二幕
「付いたぞ。まぁ、お茶くらいは出すぞ」
「いただきます」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「この茶は高麗人参や他の薬草が入っててな。女性にも健康食品として人気なんだ」
嘘くさいと思いつつもイチロウは茶を一口だけ飲んだが、かなり濃厚な味がして直ぐに湯飲みを置いた。
それに今は残暑の時期だ。熱い飲み物が早々喉を通るはずも無い。
金田に出してもらって思うのもなんだがもっと冷たい麦茶とかがよかったとイチロウは思った。
「美味いだろ?」
「まぁ…」
「先生。それより早く人形を見せてくれませんか? 一刻も早く劇の製作に戻りたいんです」
「それもそうだなぁ…とりあえず倉庫の鍵を持ってくるわ」
金田は頷くと古屋の奥へと入っていった。
「部長。結構あっさり見つかったね」
「ああ、こうなるとは思わなかったんだが…色々できすぎている気がするな」
「たまたまってことも、あるんじゃない?」
「さて、どうだろうな…」
山崎はどうにも虫が落ち着かないようだった。普段から冷静な彼からすれば
「なぁ、イチロウ」
「どうしたんだい?」
「ここに来て、なんか落ち着かない気がしないか?」
「言われてみれば…」
そうかもしれない。と、彼は胸の中でのみつぶやいた。
山崎に言われて初めて、妙な空気に感づく。当初は始めてきた場所に対する違和感かもしれない。
実際は何のことも無いのかもしれないが、どうにも居心地の悪いような気がしないでもない。
しかし、山崎の勘は鋭い。それにウソを見破るのも彼は得意だった。
洞察力があるのだろう、と以前彼が話していたのを思い出す。同時に人を疑ってしまう癖があるともいっていた。
ゆえに人に大きな態度に出ることが多いと、自らの気質が人を遠ざけているかもしれないとの自虐と共に…
「おい、鍵持って来たぞ!」
金田が戻ってきたので、二人は顔を見合わせて立ち上がった。そして一同は倉庫に向かったのであった。
「なんか、古い倉庫ですね」
「ああ、爺さんが戦後に商売道具を仕舞う為に立てたものらしい。先生も詳しくは知らないが」
倉庫の扉には大きめの南京錠が掛かっていた。それなりに古く、それで人を殴り殺せそうにも見える。
泥棒対策にしてはやや厳重にも見えた。まるで何かを封じ込めているような印象さえ受ける。
「にしては結構大きいですよね? 何の商売を成されていたんですか?」
金田は一瞬考え込むような素振りを見せた。そして暫くの沈黙の後にこう言った。
「まぁ、終戦直後だから。焼け残った家財を色々売ったりしたんだろう」
「…そうですか」
山崎はそれ以上何も言わなかった。それ以上は金田が答えてくれると思わなかったのか、口を紡ぐ。
金田はやけに上機嫌そうに見えた。それほどまでにして倉庫の奥に眠る『人形』に自信があるのか?
まぁ、上等な人形であるならそれに越した事はない。実際に見ないと分からないだろうが。
(なんか、死体でも隠してありそうな倉庫だな…)
我ながら不謹慎な事を思うと、イチロウは思った。しかしそう思えても仕方ないほど倉庫の空気が異質だったからだ。
中に入ると埃臭い、しかしそれだけではない。肌に纏わり付くようなねっとりした感覚がある。
言葉に変換すると表現しづらいのだが、ねっとりとした闇色の霧が奥に漂っているような感じだった。
「これ持って行け。電灯とか無いからもし幽霊とか出たら大変だしな」
金田が懐中電灯を渡してくる。田舎のこんな場所の倉庫だから電気を引く余裕が無かったのだろうか?
もしかして金田は本物の幽霊を見た事があるのだろうか? そんな取り止めの無い事を考えていた。
「…!?」
倉庫に入ってすぐ、山崎が何かを視線で追いかけるように首を左右させた。
「部長、どうかした?」
「いや、なんでもない。古い倉庫だな…と思っただけだ」
山崎は即答した。これ以上聞くのも気が引けたので、この話題は終わった。
懐中電灯から漏れる光が白い円を描き、倉庫を照らす。外は既に暗くなりかけていた。
屋内であり、窓も無い倉庫では夏の昼間の長い時期であっても真っ暗だ。
懐中電灯などといった明かりが無かったら絶対にはいりたくは無い場所だ。どれだけ古いのか?
