐに警察に通報して、暫くの間彼らに同行していた。

それから一日近く警察で事情聴取されていた。彼もまた犯人の疑いがかけられたからだ。

だが、部長の死亡推定時刻にはイチロウは家族によって家に居たアリバイが証明されている。

どうやら部長は殺されてから時間が経っている様だった。なら、あのメールはなんだったのか?


(それに、自分が見たあの夢は…?)


あのミチと呼ばれた少女は偶然かもしれないが劇で有坂が演じた役と同じ名前だった。

これがどういう意味を示しているのか?はたまた、ただの偶然なのであろうか?


(そうだ、あの場所に…)


しかし一つだけはっきりしていることがある。部長が握り締めていたメモに書かれていた場所。

それをイチロウは警察に渡していなかった。そうする必要性を感じなかったからだ。

証拠の隠蔽は犯罪にあたる。しかし、法を犯していることなどはどうでも良かった、些細な問題に過ぎないのだ。

むしろこの一件は自分の手で解決すべきだと思っていた。他者に介入などさせはしない。

全ての鍵は其処に行けば、解るような気がしていた。事件の解決より自分の中の疑問を紐解く方が先だ。

警察などは邪魔でしかない。彼らはこの一件を単なる殺人事件として事務的に処理していくのだろう。

それに、彼らにあの場所の意味が解るはずが無い、理解できようはずも無いのだ。

あそこが示された理由は自分が出向くことによって始めて意味を成すのだ。

自分が何故、炎の舞台の中で人形に殺されなかったのか?いや、むしろあの人形は何かを伝えたかったんじゃないかと考えてしまうのだ。


(僕はあの場所に行かないような気がしてならないんだ)



闇の奥から幼い白い手が手招きしている。そんな錯覚をイチロウは覚えた。



考えがはっきりしてから、イチロウはその日のうちにその場所に向かうことを決めた。

明確に自分の意思で決断したというよりは、何かに誘いこまれるような感じだった。

何者家の得体の知らない力が作用しているのは確かだ。しかし、そんな事は初めてじゃない。

教室で劇をすると決まった瞬間から、その何かが干渉していたのかもしれないと今ならわかる。




得体の知れない何か…それにあの人形が大いに関わっているのは間違いないのだろう。


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