三幕
岡田が学校に来なかった事を金田が朝礼で告げた。別に不思議な事ではない。
彼はかねてより授業をサボったり昼休みから抜け出してパチンコ屋やゲーセンのスロを打っていることで有名だった。
だから今回もそうなのだろう。と、イチロウは考えていた。昨日あんな事があったのならなおさらクラスに顔を出したくないだろう。
少し妙だとも思った。だが、彼があのまま劇に首を突っ込んできても此方は迷惑にしかならない。
岡田には悪いと思ったがこのまま暫く学校を休んでくれれば助かると、イチロウは考えていた。
そして六間目の学級会で配役が決まって、ひとまずの足場は固まった形だ。
今日は流石に体育館を使えないらしく、今日はみんな返す事になった。
しかし、イチロウや山崎他のスタッフは休む時間は無い。小道具の準備や、器具貸し出しの取り付け。
台詞の割り当てやコンテの打ち合わせなど舞台裏の準備もしなくてはならない。
金田が言っていた公民館貸し借りの交渉もわりかしスムーズに進んでくれているようで。
来週から週に一回、時間が空けば二回程度は使えるとのこと。
恵まれた環境の中で劇の練習が出来る。演劇部においても、基本的に放任主義的な金田がここまで尽力してくれた事は少なかった。
そもそも演劇部に山崎とマリが入るまでは同好会に近いような活動しかしていなかったのだ。
そのことを思うと、山崎やマリ、金田やその他を頑張ってくれているみんなに感謝したくなってくる。
クラス一丸が一体となって一つの目的に走っていくのは、苦しいけれどもまさしく青春の一ページといってもいいだろう。
演劇部に行く前に練習時期の調整のために金田のところに向かった山崎を教室で待っていたときだった。
「ねぇ、佐藤君…」
「君は…松崎さん」
イチロウに話しかけてきたのは松崎シホだった。クラスではあまり目立たない眼鏡をかけたお下げの少しくらい雰囲気の女子だった。
彼女と直接話したことは無かったが、オカルト物が好きらしく友人と一緒にこっくりさんなんかをやっていたのを見たような気がする。
逆に言えばマリとは対照的なあまり自己主張をしない控えめな子だった。
そしてイチロウは彼女に話しかけられること自体、今回が始めてであったのだ。
「お願い…悪い事は言わないから…劇は中止にして」
「なんで?みんな頑張っているんだ。根拠も無いのに中止なんてできないよ」
シホの言い分に少しむっとしながらイチロウは答える。
普段大人しめだった彼女がこんな事をいうのも驚きだったが、努力に水を差された形になるイチロウは僅かな苛立ちを覚えていた。
「…あの人達、すごく怒ってたの…。このままだと悪い事が起きると思うの…だから…」
「そんな根拠の無い理由で計画を止める事は無理だよ。それとも岡田に何かされたの?」
あの人達とは岡田やマリの事だろうか?確かに岡田は面倒だがマリは怒らせなければ大人しいはずである。
やはり、シホみたいな性根が優しげな子はああいった騒動が苦手なのだろうか? と、イチロウは考える。
クラスのことを思ってくれているのならば優しい性格をしているのだろう。
眼鏡を外して、普通の髪形をすればシホも可愛いのになんて現金な事をイチロウは考えていた。
「ごめん、今忙しいんだ。部長には後で伝えておくから」
「……」
苛立ちと共にやや吐き捨てるようにイチロウは言った。悪いが、シホを相手にする気はさらさら無かった。
シホは俯いたままだった。その顔は何処と無く悲しげで暗い影を落としているように見える。
気分が悪いのかもしれない。一緒に保健室に行こうか声をかけようか迷っているうちにシホはどこかへいってしまった。
(ちょっと強く当たりすぎたかな…?)
シホが立ち去った出口を見て、イチロウは彼女に冷たく当たったことを少しばかり後悔していた。
「あっ、松崎さん」
翌日、学校に来たときにイチロウはシホの席へと足を向けた。
昨日は忙しくてイライラしていたからといって彼女に冷たく当たってしまっていた事を謝りたかったのだ。
「あ…佐藤…くん?」
「松崎さん。昨日はあんなこと言ってゴメン! 別に怒ってたわけじゃないんだ、だから…」
「ううん…いいの。佐藤君が謝るような事じゃないから…」
シホは小さく笑みを浮かべた。こうしてみると彼女もマリとは違った意味で可愛いな、とイチロウは心の片隅で思った。
強気で岡田みたいな男にも堂々とものを言うマリと正反対で、控えめで優しい性格なのだ彼女は。
そんなシホが他人に意見する事がどれだけ大変なのだろう。昨日の態度は流石に悪かったとイチロウは反省していた。
「もしかして劇の配役に不満とかない? もし良かったら僕が部長に言って…」
「そういう事じゃないの…私はただ…」
彼女はまたそう言って俯いてしまう。
「まぁ、何かあったら僕に相談して良いよ。部長や金田先生にも伝えとくし」
「うん…」
シホは頷いたが、眼鏡の奥にあるやや大きめの瞳はまだ不安を拭えていなさそうだった。
放課後、部室に行くと数人の部員の他にマリが居た。
「あれ、部長は?」
「いまは、佐藤先生の所にいるんじゃない?」
マリが答える。やはり、山崎は忙しいのだろう。
部長といっても彼は自分からかなり動く現場主義的な人間だと思っていた。
「その人形、なにか気になることがあるの?」
彼女は暫く黙った後に、十数秒後の間を置いて呟いた。
「…なんかこの子を見てると、不思議な気持ちになってこない?」
「不思議って…」
イチロウは人形を見た。真っ赤な着物を着せられた小学校低学年の子供と同じ背丈の人形は昨日の事もあり、少し不気味に感じた。
あの時の岡田の顔が忘れられない。暴力を振るって居心地が悪そうにしている感じではなく、何かを恐れているように見えた。
昨日のことがあって学校に行き辛くなったのか、それとも他の理由があるのか…?
