六幕
イチロウはあの時の事を思い出していた。体育館の証明が練習に落下した事故。
あれは何だったのか?イチロウには説明の付かない出来事であったのは確かだ。
そして彼が見た体育館の天井に張り付いていた人影…夢だと思いたいが、自分の方を見下ろす不気味な視線の感触は当分忘れられそうにない。
(とにかく、部長にこれからどうするか聞かないと…)
どうすれば良いのかわからなかった。昨日のあの後も時間は残っていたが劇の練習の続きをやろうなどと進んで言い出す者は居なかった。
みんなあの不気味な事故が気になっているのだ。そしてそれが例の人形のせいだとも言うクラスメイトも居た。
自分で結論を出していくにはイチロウはまだ未熟だった。こういうときに頼れるのは部長しか居ない。
彼はいかなるときがあっても演劇部を引っ張ってきた。確固たる経験とそれに裏打ちされた信頼から彼を慕う者は多かった。
イチロウも山崎を信頼していた。彼ならばこの混沌と死た状況に答えをくれるだろうと決め付けていたのかもしれない。
放課後を待って、早速演劇部に向かうイチロウだが部屋の戸口に立ったときに言い争う二人の声が聞こえた。
「もう一度考え直せ。今なら…」
「見損なったわ。怖気づいちゃったの?」
声の持ち主は、部長とそして…マリだった。聞き耳立てて話を聞くと劇の事で口論しているらしい。
「そうかもしれない、だが…今回の件は明らかに異常なんだ」
「怖くなったんでしょ? 男ってみんなそうよ、見栄ばっかり張るくせに肝心なときに逃げ出そうとする…結局、あんたもそうだったんでしょ!」
「違う! 分かってくれ…これ以上は何が起きるかわからないんだ」
「弱虫! 降りたいんならあんただけ降りれば? いざとなれば私が監督を引き継ぐから」
「ちょっと…おいっ、マリ!!」
マリは部室の入り口に立っていたイチロウに顔を向けていった。
怒りの剣幕のマリから思わず目を逸らしそうになる彼だったが、彼女の視線はそれを許さなかった。
「あんたは逃げないわよね?」
「…」
そう利いた彼女の瞳はまさに気迫というような炎が宿っていて、迂闊に返事などできなかった。
イチロウは呆然としてそこに突っ立ったままだった。そして返事も聞かないままマリはそんな彼を無視してどこかに去っていった。
芝居に対する情熱や、劇の成功への執念とかそれらとは異なるもっと深い動機があるように思えた。
(…一体何があったんだ?)
部室に入っていくと山崎が疲れた顔で椅子に座っていた。普段の彼から考えられないような思い込んだ表情だった。
「あの…部長?」
「聞いて…いたのか?」
「全部…じゃないけど」
「…そうか」
「何かあったの?」
「…いや、なんでもない。マリが俺の言った無理に駄々を捏ねた。それだけの事だ」
「そう…」
山崎はそうは言ったが、イチロウは納得できなかった。
「なぁ、佐藤」
「どうしたの?」
「一つ聞きたい事があるんだが。いいか?」
「…うん」
そこから、山崎は暫く黙ってイチロウのほうを見つめた。彼の視線には戸惑い、迷い、その奥には恐れのような色が浮かんでいる。
こんな部長の姿を見るのはイチロウは始めてであった。さっきのマリとの口論といい、一体彼に何が起きたのか?
そして其処から導き出される推論―――部長はこれから自分に聞く質問に重大な決定を委ねているのだと。
ごくりと、イチロウの喉から唾を飲み込む音が鳴った。
「お前は、松崎が首を吊る前の日に彼女から何か聞いたか?」
「―――えっ!?」
それはイチロウにとってあまりにも予想できない質問だった。
どうして劇の進退と松崎シホの死が直結するのか? 直接的な繋がりが見出せない。
しかし、納得できる所ではある。彼女は確かにイチロウに言ったのだ「劇を中止するようにして欲しいと」。
それを伝えるべきかどうか分からなかった。脚本を書いたイチロウも今現在、
自分達が進めている劇に何か得体の知れないものの存在を感じずには居られないのだから…
「………」
「無理に言わなくもいいんだ。だが、」
「…松崎さんは、劇を中止して欲しいって言ってた」
「そうか…やはり」
イチロウの言葉を聞いた山崎は驚いたような。それで居て何か確信が付いたかのようにため息を吐いた。
「…イチロウ、俺は岡田の失踪や松崎の首吊り、そしてこの前の照明の落下や噂話が無関係じゃないと思っている
それについてある筋を使って調べたら、あの人形に何か関係があるんじゃないかって言う仮説が浮上してきた
だから…俺はあることを決めたんだ。そうなる事で情況が好転できるかは保障できない」
「でも、あの人形のせいでおかしな事が起きてるってまだ決まったわけじゃないし…」
「そうじゃなかったとしても人形が着てから明らかに色々な事が起きている
昨日の体育館のことだって耐震検査が行われて二月しか経っていない。
それに、照明なんてものは落ちないように何重にも固定されるものなんだ」
「人形のせいで照明が落下したって言うのかい?」
「其処までは断言できない。だが、劇であの人形は使わない…あれは封印して金田に返す」
決意に満ちた目で山崎はそう言った。彼の決意は固いというのは分かった。
だが、仮にあの人形が一連の事件の黒幕だったとしても劇に出さないだけでどうにかなるものなのだろうか?
