一幕
――――――そう、今にして思えば事の発端はあの日からだった。
「おい、もう九月の半ばだぜ」
セミの鳴く声が遠くで聞こえる。今だ爪あとを残す熱気の中に吹く風の涼しさが心地よく眠い。
昼休み後の食事後の時間は特に睡魔が跋扈する時間である。事実として机に突っ伏して身動きしない生徒も散見した。
「まだ、決まって無いよな。三年四組の出し物。また屋台の焼きそばでもするか?」
「それってさ、すげーつまんなくね? だってもう高校最後の文化祭だぜ?」
「でも簡単じゃないか? 今更真面目にやってどうするんだよ」
「おーい。お前らやる気あんのかー?」
担任の金田が呆れたような声を出す。頬のこけた細長い馬面、そして横線を引いたような細い目が今日室内をじっと見渡した。
「俺は演劇が良いと思う」
そう名乗りを上げたのは演劇部部長の山崎だった。この熱気と眠気の跋扈する教室の中でやけに目がぎらついている。
170代後半を誇る身長と、厳つい肩は演劇部の部長というより、野球部でグローブとマスクを身につけている姿の方がお似合いだった。
事実として演劇というものは華やかに見える側面、並みの運動部なんかよりもよっぽど体力と頭を使うのだが。
「えーっ、演劇ーぃ?」
「小道具用意するの大変じゃない?」
「ロミジュリかシェークスピアとかやんの? 去年先輩がやったじゃん」
生徒達から不満そうな声が上がる。それもそうだ、誰も彼も様々な準備と練習が必要になってくる演劇なんてやりたいはずも無い。
「いや、脚本はオリジナルでやる。そこら辺のは先輩方が色々工夫した上でやっているし、新しい事をやりたいからな」
「オリジナル、ねぇ…下手なホンだと演じる気にもならないけど」
クラスのマドンナ的存在の有坂マリが艶のある自慢の黒髪を撫でながら嘆息する。
運動も勉強もこなし、容姿も若い頃の夏目雅子に似ていると自称していた。
才色兼備の彼女はクラスだけではなく学年での憧れで高嶺の花だった。
彼女も一応は副部長として演劇部に所属している。いくつか掛け持ちする部の一つとしてだが…
それが原因なのか困った事に自分が気に入った劇ではないと参加しないというプライドを持っていた。
ゆえに、一部の人間…特に女子の一部から陰口をしばしば叩かれる事もあったのだが。
一部の生徒の不満そうな声を受けつつも、山崎は黒板から見て右斜め後方の席に目を向ける。
「佐藤。脚本よろしく」
「ええっ、俺?」
「お前は文芸係だろ? 今までやってきたことの延長をやればいいんだよ」
「でも、オリジナルで話作るって…」
「いいんじゃないの? オリジナル脚本」
そう言って金田がニヤニヤ笑いを向けてくる。佐藤はそうしたときの担任の顔があまり好きではなかった。
頬骨にえらが張っているように見えて、ちょっと気持ち悪いからだった。
しかも金田は演劇部の顧問をやっている。まさに外堀を埋められたような心境だった。
今の佐藤は丸裸になった大阪城そのまんまといってもよかった。
「他に意見のある奴いるか?」
代案を出す生徒は居ない。
クラスの生徒をぐるりと見渡してから、山崎はにっこり笑った。
「じゃあ佐藤。明後日までに原案書いて来いよ」
「そんなぁ…」
仕事を押し付けられた形になるイチロウ。彼の気分は最悪のまま六限目終了のチャイムが鳴ったのだ。
大役を押し付けられた佐藤イチロウは帰宅中どうすれば良いか迷っていた。
演劇部の活動は脚本の件があったので山崎に頼んで早めに切り上げさせてもらった。
とはいっても今現在、ろくなアイディアが思い浮かばないのだ。
(下手な恋愛ものはもうやってきたし、かといって数少ないオリジナルであんま評判よかったのはないんだよな…)
そもそも自分が演劇部で文芸係をやらされているのは、彼が読書好きということもあり、雑学めいた分野に興味があったからだ。
それに調べ物をするというのも嫌いではなかった。日記も毎日書いているほどには几帳面な性格なのだ。
しかし、それとこれとは話が別だ。クラスの最後の文化祭に出す劇の脚本…プレッシャーを感じる。
彼の家は学校から片道七キロくらい離れた少し前の田舎の雰囲気の混じっている町だった。
流石に関東とは言え街からそれなりに離れると、場所によっては自然の残っている所もある。
あちこちに人の手が行き届いたコンクリートの街というわけではないのだ。
(あれ、ちょっと変なところに出ちゃったな)
自転車をこいで岐路に走っているつもりだったのだが、気が付くと緑の割合が多い山道に入っていた。
落ち着いていないときに無意識にあちこち歩き回ったり、ぶらぶらしてしまうのは悪い癖だった。
子供のころそのせいで見知らぬ場所に出向いたときなどは何回も迷子になってしまい、
よく親に怒られたものだが三つ子の魂百までといった所か中々そういった癖は抜けにくい。
(まぁ、気分転換になれば良いかな?)
