七幕
「ここは?」
目を覚ましたイチロウは、消毒液のツンとした臭いに顔を顰めた。
周りは白いカーテンで覆われており、自分はベッドで寝かされている。
そして…この、何処か見覚えのある風景から今の自分が居る場所は保健室だと察した。
「気がついたか?」
傍らに立っていたのは部長の山崎だった。
「劇は、どうなったの?」
「ああ、体育館は大騒ぎさ。消防が駆けつけるほどステージは燃えてた。それなのにあっという間に火が消えたんだからな」
「そう…」
「単刀直入に聞くぞ。お前はあの中で何か見たか?」
「え…」
「何でもいい…話してくれ。どんな信じられない答えが返って来ようとも、俺は信じる」
見た。そう炎の中であの人形の姿を…そんな事は普通の人に言っても信じてはもらえないだろう。
そして人形は炎を纏うようにして手品のように目の前から消えた。どうしてそうなったかは分からない。
「見たんだな?」
確信するように部長は言った。イチロウが何か見たと完全に察しているような口調だった。
イチロウは決意した。今までの事を話そうと…部長ならば信じてくれると思ったからだ。
「うん。実は…」
イチロウは話し始めた。文化祭のときに遭遇した人形の事を…そしてその前の奇怪な出来事も、全て…
「人形が…あの炎の中に…だと?」
「僕も信じられないよ。自分で体験したことなんだけど…」
少し時間をかけてイチロウは話した。内容が内容だけに部長は驚いたといった表情を見せたが、信じてくれたようだった。
無理も無い。イチロウだってこんな話、他人にいきなり話されたとしても信じられなかったのだろうから。
「やはりな…そうなったか」
「やはりって?」
「俺は人形をとある場所…知人の神社に預けていたんだ。その人は神主でそういうものに縁が無いわけでも無いんだが
俺に話したんだ。あの人形には近寄りたくない、そういって何処か行ったよ。そうして連絡がつかなかったんだが
まさか人形がここに戻ってくるとはな…どういう意味があったのかは知らんが」
「そうだ…高橋君は?」
それを聞いた部長は目を伏せて口を結んだ。言葉にすらまだ出しては居ないが、それであまりよくない事が起きているのはわかった。
「高橋か…あいつは病院だよ」
「病院? 大丈夫なんだよね!」
「いや…お前が炎に巻かれている時にあいつも似たような状態になって…
半狂乱で叫びながら俺達は消火器をかけたんだが、火は中々消えなかったんだ」
「……」
あの人形は火を操り、それを炎の衣として纏うように目の前から消えていった。
例の炎が人形の石で操られるものならば、中々消えなかった理由にも納得がいく。
そして、不気味な感情がイチロウの中に渦巻いた。あれだけの惨事の中にありながらどうして自分は無傷で生還出来たのか…と?
「お前、何かおかしな事は起きなかったのか?」
「あの後からは別に…」
そうは言った。しかし、あの後から何も起きない気がしなかった。
炎の渦に巻かれるようにして姿を消した人形の姿。表情すら変わらない人形の不気味な顔が脳裏にちらつく。
あれで全てが終わったようには思えない。むしろ何かの始まりのような気がしてならなかった。
「そうか、気をつけろよ」
「わかった」
部長と別れて帰宅の道につく間も、イチロウは不安だった。
あの人形の首位でこれからも大変な事が起きる。そしてまた誰かが命を落とすだろう。
そんな確信めいた予兆が頭の中でぐるぐると不気味な黒い渦を作っていたからだ。
数日後、学校でと衝撃的な知らせが入った。
劇で主演を勤めた高橋が訳の判らないことを叫びながら病院の屋上から飛び降りたというのだ。勿論即死、目撃者も居た。
それだけじゃなく岸部の行方が知れなくなっていた。彼女は何かに脅えていたと親は話していたようだ。
(間違いない。あの二人は恐らく人形に…)
イチロウの予兆は的中してしまっていた。このクラスから何人も死人や行方不明者が出ている。
恐らく岸部も岡田と同じように既に死んでいるのかもしれないとクラス中の大半が僧考えていた。
そして変わったことといえばそれだけではなかった。
「これから、金田先生の代理を務める田中です。少しの間だと思いますが宜しくお願いします」
「金田先生はどうしたんですか?」
「実家の身内のほうに不幸があって、休職届けを出して休んでいらっしゃいます。それまで私が担任の代理を…」
「…」
間違いない。金田も恐らくはあの二人と同じように…とイチロウは考えていた。
金田はこの事件に噛んでいる。あの人形も用意したのも彼であった。
しかし彼はあっけなく退場してしまった。それもあの人形によるものだろうか?
なんにせよ彼は重大な鍵を握っている可能性が高かった。だとすると、残る手がかりは部長が有力か?
(金田が絡んでいると思ったんだけど、そうなると全てあの人形が原因なんだろうか?)
ふと、イチロウはマリの方向に首を向けた。彼女もまた主演の一人だ、何かあるかもしれないと感じたのだ。
彼女は肩肘を机に手をつけて、長い髪を机にたらしながら田中のほうを眺めていた。
それだけなら何も代わりのないように見えるがイチロウは見てしまった。マリが一瞬口元を歪めてゾッとした笑みを浮かべたのだ。
『ざまあみろ』そんな呟きが聞こえてきたようにイチロウは思った。
(有坂さん…なんでだ?)