松崎の自殺、それが単なる偶然だったとは考えられない。彼女は明らかに劇の中止を求めていたのだ。
もっと悪い事が起きるような気がする。それも遠くない未来に…イチロウは胸の中の不安を拭いきれる事ができなかった。
劇の前日の日まであっという間だった。山崎が人形の封印を宣言してからは練習中におかしな事は起きていない。
ただ、クラスの中にはうっすらと不安の色が広まりつつあった。
「なぁ、イチロウだろ?」
「あ…、高橋君。どうしたの?」
高橋充。彼は以前主役の件で居なくなった岡田と言い争っていた人物だ。
女子の中では身長が170を越え、ヒロイン役として抜擢されたマリの相手役として主演であった。
彼は演劇部ではないが、実際の演技の件についてはイチロウは文句は無かった。
むしろ岡田が選ばれた場合より最善だったと思う事もある。本人には悪いとは思っているが。
「俺ってさ、みんなに迷惑かけてないか?」
「どうしたんだよ、急に」
「岡田のやつが居なくなった件だけど、あれは俺にも責任があるんじゃないかって」
「岡田君の事は関係ないと思う」
むしろ、口うるさくて乱暴者の彼が居なくなった事が劇の練習においてプラスになったのは否定のしようが無い。
だが、そうだとしても、みんなに迷惑をかけ誰から疎まれたとしても彼は仲間だったのだ。
彼の無事を祈る同級生は少なくは無かった。松崎の事も含めて出来ればみんなで一緒に劇をやりたい、そう思っていたはずだ。
「俺さ、怖いんだ…松崎だっていきなり首を吊っちまったって話だろ?
あいつ、ちょっと無口だったけどさ…まぁ、可愛かったし、コックリさんやるときも協力してくれたじゃないか」
「うん、オカルトの知識も豊富で自分からあまりしゃべらなかったけど…虐められる様な子でもなかったよね」
「岡田のやつがいなくなって、松崎さんは首を吊って体育館では変な事が立て続けに起きる…佐藤、お前何か心当たりはないか?」
「……」
この前の部長と同じ問いだ、それにイチロウは答える事が出来なかった。
彼も恐らく気づいているのだろう。あの人形の取り巻く環境が醸し出す空気の異質さに。
いや、彼だけではない。恐らく他のクラスメイト達も薄々感づいている可能性が高いとイチロウは思った。
「すまん、こんな事いきなり聞いたりして済まなかったな」
「うん、別にいいよ」
「まぁ、みんなで頑張ってきた劇なんだ。絶対に成功させような…」
そう言って高橋は笑ったが、その笑顔がイチロウにとっては強がりに見えたような気がした。
彼の顔を見てイチロウは確信めいたものを覚えた。この劇には必ず何かが起きる。
この流れは止められない。部長が言っていたように仮に人形を封印してしまったとしても意味は無い。
そして確実に何かが起きる。それは劇を止めたとしても逃れられないのだろう。
それがどういう結果を招こうとも、絶対に最後まで見届けようとイチロウは決意したのだった。
文化祭当日。ようやくこの日がやってきた。
体育館の照明が落下してからは、別段特に変なことも起きてはいない。
しかし、その平穏さがまるで嵐の前の静けさにも感じられて逆に不気味だった。
何も起こらないに越した事は無い。この一日さえ乗り切れば、全てが元通りになる。
イチロウはそう考えていた。否、そう信じたかった。
でなければいなくなった岡田や、首を吊ってしまったシホに対して申し訳が立たない。
部長は人形の箱を金田に返したといっていた。もう、何も起きないはずだ…きっと、そうだ。
何の保証も担保も無い、曖昧で脆い安心感。そういったものにも縋れる者なら縋るというのが人間というもの。
(部長に任せたんだ。大丈夫…だと思うけど)
今日の部隊は体育館で行う最後のプログラムだ。つまり、文化祭を楽しむゆとりなど殆ど無いという事。
高校生最後の文化祭。楽しい青春の一ページとなるはずだった日のイベントにイチロウは脅えていた。
必ず何か起きる。イチロウは確信にも似た不安を拭い去る事ができずにいた。
そんな事を考えながら、イチロウは学校への道を急いだのだった。
教室には誰もいないように見える。それはそうだ、早朝の打ち合わせのために早く来たのだから。
部長の姿も見えないが、恐らく演劇部に居るのだろう。こういう時の彼はどの生徒よりも早く学校に来るのだ。
そして、イチロウは後ろの出口から廊下を歩いていく人影を見た。それは見知った顔であった。
(有坂さん…?)