腕の時計は四時半、夏の影響が色濃く残っている九月だから日の沈みは遅い。
暫くこの場所でぶらぶらしていてもいいかもしれない。こんなに緑の多い土地に足を踏み入れるのは何年ぶりだろう?
子供のころは友人達と一緒に山の中を駆け回り、虫を取ったり蜂に追い回されたりもしたものだった。
大きくなるにつれてそんな生活から疎遠になってしまうものなのだろう。
昔は石の下に隠れたミミズなんかをへいきで摘んでいたのに、今は嫌悪感が先立って無理だった。
遠い大切な過去を置き去りにしてしまったようで、少し悲しくなってしまう。
人間は自然を大切といいながら、木を切り倒し、山を削って小動物の住処を奪い生活圏を広げている。
幼い頃のイチロウからすれば、ある意味そんな大人達の身勝手さと無神経さに幼稚な正義感が先立って憤った事もあった。
しかし今は彼ももう十八だ。つまりは、心も体も大人になりつつあったということだ。
(来年は卒業だよな…進学したら今のクラスや演劇部ともお別れか)
思いを馳せながらイチロウは山道の中で自転車を押して行った。その道の緑が徐々に深まっている事に彼は気づかなかった。
「…迷っちゃったかな?」
気が付くと、山の奥らしい開けた台地に立っていた。
家の近くにこんな場所があるなんて思いもしなかった。
そして右端に何かが見えた。廃屋だ、人が住んでいるようにはとても見えない。
更にその近くには戦前に掘ったらしい防空壕のような穴があった。
となると人が居なくなってから半世紀以上の時間が過ぎているのだろうか?
「……」
目の前に黒いコートと、同じ色の帽子を目深に被っていた男が立っていた。
身長は高い。同じクラスで180近い山崎を見慣れているイチロウからしてもそう見えるのだから、日本人にしてはかなり長身だ。
男はいつの間にか朽ちかけた廃屋を眺めていたイチロウを見下ろしてていた。その傍らには男とは対象的に小さな人影があった。
(なんだ…?)
頭がくらくらする。なんだろう、この感覚は?
劇の最中に突発的な欠員が出て、代わりに舞台に立つ事になった時に似ている。
あの時は裏方の仕事だったのに、劇の役をすることになってかなり緊張していた。
あまり重要な役ではなかったが、台詞も噛み噛みで足が震えていたとマリに皮肉交じりで言われたときだった。
男が近付いてくる。大きな手が彼の頭を掴むように伸びてくる。
しかし注意は、男の片割れに絶つ小さな人影に向いていた。何故かはわからない。
そしてイチロウの意識はぷっつりと途絶えてしまったのであった。
「ここは…?」
目を覚ます。見慣れた天井が見える、ここはイチロウ自身の部屋だった。
時計を見ると、午後八時くらいだった。六時くらいに家に帰ってきて寝たいたのだろうか?
それにしては家に帰ったときの記憶が無い。何も無い時は大体そんな感じなのかもしれない。
なんていえば麻酔をかけられて手術したときの事を思い出す。
数時間の記憶が綺麗すっかり抜け落ちてて気が付くと手術が終わっていたような怖さ。
(さっきのは夢だったのか?)
