一章 空白の記憶 第三話
僕はもともと最上階の部屋に登録されたらしく屋上までの行くのは簡単だった。階段を上って扉を開けたら目が痛いくらいに晴れた青空が僕を迎えてくれる。屋上だ。
「あのベンチに座ってる女の子、わかる……?」
そんな感傷に浸っている時間なんて上げないと言わんばかりに天野さんが話しかけてくる。わかる? なんて聞かれても分かるわけないのに。記憶がないんだから。
「わかんないけど、なんでそんなこと聞くの?」
「なるほど」
「いや何となく。気分で聞いてみたの。記憶なくす前にもし彼女に会ってたら記憶が蘇るきっかけになるんじゃないかって」
確かに、と彼女の言葉を聞いて納得する。さすがはこの施設の先輩といったところか。彼女はそういう細かいところもちゃんとケアしようとして聞いてきたらしい。一年も居たらやはりそういう所もちゃんとケアできるようになるのか。そんな感じで感心してる僕を気にも留めずに彼女はベンチに座っている女の子の元に近づいていく。彼女に置いて行かれないように僕も背中を追いかけていく。
「待たせちゃってごめんね、佐奈ちゃん」
「あんまり待ってないし大丈夫だよ。そっちに人はどちら様で……?」
腰ぐらいまである黒髮をなびかせながらこちらを見ると佐奈ちゃんと呼ばれていた女の子はこちらを見ると僕にそう訊いてきた。
「この男の人は佐奈ちゃんと一緒で昨日ここに運ばれてきた笹野湊君だよ。佐奈ちゃんと違って今日に目を覚ましたんだけど」
「笹野くんって言うんだ。よろしくね笹野くん。私は向井佐奈って言うの。佐賀県の佐に奈良県の奈で佐奈って書くの。両方とも都道府県の漢字で表せるから覚えやすいかな……なんてどうでもいっか。つかさちゃんが先に言っちゃったけど私も昨日運ばれてきたの。なんかの縁だと思うし私ここに来たばかりだから仲良い人も少ないし仲良くしてくれたら嬉しいな」
どうやら彼女は僕と同じタイミングでここに来たらしい。会話の流れからして多分僕が目を覚ましてない間に彼女と天野さんは仲良くなったのだろう。とりあえずここに運ばれた人一人一人全員と仲良くなっているのだろうか。すごいベテランさんだ。純粋に友達が欲しいのか問題児を捜しているだけなのかはよく分からないけれども。名前の紹介をする時にはハニカミながら恥ずかしそうに言う彼女を見て悪い人ではないんだろうななんて根拠の無い自信を彼女に抱いた。
「天野さんが先に言っちゃったけど改めて僕は笹野湊っていうの。湊って書いてみなとってそんな説明じゃ何もわかんないか」
彼女の真似をして自分の漢字を向井さんにうまく伝えようと思ったけど喋りながら考えたせいか何も思いつかなくてただの馬鹿丸出しなネタになってしまった。そして向井さんはそれを聞いて首を傾げているだけで何も言わないから微妙な空気になってしまう。死にたい。微妙な空気を吹き飛ばしてもらいたい一心で天野さんの方を見て天野さんの方を見て助け舟を仰ぐ、が彼女も首を傾げているだけで何も言ってくれない。死にたい。
「ごめん、なんか滑ってごめんなさい」
滑ってる空気に耐えきれなくなって最終奥義の謝罪をする。滑ってしまったのは自分なので仕方がない。謝るしかない。
「あ、ごめんもしかしてネタだった……?」
謝罪を聞いた向井さんがようやく重い口を開いたと思ったら素直にどういう意味か考えてたらしい。彼女に同意するように頷いている天野さんを見るに彼女もどうやらネタだと思って聞いてなかったみたいだ。なら仕方がない。確かにネタとして考えなかったらただのよく分からないような言葉なので首をかしげるのも無理はない。決してネタが悪かったわけじゃないだろう。きっとそうだ。
「向井さんも記憶ってないの?」
この話題でズルズル流れていくのはまずいと思い、思い切って話題を逸らす。当たり前のようなことかもしれないけど一応確認だ。ここで彼女に記憶があったらこの施設に矛盾が生まれることになるのでここに疑問を持っている自分的には確かめれることは確かめた方がいい。
「そうなの。笹野君も記憶がないんだよね?」
「うん。その通りだよ」
よかったというべきか、間違っていてほしかったというべきなのか、どうやらここは本当に記憶がない人が集められる施設らしい。疑ってたわけではないけど一応確認できたからまあ良しとしよう。本当に記憶がないんだ。みんな。
「あ、もしかして疑ってたのかな?」
天野さんが不機嫌そうな顔をちらつかせながらこちらを見てくる。当たり前だ。彼女の言うことを信じていたらこんな質問を向井さんにすることなんてなかったのだから。
「ごめん、信じてないわけじゃなかったけど一応確認のためで……」
「本当? まあね、現実味のない話だから疑われるのも仕方のないことだと確かに思うけどね」
彼女はあきらめたような表情をしながらそう僕に言った。確かに現実味がなさすぎる話だ。普通に過ごしてたらこんな所まず来ないし、まず存在すら知らなかった。国で秘密にしている施設なら知らないほうが普通なんだけどね。
「そういやここって笹野君と司ちゃん以外にはどんな人がいるの?」
向井さんがそういうと空気がほんの少しだけピリッとした気がした。気のせいかもしれないしそうじゃないかもしれない。ちょっとだけ天野さんの困ったような顔をしたのが原因なのかもしれない。
「いないの。ここにはもう管理人と私達三人以外の人間は今はいないの」
ちょっとだけ言いづらそうに彼女はそういった。彼女の言葉を聞いてなるほど、と心のどこかで納得してしまう自分がいた。長いこと居てここでの友達とかに困っていない彼女がなぜ僕たちに接触してきたのがはっきり分かってしまった。きっと彼女は寂しかったんだ。僕たちがここに来るまでの間、彼女は一人だったんだ。どれくらいの期間一人でいたかは知らないけど、きっと彼女にとって僕たちは待ちに待った新しい人間だったに違いない。それなら僕が意識を戻すまでずっと部屋を訪ねていた理由も納得できる。そんな彼女を思い浮かべて記憶が戻らないのは悲しいな、と心の底で少しだけ同情してしまった。
どんな言葉をかければいいのかわからずに言葉を失ってしまう。適当な励ましなんて彼女の境遇を味わったことがない僕がしてもきっと逆効果だ。だからといって適当に話題を変えれるほど僕は無神経ではない。きっとそれは向井さんも同じで僕たちは二人で何も言えずに立ち尽くしていた。
「だから少しだけの間でもいいから私と仲良くしてほしいの。もしかしたらとっても短い時間になるかもだけど、お願いしてもいい?」
彼女の境遇を考えたら答えはもちろん一つで
「もちろんだよ」
僕は彼女にそう即答した。それに合わせるように向井さんも大きく首を縦に振っている。満場一致だ。まあ、満場一致といってもこの場には三人しかいないし決めたのは僕と向井さんの二人だけなんだけどね。
「そりゃよかった。安心したありがとう」
肩の力を抜きながら彼女はそういうと僕たちにそっと微笑みかけてきた。まあ、彼女に同情したってだけじゃなくて、少人数から始まるとてもっちっちゃい場所での物語に、これから始まる物語に少しだけ平凡な日常とはまた違う楽しさってやつに遭遇できるかもしれないってそんなわくわくした気持ちも少しだけ心の中にあったんだけどね。