「これか?」
「そう見える…よね?」
暫く歩いた奥の奥のほうに細長い箱が見えた。懐中電灯によって明らかになったそれはまるで子供を入れるお棺のようにも感じる。
「部長…開けてみる?」
「ああ…」
珍しい事に…重ねて言うが本当に珍しい事にいつも強気で冷静な山崎の声が若干震えているようにイチロには聞こえた。
埃まみれの倉庫の中、徐々に古い木の蓋を開いていく。まるで墓荒らししている盗掘者の様だとも思った。
スライドしていく木の蓋からちらりと見えた人形の顔。だが、それほど力を込めてないのに蓋が一気に開いた。
いきなりの出来事に驚いたイチロウは仰天してのけぞりかえってしまった。
「ひっ…!」
懐中電灯を取り落として、イチロウは尻餅をつく。そして手を離れた明かりの光の円が倉庫内を右往左往する。
それはまるで棺桶を開かれた人形に宿った魂が飛び回っているようにも見え、不気味に思った。
「イチロウ」
「…部長」
懐中電灯を拾った部長がイチロウに手を伸ばして立ち上がらせた。
「怪我は無いか? 大丈夫ならこれを外に運ぶぞ」
―――――――――燃える
―――――――街が燃える
―――――家が燃える
そして…人が燃えている
燃える地上の色を映し出すように空は真っ赤に染まっていた。
空を無数の黒い鳥―――違う、あれは爆撃機だ。それが容赦なく爆弾で地上を焼いている。
地上の有り様はまさに地獄そのものだった。目に映る建物全てが炎を吐き出し、高温の熱風が吹き荒れている。
その中を人々が必死になって逃げていた。しかし、炎に巻かれたり落下してきた焼夷弾に潰されたり…
はたまた火災の影響で倒壊してきた家屋に一家丸ごと下敷きになったりと今現在、多くの命が失われていた。
その中にみすぼらしい格好の少年がいた。背中に荷物を背負って逃げている。
いや…よく見ると背負っているのは荷物じゃない。頭巾を被った女の子だった。
兄は妹を抱えたまま何回も転びそうになりながら炎の中を走っている。生きる為に必死だった。
兄は地獄の中を駆ける。生きる為に、そして妹を守る為に―――――
次の日、イチロウは頭が痛かった。昨日夜中に変な夢を見て眠れなかったのだ。
よくわからない夢だった。戦前の時代なのだろう、空襲で街が焼かれているのを見る夢だった。
火の海とか化した街を、二人の兄妹が逃げていくという夢。それはなぜかリアリティがあった。
火災や爆弾の熱風がまさに本物のように感じられた。そういえば昨晩は暑かったような気がする、クーラーの故障は無かったが。
夏の終戦記念日に暇つぶしに見た教育番組の特集に載った写真があまりにも印象的だったのだろうか?
そういう夢の出来事も普段の彼には強烈なインスピレーションを与えるのだが、今はそう言う気分じゃない。
(そんな事より、劇の練習に取り組まなきゃ)
いまいち元気な気分になれなかったが最後の文化祭はどうしても完成させなければいけない。
イチロウは自転車のサドルを踏む足に力を込め、学校への道を急いだ。
「やっぱり有坂の相手役を勤められるってことは俺しか居ないよな」
「演劇部でも無いくせに何言ってるんだお前」
「…」
教室に入ると男子二人が言い争っていた。サッカー部の副キャプテンの岡田と野球部キャッチャーの高橋である。
二人は劇の配役について言い争っているようだった
「だいたい。俺以外に有坂より背の高いやつっているのかよ」
「新原の奴が居るだろ。あいつ演劇部員だし」
「はっ! あの気の小さくてナナフシみてーな面の新原が主役とか笑わせるぜ
第一、演劇部で有坂の相手役だった安達みたいに見れる顔じゃねーよな?」
「てめぇ、そんなにいうことはねーだろ!」
今にも高橋は岡田に掴みかかりそうな剣幕だった。
一瞬触発の空気が流れるが誰も止めようとしない。唯一場を収められそうな山崎はこの場に居なかった。
岡田は書店で万引きを繰り返した事を自慢するような札付きの人間だった。虐めも好きらしい。
たいする高橋も普段は温厚だが、喧嘩になると人が変わったようになる強面だった。誰も二人の間にはいるものは居ないと思われたが…
「静かにしなさい。誰が役に相応しいかよりまずはクラスが纏まるのが第一でしょう?」
「へへっ、有坂も俺で構わないって言ってる様だぜ。なぁ」
「別に相手役なんかあんたみたいなのでも構わないけど、足だけ引っ張らないでね」