そのマリを見たときイチロウは妙な感覚を覚えた。違和感というものだろう。
マリはいつも堂々としていて、どんな相手にも臆する事が無かった。
自分が間違っていると思ったら、たとえ体格がいい男子とも口論をするようなそんな女だ。
そう、岡田や山崎と言い争っていたときのように、マリは自分を通す人間だった。
そんな彼女が視線も虚ろなままにふらふらと歩いていた。何かにまるで操られているように…
(有坂さんが部長と喧嘩していた後に、人形を封印するって言ってたけど関係があるのか?)
マリの豹変に不気味な人形の影がちらつく。まさかとは思うが関係しているのだろうか?
いや、流石に其処まで結びつくとは思えなかった。根拠が無い、今のは彼の勝手な空想だった。
しかし、あの人形はそんなオーラを身に纏っていた。体育館の天井で自分を見下ろしていたのがあの人形だとイチロウは信じていた。
そのままマリの後を追っていく、彼女も部室に向かうのだろうか?声をかけたほうがいいのだろうか?
様々な事を悩みながら、イチロウは彼女の後をひそかに付けてゆく。しかし、唐突に彼女は振り返ったのだった。
「…!?」
力の入らない、虚ろな視線で背後を見やるマリ。視線が完全に此方を捉える直前に咄嗟にイチロウは隣の教室の中に滑り込んだ。
(…)
イチロウは暫く引き戸に身を寄せるようにしてじっとしていた。見つかってしまったらどうしようか?そんな事を考えていた。
数秒間かそうしているとまたコツ、コツ…と廊下から足音が響いてくる。どうやら気付かれなかったようだ。
今の彼女は明らかにおかしかった。本当に劇なんかできるのだろうかとイチロウは心配になった。
かくして、文化祭の一日は始まった。流石に今日は一大イベントがあるということもあってか、早朝では静かだった校内も賑やかだった。
午前中は劇の準備で忙しくほかのクラスの出し物を見て回れるようになったのは十一時前だった。
それでも自由になる時間は短い。午後一時からまた演劇部に戻り打ち合わせに参加しなければならない。
「イチロウ」
「あっ、部長」
舞台で売っているヤキソバのパックを片手に部長がイチロウの隣に腰掛けた。
「有坂さんってちゃんと部室に来てた?」
「あぁ、ああ言ってもあいつはちゃんと方針が定まったら従うから問題は無いんだが…」
「そう…」
今のやり取りで部長の山崎はイチロウの言おうとしていたことが大体伝わったようだった。
「あいつの様子、変だったのか?」
「…うん」
イチロウは頷く。緊張しているみんなの前で、マリが変だとは言いづらかったのだ。
部長はため息を吐いた。なんで早く言ってくれなかったのかといったそういった類の感情がこもっているようで申し訳ないとイチロウは思った。
「ごめん」
「いや、お前が謝る事じゃないんだ。ただ…変なことがあったんだ」
「マリの奴、最近よく金田と会っていたらしい。いや、そういうアレじゃない。
あいつはそういうことをする女じゃないってわかるだろ。ただ…何か変なことを吹き込まれたらしいんだ」
「変なことって?」
「人形遣い。あいつは偶にそんな事を呟く様になったんだ」
(人形遣い…)
頭の中でイチロウは呟く。同時に不気味な響きが頭蓋の中で反響するような錯覚を覚えた。
その単語があの不気味な人形と無関係とは思えない。どういう意味があるのか?
