四幕
重々しい部室の空気の中、誰もが押し黙っている。
松崎シホの自殺が原因である事は言うまでもないだろう。
文化祭までの日は刻々と迫っている、ならば一刻も早く打ち合わせを進めた方がいい。
だが、一緒に過ごした学友の死の後で平然と劇の稽古が出来るほど皆が血の通わない人間ではなかったのだ。
「部長…」
「…どうした佐藤」
「松崎さんの事。どうしてああなったのかな…」
「…俺にはわからん。彼女とは話した事がないからな」
山崎も松崎の自殺の件はショックだったようだった。彼女の死はクラス全員に大きく暗い影を落としている。
担任であり演劇部顧問の金田は彼女の自殺は悲しいが、劇の完成を急ぐといっていた。その発言が少し無責任なようにも思える。
昨日、彼女が命を落とす前に会話していた。その事もあって訃報を聞いた時は一瞬混乱してしまった。
そういうイチロウもショックなのだが、立ち直れないというほどではない。
自分でも冷たいかもしれないと考えていた。最近まであまり話す機会がなかった事は仕方ないにしてもだ。
―――――もっと………を
耳の中で響くように声が聞こえた。甲高い女の声…というかまるでビデオテープを早回しにしたかのような感じだ。
一言で表すと聞こえるか聞こえないかの様な声量で、蚊の羽音に近く不快感が耳にこびり付くようであった。
『…』になっている箇所はあまり上手く聞き取れなかった。一体誰が発言したのだろう?
部室内を見渡す。誰もイチロウのほうを向いておらずみんな作業中だった。
一番近くに居る山崎の声なのだろうか? 彼の声とは全く違う気がするのだが、一応気になって尋ねてみた。
「…部長さっき何か言った?」
「どうした? 俺は何も言ってないぞ」
聞かれた山崎は怪訝そうな顔をしていた。大丈夫か?とでもいわんばかりにイチロウの顔を覗き込んでくる。
「そうだ、人形の様子を少し見てくれ。いきなり壊れたりしたら大変だからな」
「…わかった」
イチロウはあまり気が進まなかった。あの人形に触れるのが嫌だ、といえば嘘じゃない。
実際、小学校低学年ほどの等身大の人形なんて薄気味が悪い。あまり見たくもなかった。
こんな物を自分は劇に使うとかかいていたらしいのが信じられない。金田の持っていたものが特別にそう見えるだけなのか?
所詮はただの物なんだと自分に言い聞かせながら箱の蓋を開ける。
(……前は白かったのに)
人形の顔は若干赤みが差していて居るように見えた。髪の艶も心なしかましているようだった。
この人形を直で見たのはあの体育館のオーディションのとき以来だった。
岡田が箱を蹴って叩き落した人形はまるで痙攣するかのように箱から飛び出したのだ
気のせいなのかもしれない。そしてどう思ったのか知らないがイチロウはこう思ってしまう。
(まるで…、岡崎さんの命を吸って喜んでいるみたいだ…)
無機物であるはずの人形が生きている人間の魂を取り込んで、命を得ようとしている…そんな例えが唐突に思い浮かぶ。
そんな不気味な捉え方をした自分自身の考え方にゾッとする。例えたというよりもフッと脳裏にインプットされたみたいだった。
何かがおかしい、少しずつ狂ってきている。見えない悪意が物陰から自分達をせせら笑っている。
大きな災いが音もなく忍び寄ってきている。得体のしれない破滅の予兆が聞こえたような気がした。
だが、今更止まる事は出来なかった。劇の中止などしたらもっと恐ろしい事が起きそうだった。
十月。九月はあっという間に過ぎてしまっていた。
高校生最後の文化祭は、十月の第二土曜日だった。という事は後二週間足らずの時間しか準備期間がないという事になる。
劇の準備は金田を始めとした演劇部の尽力もあってか順調に進行していた。
しかし、それと同時に妙な噂が立ち始めたのも確かだった。曰く、
『夜中の体育館でボールが跳ねる音が聞こえた』
『ハーフネットがバレーボール部の練習中に突然切れた。その日のうちに何度直してかけ直してもその度に切れる』
『片付けをしている最中に誰も居ない場所から視線を感じた』
すべてあの人形が学校に持ち込まれてから持ち上がってきた噂だった。
しかし、その例もやたら多いのだ。そう、まるで人形が体育館を我が物顔で闊歩するかのように。
人形が誰も見ていないときを見計らって一人で動き出す…まるで学校の階段だ。
そんなふうに動ける動力も仕掛けも存在しない只の人工物である人形が独りでに動くとは考えにくい。
(だけど、岡田のやつまだ戻ってきていないんだよな…)
岡田は行方不明になっていた。とうの昔に家族からは捜索願が出されている。
しかし、彼はまだ見つからないらしい。家出にしては長すぎる。
金田の話ではこれまでも岡田は家出を繰り返していたが、大概が三日もすれば戻ってくる様子であり今回の件はまさに異常なのだ。
三週間近く彼の姿を見た者はないらしい。このままでは戻ってくる可能性も低いだろう。
いや、クラスの大半は岡田がもう二度と戻ってこないだろうという嫌な確信は持っていた。
(もしか知ると岡田は、松崎さんのように…)
嫌な考えが脳裏にちらつくのは、最後に彼を見た記憶の場面が直接あの人形に起因するからだろうか?