首を傾げる。自分は家に帰る途中で道を間違えたのか、どこかの山道に入ってしまったのだ。
あそこは何処なのだろうか?家の西側に山があるのだがそこの近くなのだろうか、わからない。
ただ、今あそこにいこうとしてももう二度といけないような気がする。何故そう確信したかは謎である。
そして、一郎には無駄な時間が無い事に気づいた。それに手を付ける為に机に向かう。
(そうだ…脚本書かなきゃ)
夕食を食べる時間など無い。そんなものは明日の朝にでも食べればいいのだ。
さっきまでごちゃごちゃしていた頭の中が今は妙にすっきりしている。
ノートを開くとイチロウは何かに取り付かれたように一心不乱になって白い紙面に文字を書きなぐるのであった。
翌日イチロウは自転車を走らせていた。寝坊で遅刻しそうになっていたのだ。
いや、もう遅いのだろう。それでもペダルを漕ぐ力は緩めない。
彼は気づかなかった。教科書に急いで物を詰め込んでしまったが故に鞄が開いてしまっていたことに。
そして昨日書いたノートをどこかに落としてしまったことにも、教室の自分の席に着くまで分からなかったのだ。
「おい、イチロウ」
昼休みになって開口一番に声をかけてきたのは部長の山崎だった。
思わずドキッと、心臓が動いてしまう。彼の低い声は何も知らない人間からすれば威圧感たっぷりに聞こえてしまうだろうから。
まるで自分が盗みを働いてそれを隠しているようだとイチロウは考えてしまう。
「あっ…部長」
山崎に声をかけられてイチロウは青くなった。昨日のノートが鞄の何処を探しても出てこないのだ。
「原案はもう済んだのか?」
「それは…」
鞄が開いていてノートを落としたかもしれないとは言えなかった。
そもそも昨日書いたのは覚え書きで脚本といっても良いほど怪しい文章の羅列だったのだ。
そんなものを山崎に見せたくは無かった。せめて完成してから見てもらいたかった。
だが、途中まで書いていたノートも今は行方知れずだ。せめて明日まで待ってほしかった。
「これか?」
だから、山崎が手に持ったものを差し出した時に軽く驚いてしまう。それは紛れも無いイチロウ本人のものだったからだ。
「えっ、まだ、途中だけど…」
「金田が拾ったらしく佐藤に渡してくれって言ったんだ。自分は用事があるって押し付けてな
色々と荒いが学祭の劇にしては斬新な脚本だな…戦前が舞台か」
「え…ちょっと貸して」
ノートは台本形式で文章が刻まれてあった。流し読みでパラパラめくるとどうも最後まで書いてあるようだった。
しかし、不思議に思った。ノートは最後に数ページ残して埋まっていたのだがイチロウはそこまで書いたかどうか記憶があやふやなのだ。
自分が書いた事なんて殆ど覚えていないに等しい。何故戦前が舞台になったのか。
そんな事、書いたイチロウ自身答えられなかった。手癖で思いのままにホンを書くこともあるが、
内容をしかも昨日書いたものを殆ど覚えていないということは、今までの活動の中で記憶に無かったのだ。
「これ、俺が預かっとくわ。筋書きは悪くないんだがラストがちょっとな…べつにいいだろ?」
「えっ、最後まであるのか?」
「お前自分の書いた脚本も覚えてないのかよ? 寝ぼけながら書いたのか知らないが悪くはないと思うぞ
ただ、ちょっと雰囲気が暗いからな。色々修正しとくわ。構わないよな?」
「俺は別に…」
即興で書きなぐっただけの脚本が意外な反応を見せたことに驚きだった。
今までだって台本の初稿を仕上げた時は台詞とか、間の取り方とかでかなり指摘される事が多かったのだ。
それが細かい調整はあるだろうが殆どチェックなしで通ってしまった事、自分にはそんな才能が眠っていたのだろうかと疑問符が浮かぶ。
正直、イチロウは自分には物書きの才能が無いと思っていた。自分より二つ三つしか歳が違わないのにデビューを果たしている新人作家は多い。
読書はそれなりにするほうだ。だが、知識などがかなり偏ってしまっている。
そもそも舞台の脚本と、読み物として完成した文章の書き方は似ているようで全く違うのだ。
二年の頃に忙しい時間の合間を縫って小説もどきをパソコンに打ち込んだものがあるのだが、後になって読み返すと起承転結も糞も無い
日記をこじらせたような駄文の羅列にしか見えなかった事は恥ずかしい思い出である。
そしてそれを山崎に見せたらまる二日でほぼ全てを推敲してそれが舞台の脚本になってしまったことがある。
思えば文芸についてのやり方も彼からほぼ全てを教わっていたことに気づかされた。文才に関しても自分は山崎に遠く及ばない。
だから、後は部長に任せるのが吉だろうとイチロウは考えた。いままでだってそうだったのだから。
演劇部の部室でマリが声をかけてきた。彼女がここに居る事自体結構珍しい。
そもそも三年生の部活動は一部除いて八月で全て終了している為、劇の練習には注力できるのだが。
「へぇ、あんたが書いたにしては面白そうじゃない」
マリがほめてきたので珍しい事もあるものだなとイチロウは思った。
彼女はこの演劇部の副部長だ。そして性格に何はあるが学年でもトップクラスの美人である。
そんな彼女にほめられて悪い気がしなかった。しかし、いくつか不安が残る。
「でも、大丈夫かな? 戦争中の空襲の話なんて絶対ウケ悪いと思うけど」
「そう? でもこういうのもたまにはありなんじゃない?