あの人形は金田の実家の倉庫から持ち出したものだ。それにマリが彼から何かを吹き込まれてそういうことを言い始めたのなら、
全くの無関係であるとは到底言えなくなる。
「まさか、それが原因で人形を封印したの?」
「あぁ…だが、俺の中でいくつか確証を得ていない要因がある。そして俺の思っていることが正しければ劇で何かが起きる可能性が高い」
「……」
何か。それがどういう事にしろ、碌でもないどころか恐ろしい事情の可能性が高い。
岡田の失踪、そして松崎の自殺、体育館の天井に現れた不気味な謎の影、証明の落下…すべてあの不気味な人形が来てからだ。
「人形ってさ、本当に封印したの?」
「あぁ」
「イチロウ、一つだけ言っておく。金田のヤツを信用するな」
「金田を…?」
「そうだ。あいつはやけに劇に協力的だった、それに俺達をそそのかして自分の人形を学校に持ち込んだのもあいつだ」
「さすがに考えすぎじゃないかな?」
「俺は金田に人形遣いの事について聞いたんだ。直接的だと怪しまれるからさりげなく情報を引き出そうとした
それでもダメだった。何を隠しているのかは知らないがあいつは不気味に笑うだけだったよ。
何も情報は得られなかったが、確実に何かまずい事を知ってような感じはしたけど」
「先生が…」
信じられなかった。確かに金田はあまり評判のよい教師とは言えない、が…不気味な事をしているとは信じられなかった。
そういえば最近金田が練習に姿を見せなかったことが気になったが、それが関係あるんだろうかとイチロウは思う。
「すまない。まだ全部は話せないが、叔父さんに頼んで色々調べてもらってい
この劇の日には間に合わなかったが、いずれ話すことになるとは思う」
「何故ですか?現時点でわかっている事だけでも整理した方が…」
「情報が足りない。そんな状態で結論を急ぎ過ぎても混乱するだけだ」
「わかった。今日は何も起こらなければいいんだけど」
「だといいんだが…な」
そう言って部長は空を見上げた。朝には雲なんて殆ど見えなかったくらいの快晴だったというのに、
今は灰色の雲が少しずつ空を覆いつくすように見える。まるで二人の不安を投影したかのように雲は空を侵食しつつあった。
「ミチ、待っていろよ。お兄ちゃんが街に言って美味いもんを買ってくるからな」
「うん…」
体育館のプログラムがほぼ終わり、イチロウたちのクラスによる劇が始まった。
ここまでの進行は全く問題ない。いや、むしろ順調すぎるとも言ってよかったくらいだ。
しかし、舞台を覆う黒い霧のような嫌な空気はどうしても払拭できないままだった。
イチロウは裏方の手伝いをしながら劇の様子を伺っていた。しかし、ほぼ後半部分に差し掛かっても異常は無かった。
様子がおかしいといわれたマリも普通に演技しているし、高橋も緊張した様子はあるものの心配は無い。
「みんな、待ってくれよ! あの時はあんなに優しくしてくれたじゃないか!」
「こっちも戦争のせいで若い男が足りていないんだ。それに畑の作物を取る奴がいる、お前の家に分けている余裕は無いんだ」
「そんな…妹は病気なんだ。コメが欲しいとはいわないから大根の葉でもいい、なにか食べ物を…」
「うるせぇな! おいガキ! ぶん殴られたくなかったら出て行けよ!!」
物語は終盤に差し掛かっていた。高橋が演じる兄妹の兄、すなわち主人公は病気の妹の為に街で盗みを働いてしまう。
食べ物を得ようにも何処も分けてくれず、街の食料は高騰していて手が出せない。だから盗む事にしたのだ。
しかし、物事はそう簡単に事が運ぶわけでもない。たちまち見つかって顔面がはれ上がるまでぶん殴られてしまう。
大陸由来の窃盗団による盗みが横行していたからだ。それで皆、気が立ってしまっている。
それでも、彼のことを哀れに思ったとある家族からわずかばかりのコメを分けてもらい、彼は妹の待つ村へと走るのだった。
「おい、帰ったぞ。今から粥をつくってやるからな」
妹のミチは病床の床に伏し身体が弱っていた。こんな世情では薬もまた高騰して買えず
赤紙が届いたので父は兵役に連れて行かれ、母は過労の末に僅かな鐘を残して病死していた。
今やヨシの唯一の身内であるミチもまた病魔に冒されていた。兄はそんな妹に粥をつくいってやるしかできない。
塩の味付けも無い水っぽい粥。それを作ったのは良いが、弱りきったミチの喉には通らなかった。
このままの脚本だとミチは辛うじて生きながらえて兄妹は終戦を迎え、父親も帰ってくるという終わりであった。
だが、異変は起きてしまう。何の前触れさ柄残さないまま。