少なくともクラスメイトの訃報を聞いて、思い浮かべるような表情ではない。
イチロウの知る限りでは普段の彼女は他人の不幸を聴いて喜ぶような人間ではない。
そんな不謹慎な人間と一緒の部活で活動する事なんて出来ない。彼女の何かが変容したように思えてならなかった。
マリが高橋の死に関わっているのかもしれないと、恐ろしい連想が脳裏を掠めた。
(彼女も、高橋と同じように何かあるのだろうか?)
イチロウはこの後の授業にも全く集中できないまま、一日を過ごした
金田はどうなってしまったのか?そしてマリの不気味な変貌は何なのか?
幾つかの不安な要素が頭の中をぐるぐるしていて纏まる気がしない。
あの人形が学校に着てから、全てがおかしくなってしまった。
その要因の一端を担ったものとして、イチロウの心中は穏かではなかった。
その次の日は休みになった。何しろ文化祭であんな出来事があり、出火は直ぐに収まったとは言え消防車まで呼ぶ事態になったのだ。
ステージでの演者の発狂、そして火元が無いにもかかわらず原因不明からの出火そして炎上。
そんな事件が連続して起きれば学校側の上層部も授業を中断して原因の究明に乗り出すのは当たり前である。
その日を利用してイチロウは
「すまんな」
部長が部屋入ってきたイチロウに言った。
「あまり公に出来ないが高橋も岸部も、二人とも死んだらしいな
岸部のほうは両親が隠したかったらしく、表向きには公にはなっていないらしい」
「でも、どうして…やっぱりあの人形に関係が?」
「その可能性は高いだろう。物証的な証拠は何一つ無い、状況的な材料から推測すれば…な
お前…いや俺達クラス全員はもうどうしようの無い状況にまで追い込まれているのかもしれない
あの人形から呪われている…そう言い換えても間違いないだろう」
「そんな…何で僕達が呪われる必要があるのさ」
「それもわからない。が、演劇に何か関係があるのかもしれないな
全ての状況を握っているのは金田だ。そして、俺の調べにおいてもあの人形の事象に行き着く先が奴なんだ」
妙に、部長の口調が冷静なのにイチロウは気が付いた。それでいて淡々と物事を話している。
そんな彼が、今まで頼もしく見えた部長にイチロウは怖さを感じた。まるで機械のように淡々と彼は紡ぐ。
「金田の所在はある程度突き止めている。それに、あいつは全て…とは言わないまでもある程度の事情を掌握しているのは確実だろう」
「でも、金田が何処にいるかなんて誰も知らないんだ。そんな状況で…」
「いいか、お前は今後何も心配することは無い」
「心配する事は無いって…どういうことだよ?」
「後は…俺に任せてくれればいい。お前は余計な心配をするな」
落ち着いたような口調から、部長の言葉からイチロウは焦りのような感情を感じた。
表面的なわけではないが感情的な揺らぎが伝わってくるというのは、わかる。
彼は今から決死の行動に出ようとしているのだ。自分の命を賭けてまで。
嫌な予感がした。松崎シホが最後にイチロウに話してきた時のような悪寒がする。
「世の中は責任を取らずに自分の身だけを案じて、保身しか考えない大人達がいる
俺達より十歳も、それよりもっと年を取った人間が自分のやらかした行動に責任をもてないやつが多い
オレは…そうなりたくはないな。演劇部の部長としてお前達部員やクラスの連中の事は守る」
「部長…」
イチロウは止めたかった。しかし、何を言っても部長は行動を止めないだろう。
それは確信できる…だが、残念でもあった。彼は大事な事は殆ど自分に教えてくれないのだ。
だが、それも仕方の無い事だった。この事態はもはや自分一人の行動でどうにかなるものではない。
思えば、自分はいつも状況にふり回されて気がついたら事態が手遅れになっている…そういうことが多かった。
(今度もそうなってしまうのだろうか?)
あの劇が、悪魔を呼ぶ儀式という事はその発端を招いた自分にも責任があるとイチロウは思っていた。
だからこそ彼自身も事態の収拾に当たりたかった。だが、当の部長から暗に不要だと突き放されてしまう。
今の自分が首を突っ込んでもどうにもならないのだと、むしろ状況を悪化させるだけだと…そう言い聞かせるしかなかった。
事態の収拾を収めるには彼に任せるのが一番いいのだ。事件の流れに関しては自分はあまりにも無知すぎる。
へたに干渉する事がよい結果を招くことが無いのだと、そう考え彼に全てを任せるしかないと思った。
「安心しろ…絶対にこれ以上の犠牲は出さない。俺が…何とかするから」
山崎はそう言ってイチロウの肩を叩いた。しかしその手から震えが僅かに伝わってくる。
彼のようにずっしり構えて冷静に見えるような着物座った男でさえも恐れてしまう事態なのだろうか?
しかしイチロウはなにもいう事は出来なかった。炎と共に悪意を纏ったあの怪物のような人形に対抗できるとは思えない。
自分は何の力もないただの一般人でしかないのだ。余計な事をして足手まといになるよりも
少しでも状況の把握が出来ているであろう部長に一任するのが一番なのではないだろうか?
(そうだ…今まで通り部長に任せておけば、全て解決するんだ…僕に今更何ができるんだ?出来るはずがない)
逃避にも似た答えだった。目先に迫った困難を人に押し付けて自分は素知らぬ顔をする。
狡猾な選択であった自覚はあるが、それ以外の策をイチロウには思いつかなかった。
山崎に任せよう。自分は彼の経過報告を待つだけでいい…今までがそうだったのだから―――――
そして、その選択を選んでしまった事が…彼に深い後悔の念を与える事になるとは誰も知らなかった。