突如はっきりとした声が割って入った。噂になっていたマリ本人である。
これには二人も毒気を抜かれたようで、ぽかんとした面持ちで彼女を見つめた。
マリはお前なんかと馴れ合う気はないといわんばかりにきっぱりと告げたのだ。
視線をよこされたマリは冷たい視線を返すだけであった。場を収めたのが彼女なのは以外だったが、ある意味妥当であった。
気の強い彼女は媚びる事をよしとしない性格だった。だから関係を持った男は彼女の気性に辟易してしまい長くは続かない。
綺麗な花には棘がある、という言葉通りなのだ。有坂マリという女は、一筋縄ではいかないのだろう。
放課後。イチロウは演劇部の部室にいた。そこでは数人の部員と山崎が
「部長、シナリオできたの?」
「まぁ、だうたいは…な。後は細かい微調整や縁者のアドリブなんかがはいれる様に台詞の間を調整する
台本の台詞も主演以外には負担が掛からないように短くしたり、簡単な言い回しに置き換えたいな
俺は忙しいからそこの所の調整はお前に任せる。なるべくクラスの全員に台詞を言わせるようにしてくれ、最後だからな」
主演。その言葉で袈裟の騒動が記憶に新しい。
「主演ってやっぱり片方は有坂さん?」
「だろうな。そうでもしないとあいつが納得しない。で、もう一人のほうだが…」
「岡田になるのかな…」
「背丈や顔の見栄えで有坂に並ぶって言えば岡田しか居ないんだが、ちょっと問題だな」
「安達がうちのクラスに居ればよかったのにね」
「あいつはあいつでいそがしいからな。都内の名門大学の推薦の手続きでほかのクラスの劇の練習なんかに付き合ってられないだろう」
山崎は高校生ながらに結構濃くなっている髭の生えた顎に手を当てた。彼も悩んでいるようだった。
「今は時間が惜しい。配役については明日の学級委員で考える事にする
それと、俺のワンマンになっちゃいけないからなるべくクラスのみんなの意見も聞きたいな」
「部長の将来ってどうするの? 前にメディア関係の仕事がしたいって言ってたけど」
「ローカルのキー局の方なんだが親戚のツテがある。だが、簡単じゃない
安達ほどじゃないが偏差値の高い大学の学部で卒業しないといけないから大変だな
演劇部の活動に携われるのは正真正銘この舞台が最後って事になるな」
「へぇ、色々考えてるんだ」
「有坂は演劇系の学校を受験してから養成所に入るらしい。女優よりも部隊系の活動に専念したいそうだ
お前はどうなんだ? 確か近くの大学に進学したいとか言ってたけど」
「僕は…」
将来の夢。イチロウにとってそれは具体的な形の無いあいまいな者でしかなかった。
ただただ学校に通って仲のいい友だちとつるみ、演劇部の活動にも打ち込んでそれで楽しかった。
しかし、そういった時間も今年で終わりなのだ。来年からはみんなばらばらになってしまう。
「有坂遅いな。待ち合わせって言ってるのに何やってるんだ?」
「そうだね、時間に厳しいのに…」
「佐藤、悪いが教室に見に行ってくれるか? もしかしたら居るかもしれない」
イチロウの脳裏に今朝のことが思い浮かぶ。悪い予感が当たらなければいいと、彼は思った。
彼女は演劇部にとってもクラスにとっても重要な存在なのだ。様子は一応見ておきたい。
「わかった」
快諾すると、イチロウは演劇部の扉から飛び出していった。
教室の前から来ると声が聞こえた。大声というわけではないがそこそこの声量で言い争っているようにも聞こえる。
二人とも声に聞き覚えがあった。片方は有坂マリのものだと直ぐにわかった。
「何がそんなに不満だってのかよ!」
「別に、デリカシーの無い行いは止めなさいって事」
「俺にデリカシーが無いってのか? あァン!!」
「あんた自身そういう態度で示してるんでしょ」
黒板側の入り口のほうでイチロウが聞き耳を立てていたら、どうも穏かな雰囲気に思えない。
険悪な言い争いは岡田がマリに気圧されているのは明らかだった。だが岡田の方はもう怒鳴り声に近い感じで彼女に詰め寄っていた。
「うるせぇよ!」
ダァン、ガシャン!という音が教室内に響く。岡田が机を蹴飛ばした音だというのが分かった。
「おい、お前に思い知らせてやろうか?」
「へぇ。言葉で勝てないから次は暴力? あんたって、将来家庭持った時すごく苦労しそうね」
「黙れよ!」
