五幕
「ねぇねぇ、佐藤君は有坂さんの事どう思う?」
体育館に入って練習の進行を見守ってると、眼鏡をかけた肥満気味の女子が話しかけてきた。
彼女の名前は岸辺ヨシコ。演劇部の部員で小道具係でもあった。
今回の劇で使用する道具も岸辺と二人の生徒が担当に割り振られていた。
「どうって、頑張ってると思うけど」
「でも彼女ってちょっと我侭すぎるんじゃない? 美人だとは思うけど…かなり口うるさいし」
「…」
岸辺ヨシコの小さめで神経質そうな目が眼鏡の奥からイチロウに同意を求めてくる。
粘着そうな視線がイチロウを捉えようとする。彼は岸辺のことが苦手だった。
岸辺は事あるごとにマリに難癖めいた事を言い張らすのだ。
演劇部の中にもマリに不満を持つ者も居たが、だいたいが彼女の演技力を認めていた。
「劇は有坂さんの為にあるものじゃないのにね」
「そう、僕は頑張ってると思うけど…」
「その頑張り方がさぁ、押し付けがましいとは思わない?」
この手の手合いは相手にする事自体疲れるのであいまいな返答をするイチロウだが
「…そんな事言うのはあまりよくないと思うけど」
「へぇ、佐藤君も有坂さんの肩を持つようなこと言うんだぁ…」
肥満気味の体系と同じようなねっとりとした口調で岸辺がいう。どうしても同意を取り付けたいらしい。
正直、イチロウはこの手のタイプの人間は嫌いだった。文句があるなら本人に言えばいい。
それこそ、一郎もそんな経験がないわけではないが岸辺は劇の進行を邪魔するような目的でやっているとしか思えないのだ。
「ごめん、僕は忙しいんだ。そういう話ならまたあとでにしてくれないかな」
「……ふぅ~ん。そう」
バカにしたような感じで岸辺がまるい顎を突き出すようにしていう。気持ち悪いオタクの癖に…そんな陰口が去り際に小さく聞こえた
あとでまた自分の陰口を自分のグループと話すつもりなんだろう、とイチロウは思った。
イチロウは岸辺のことが苦手だった。普段は無口なくせにこういう人の悪口で盛り上がるときだけ饒舌になる類の人間と仲良くしたくない。
岸辺みたいに陰湿な性格よりも、とっつき辛いがマリみたいに直接不満を告げるタイプの方がマシだった。
イチロウに相手をしてもらえない事がわかると、岸辺はどこかに行ってしまった。
(問題も山積みだよな…)
イチロウはこの件の事を考えて頭を抱えそうになった。文化祭の日まであまり時間は無いのだから、
それが終わるまではみんな団結して欲しいと思うのだが、中々上手くはいかないものである。
放課後の劇の練習。今日は公民館ではなく体育館だった。
練習は長い時は夜の七時半前後までやっていた。普通ならばとっくの昔に下校時間は過ぎている。
ここまで練習ができるのは金田が体育館の仕様許可を取ってくれたのだ。
体育館のスペースを存分に使用でき、他の部活の音も気にならない時間帯のこの場所は最高の練習場だった。
「お兄ちゃん。街に行くの?」
「ああ、な、何かいいもん買ってくるからまって置いてくれよ」
「わかった。わたし、我慢する」
やはり彼女は流石だと思った。いつもの勝気で物怖じする事の無いマリではなく気弱で兄思いの妹を演じている。
相手役は以前岡田と言い争っていた高橋だった。運動部の彼に演劇の経験は無く、
マリに比べると台詞を噛んだり間違っている事がかなり多かったが、それでも頑張っている熱意だけは顔を見ればはっきり伝わった。
「食べ物が、ないだって?」
「そ…そうだ、こちらだってみんな飢えているんだ。どんなに金を積まれても出せるもんはないよ」
「そんな…家には妹が待っているんです! どうか米の一升だけでもいい。俺の分はいりませんから食べ物を……」
「くどい! 村はみんな腹が減って困ってるんだ!」
シリアスな場面になると、流石に皆の演技には真剣さが宿っていた。
といっても空襲のある戦時下の話なので明るい場面はあまり無いのだが。
演劇部のイチロウからみると幾つも気になる点はある。だがそれを差し引いてもこの劇は満足のいく結果になるだろう。
それが分かっていたから、イチロウは嬉しかった。だが、なぜか胸騒ぎがする。
その原因はあの異様な空気を発している人形があるからだろうか?多分それかもしれない。
あれを見つけたときに倉庫で感じた寒気を催す気配が今でも感じる事がある。
それが人形のせいなのかもっと別の要因なのかは分からない。だだ、これ以上は悪い事が起きない事を願うばかりだ。
「…待っててくれ。いま水を持って帰るから……」
劇といっても文化祭のプログラムでは、ほかの部やクラスが体育館の舞台を使うので一時間も無い。
よって時間自体は多く取れても四十五分くらいだった。最後の方のプログラムなので時間的には優遇されている。
しかもスケジュールが押したときの為に十五分程度の余裕がある。つまりほかの出し物にトラブルが無ければ一時間近く劇が出来る。
短縮版の脚本の打ち合わせはしてあるし、周囲もそれが出来るように確認は取ってある。