ありきたりな恋愛ものばっかりだったあんたにしては、文才あるんじゃない?」
「……」
文才といわれてもイチロウにはピンと来ない。書いた記憶があまり無いのだ。
あの後に妙に頭が冴えて、ペンを握ってノートに向かって書きなぐっていただけだ。落書きに近い。
それは脚本は殆ど山崎に書き直されているといっても、文芸係だからか手癖みたいな感じで書けるものなのかもしれない。
このクラスに演劇部の主要メンバーが大体揃っていて、色々とやりやすいのは好都合だが。
「有坂さんは不安じゃないの?」
「さてね…色々な作品で主演やヒロインを演じてきたけど、最後にこういうのもありかなって
みんなの記憶に残りたいって言うのもあるけど、女優目指すにはいろんな経験もやっとかないと」
「ふぅん…」
「じゃあね、色々決まったらまた教えてね」
有坂は部室から退出した。入れ替わるように山崎が入ってくる。
「なんだ、いたのか佐藤」
「部長だって何してたんすか…?」
「ああ、ちょっと色々とな…」
山崎はぽりぽりと頭をかく。体格が無駄にあって身長も結構ある彼だがこんな所を見ると意外と愛嬌がみえなくも無い。
まぁ、彼はそこまでおしゃべりじゃなく割りと強面向きの顔をしているので、よく知らない人物からは警戒されそうではあるが。
実際は全くそうでもなく、結構な頻度で冗談を言ったりもするし、悪乗りにものったりするのである。
山崎は決死で無口で無愛想なだけの巨漢ではない。そもそも人望がなければ演劇部に限らず部長なんてやっていけないのだ。
「セットとか色々金かけたいから金田に予算の工面してきた」
「それで、どうなったの?」
「戦争の悲惨さを伝えるのは大切だから可能な限り協力するってさ。まぁ、あいつらしいっちゃああいつらしいんだが」
「こういう時は幸いだよね」
金田は社会科担当だったが、歴史などの授業を教えるときに妙に熱が入ってしまうのだ。
休み時間を潰して戦争もののビデオを見せたり、教科書から脱線した話をしたりする。
それを疎ましく思う生徒がかなり多いのも知っている。だからイチロウも山崎も社会はあまり好きじゃないのだ。
「主演はやっぱ有坂さん?」
「だな。でもこの物語は空襲にあった兄妹が主人公だ。演劇部なら安達があいつの相手役を勤める事が多かったが
あいつは一組だからなぁ…。うちのクラスでオーディションをするしかないだろう」
有坂は紛れも泣く演劇部のエース女優だった。口はきついが彼女の優れた容姿と演技力は眼を見張る者があった。
反面、ほかの部員の仕事に口を出す事が多いせいか疎まれている事もあるが、実力は概ね誰もが認めている程であった。
その彼女の遂になるのが一組の安達ジュンペイなのだが、彼はサッカー部を掛け持ちしており推薦によって名門高校への進学もほぼ確定している。
そんな彼は暇を持て余しているといわれればそうでもない。今も彼はサッカー部で練習の指導をしていたりする。
さらに他のクラスである四組の演劇に力を貸す余念は無いだろう。仕方の無い事ではあるが。
「で…此方で手配しておくけど例のブツって必要なのか?」
山崎が聞いてくる。例のブツとは一体どういうことなのか? イチロウは混乱してしまう。
「えっ?」
「ラストシーンに遣う人形だよ。小学生くらいの大きさのやつって指定までしてたぞ
佐藤…お前、自分が書いた脚本も忘れたのか?」
佐藤は唖然としていた。そんな話、たった今はじめて聞いたからだ。
翌日の放課後、イチロウと山崎は放課後に金田の車に乗って、ある場所に向かっていた
「人形といえば、俺の実家にいいのがあるんだよ」
そう言って金田はイチロウ達を車に乗せたのだ。どういうわけか妙に嬉しそうに見えた。
「でも、結構高いんじゃないんですか?」
「う~ん、あのサイズのやつって市販のだとあまり見ないやつだからそうかもしれないけど、劇に使うんだろ?」
「そこまで手荒に扱うような事はしないので無事に戻ってくるとは思いますが」
山崎が言った。それに金田は嬉しそうな顔をする。
口角を吊り上げてニィ、と口を歪ませる。それを見てイチロウは少し気持ち悪いと思ってしまった。
金田がこういう風に笑うのは初めてだった。普段何を考えているのか分からないだけに彼のこういう一面は以外だったのだ。
「…そうか、それはよかったよかった。まぁとりあえず見てくれよ」
どういうわけか、イチロウは金田の様子に少し不安感を覚えた。