「岡田って、どうなったのかな?」
「さぁ? サボってるんじゃない。 まぁ、あいつ一人居なくなった所で誰も困らないけど」
「……」
マリのこういう割り切った面はやはり女子特有の切り替えの早さから来るものか、それとも彼女の性格が由来なのか?
彼女はたまに突き放したようなことを言う。鋭く尖ったナイフのように聞くものの心を抉るような言葉を放つ。
イチロウはたまにマリの事を怖いと感じる事がある。彼女は大勢の人の仲にあっても孤独に見える事がある。
だから、女子から距離を置かれて避けられたり、無神経な男子からしつこく付き纏われたりする。
そんな逆協の仲でも彼女はたくましく生き抜く術を心得ているようだった。アスファルトに根を生やす野花のように。
「佐藤君、どうかしたの?」
「いや…なんでもないよ」
言葉を濁すので精一杯だ。マリの事は嫌いではない。むしろ恋焦がれていた事もあったが断念した。
彼女の相手は自分では絶対に釣り合わないと直ぐにわかったからだ。
逆に、そうなってよかったのかもしれない。今は落ち着いて彼女に接する事が出来るからだ。
ふと、イチロウはマリに聞きたいって思った
「ねぇ、有坂さん。一つ聞いていいかな?」
「何?」
「松崎さんってどう思う?」
「はっきり自分を出せない子は、あまり好きじゃないわ」
「……」
予想通りというかなんと言うか、そんな風に突き放した答えが返ってくる。
まぁ、松崎シホみたいに大人しめであまり自分を出せないタイプを、ハッキリと物を言うタイプのマリがあまり好ましいタイプじゃないのは分かる。
「本音を恐れて前に出せない人って絶対何処かで損をしているんだと思う
輪に入っていくことが怖いのか謙虚に振舞いすぎて、逆に自分を無くしちゃってるんじゃないかって
私はそう思う。だから岡田みたいな奴にもハッキリ言ってやるの。例え敵を作ってもね」
そこまで言われると質問をしてきたイチロウ自身、なんだか申し訳の無い気分になってきた。
「…ごめんなさい」
「なんで、佐藤君が私に謝る必要があるの…」
マリは急に謝ってきたイチロウに呆れたようだった。
それで会話が途切れ、暫く二人は小道具の準備や脚本の打ち合わせについて話していた。
帰り際のことだった。下校の時間のメロディが校内放送で流れ始める時間になっても結局山崎は来なかった。
片づけが終わってイチロウが部室を出ようとしたときだった。マリの声が聞こえてきたのは。
「ええ、そう…」
マリが何か言った。小さい声だったが、部室は静かだったのでイチロウの耳に届いたのだ。
言葉を発した後のマリは意外そうな、それで居てどうでも良さそうな感じで窓の外を見ていた。
少なくとも先程の言葉はイチロウに向けて放たれた者ではない事は明らかだった。
「?」
「…独り言よ、気にしないで」
そのときのイチロウにとっては、珍しくマリが狼狽している様に見えた。
しかし、そんな素振りもほんの瞬きほどの間で直ぐにいつもの彼女へと戻っていた。
「じゃあな、有坂さん」
「佐藤君こそ気をつけてね」
挨拶をして、イチロウは部室から出て行ったのであった。
「佐藤君…今から帰るの?」
「あっ…松崎さん」
校門に行くと彼を待っている人影が居た。部長ではない、そもそも彼は今も学校に残っていて忙しい。
人影の正体はシホだった。思わずイチロウはどきりとしてしまった。
女の子が待ってくれていることなんて今までの人生で無かったからだ。
「ごめんなさい佐藤君。貴方にあんな無茶なこと言って…」
「いいさ、クラスの仲間だろ。 まぁ、多少の迷惑はね?」
イチロウにとってシホはマリに比べてあまり自己主張をしないせいか話しやすかった。
「松崎さんが気にする事は無いよ。みんなで頑張っていこうよ」
「……」
しかしそう言ってもシホは戸惑ったような表情をするだけであった。
何かまずい事でも言ったかなと、イチロウが心配していたときにシホはポツリと呟く。
「本当にごめんなさい。私が…なんとかするから…みんなを…守る……岡田君みたいなことは……」
「えっ?」
「ありがとう。佐藤君―――」
シホは微笑んだ。ひどく悲しくて、儚げな笑顔だった。
まるで、迂闊に触れてしまえば簡単に砕けてしまいそうな硝子細工の花のように…
「松崎さん!」
イチロウは彼女を追おうかと思った。ひどく、胸騒ぎがした。
上手く言葉に出来ない、出来ないのだが…彼女をこのまま行かせてしまったら悪い事が起きる予感がしたのだ。
そうしている間にも彼女はイチロウの視界から走り去って行った。追いかけようにもシホの行き先を彼は知らなかった。
カァ、カァ、カァ、カァ――――――――!
その日の夕方はやけにカラスの姿が目に付いた。赤い夕空を黒く染めるように彼等は漆黒の翼を広げ、飛んでいた。
夕焼けの赤色がやけに鮮やかに写った。いつもは綺麗なオレンジと赤色のグラデーションが奏でる空を覆う真っ赤なカーテンが、
体の中を流れる血潮の色を連想させたからである。不吉な例えだと、イチロウも考えていた。
―――――松崎シホが校庭のイチョウの木で首を吊っていたのが発見されたのは、翌日の早朝だった。