しかしながら出来る事なら一時間使ってフルでやりたいというのは、イチロウや山崎の希望でもあった。
(七時十六分か…今日の練習ももう少しで終わるな)
体育館の時計を見ると、既に七時を回っている。後十分ちょっとで半になる。
劇の方もクライマックスに入っていた。みんな頑張って練習に取り組んでくれたからやり直す手間が減ったのだ。
今日は早く帰れる。帰ったらとりあえずシャワーでも浴びて眠りたいと思った。
「おい、帰ったぞミチ。ミチ…?」
主演の高橋演じるトシがクライマックスに実家に帰ってきて、自分の帰りを待っていた妹の死を知ってしまうのだ。
マリが演じるトシの妹ミチが小屋の中で餓死して息絶えているという場面だった。
二人は物語の中盤のほうで空襲に遭い、ミチが足に怪我を負って負傷。
彼女の看病の為に兄のトシが村を回って薬や食べ物を分けてもらうというあらすじだった
一応ハッピーエンドで二人が助かるという案もあったのだが、どういうわけかマリが反対した。
彼女が「安易なハッピーエンドを演じたくない」と主張していたのでこの結末になったのである。
その事にイチロウは多少なりとも不満があったが、自分が皆が納得するような筋書きを書けなかったからだと反省した。
それに、戦争の悲劇を伝えるためには悲壮感があってインパクトのある締めにした方がいいと彼女の発言を後押ししたのだ。
暫く劇の練習を舞台の前から見上げていたイチロウだったが、あることに気づいた。
カーテンの裏側でクライマックスの演出の為に動くスタッフの数に違和感を覚えたのだ。
今日は一人進学塾の都合で休んでいたはずなのに、五人全員居たような気がしたのだ。
(あれ? 黒子の数ってこんな多かったっけ?)
イチロウは疑問に思った。だが、気のせいだと思い注意をそらした瞬間にそれは起きた。
―――――パチッ
軽い音と共に周囲が闇によって閉ざされてしまう。一体何が起きてしまったのか?
いきなり体育館の中が暗くなったのだ。ブレーカーが落ちたのだろうか?
「やだ…停電?」
この声は岸部だろう。裏方の彼女は部隊側に向かうようにして練習を見ていた。
「ブレーカーが落ちたのか?」
「俺、見に行ってくるよ」
ライトのような光がぼおっと点く。スマホのカメラ撮影用の照明だろう。
ギィィ―――――
ライトの明かり、そして天井から聞こえた何かが軋む音…イチロウは反射的に上を見上げた。
微かに、天井付近に何かが見えた。いや、見えたというよりは影のようなものが微かに動くのが視界に入ったといったほうが正しい。
それを見定めようとしてイチロウは暗闇の中を探ろうとして…そして何かを見た。
「……」
それは一対の小さな光のように見えた。それがたぶん『眼』だという事にイチロウが気づいたのは視線らしきものを感じ取ったからだ。
暗闇の中。「ソレ」とイチロウの視線が交わる。しかし、それも一瞬の事で気配はまるで煙のように数秒待たずに消失したのだ。
そして、パチッという音と共に天井の照明が点灯して乳白色色の小さな光を生み出す。
誰かが明かりをつけたのだろうか?そう思いながらイチロウは「ソレ」の招待を看破すべく例の場所に意識を集中させた、だが…
ガシャン!
「ひぃっ!」
明かりが完全に点いたその瞬間に天井の照明が落下してきた。そしてそれはもう少しで岸辺の立っていた場所に直撃する所だった。
翌日に体育館は修理の為に仕えなかった。そして岸部は学校を休んでいた。
あんな事があったのだから仕方ないのかもしれない。照明が老朽化して落下したとは言うが、耐震検査は二週間前に済んだばかりである。
体育館自体が二十年近く前に立てられた為に其処まで古い建造物というわけでも無いし、中も五年位前に改装されたばかりと聞いた。
設備に欠陥があったとは思えない。今までも照明が落下するなんて聞いた事も無い。
そもそもあんな重量があるものがあんな高さから人間の頭の上に落ちてきたら、ほぼ間違いなく死ぬ。
だからこそ取り付けは慎重に行われるのだ。それが落下したという事についてイチロウはあることを思い出さずに入られなかった。
(あそこにあの時誰か居た。それは間違いないんだ)
体育館の天井に居た人影は間違いなく暗闇の中からイチロウに視線を返してきた。それは間違いないと思う。
しかし、照明が落下し明かりが点いた痕に天井煮を向けても其処には誰も居なかったのだ。
そう、まるで天井を暗闇の中一瞬で移動して数秒のうちに姿を消してしまったとしかいう他が無いのだ。
そんな芸当ができる人間が居るとは考えられない。そもそも天井で掴まるものなんてそれこそ照明くらいしかない。
ただの悪戯でそこまでする者が居るのだろうか? そうだとしてもこれは悪質に過ぎる。
しかし、劇はもう一週間と数日しか期間は無い。練習する時間も少ないという事だ。
クラスの間にどうする事も出来ないもやもやを残しつつも日常は過ぎてゆく。