どうにも穏かな状況ではない。岡田を煽り続ける有坂も有坂だが、このままでは彼女が怪我をするのは明白だった。
イチロウは二、三回小さく咳払いしてから息をスゥー、と吸い込んだ。
こういうときでも頭の奥は冷静に構えている自分が不思議に感じる。そして喉から声を絞り出す。
「コラッ! お前ら何時まで教室に残っているんだッ!!」
イチロウは声を張り上げて先生の振りをした。そしてそれは今にも有坂に掴みかからんとしている岡田の動きを止めた。
「ちっ!」
舌打ちの後、岡田はロッカー側の出口から急いで走って廊下の向こうへ消えた。イチロウには気づかないままだった。
イチロウはほっと胸をなでおろしていた。岡田が気づいたら面倒くさい事になっていたかもしれない。
演劇部で前に練習していた発声練習が功を奏したようだ。尤、あまり役に立った事はなかったのだが。
「さっきの声って、佐藤君でしょ?」
マリの声が聞こえる。イチロウは教室の中に入っていった。
「えっ、なんで…」
「演劇部に所属してる人間の声なら、わかるわ」
マリはそう言ってふぅ、とため息を吐いた。それは彼女だって怖いだろう。
いつも気丈でかなり気が強いイメージのあるマリだが、流石に体格のいい男子が机を蹴るなどして暴力をチラつかせられば
動揺したり恐れるのは当たり前なのだ。
「さっきは何であんな真似を」
「だって、岡田が興奮して有坂さんが…」
「そう、ありがとう」
マリはそっけない感じでそう言った。一応礼を言っておくといいわんばかりの態度で、そして続ける。
「さっきの先生の声真似、悪くなかったわ。裏方で文芸やってるのが少しだけもったいないくらいにはね」
「……」
一応、褒めてくれているのだろう。彼女はあまりそういうことをしない。
人に媚びたり、愛想を振りまくという事が嫌いなのか苦手なタイプだからだ。
だから同じ演劇部でも道具係の岸辺辺りは、しばしば彼女の陰口を言ったりするのだが。
それでも、彼女の男子からの人気は絶大だった。そんなマリに褒められたのだからイチロウも悪い気はしない。
綺麗な女の子にほめられたりちやほやされたいのは、世界万国の男子にとって共通の事項なのだ。
「山崎に言われて私を呼びに来たの? ごめんなさい、こんな所でつまらないことで口論してして
あいつが突っかかってきたのは確かだけど、ついつい煽る様に返してしまって…」
「いや、有坂さんは…悪くないと思うよ」
「お世辞でもそう言ってくれるのは気が楽だわ、早く行きましょう」
「うん」
「悪いけど、このことは山崎には黙っててくれない?」
「わかったよ。有坂さん」
マリがそう言ったのは自分のことで部員のみんなに迷惑をかけたくないのだろう。
だが、山崎の事を気にかけているようなマリの言葉にイチロウは少し沈み気味だった。
彼女と山崎が付き合っていた。との噂があった。勿論二人には聞ける立場じゃない。
互いに色々抱え込みながら、イチロウとマリは演劇部の部室に足を運んだのであった。
「よし、今日の放課後は体育館のステージが使えそうだ。
これからもなるべくうちのクラスが練習できるように手を打ってくるから演劇の連中を中心にみんな頑張れよ」
朝のホームルームで金田がそう告げた。その言葉に生徒達の反応はさまざまであった。
あからさまにだるそうに顔をゆがめるもの、意気揚々と明るくするもの、真剣そうに表情を引き締めるものと多種多様であった。
しかしまだ劇の準備が軌道に乗れて居ないのもあってかやる気のなさそうな生徒がやや目立つ空気ではあったが。
「チッ…」
特に昨日有坂に食って掛かっていた岡田は明らかにやる気がなさそうに舌打ちまでしていた。
それを有坂がきつめの視線を向ける。やはり、ここから先の展開には暗雲が立ち込めているようだった。
だが、やるしかなかった。高校最後の文化祭なのだ、手を抜く事は出来ない。
与えられた環境に対して愚痴ったりして悪態を吐く事は簡単なのだ。
「…」
マリが無言で岡田の方に視線を飛ばすと、彼はばつが悪そうにしてそっぽを向いた。
昨日の事がまだ尾を引いているのだろう。互いに険悪な空気が漂っている。
このことが悪い方向に向かわなければそれに越した事は無いとイチロウは思ったのだった。
昼休み、購買部カレーパンとコーヒー牛乳を買ったイチロウは演劇部の部室に足を運んだ。
そこには思ったとおりというかなんというか、見知った顔が弁当を広げて昼食を取っていた。