あの人形の箱を岡田が苛立たしげに蹴って人形が中から飛び出した。
その後の岡田の顔つきを見たのは一瞬だが、何かを見て脅えているように見えた。
岡田は素行が悪く、喧嘩っ早い。そんな彼を一瞬で恐れさせる存在とは一体何なのか?
逆に言えばそう言う噂が持ち上がっても仕方ないほどには、あの人形が放つ不気味なオーラはあるのだ。
(部長か金田に言って、人形を取り替えてもらおうか?)
イチロウ個人はそんな考えを抱かなくもなかった。しかし、文化祭までにはもう僅かな時間しかない。
取り替えたとして仮に、あちこちで上げられている奇妙な現象は収まるのか? 断言はできなかった。
だが考えてしまうのだ。噂は単なる噂で不気味な現象が起きた事を誰も証明できた者は居ない。
体育館で行った四組の練習であの人形を見た者は少なくない。それで第三者が勝手に噂を立て始めたのだろう。
不気味な人形が学校に持ち込まれた。それだけで面白おかしく心無い噂をでっち上げる者も居るだろう。
シホの自殺や岡田の失踪だって不幸な出来事がたまたま重なってしまっただけではないのか?
それで文化祭が台無しになってしまわないか、イチロウはそれが心配だったのだ。
だが…もしその噂が本当だったら? という一抹の疑念は捨てきれない。
捨て切れるわけではないのだが、自分の勝手な一存で劇の進行を止めるような事はしたくなかった。
(みんな、大きな力に動かされている。得体の知れないほど大きな力に…)
後二週間…そう、後二週間だけ我慢すればいい。そうすれば全てがよくなる。
きっとそうだ。悪い事が立て続けに起きたのはたまたまだし、劇は絶対に成功する。そう信じたかった。
だが、心の奥底ではどうしてもそう割り切れない自分が居るのも確かだった。
この後も悪い流れが起きそうな、首筋に氷を押し付けられたような悪寒がイチロウの胸の奥につっかえていた。
昼食の時間。今日は演劇部の部室に集まってイチロウは山崎と劇の進行について相談している。
マリは来ていない。こういう場に顔を出さないのが彼女だった。
「部長。みんなの調子はどうかな?」
「まぁ、悪くない…とは思う。長台詞は上手いやつに分担するような台詞の調整は必要だな
そこの調製は頼む。みんなに意見を聞いてから要求を教えるから頼むぞ」
「わかった」
部長の山崎は忙しいようだった。それもそうだ、彼は実質総監督といってもいい立場にあった。
コンテを書いて、脚本の台詞調整の要求を出し、主演にも演技の注文をつけたり、クラスメイトの意見を聞き、
カメラマンに指示を出し、金田と練習場所のチェックや交渉。家に帰ってからの動画の編集、エトセトラエトセトラ…
もはや完全に部長のワンマンアーミーといった具合ではあった。彼が居なくては劇の計画が破綻してしまう程度に貢献度があった。
(まぁ、将来メディア関係の仕事に就きたいって言ってたから気合が入っているのかもしれないけど)
それを手を抜きにしても、高校生活最後の学園祭という事で気合も入っているのだろう。
彼ひとりばかりにハードワークを押し付けるのは気が引けたが、素人が口を出してもプライドを傷付けるだろうし
ここは一任すべきなのだろうと思う。あんなことが起きた故か無理をしないで欲しいとは思ったが。
「文化祭のプログラムって決まったの?」
「あぁ、金田が言うには体育館の出し物で最後の大トリを飾るらしいな」
「へぇ…」
「佐藤、絶対に成功させような!」
「…うん」
そう言った部長の眼差しは、紛れも無い情熱が燃えていた。この大イベントを成功させようという気迫が篭っていた。
それを見てイチロウはさっきまであった不安が晴れていくのを感じた。まだ完全に不安がなくなったというわけではないが、
劇の完成に協力するみんなや、渾身一刀の熱の入った部長の決意に水を差したくはなかった。