「ミチ!ミチッ! うわあぁぁぁぁぁぁっ!!」
突然、高橋が奇声を上げ始めたのだ。無論、台本にそんな台詞は無い。
いきなり白目を剥いて、喉を掻き毟り始めたのだ。高橋は持病など患ってはいない。
「…」
そしてステージの脇に冷たい眼差しでマリが苦しむ高橋を眺めていた。
彼に駆け寄ろうとも助けようともせず観察するような眼差しであった。
「おい、なんか臭わないか?」
「まるで何かが焼けているような…」
イチロウの耳は客席からそんな声を拾った。そして彼もまた焦げ臭いにおいに気がつく。
ステージから白い煙のような者が立ち上っている。そして瞬く間に幕のカーテンに引火した。
いきなりの事に頭が真っ白になる。劇に使う小道具に発火物は使っていない。
「ああああっ、うわああぁぁぁっ!!」
あらかじめ油でも撒かれていたかのように火は瞬く間にステージに広がっていった。
そしてそんな異常事態にあっても高橋は奇声を上げるだけで逃げようとはしなかった。
「…まずいっ!」
イチロウは思わず駆けた。劇の進行とか、成功とかそんな事は頭から吹き飛んでいた。
高橋を助けないといけない。今の彼の頭の中にあるのはそれだけだった。
舞台に上がる階段の脇に設置されている消火器を戸惑いながらも取り出し、ステージに上がる。
しかし火の勢いが強い、高橋を助け出すのは困難なように思えた。だが、そこに飛び込む影があった。
「何をしてるんだ! 早く火を消せ!!」
高橋を抱えつつイチロウに向かって大声を飛ばしたのは、部長だった。
彼の言葉に押されるようにしてイチロウは消火器の栓を開け、炎に向かって白い粉が勢いよく噴射される。
だが、火の勢いを消す事はできなかった。むしろ油を得たかのごとく炎は大きくなり、あっという間にイチロウの逃げ場を塞いだ。
「イチロウ!!」
部長の声が聞こえる。取り囲む炎の中でイチロウは自分は死ぬのだろうという事を他人事のように考えていた。
自分は間違いなく死ぬ。部長が高橋を助けたときとは違い炎は天井に届くまで大きくなっていた。
そして、
それは、
唐突に、彼の目の前に立っていた。
「…っ!」
イチロウは息を呑んだ。炎の中で脱出不可能と思われた逆境にそいつが現れたことを…そして全てを悟った。
謎の出火も、一連の不気味な現象も、全て目の前の存在が引き起こした事象だという事に。
「…」
目の前には、部長が封印したはずの人形が立っていた。表情の無い顔をイチロウに向けて静かに佇んでいる。
周囲は轟々と炎が猛り狂っている。なのに、イチロウの心は彼自身でも驚くほどに平静の中にあった。
何故そうなのか彼にもわからない。ただ、目の前の存在が恐ろしく禍々しい物だというのに不思議と嫌悪感や恐怖は無かった。
そして、目の前の人形からは何らかの意思を感じた。はっきりと言葉に表すことはできないが、
人形が何らかの意図を持って、一連の事件の黒幕としてあらゆる事情を操っていたであろうことは想像に難くなかった。
岡田の失踪、松崎の自殺、夏ごろからいきなり浮上してきた不気味な噂、証明の落下…
そして物言わぬはずの人形が自分を見返す視線が、あの時の暗闇の向こうからイチロウを見下ろす視線と同一のものであることははっきりとわかった。
「……」
火勢は勢いを増し、もう脱出不可能に近かった。下手に抜けようとしたら火に巻かれて大火傷を負うだろう。
それでもイチロウは逃げようとはせず、人形と視線を合わせ続けていた。いや、視線を離す事ができなかった。
人形の表情の見えない目の奥に何かを感じるからだ。数秒、数十秒、一分…どのくらいそうしていただろうか?
「…!?」
火が唐突に風に煽られた様に燃え上がる。それは獰猛な蛇がのたうつように周りを蹂躙していった。
まるで生きているかのように炎が伸びる。そしてそれはある1点に集合していく。
炎は人形の周囲を渦巻くように収束していった。完全に人形が紅蓮の帯に巻かれる前にイチロウの頭の中に何かが聞こえた?
(人形の声…なのか?)
人形を炎が完全に包み込んで天に上った後に、そこには既に何者の影も無かった。人形は一瞬の内に消えてしまったのだ。
それと同時に周辺の火勢もあっという間に勢いが治まり、小さくなってゆく。
「イチロウ! 大丈夫か?」
そして彼の安否を確認するように部長の声が響いた。イチロウは何がなんだかわからなくなっていた。
そもそも今の出来事が彼の想像の範囲を遥かに超えてしまっていたからである。
すっかり火かぎえて自分の安全が確定したのを理解したイチロウは緊張感の糸が切れてそのまま倒れこんで気を失ってしまった。