「部長」
イチロウは気になった事があるので山崎に声をかけると、彼はサトイモのしょうゆ煮を箸で摘んだままこっちを向いた。
「なんだ?」
「結局、主人公の役はどうするの?」
「さぁな、やりたいやつにやらせたいが、ある程度は様子を見たいと思う」
その質問をしたのは昨日と朝の件があったからだ。岡田は問題行動が多い。
目立ちたがり屋で性格も粗暴だ。喧嘩早く万引きを友人に自慢するほど気性は荒い。
彼が問題を起こす前に事前に手を打っておきたかった。
「岡田のやつが主役でも?」
「そうなったらしかたないだろうな。あいつがやりたいっていって、クラスのみんなが納得すればそうするしかないな」
「……」
「今日は体育館の舞台が使える。金田の話だと近くの公民館も使えるように手配したらしいが」
「それは、ありがたいね」
担任である金田の積極的な協力があるのはありがたい。この前の件といい彼が手を回してくれるのは純粋に助かる。
普段はあまり関わりたくない担任だったが、ここまで尽力してくれるとは思わなかった。
社会の授業の事を除けばいい先生なのかもしれない。少し妙には思うのだが。
「とりあえずあいつに声をかけてみる。本気で主演したいなら来てくれるだろうしな」
「…そうかなぁ」
昨日のマリとの口論の件が気にかかる。彼女はどう思うだろうか?
そんな事など、自分ごときが気にするまでも無いかもしれないとイチロウは一瞬思った。
そして授業が全て終わった後に暮らすの一同は体育館に集まっていた。
本来は部隊側のスペースは女子バスケットボール部が使っているのだが本日はネットを張ってもらって入り口側で練習してもらっている。
これも金田の手回しらしい。本当なら舞台くらいしか使わせてもらえないのだが、交渉してくれたようだ。
なんにせよ一クラスが体育館のほぼ半分を占有できるというのは練習において大いに有意義であった。
そして四組の人間もほぼ全員が集まってくれていた。首尾は上々である。
「これから主演のオーディションをするからやりたいやつは出てきてくれ」
男子は岡田を含めた四人。女子はマリを入れて五人が名乗り出た。
男女一人づつのペアなので、必然的に五分の一が選ばれる事になる。
クラスのみんなが立候補者の演技を見て投票するのだ。この方式だと男子票がほぼ入るマリは当確したようなものだった。
最初は女子の選考からだった。大体の予想通り、マリが二十三票を得て主演の座を手に入れた。
残るは男子の選考だった。これは台本の台詞がマリより多く選考には難航すると思われる。
そして、みんなの不安を他所にオーディションが始まったのであった。
「おい! 何で俺が選ばれねぇんだよ!!」
予想通りというかなんというか選考で選ばれなかった岡田はやはり癇癪を起こし始めた。
大声で喚き散らしてパイプ椅子をガシャンと蹴り倒す。音が大きく響き、隣で練習していた女子バスケ部の部員達もこっちに顔を向けた。
「あんたのそんな態度を見て選ぶ人が居るの?」
岡田はマリの言葉を確認するかのようにクラスメイトの方に視線を向けた。
男子も、女子も殆どの生徒が彼の態度に迷惑そうな顔を向けている。
マリの言うとおりだった。粗暴で直ぐに手が出る彼に投票した生徒は一人も居なかったのだ。
それを悟った岡田は苛立ちをぶつけたかった。しかすぃ、衆目の手前で昨日のようにマリに当たることはできない。
「クソッ!」
だから彼は舌打ちの後近くにあった人形の入った箱を蹴り飛ばした。箱が横倒しになりし蓋から飛び出た人形が飛び出す。
体育館の床に転がった人形は、まるで痙攣するかのように手足をガクガクさせた。
その光景を見た女子の誰かが軽く悲鳴を上げる。男子ですらその不気味な光景に息を呑む者が何人かいた。
そして蹴り飛ばした本人である岡田でさえ、その光景に思わずぎょっとした顔になる。
「……っ!」
きょろきょろと辺りを見渡す岡田。そのときの彼は周囲に執拗に気を払っているように見えた。
暫くした後、岡田は出口の方向に向かって走っていった。彼に声をかけるものはおらず
イチロウをハジメとしたクラスメイトはその後姿を黙って眺めていた。
邪魔者が居なくなるのは幸いであり、自分から居なくなってくれるのはありがたかったのである。
そして翌日、岡田は学校に来なかった。